脅威
アレスたちは聖堂から外へ出た。
空は青く澄み渡り、人々は談笑しながら往来を行き来している。
そこに流れる普段と何も変わらない穏やかな時間が、まもなく崩壊しようとしていることなど、誰一人知る者はない。
程なくして、聖堂会の建物を破壊して悠然と空に姿を現した竜は、二つの口から広範囲に無数の蛇と蜥蜴を吐き出した。
それに気付いたリエリは顔を蒼ざめ、あらん限りの声で叫ぶ。
「皆、逃げて!!!」
だが、行き交う人々がその言葉の意味を理解できるはずもなく、足を止めてのんびりと空を見上げている者さえいる。
「お願い、早くここから離れて!!」
リエリの魂の叫びも空しく、爬虫類たちは続々と地上に降下。
人々はようやく現実を知り、悲鳴を上げて逃げ惑う。
絶え間なく降り注ぐ無数の爬虫類の姿は混乱に拍車を掛け、転倒や衝突といった二次被害を生みだし、いよいよ収拾がつかない様相を呈してきた。
爬虫類たちの攻撃はただ噛み付くだけであるが、その毒が問題であった。襲われたある者は激痛に悲鳴を上げてのた打ち回り、ある者は激しい頭痛や吐き気に苦しんで蹲っている。何とか難を逃れて屋内に避難しても、僅かな隙間からどんどん侵入してくるので防ぎようがない。しかも血清がないのが致命的で、噛まれたら高い確率で死に至る。
「開陣――」
アレスはデミトリス、リエリはバルギーノをそれぞれ召喚した。
小柄な老人の姿をした第四位三種悪魔デミトリスはケフィの命を救った簡易遮断力場を構築して防御を固め、八手の人型剣士である第四位一種悪魔バルギーノが襲い掛かる爬虫類を切り刻む。
イセリナとアルジャーノは市民の避難誘導に赴き、すでにこの場にはいない。
「くそっ、キリがない」
「あの竜だけでもなんとかできませんか?」
「無理よ、ケフィさん。相手は魔王の一人。情けないけど、今は自分たちの身を守るので精一杯よ」
「だったら、私がハルファスを召喚します。このまま黙ってみているわけには――」
「それはだめよ!」
胸のペンダントを握り締めたケフィを、リエリが厳しく制した。
「確信を持って訊くけど、まだ一度もハルファスを召喚したことはないわよね?」
「はい。それがなにか?」
「ハルファスはエルガ七十二魔王の中でも最強級の魔王。もし召喚後にハルファスがあなたに従わなければ、世界の危機に発展するわ」
「そんな……」
「私たちでなんとかできればいいんだけど……こんな時、師がいてくれたら――」
「何情けないこと言ってやがる」
覇気に満ちた言葉と共に現れたのは、ルヴァロフの二番弟子、ヴィラートだった。細身で長身、繊細な硝子細工のような顔立ちでありながら、青と黒を基調とした衣服と外套を纏った姿は、一国の王子と見紛う風格さえ持ち合わせている。
「ヴィラートさん……!!」
「よぉ、久しぶりだな、アレス。おっと、邪魔だ!」
ヴィラートは飛びついてきた蛇の頭を一刀で落とした。
予期せぬ兄弟子の登場に、リエリは驚きを隠しきれない。
「どうしてここにいるの?」
「お前が王宮から姿を消したので、密かに捜していた。ようやく居所を見つけて来てみれば、この有様ってわけだ。それにしても、こんな町中でヴァラクを召喚した馬鹿は、どこのどいつだ!!」
ヴィラートの怒声でフォルナーの存在を思い出し、アレスは周囲を見回した。だが、その姿はどこにもない。逃走したとも思えないが、この期に及んで姿を現さないのは不気味であった。
「このままでは町は全滅だ。手を貸してくれ、リエリ」
「もちろんそうしたいけど、私の契約している悪魔じゃ――」
「サルベリオンだ! サルべリオンを召喚しろ!」
「わかったわ。でも、どうしてサルベリオンなの?」
「爬虫類は変温動物だ。急激な気温の変化には対応できず、とりわけ寒さに弱い。だからサルベリオンの能力で一気に気温を下げ、奴らの動きを鈍化、あわよくば休眠状態に陥れ、俺のティルティナで一掃する」
