戦い
ケフィがゆっくり振り返ると、白装束を纏った少年が立っていた。身長はアレスより頭一つほど低く、ゆとりのある衣服のせいもあって屈強な印象はないが、物怖じする様子もなく、堂々と近付いてくる。
「知っている奴か?」
「いえ」
ケフィは首を小さく横に振った。
少年を敵と判断する根拠はないが、にやついた表情は見ていて愉快なものではなく、自然と警戒心も強くなる。
「俺たちに何か用か?」
ケフィを背にし、アレスは少年の前に立ち塞がった。
「おやおや、そんな怖い顔しないでよ。僕はアルジャーノ。ちょっとそこの彼女に用があってね。おとなしく渡してくれると嬉しいんだけどなぁ」
「断る」
道化染みた要求を、アレスは一蹴した。
「どうしてもだめかい?」
「あぁ。たった今、彼女から護衛を頼まれたところでな。どこの馬の骨とも知れないガキに、はい、どうぞと渡すわけにはいかないのさ」
「なるほど……君も不運だね。護衛なんか引き受けなければ、痛い目にあわずにすんだのに……」
アルジャーノは体を横に向けて右手足を引き、腰を低く落として身構えた。ゆっくりと大きく息を吐き、獲物を狙う獣のような鋭い目でアレスを威圧する。
「離れていろ」
「はい」
ケフィが後退したことを確認し、アレスもゆっくりと身構えた。アルジャーノとほぼ同様の構えだが、アレスのほうが、若干重心が高い。
「へぇ、君も体術の心得があるんだ。どっちが上か、勝負だね」
「望むところだ」
「それじゃ僕からいかせてもらうよ!」
アルジャーノは地面を蹴って間合いを詰めると、右足を軸にし、左足で間断ない蹴りを繰り出した。股関節が相当柔らかいらしく、蹴りは難なく胸より上に飛んでくる。その上、少しも体勢を崩すことのない抜群の安定感は、足腰が相当鍛えられている証左だ。
上半身に集中する攻撃を腕で防ぎながら、アレスは冷静に相手の力量を測っていた。蹴りは鋭く、容易に反撃できそうにないが、所詮は蹴り一辺倒。攻撃パターンは限定され、次第に目も慣れてくる。
「攻撃してこないのかい? それとも、できないと言ったほうが正しいのかな?」
挑発とも苛立ちともとれる言葉を無視し、右腕で力強く蹴りを弾くと、アレスは右側頭部を狙って蹴りを放った。その瞬間、懐深く潜り込んだアルジャーノは、余裕の笑みを浮かべながら、腹部に右拳を叩き込んだ。体はくの字に曲がり、アレスは腹を抱えて蹲る。
「アハハハハッ! 大したことないなぁ。それでよく護衛だなんて言えるよね」
アルジャーノは襟首に手を掛けて無理やり立たせると、その手を離すと同時に強烈な回し蹴りを食らわせた。
アレスの体は勢いよく飛ばされ、顔面からテーブルに激突した。無秩序に倒れるテーブルと椅子が、耳障りな重奏音を奏でる。
「どうした。一方的ではないか」
暢気に歩み寄ってきたロアが耳元で呟いた。
「うるさい……黙っていろ……」
アレスは顔をしかめながら、無神経で憎々しい相棒を睨みつけた。
「この体たらく……貴様、鍛錬を怠っておったな」
「……黙れ、自称魔王」
アレスはロアが嫌う呼称でささやかな反撃を加えると、近くのテーブルに体を預けながら、なんとか立ち上がった。
「おや、まだ立てるんだ」
今の一撃に手応えを感じていたのか、アルジャーノは意外そうな表情を浮かべた。
「恐れ入ったぜ……まさかこれほどの使い手とはな……」
口元の血を拭い、アレスは苦しげに笑みを浮かべた。
「だから言ったでしょ。君は不運だって。まぁ、こうなることは最初からわかっていたんだけどね」
満足げに言葉を返すと、アルジャーノはゆっくりと歩き始めた。
「貴様、なぜ召喚しない。そうすれば、あんな小僧など――」
「ふざけるな。そんなことができるか!」
