聖堂会の女
「そこまでです! アル君!」
不意に名を呼ばれたアルジャーノは反射的に振り返った。そしてその人物の姿を見るなり、緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
アルジャーノの意識は完全に女性に向き、決着をみることなく戦闘は終結した。そう判断したアレスは、召喚を行わずにしばらく状況の推移を見守ることにした。
アルジャーノと同じ白装束を身に纏った女性は、彼の前まで歩いてくると、つややかな長い黒髪を一度大きく掻きあげた。その表情は険しく、アルジャーノを激しく睨みつけている。
ケフィを素朴な美しさ、ノーラを妖艶な美しさと評するなら、彼女は洗練された美しさと言えるだろう。そこはかとない気品と大人の色香が漂い、怒りを湛えた表情でさえ磨き抜かれた宝石のように輝きを放っているのだ。
そんな人物を前にして、アルジャーノは別人のようにひどく怯えている。
「イ、イセリナ様……どうしてこのようなところへ……」
「どうしてもこうしてもありません。あれほど穏便に事を進めなさいと言ったのに、あなたは何をやっているのですか!」
「いえ、僕はそのつもりだったんですけど……彼が素直に聞いてくれなくて……それで仕方なく――」
傲慢な性格は影を潜め、まるで借りてきた猫。イセリアの顔色を窺いながら、アルジャーノはただ弁解するのみである。
「言い訳は結構です。どうせろくな説明もせずに、彼女の身柄を要求したのでしょう」
「あ、いや、その……申し訳ありませんでした!」
アルジャーノは観念し、深々と頭を下げた。この麗人にこれ以上言い訳をしても、更なる怒りを買うだけだと悟ったのだ。
「部下が手荒な真似をして申し訳ありませんでした」
背筋を伸ばして指を奇麗に合わし、深すぎない程度に下げられた頭――お手本と思える完璧な作法で、イセリナは謝罪した。一方のアレスは、絶妙なタイミングで登場した彼女のおかげで召喚せずに済み、内心ほっとしていた。
「気にするな。それより、あんたら何者だ」
「申し遅れました。私は、エルミラード聖堂会シャルターニ支部、副支部長のイセリナ。彼は、私の部下でアルジャーノといいます」
エルミラード聖堂会。
女神エルミラを唯一絶対の神と崇める一神教――エルミラ教における多くの教派において、大陸最大の勢力を誇る。
その最大管区は、宗教国家エルミラードである。
大陸最大の国家――レグリア帝国の国土の十分の一程度と、エルミラードは小国ではあるが、一国が丸々一つの宗教管区というのは、過去に前例のない規模であることは間違いない。
聖堂会は他の神教派と一線を画し、悪魔に強い関心を抱いている。その如実な例として、教義の中に以下のような一文が存在する。
――悪魔は、絶対の敵にあらず――
これは、単純に悪魔=敵という構図ではなく、和して共に道を歩むことも可能だとの教えである。
そのような教義が存在する聖堂会では、悪魔召喚師は神と悪魔の仲立ちをする役割とみなされ、頗る寛容な態度で接することを徹底している。とりわけエルガ式悪魔召喚術を駆使する悪魔召喚師は厚遇される。神が悪魔を使役するという性質が、聖堂会の教義と合致するからだ。また、敬虔な神の信者でなければエルガ式を行使できないという事実が大きく、エルガ式悪魔召喚術を行使できるということは、神の信者である証と理解されているのである。
その反面、悪意を持って他人に危害を与えた悪魔召喚師への対応は厳しく、一切の妥協を許さない。身柄を確保すれば、問答無用で死刑が適用され、女神エルミラの元へ召されることとなる。
一方、聖堂会内部にはこの教義の撤廃を目論む一派が存在する。
俗に保守派と言われる者たちである。
「エルガ式であろうなんだろうが、悪魔召喚師は危険な存在だ。彼らを厚遇することは、女神エルミラの意に反する行為でしかない」
このような彼らの主張は取るに足らない少数意見として黙殺されているが、いつ牙を剥いて実力行使に出るかわからない、と懸念する声もある。
「で、聖堂会がケフィに何の用だ」
「それに関しては、私が詳しくご説明します。とりあえず、場所を変えましょうか」
イセリナがそう提案したのは、このような場所で話す内容ではないことと、カフェの店主が腕組みしてじっとこちらを睨んでいるからであった。
営業妨害に加え、器物損壊。彼が険しい顔なのも当然で、敵意に満ちた眼差しは、早急な立退きを迫っている。口頭で帰れと言わないのは、客に対する礼を貫いているからであろう。
「この場は私が処理しておきます。アル君は、皆さんを支部へご案内してください」
「はい、わかりました。どうぞ、お気をつけて」
アルジャーノは快諾し、意気揚々と歩き出した。アレスとケフィは黙って彼の後に続く。その足元を小走りする黒い小動物の後姿がなんとも愛らしく、イセリナは少し癒された気がした。
「さて……」
振り返った先には、店主の姿が見える。これから始まる謝罪交渉のことを考えると気が滅入るが、部下の不始末である以上、避けて通るわけにはいかなかった。
「始末書が一枚……いや、二枚は必要になりそうですね……」
溜め息混じりに呟き、イセリナは小さな戦場へ向かい歩き出した。