駅
手紙を受け取ってから二日後。
待ち合わせの場所として指定されたカフェに向かうため、アレスはシャルターニ市の駅に降り立った。
王都の東に位置するシャルターニ市は、人や物が忙しなく行き来するサリスティア東部交通の要衝であり、東のスラン公国、北のレグリア帝国と繋がる蒸気式列車のターミナルステーションでもある。
「どういうことだ」
構内の時計を見て、アレスは表情を曇らせた。
時計の針は、到着予定時間より二十五分も早い――十時二十分を指している。
人を待たすのは得意だが、待たされるのが心底嫌いなアレスは、わざと時間を遅らせて列車に乗った。それなのに、どういうわけか、予定より早く着いてしまったのである。
腕組みして目を細め、時刻表を睨みつけるアレス。その理由に気付くのに、さほど時間を要しなかった。
普通列車を一本遅らせたつもりが、間違えて一日に三本しかない特急列車に乗ってしまったのだ。発車時刻を遅らせても、各駅を飛ばして最速で目的地へ向かうのだから、当然到着は早い。
「なんてこった……」
こうなったからには、相手が自分より先に到着していることに期待し、アレスは広い駅構内を歩き始めた。
「無様だな、小僧」
無慈悲な一言が矢のように飛んできた。発言者の辞書には、思いやりや気遣いという言葉が欠落しているに違いない。
「いい加減、その呼び方はやめろ。聞く度にいらつく」
アレスは足元を小気味よく歩いている悪意の塊――ロアを睨みつけた。
「却下だ。未熟な貴様には、小僧で十分だ」
「黙れ、自称魔王!」
ロアを踏みつけようとした右足は、軽やかにかわされて空しく床を打った。
アレスは眉を顰め、今度は左足で蹴り上げようとしたが、それすらも予測していたのか、ロアは素早く身を捩じらせて足の下に潜り込み、瞬く間に背後を取った。
「チッ!」
アレスが顔を振り向けると、目が合ったロアが嫌らしく口を歪めて嘲笑した――ように見えた。
他人の機嫌を損ねることにかけては天才的な才能を持つロアを相手に意地を張っても、いたずらに精神が消耗するだけだと判断し、アレスは一切の手出しをやめた。
物騒な同行者の攻撃が終結したと知ったロアは、立てた尻尾の先を機嫌よく回しながら、勝利の凱旋さながらに悠然と歩行を再開した。
「そういえば、今から会う奴の名を覚えているか?」
前を歩くロアは、一顧だにせずに尋ねた。
「ケフィ=ハルファスだろ。ハルファスなんて姓、聞いたことないけどな……」
無関心な口振りで答えると、規則的なリズムを刻んでいたロアの歩みが突然止まった。
「どうした?」
「貴様、その名を聞いて本当に何も思わぬのか……?」
ロアは徐に振り返り、呑気な同行者を見上げた。その漆黒の双眸は、いつになく鋭い輝きを放っている。
「別にこれといってはな……」
特に思い当たる節もなく、アレスは首を傾げた。その様子に本気で辟易したのか、ロアは老人を思わせる深い溜息をついた。
「貴様と言う奴は……未熟なだけでは飽き足らず、無知ときたか……」
「自称魔王が何を偉そうに」
アレスは目を細め、不遜な愛玩動物を冷ややかに見下ろした。当然、次に来る悪辣な口撃を覚悟している。
「では訊くが、貴様、エルガ七十二魔王を知っているか……?」
毒舌を展開することなく、ロアはいきなり話の核心に触れた。予想に反し、拍子抜けした感の強いアレスであったが、突きつけられた質問に対する知識を持ち合わせておらず、ただ小首を傾げるしかなかった。
「んー、ラムド式はわかるんだが、エルガ式はちょっとな……」
「やはり知らぬか。呆れて物も言えぬな」
「だったら黙っていろ」
「いや、そうはいかぬ。今後のことも踏まえれば、貴様は知っておくべきだ」
一から説明する必要性を感じ、ロアはその場に腰を下ろした。それを見たアレスは長い講釈を予期し、胡坐を組んで座り込んだ。
「よいか、悪魔を召喚するという根本的な目的は同じだが、召喚過程における性質が全く異なる二つの悪魔召喚術。それがラムド式とエルガ式だ。ラムド式は代償を払って契約することが前提となり、契約内容に反しなければ、エルガ式より強大な力を行使できる。他方、エルガ式は代償を伴う契約を必要とせず、神の援助を得て悪魔を使役する。そのため、敬虔な神の信者でなくてはならず、ラムド式より高度で術者の資質に大きく左右される。これが二つの術式の決定的な違いだ」
「お前、よく知っているな」
