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分厚い窓ガラスの外では、セミが叫んでいた。
自分の命の長さを知っているかのように。
*
あの奥が涼子の部屋。
この世界でたった1人の女。
ぺたぺたとスリッパを引きずりながら、オレは15年間そうしてきたようにまずあそこへ向かう。
涼子は眠っていた。
長くてしなやかな睫毛が、いつもの澄んだあの瞳を隠していた。
向こうの窓の外では、陽の光が燦々と輝いている。
しかし今日はいい天気だな。
「ん……」
「涼子」
彼女はオレの気配に気付いたのか、こちらに寝返りを打った。
良かった。
今日も涼子は生きていた。
「……あれ、秋朔……?」
「うん」
「……」
おいおい。
話しかけておいてまだ寝ている。
まぁそうだろう。
涼子のこんな反応は珍しいからな。
「涼子」
「……っ!?あ、秋朔っ!なんでココにいるのよぅ!」
「さっき戻って来たから」
「……いつも言ってるでしょう!」
彼女は何故だか寝顔を人に見られるのを嫌がる。
そんなのココじゃ無理な話だと思うけど、彼女はその都度頬を膨らませて怒ってみせる。
*
「秋朔」
「ん?」
「早かったね、今回」
「ん、まぁな」
「……で、どうだった?」
「そんなの知らん。中田さんに訊けよ」
「やーよ。そんなことしたらまたぶっとい針で刺されちゃうんだから」
そう言ってオレに見せ付けるように袖を捲り上げた。
長袖のパジャマの下には、もう塞がることはないであろう青が真っ白な肌に浮かび上がっていた。
「……痛そ」
「痛いわよー先生容赦ないんだから」
そうではない。
オレがそう言ったのは、お前のその腕のことだよ。
痛々しい。
もう8月になる。
30℃を超える日が続くらしい。
けれどそれはオレたちには関係ない。
オレたちの住むこの世界は、いつでも快適だ。
だから季節外れと言われようが、オレも涼子もずっと長袖。
涼子がふと外に目を見やる。
どうやらあの叫び声に気付いたらしい。
じっとその声の主を見つめている。
「ねぇ秋朔」
「ん?」
「人間はね、自分で願って生まれてくるんだって」
「え?」
「この環境も、身体も、人間関係も、みんなそうなんだって」
ゆっくりと視線を戻して、黒い瞳がオレを捉える。
そんなこと言うな。
オレはとっさに目をそらす。
「それってすごくない?昨日秋朔が行ってる間読んだ本に書いてあったの」
「ふぅん」
「ね、私たちもそうかな?」
そんな無邪気に訊かないでくれよ。
頼むから。
「私ね、最近色んなこと考えるんだ」
「へぇ」
「秋朔は最近何考えてる?」
自分のこと。
身体のこと。
将来のこと。
―――でも1番は、涼子、お前のことだよ。
「ふふ。なーんか今秋朔の思ってたこと分かっちゃった。アリガト」
「涼子」
「私もだよ。……ねぇ、何か私たちってどこか繋がってるのかもね」
うん。
そうだよ。
オレたちは魂が繋がっているんだ。
オレと涼子で1つの魂。
だからオレには涼子が思っていることが分かるし、涼子もそうなんだと思ってる。
*
「もうすぐ神田さんが来るね。今日は何もないといいけど」
「何もなかったことなんてないだろ?」
「……まぁそうだけどさ」
ココは赤ん坊に支配されている。
ココにいる者は皆、生まれて間もないそいつらに振り回されている。
オレもそうだ。
夜中に何度も眠りを妨げられた。
突然泣いて困らされた。
イライラすることも多いけど、オレたちもそうだったんだから仕方ないと近頃は諦めている。
オレと涼子はもう15だけど、未だにココから出られない。
名前は忘れた。
難しい血の病だ。
オレたち2人はその選ばれし所有者であり、生まれてこのかたココから出たことがない。
というか、出たら生きてゆけないんだ。
「あら秋ちゃん、部屋にいなさいって何度も言ったでしょう?検査終わったばかりだから、まだあまり動かないでって言われてるのに」
「秋朔そんなこと言われてたの?全くもうっ!」
「へいへい」
全く女ってのは強いな。
涼子、お前だってオレと同じだろうが。
「神田さん、ごめんね。私がすぐ追い返せば良かった」
「涼ちゃんのせいじゃないわよ。じゃ、あたしまだ赤ん坊たち見回んなきゃだから秋ちゃん、ちゃんと部屋帰りなさいね」
「へーい」
神田さんはそう言って太い腕をぶんぶん振って出て行った。
すげー体力。
つくづくそう思う。
たぶんオレと涼子を合わせたくらいの体力があるんだろうな。
そう思って見やった涼子の顔はまだ怒っている。
「秋朔」
「へいへい今帰りますよ」
「全く」
*
セミがうるさいなぁ。
ちょっとしか生きられないんだったらもっと他のことに費やせばいいのに。
そう思いながらも、そんなセミたちのことを少し羨ましく思ってもいるオレがいる。
オレは……あんな風に叫べないから。
自分の限界に気付いても、セミみたいにもがけない。
当たり前だけど誰もいない自分の部屋に入ると、ベッドの上に転がって目を閉じた。
5つの頃。
注射が痛くて泣いた。
涼子はあん時にはもう泣かなかったな。
あの頃は陽一も、加奈子も、ああ香澄もいた。
みんな小学校に入る前に外の世界に飛び出していった。
10の頃。
涼子と2人で、「もし生まれ変わったら」ゲームをした。
全然長く続かなかったけど、無理やりにでもやり続けた。
それを見て、疲れ果てた顔して親たちが泣くから。
ふざけるな。苦しくて、痛くて、辛いのはオレたちの方なんだぞ。
そう思ってた。
結局考え付かない苦しさに涼子が泣き出すから止めた。
14の頃。
この病気の患者が生きた最長年齢を翌年に控えて、オレと涼子はもう大人たちに迷惑を掛けることも少なくなった。
逆に赤ん坊の面倒をみたりした。
あんなに嫌だった親たちとの面会も、素直に受けた。
正月にずっとオレたちのことを看てきた清水さんが定年で辞めてった。
そして15の夏になろうとしている。
オレは……もうすぐこの部屋からもお別れだと思い始めていた。
ゴールが近づいてるってことだ。
終着のテープを切ったら、その先には、何かが見えるんだろうか。
オレにはまだ、分からない。
涼子は、どうなんだろう。