日常
アルカスター家の屋敷が焼失してから三日。
フォルセウスが全く姿を現さなくなったため、アレスは自宅でケフィを警護しながら、久しぶりの穏やかな日常を過ごしていた。
「……起きてください……朝ですよ」
ケフィは気持ちよさそうに眠っているアレスの体を揺すった。だが、布団を強く握り締めて寝返りを打ち、一向に起きる様子はない。
「もう……」
ケフィは窓を開け放ち、新鮮な空気と眩しい陽光を部屋に取り込んだ。ひんやりした空気が顔に触れ、首元に流れ込んでくると、アレスは亀のように首を引っ込め、布団の中に潜り込んだ。
「さぁ、起きてください!」
ケフィは勢いよく掛け布団をめくりあげた。アレスは背中を丸めて子猫のように震えている。
「……さ、寒い……」
アレスは手探りで掛け布団を捜し求めた。手の届く範囲を一通り探ってみても、それらしき物の感触はない。仕方なく目を開けてゆっくりと上半身を起こすと、陽光を背に受けながら窓際に立つケフィの姿があった。
「おはようございます、アレスさん」
元気に挨拶した彼女の息は白い。冬本番を迎えようとするこの時期、雲一つなく晴れていても気温は低く、まして朝の冷え込みは厳しい。
「……ん……おはよう……」
アレスは体を小さく震わせながら、寝ぼけ眼で答えた。
「よく晴れていますよ。あんまりいいお天気なので、お布団も干しておきました」
「……そうか……ありがとう……」
(なるほど……どうりで見つからないわけだ……)
アレスはまだ半分眠っている脳で、自分の置かれている状況をぼんやりと把握した。
今までなら、暖かいベッドの中でまだ気持ちよく夢を見ている時間である。それが朝六時に起きる――正確には、起こされる――ようになったのは、ケフィをこの家の新たな住人として迎え入れてからのことであった。
屋敷が全焼したあの日。運良く生き残ったアルカスター家の住人たちにフレイを預け、ケフィはフォウルバルト家の居候となった。それからというもの、不健康の見本のような生活は一変し、数日間世話になった屋敷での生活同様、健康的な生活を送ることになったのである。
顔を洗ってようやく目が覚めたアレスは、朝食の席に着いた。目の前にはフォウルバルト家の新しい朝を彩るケフィお手製の料理が並んでいる。
「それじゃ、いただきましょうか。いただきます」
「いただきます……ん、やっぱり美味いな、君の料理は」
サラダを一口食べると、称賛の言葉が自然に口から出た。
「ありがとうございます」
はにかみながら、ケフィは素直に喜んだ。
当初、アレスは貴族のお嬢様の料理の腕前に疑問を抱いていた。
メイドが家事を全部してくれるのだから、包丁も握ったことがないだろうと勝手に決め付けていたのだ。ところが、初めて出された朝食を恐る恐る食べてみると、これがとんでもなく美味かった。
朝食に関して言えば、毎朝必ず出てくるサラダ。そんなもの誰が作っても同じだろうと普通は思う。だが彼女の場合、毎朝オリジナルのドレッシングを作り、しかも例外なく美味い。
その一事からでも、調味料や香辛料の知識が豊富で調合に長けているとわかる。
他にも例を挙げれば枚挙に暇がないが、とにかくその腕に惚れ込んだアレスは、この家のキッチンの支配権を全てケフィに譲渡し、以後、質、量ともに三度の食事に不自由しなくなった。
「どうだ、ここでやっていけそうか?」
アレスは唐突に尋ねた。
「そうですね。特に困ったことはありませんし、いい部屋を頂いたので十分満足していますよ」
「狭いだろう、あの部屋」
「そんなことありませんよ。一人なら十分な広さですし、日当たりもいいですから。ただ、随分長い間掃除されていなかったようで、埃がかなり積もっていましたけど……」
「それは仕方ないさ。君を案内するまで、俺は一度も足を踏み入れたことがなかったからな」
「そうなんですか?」
「あぁ。あの部屋はお袋が使っていたらしいんだが、俺を産んですぐに死んだと親父から聞いた。俺は顔すら知らないお袋の部屋に入るのは抵抗があって、君が来るまで放置したままだったというわけさ。まぁ、親父の話では、お袋は絶世の美女だったらしいが、そんな人がどうして親父みたいなのと一緒になったのか……今じゃ永遠の謎さ」
アレスはふっと笑い、コーヒーを一気に飲み干した。
その時、不意にドアが鳴った。かなりせっかちな人物らしく、こんな朝早くにもかかわらず、ドアを激しく打ち鳴らしている、
「誰だ、うるさいな……」