バー
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俺は街の中でも中心部にあるバーで飲んでいた。会社役員で、いつも社の業務が終わってから、ゆっくりとこの酒場で飲む。カウンター席に座り、大抵水割りを頼んでいた。差し出されて一口飲むと体が熱くなり、溜まっていた心身の疲労が吹き飛ぶ。店内にはムードミュージックが掛かっていて、あちこちでタバコの紫煙が上がり出す。洗練された大人の空間である以上、こういった店には常に客が入り浸るのだ。来店者は富裕層が多い。ここは安酒を出すような場所じゃなくて、幾分高いものが出る場だ。金は腐るほど持っているから、仕事が終われば常に来て、大枚を叩き飲んでいた。何度この手の店に足を踏み入れたか見当が付かないし、はっきりとは覚えてない。ただ言えるのは、こういった場所ではある程度加齢した大人が飲むということだ。まかり間違っても学生などが来る場所じゃない。学生がコンパなどで行くのはバーじゃなくて安手の居酒屋などで十分なのである。その夜も飲んでいた。いくらか疲れが溜まっていたのだが、それもアルコールを含めば吹き飛ぶ。
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「富樫さん」
「何だい?」
「お疲れでしょう?」
「ああ。……どうして分かった?」
「そりゃ分かりますよ。長年ずっとお付き合いさせていただいてますから」
「そうだね。あんたとはもう長いからな」
「確か富樫さんが会社を立ち上げられた日に、このバーでお酒飲まれましたよね?」
「うん。あのときのことは今でもはっきり覚えてる。船出の日だったからな」
「そうでしょう。張り切ってらっしゃいましたからね」
俺の差し向かいにいる、白髪頭に髭を伸ばした初老の男性が店のマスターだ。この店で酒を飲むときはずっとこのマスターに相手してもらい、酒を飲んで愚痴も言い合う。人生におけるかけがえのない友人だ。今、俺の体調が心身ともに優れないこともこの男は知っている。お互い空気みたいな感じなので、手に取るように分かり合えていた。それだけ苦楽を共にしてきた人間同士なのだ。
「私がして差し上げられることは何でしょう?」
マスターはわざと俺に向かい、鎌を掛けるような感じで言ってくる。
「とにかく美味い酒くれよ。マスターが作ってくれるカクテルとか水割りは最高だからな」
「そうですか。私はいくら業界に長く居続けてるって言っても、バーのマスターのレベルで言えば中の下ぐらいですよ」
「それでいいんだ。俺は何も特別高い酒とか、過剰なサービスを要求してるわけじゃない。単に寛げる場所が欲しいんだよ。これは別に過度な要求じゃないだろ?」
「ええ、まあ……」
マスターは言葉尻に含みを残しながら曖昧に頷く。俺が手元にある水割りを飲み干し、
「もう一杯くれよ。同じものを」
と言って、締めていたネクタイを緩める。マスターが新たに酒を作り始めた。極上の一杯が目の前で作られている。これを飲みさえすれば気持ちがかなり変わるのだ。ものの数分で、また新たに酒が用意された。差し出された水割りを飲むと、気分がガラリと変わり、
「今夜もいい夜になりそうだな」
と言った。マスターもクーラーが利いている店内でビンからグラスにビールを注ぎ、飲み始める。やはり喉が渇くのだろう。目の前の男の気持ちが痛いほど分かる。接客なので神経を遣うのだ。その補修としてアルコールを含むものと思われた。一夜が過ぎていく。疲れているのはお互い様だったし……。
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店内は閑散としている。やはりこの手の店は今時、あまり流行らないのだろう。俺も単に酒を飲む場所として利用するだけだった。独りの家に帰って手酌じゃあまりにも侘し過ぎる。別れて出ていった妻と二人の子供のことを想うと胸が痛い。してやれなかったことが多すぎたから、多分愛想を尽かしてしまったのだろう。俺自身、そう思えばやりきれなさを感じている。まあ、別に一人で暮らすことには慣れてしまったし、妻や子供の携帯の番号やアドレスなどは残らず削除してしまっていたのだが……。
マスターと一緒に飲みながら酔っ払う。別にこういったことは今に始まったわけじゃなくて、会社経営が上手くいってなかったときや、妻との離婚に踏み切ったときなどもここに来て、アルコールで紛らわせていた。酒を飲むのは悪いことじゃないと思う。ただ酒癖が悪いと言われたことがあった。それは今でも痛感している。店が終わる午後十一時半前に席を立ち、飲み代を支払うためカードを取り出す。そして清算が済むと、店外へ歩き出した。バーの空気はタバコの煙で汚れていてニコチン臭が移るのだが、俺も気分転換に軽く吸うのだ。ニコチンもアルコール同様、俺にとってストレスを取るための格好の代物だった。一人で住んでいる3LDKの無駄に広いマンションへと向かう。溜まっていた疲労はバーで酒で紛らわしたから大丈夫だった。今夜もまた独りで眠ることになる。こんな夜が幾千回続いただろうか……?街を歩きながら、また明日も通常通り仕事があるのを感じていた。自宅までここからすぐだ。一歩一歩踏みしめながら歩いていく。
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翌朝、普通に起き出し、キッチンでホットコーヒーを一杯淹れた。トーストが焼けるのを待って軽めの食事を取る。カバンにはノートパソコンを一台と、資料や書類などを詰めてチャックを閉めた。自宅の鍵を持ち、家を出る。夏場の疲れはこの時季に出やすい。俺自身、幾分ゆっくりと構えていた。会社役員とはいえ、仕事は部下がほとんどこなしてくれるので、役員室でパソコンを立ち上げてネットに繋ぐ。そしてほぼ一日中情報を見続けていた。一日が終わると、パソコンの電源を落とし、会社を後にする。この繰り返しで日々が過ぎていった。仕事帰りに例のバーで酒を飲むのが楽しみだ。マスターは俺に話を合わせてくれる。きっと寂しさを紛らわせてやりたいと思ってくれているのだろう。大歓迎なのだった。夜な夜ないろんな話題で盛り上がるのだし。その夜もバーを訪れ、カウンター席に座ると、マスターが、
「ああ、いらっしゃい」
と言って、何も言わなくてもいつも飲む水割りを作ってくれる。じっと待っていた。酒が出来るのを。そして酒を作る合間にマスターが話す面白い話を聞きながら……。辺りは夜の帳が下りるのに相応しく大人の客が集い、絶えず談笑していた。俺はマスターの手元ばかり見つめている。この季節、氷で冷やしたアルコール類はとても美味しい。マスターが作った酒を差し出し、
「どうぞ」
と言った。そして俺が口を付けるのと同時に飲み始める。今夜もいつもと同じく、いい夜になりそうだった。この空間は実に特殊なのである。大人が酒を飲む場だ。ネクタイを緩めて寛ぎながら、昼間溜まっていた疲れを解す。ゆっくりと、しかも何気ない感じで……。
(了)