アレスは一瞥もくれずに一蹴した。指摘が的確であると承知していても、彼には受用できない理由があった。そのことを知らないロアは、不作為に対するもどかしさを持て余し、さらに強い語気で捲し立てる。
「これほどの劣勢にありながら、まだそんな悠長なことを言うとは、貴様という奴はどこまで愚かなのだ! このまま何もせず、みすみすやられるつもりか!!」
「……俺には俺の考えがある。お前は黙っていろ」
アレスは冷静な口調で制すると、思念通話でロアにあることを指示した。それを聞いた途端、ロアは急に静かになり、アレスの前で足を止めた敵に視点を移した。
「何をごちゃごちゃ言っているんだい。まさか恐怖でおかしくなっちゃったのかな?」
アルジャーノは首をすくめて見下ろした。
「あいにくと、俺はまともだ。目の前の不愉快な面が、はっきりと見えるからな」
不敵な笑みを浮かべ、アレスはふてぶてしく挑発した。
「いい度胸だね。それとも状況を把握できない馬鹿と言ったほうがいいのかな。どちらにしろ、君の運命はきまっている。ここで僕に負けるんだ」
「それはどうかな。運命なんてもの、俺は信じない」
「人は運命に逆らえないんだよ。どんなに抗っても、所詮は悪あがき。そう、今の君のようにね」
「なら試してみろよ。悪あがきがどうか」
「後悔するよ」
静かな怒りを全身に漲らせ、アルジャーノは右腕を大きく引いた。その瞬間、軽やかにテーブルの上に姿を現したロアが顔面に張り付いた。
「な、なんだ……こいつ! 離れろ……畜生め!!」
突然視界を塞がれ、アルジャーノは軽い混乱状態に陥った。相棒が作った僅かな隙を活かさんと、アレスは右拳に力を込める。
しぶとくへばりつくロアを排除し、視界を取り戻したたアルジャーノの目に飛び込んできたのは、低い姿勢から打撃を放とうとするアレスの姿だった。
「さっきのお返しだ! きっちり受け取れ!!」
アレスは腹を突き上げるように拳を放った。だが、拳はアルジャーノに届かなかった。両手でがっちりと掴まれ、打撃そのものを殺されてしまったのだ。
視界を取り戻してからのほんの一瞬。その僅かな時間でアルジャーノは状況を把握し、最善と思われる防御行動をとった。尋常ではない反射神経である。
「いやぁ、危ない危ない。もう少しで一発もらうところだったよ」
アルジャーノは手を離し、これみよがしに自分の腹を触ると、顔に飛びついてきた小動物に冷ややかな視線を向けた。
「それにしても、まさかペットが邪魔するなんてね。一体どんな躾をしているんだい、君は」
全く無警戒だった小動物が、ここしかないというタイミングで妨害してきたのである。表情にはださなくとも、アルジャーノの驚きが小さいはずもなかった。
この奇跡的な連携には、裏があった。先にロアが悪魔召喚をしきりに迫った時、アレスが思念通話で話した内容が、まさにこのことだったのである。
〈跳んでくれ〉
たった一言だが、それで十分だった。ロアはその意を理解し、アルジャーノがとどめの一撃に出る瞬間を待っていたのであった。
「悪いな、躾がなってなくて」
「まったく、君は飼い主失格だね」
「かもな」
圧倒的不利な状況にも拘らず、アレスは微笑した。ロアはさぞ不愉快な思いでこの会話を聞いているに違いない、そう思うと、自然に笑いが込み上げてきたのだ。
「まぁでも、今ので僕の方が完全に上だってことはわかったよね? 君はどう頑張っても僕には勝てないんだよ。アハハハハハハッ!!」
勝ち誇った耳障りな高笑いは、不快さを増大させる一方で、アレスに一つの決断を促した。
まともに勝負しては勝てない。
そう確信したアレスは、右掌を大きく開いた。
〈ようやくその気になったか。初めからそうしておればよいものを……〉
脳内に響くロアの声を無視し、アレスがついに悪魔を召喚しようとしたその時、威厳に満ちた女性の声が耳に飛び込んできた。