少女
駅を出たアレスとロアは、大通りを真っ直ぐ進み、町の中心であるフランデル広場に出た。
煉瓦敷きの広々と落ち着いた雰囲気のある場所で、多くの子供たちが元気に駆け回っている。彼らの保護者たる母親たちはというと、ベンチから我が子を見守りながら、他愛もない世間話に花を咲かせている。
「チッ、まだか……」
広場の中央に立つ時計を見て、アレスは舌打ちした。駅構内でだいぶ時間を潰したつもりでいたが、約束の時間までまだ十五分もある。寒空の下、手持ち無沙汰で過ごすには長い時間だ。
「仕方ない」
アレスは近くのベンチに腰を下ろして足を組み、両腕を広げて背もたれの後に回した。なんともふてぶてしい格好で、近くを通る人は、目が合わないよう意識的に視線を逸らしている。
「ここが待ち合わせ場所なのか?」
ロアは軽やかに飛び上がり、アレスの隣に居場所を確保した。
「あぁ、すぐそこのカフェだ」
視線の先には、シャルターニではそう珍しくもないオープンテラスのカフェがある。その店の一番手前のテーブルが、相手から指定された席だ。
そこに人影はない。どうやら相手も時間に余裕を持つタイプではなさそうである。
十分前、五分前と、約束の時間は迫るが、一向に相手が現れる気配はない。
二分前――
アレスは痺れを切らして立ち上がった。周囲に注意しながら、ゆったりとした足取りでカフェへと向かう。ベンチから飛び降りたロアも、少し離れて後に続く。
「時間だ」
十一時になったのを確認し、アレスは席に着いた。それを見計らったかのように、背後から声がかかる。
「……あの、アレスさん、ですか?」
「あんたか、俺をこんなところに――」
面倒くさそうに振り返ったアレスは、言いかけた言葉を飲み込んだ。そこに立っていた美しい少女に、思わず目を奪われてしまったのだ。
「はじめまして。ケフィ=ハルファスです」
薄手のコートにブーツという初冬の装いで現れた少女――ケフィは、軽く頭を下げてからアレスの向かいの席に座った。飾り気がなく、自然体の柔らかな物腰が印象的で、胸元の炎を模った珍しいネックレスが目を引く。
「今日は少し寒いですね」
ケフィは安らぎと温かみを感じさせる表情で微笑みかけた。その頬は少し赤みを帯び、息は若干白い。
アレスは目だけを動かして周囲を見たが、この寒空の下、他にオープンカフェを利用している客はいない。ここ数日に比して急に冷え込んだ感があるので、目の前の少女もまさかこんな天候になるとは思わなかったのだろう。
程なくして、こちらの存在に気付いたウェイトレスが店内から注文を取りに来た。
「何かお飲みになりますか?」
「いや、俺はいい」
アレスが無愛想に断ると、高圧的な要求が脳に届いた。足元に蹲る相棒からだ。
「すまない。こいつに何か温かい飲み物を頼みたいんだが……」
「こいつ……?」
小首を傾げたウェイトレスは、アレスの視線が足元に向いていることに気付き、そっとテーブルの下を覗き込んだ。
「きゃあ、かわいい!!」
ウェイトレスが発した声に触発され、ケフィも足元に視線を移す。
「かわいい!」
再度沸き上がる歓喜の声。ロアの愛くるしい容姿は、一目で彼女たちの心を鷲摑みにしたようだ。
ケフィは席を立ち、ウェイトレスと並んで腰を下ろした。すっかり魅了された二人は、ロアの体に触れて楽しそうにはしゃいでいる。
ロアはというと、まんざらでもないのか、気持ちよさそうに目を閉じてじっとしている。
「お楽しみのところを悪いが、いつまで遊んでいるつもりだ」
「あ、すみません。あんまり可愛かったので、つい……」
はみかみながら、二人は同時に立ち上がった。ケフィは席に戻り、ウェイトレスはようやく注文を取り始めた。
「えっと、この子にはホットミルクでよろしいですか?」
「あぁ、それを頼む」
「それじゃ、私はホットコーヒーで。砂糖を少なめでお願いします」
「かしこまりました。飼い主さんは何にされますか?」
「俺はいい」
アレスは不機嫌そうに答えた。飼い主さんという呼称に形容しがたい不快感を覚えたのだ。
「そうおっしゃらずに、今日はこんな寒空ですし、当店お勧めのハーブティなどいかがですか? 心も体もばっちり暖まりますよ」
ウェイトレスは首を少し傾け、満面の笑顔で勧めた。だが、アレスが黙ったままなのを見て、名残惜しそうにロアに小さく手を振ると、店内へと戻っていった。
「初めて見る動物ですけど、本当に可愛いですね」
