想定外
「さぁ、行け」
行動の自由を得たフレイは、一直線にアレスに駆け寄り、勢いそのままに飛びついた。
「お兄ちゃん!!」
「よく頑張ったな。痛いところはないか?」
「うん、大丈夫だよ」
フレイははちきれんばかりの笑顔で答えた。持ち前の元気と明るさは健在で、目立った外傷もなく、アレスはひとまず安心した。
「少しだけここで待っていろ。あいつらを懲らしめてくるからな」
「うん、わかった。頑張ってね!」
フレイは小さな手を振って声援を送った。
気を引き締め、アレスは男と対峙する。
「待たせたな」
「ほぉ、てっきり逃げると思っていたが、貴様を少しみくびっていたようだ」
「どうしてそんな必要がある。これからお前を叩きのめすというのに」
アレスが挑発すると、男は大声を上げて笑い出した。
「ハハハハハッ! 貴様はとんでもない愚か者だ。いいか、聞いて驚け。俺はな、悪魔を召喚できるんだぞ!」
「それがどうした」
「悪魔の力の前には、人間など無力だ。逃げていればよかったとすぐに後悔するぞ!」
「能書きはいい。早くやってみろ」
「くそっ、吠え面かくなよ! 解陣――」
魔法陣を展開し、男は自慢の悪魔を召喚した。
鷹の頭部と牛の頭部を持ち、背には二枚の翼、尾は牛という異様な姿は、免疫のない者にはただの一見で恐怖の対象として十分な効果をもたらすだろう。
〈バルドラか……貴様、よもやこのような下位悪魔に敗れはしまいな〉
〈馬鹿にするな。奴の情報はちゃんと頭に入っている〉
そう反論すると、アレスは徐に手を口に当てた。その仕草で納得したらしく、ロアは少し離れて静かに伏せた。手出しも口出しもしないという意思表示だ。
「どうだ、本物の悪魔を見た感想は!!」
「別に……」
悪魔を目の前にしても、アレスの冷静な態度に変化はない。
動揺したのは、むしろ男の方だった。ここまで平然としているアレスを見て、勝利を疑わない絶対的な力を持っているのではないかという疑念に襲われていた。
「そんな態度ができるのは今の内だ! や、殺れ、バルドラ! 奴を呪い殺せっ!!」
男はアレスを指差し、大声で命じた。当然、苦しむ間もなくアレスが絶命すると信じていた。
ところが、アレスは何食わぬ顔で立っている。
「どうした、奴はなぜ死なない!」
「……やめだ。気乗りがしねぇ」
「貴様、契約者の命令が聞けないのか!」
「あん、契約者だ? 人間風情がいい気になるなよ。なんならお前を殺してやろうか?」
「なっ……」
バルドラの恫喝に腰を抜かし、男はその場にへたりこんだ。
〈これはどういうことだ〉
予想外の展開に戸惑うアレスは、ロアに意見を求めた。
〈奴は同じ悪魔でも手を焼くほどの気分屋で、味方でも平気で裏切る。相手が人間となれば、なおさらだ。契約を交わしたからといって、素直に命令に従う道理もない〉
〈酷い話だな〉
〈悪魔を従わせるのは、それだけ難しいということだ。あの男、死んだな……〉
ロアの死刑宣告を重く受け止めたアレスは、なんとか死だけは回避してやりたいと思い、男に声を掛けた。
「おい、お前。俺の話を――」
「う、うるさい! こっちは忙しいんだ、話しかけるな!!」
眼前の悪魔を見上げて震えている男は、一瞥もくれずに怒鳴った。
〈本人が拒絶しているのだ。放っておけ〉
ロアは冷徹に判断を下し、フレイのいる方へすたすたと歩き出した。
薄情かもしれないが、ロアの言うことは正しいと、アレスは思った。こちらが手を差し伸べようとしたのに、にべもなく拒絶したのは男の方である。唯一生き延びる術を自ら放棄したのだから、これ以上はどうすることもできない。
「帰るぞ、フレイ」
「はぁい」
状況を把握できずにきょとんとしているフレイに声を掛け、アレスは墓地を後にしようとした。