受難
「あの……ご納得いただけましたか?」
話が終わってもアレスが何の反応も見せないことに不安を覚え、ケフィは催促するように声を掛けた。
「あ、あぁ……話は大体わかったが、一つだけ腑に落ちない」
「と言いますと……?」
「なぜ姓を偽った。今の話を聞く限り、わざわざ素性を伏せる必要はないように思えたが」
「それは、ルヴァロフさんにそうするよう言われていたからです。その真意は、私にもわかりませんが……」
ケフィは困惑した表情で事情を説明した。すると、二人の話に聞き耳を立てていたロアが、勢いよくテーブルの上に飛び上がった。
「今の話は本当か……?」
アレスのものとは違う声が、ケフィの耳に届いた。ケフィは慌てて周囲を見回すが、声の主とおぼしき人物は見当たらない。
「今の話は本当なのかと聞いている」
「あ、はい」
ケフィは反射的に答えていた。
もう一度聞こえた威圧的な声は、間違いなく正面から発せられている。それがアレスではないとすると、考えられる対象は、テーブルにちょこんと座り、じっとこちらを見ている小動物しかいない。
「あやつめ、我を利用しおったな……」
「どういうことだ」
様子がおかしいと感じ、アレスは声をかけた。ロアはさっと振り返り、普段よりぎらついた漆黒の双眸がアレスを捉える。
「あやつは、貴様が面会を拒絶すると確信していた。だが、ハルファスの名を出せば、我が必ず関心を抱き、是が非でも面会を成立させようとする。それを見越し、あやつは小娘にハルファスを名乗らせたのだ。こんな不愉快なことがあるか!」
「フッ、親父らしいな」
アレスは小さく笑った。
(したたか者の親父にかかれば、ロアも形無しだな。生前は、きっと面白いように弄ばれていたに違いない。そう考えると、やたら高慢不遜に接してくるのは、親父から受けた仕打ちに対する仕返しとも思えてくるが、今はどうでもいいことか……)
「お待たせしました。あら、こんなとこに座っちゃって、お行儀の悪い子ね」
注文した品を運んできたウェイトレスは、ホットミルクの入った底の浅い皿をロアの前に置いた。
「こちら、ホットコーヒーになります」
「ありがとう」
湯気が立ち上るカップを手に取り、ケフィは上品な仕草で口をつけた。その透き通る瞳は、忙しくミルクを飲むロアに釘付けになっている。
「では、ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスは爽やかな笑顔を残して足早に去っていった。
「あの……この子、今、喋りましたよね?」
カップを置きながら、ケフィは小声で尋ねた。勘違いだったら恥ずかしいと思いながらも、確認したいという衝動に勝てなかったのだ。
「あぁ。こいつは人間の言語を理解し、会話ができる。口は悪いがな……」
「やっぱり!!」
表情に輝きが戻ったケフィは、ロアを抱き上げて頬ずりした。
至福の一時を邪魔されたロアは、ケフィの手の中で必死にもがいている。
〈いい様だな〉
アレスは頬杖を突き、おもちゃにされているロアを静かに眺めている。
〈な、なんとかしろ! 小僧!〉
〈却下だ。さっきは気持ちよさそうだったじゃないか。しばらくそうされていろ〉
普段のロアの口調を真似るように、アレスは救援要請を拒絶した。
〈な、なんだと! 貴様、どういうつもりだ!〉
〈たまには人の役に立て〉
〈こんな小娘のために、我に忍耐を強いるのか! 魔王たる我がなぜ――〉
ロアの抗議はあえなく掻き消された。ケフィに強く抱き締められ、その胸の中に深く沈んだのだ。
(意外な弱点、発見だな)
悪戯な笑みを浮かべたアレスは、わざと聞こえるように咳払いをした。ロアが困る様に満足し、ようやく助け舟を出す気になったのである。
「あ、すみません……」
夢中になって遊んでいたことに恥ずかしさを覚えたのだろう。ケフィは少し頬を赤らめて、テーブルの上にロアを解放した。
自由を取り戻したロアは、そそくさと皿の前まで戻り、何事もなかったようにミルクを舐め始めた。
「で、俺が君の護衛をすればいいのか?」
「あ、はい。是非お願いします」
ケフィはテーブルに身を乗り出した。あまり乗り気でなさそうなアレスを説得するには、こちらも相応の誠意と熱意が必要だ。そう感じ、今発揮可能な全てのエネルギーをこの交渉に注ぎ込むという決意の表れでもあった。
「わかった。それが親父の遺言ならば、断る理由はない」
「えっ……いいんですか?」
あっさりと承諾を得たことに拍子抜けし、ケフィはそう口走った。
「あぁ、できる限りのことはする。約束しよう」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします!」
はちきれんばかりの満面の笑みを湛え、ケフィは深々と頭をさげた。
〈本当によいのか? 相手がエルガ七十二魔王の召喚を欲する者となれば、貴様では荷が重い。安請け合いせずにはっきり断るのが身のためではないか?〉
嫌味ではなく、本当に身を案じていると思わせるロアの口ぶりは、今後出会うであろう敵の強大さを示唆している。
〈俺自身、そう思わなくもない。だが、あの親父のことだ。この護衛には必ず何か意味があるはずだ。ここで逃げるわけにはいかない〉
〈ほぉ、貴様にしては見上げた覚悟ではないか。面白い、好きにやってみるがよい。我が最後まで見届けてやるわ〉
〈お前が応援するなんて、どういう心境の変化だ〉
思わぬ激励の言葉を受け、アレスは戸惑いを隠しきれない。
〈勘違いするな。我は貴様が迷い苦しむ様を見たいだけだ〉
ロアの回答は、アレスをいっそう悩ませた。協力的なのか、快楽的なのか、狂気的なのか――刹那的に変化するロアの本心を掴むことは難しい。仮にそれがわかったところで何かが劇的に変化するとも考えてはいないのだが、扱いを持て余している現状、少しでも優位に立つためには、それが必要不可欠に思えてならなかったのである。
「では、当家へご案内します。そこで今後の具体的なお話を――」
「待て」
立ち上がろうとしたケフィを、アレスは緊張を帯びた声で制した。
「どうしました……?」
「動くな」
ケフィの行動を掣肘し、ただならぬ様子で立ち上がったアレスの視線は、彼女の後方に現れた人物を鋭く捉えていた。