「見た目で判断すると、痛い目にあうぞ」
「そうですか? とても従順で人懐っこそうに見えましたけど……」
納得できないという表情で、ケフィは首を傾げた。
従順という言葉は、ロアにはもっとも縁遠い言葉である。彼女が可愛いというロアの姿が、本当の姿か仮の姿かさえ本人以外は知り得ず、仮に後者であったなら、容姿に惑わされる人間の浅はかさを巧みに利用しているとしか思えない。すなわち、意図的に魔性を作り上げていることに他ならず、ロアならば平気でやりかねないと、アレスは考えていた。
「で、俺に何の用だ」
両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せ、アレスは威圧するような目を向けた。
「この度はご愁傷様でした。まさかルヴァロフさんがあのような最期を迎えるとは……」
春の陽光を思わせる笑顔は影を潜め、ケフィは悲しみに満ちた瞳を伏せた。
彼女の言葉は上辺だけのものではない。心の底からの悔やみ言であることは、声の調子と表情でわかる。それでも素直に受け入れられない自分自身に対し、アレスは強い苛立ちを覚えていた。
「まさか、それを言うためだけにこんな寒空の下に呼びつけたんじゃないだろうな」
「いえ。今日ここにお呼びしたのは、ルヴァロフさんから頼まれていた言伝をお話するためです」
意地の悪い言葉に怯むことなく、ケフィは顔を上げた。先刻とは打って変わり、その瞳は力強くアレスを捉えている。
「親父から……?」
「はい。もし自分が死んだら、君の口から直接伝えてくれ……そう頼まれていました。まるでご自分の死を予期されていたようで、気にはなっていたのですが……」
「で、その言伝というのは?」
「ケフィを、お前に託す」
ケフィは一言一句を大事そうに伝えた。アレスは特に感想を漏らすこともなく、まだ続くであろう次の言葉を静かに待った。だが、ケフィが話す気配はない。
「それで終わりか?」
「はい」
痺れを切らしたアレスに対し、ケフィは短く答えた。
「んー……どうにも話が解せない。そもそも、あんたは何者だ。親父とはどういう関係なんだ」
アレスはケフィの素性に疑問を抱き、冷めた口調で矢継ぎ早に尋ねた。
この時、ケフィは重大な過失を悟った。高圧的なアレスの態度に萎縮して思わず弔辞を述べてしまい、そのまま本題へ入ってしまった。まずは何より先に自己紹介をすべきであったのに、話の順序を決定的に間違えたことに気付いたのである。素性も知れぬ者から悔やみの言葉や言伝を聞いても、ただ不信感が募るだけ。真剣に取り合ってもらえる道理などないのだ。
激しい動揺と喉の渇きを自覚しながらも、表面上は冷静さを装い、ケフィはなんとか言葉を紡ぎ出す。
「自己紹介が遅くなってすみません。私はアルカスター家の第十三代当主、ケフィ=アルカスターといいます」
「アルカスターって、あの三大貴族のか……?」
「はい、そうです。長年私たち一家を守り続けてくださった恩人、それがルヴァロフさんなのです」
「……驚いた。まさか親父がアルカスター家と係わっていたとは……」
アレスは自分の耳を疑った。ルヴァロフは庶民に寛大であった半面、特権階級や権力者に対しては毅然とした態度で立ち向かっていた。そんな性格ゆえ、特権階級の最たる存在ともいえる三大貴族の護衛を引き受けていたことに大きな衝撃を受けたのである。
「当家の当主は、代々魔王ハルファスの召喚方法を受け継いでいます。それは当主にのみ語り継がれるものであって、いわば一子相伝。たとえ家族であってもけして知ることは許されないものでした。ところが、先代である我が父の代において、その秘密が漏洩する事件が発生しました。それ以来、家族の身の回りに不穏な出来事が頻発し、困り果てた父は秘密裏にルヴァロフさんに護衛をお願いしたのです。多忙であるにも拘らず、ルヴァロフさんは快諾され、一切を口外しないことを約束してくださったと聞いています。それ以後、ルヴァロフさんが見事に護衛を果たしてくださったおかげで私たち一家は平穏な日々を送ることができ、病の床に伏した父も静かに最期を迎えることができました。また、私が当主を継いでからも、ルヴァロフさんは変わらず一家の護衛を務めてくださっていたのです」
粛々とした語り口で、ケフィはありのままを話した。その内容は新鮮な驚きに満ちており、アレスはすっかり聞き入ってしまっていた。