「さすがヴィラート! ますます尊敬しちゃう!」
「世辞などいい。早く召喚しろ!」
歓喜したリエリは早速サルベリオンを召喚し、周辺一帯を極寒にするよう命じた。
第三位三種悪魔サルベリオンは四本の腕を有する人型女悪魔で、戦闘能力は皆無に等しい。だが、四本の手に持つ青、赤、緑、黄色の球体の力を用いて天候を自在に操ることができ、支援に特化すれば強大な戦力となる。
サルベリオンの天候を操る能力は凄まじく、瞬く間に灰色の雲が空を覆い、気温はどんどん低下していく。それに伴い、爬虫類たちの動きは目に見えて鈍化し、やがて屋外にいる大半が活動を停止した。
ヴィラートの狙い通りである。
逃げ遅れた人々は寒さに身震いしながら、手近な建物の中へと避難する。
「上出来だ。次は俺だな」
リエリの下準備に満足したヴィラートは、白い息を吐きながら、自らもティルティナを召喚した。
鷲の姿を模した巨大な姿の第三位三種悪魔ティルティナは、猛禽類の頂点に経つ存在であり、全ての猛禽類に命を下すことができるため、猛禽王とも呼ばれている。
主君の召喚を祝うかのように、どこからともなく集まってきた鷹や鷲が空を埋め尽くし、地上に仮初の闇をもたらした。そして示し合わせたように一斉に急降下すると、活動限界に達した爬虫類たちを捕食し始めた。絶対数に勝る爬虫類たちも、天敵の襲来から逃れる術はない。
「いたちごっこかもしれないが、これで少しは被害の拡大を抑えられるだろう。この間に本体を始末しないとな」
ヴィラートは空中に座する爬虫王を見上げた。ヴィラートの策を嘲笑うかのように、竜は絶え間なく爬虫類を吐き続けている。
「地上の雑魚は俺たちが処理する。ヴァラクはお前がなんとかするんだ、アレス」
「わかっています。なんとか地上に引きずりおろせれば……」
アレスは歯がゆさに満ちた視線をヴァラクに向けた。
地上においては絶大な力を発揮するヘルマイオスも、空中の敵に対しては無力。自慢の攻撃力も当たらなければ意味がない。
アレスが対抗策を考える間にも竜は爬虫類を吐き出し続け、ヴィラートの機転も効力が弱まりつつある。
「まだか、アレス! あの竜だけでもなんとかしないと、町が埋め尽くされるぞ!」
ヴィラートがいかに急かそうとも、アレスに妙案はない。
「どうすれば、奴を地上に……」
「随分困っているみたいだね、アレスくん」
焦りの色を濃くしたアレスに声を掛けてきたのは、アルジャーノだった。避難誘導に目処が立ったため、合流するようイセリナに命ぜられたのである。
「お前に構っている暇はない」
「随分ないいようだね。要は、あいつを地上に降ろせばいいんだよね?」
「あぁ。地上戦に持ち込めれば、なんとかできるかもしれない」
「だったら僕にやらせてよ。ちゃんと考えがあるし、完全復活をアピールするには願ってもない機会だからね」
本当に体調が万全なのか、懐疑的なアレスであったが、このまま手詰まりのまま無為の時間を過ごすよりは、彼に賭けてみるのも一つの手かもしれないと考え、この場は任せるという決断に至った。
「わかった。頼む」
「ありがとう。必ず期待に応えてみせるよ」
アルジャーノは嬉しそうに微笑むと、ヴァラクを見上げて表情を引き締めた。
「待て、小僧。我を連れて行け」
「君はアレスくんの……」
一人ロアの素性を知らないアルジャーノは、人間の言葉を発した珍獣に目を奪われた。もはや素性がばれることに何の抵抗もないのかとアレスは思ったが、それほど事が切迫しているのだと認識するに至り、ロアの判断を尊重することにした。
「君、大丈夫なの? 下手をすれば死ぬわよ」
「だからこそ、我が同行するのだ。貴様らは地上戦の準備でもしておけ」
不安を口にしたリエリにふてぶてしく答えたロアは、アルジャーノの頭の上に飛び乗り、出撃準備を完了させた。
「ここは任せよう」
ヴィラートが肩に手を掛けると、リエリは小さく頷いた。