ロアが淀みなく流暢に、しかも実に明瞭な説明をしたことに対し、アレスは素直に感心した。だがこの称賛は、ロアにとって侮辱も同然だった。二つの悪魔召喚術のことなど、知っていて当然。初歩以前の知識だと認識しているからだ。
「肝心なのは、ここからだ。エルガ式で召喚できる悪魔の中に、エルガ七十二魔王と呼ばれる強大な力を持った悪魔たちが存在する。ハルファスとは、その中の一人、【戦争】を司る魔王の名だ」
「ふぅーん……つまり、お前はハルファス繋がりが気になるってわけだ」
相変わらず関心のない素振りで、アレスは話の帰結を口にした。
その態度に、ロアの苛立ちは募る。
「貴様に改めて問う。此度の相手について、どう思う?」
「どうもこうも、単なる偶然だろ。同じ名だからっていちいち気にしていたらキリがない」
アレスは一考もせずに即答した。
「話にならんな。たとえ本当に偶然であったとしても、悪魔召喚師ならば、関心を持って然るべきであろうに……これでは何十年、何百年かかっても、あやつを超えることなど夢の話。魔王の召喚すら叶いはすまいな」
ロアは冷徹に突き放し、悪魔召喚師になくてはならない資質を見極めようとしていた。その意を知らぬアレスは、間髪入れずに声を荒らげる。
「黙って聞いていれば、好き勝手言ってんじゃないぞ、自称魔王! 俺はラムド式の悪魔召喚師であって、エルガ式なんかに興味はない。俺の最終目標は、魔王ベルガデスの召喚だ。お前がなんと言おうと、いつか契約を実現し、親父を超えてやるからな!!」
「魔王ベルガデスの召喚とは、随分大きく出たな。それは、あやつの指示なのか?」
「違う。親父にも話をしたことはあるが、そう決めたのは俺自身だ」
「クックックッ、そういうことか……貴様という奴は、本当に何もわかっていないようだな」
ロアの声はどこか楽しげで、見下した台詞に悪意を感じない。こんなことは初めてで、真意が掴めない分、悪意より不気味である。
「どういう意味だ」
「それを知りたければ、悪魔召喚師としての自覚を持ち、日々精進することだ。そうすれば、いずれ貴様にもわかる日が来るかもしれん」
(らしくない――)
アレスはそう思った。
研ぎ澄まされた刃のような悪意で、容赦なく他人の心を踏み躙る。それが目の前の愛玩動物を最も象徴する特徴だと信じて疑わないが、どうやら彼の辞書にも抽象や婉曲という言葉が存在しているらしい。
不意に湧いた小さな驚きは、彼の真意を知りたいという欲求へと変化した。
「答えになってない。ちゃんとわかるように説明しろ」
「却下だ。後は自分で考えろ」
甘えるな、とでも言いたげに、ロアはそっぽを向いた。
なんとか口を割らせたいという一心で、アレスは懸命に考えを巡らせた。そしてあることを思いつくと、悪意に満ちた笑みを浮かべた。
「ははぁーん、わかったぞ。さては、さも自分だけが知っているような素振りをしておきながら、本当は何もわかっていないな。だから曖昧な言葉で濁し、あやふやに済まそうとしているんだろ?」
その瞬間、ロアの耳が僅かに動いた。心外な挑発を受けて、無意識に反応したのだ。
アレスは確かな手応えを感じ、今度は視点を変えた挑発を試みる。
「すまない、口が過ぎたな。お前の虚栄心を満足させてやれなかったのは、配慮の足りない俺の落度だ。忘れてくれると助かる」
「黙れ、小僧! 我をそこまで貶めるとは、不愉快だ!!」
妙に演技がかった台詞回しと心にもない無礼な謝罪に耐えかね、ロアは感情を剥き出しにして吠えた。してやったりと、アレスはほくそえむ。
「だったら教えろよ。もったいぶらずにな」
「よかろう。では、一つだけ教えてやる。あやつの遺志を継ぐのは、三人の弟子ではなく、貴様だということだ。後は貴様自身で考えろ」
「親父の遺志、か……」
(言われてみれば、そんなことは考えたこともなかった。死の間際、親父は何を思ったのか。俺に何か伝えたいことがあったのではないか。復讐、名誉の回復、研究の継続。それとも、処刑されるに至った経緯――事の真相か……いや、親父のことだ。きっとこの国の未来を考えていたに違いない。そんな国の忠心を処刑するような王を、俺は許さない。いずれ必ず、その報いを受けさせてやる……ん?)
ふと我に返ったアレスは、遠巻きに自分たちを見物している人だかりに気付いた。
駅の構内に座り込み、動物相手に話をする光景は、さぞ彼らの好奇心を掻き立てたことだろう。一人、また一人と足を止め、奇妙な若者を注目していたのである。
「やれやれ、これじゃ見世物じゃないか……おい、いつまで見てやがる!!」
アレスは急に立ち上がり、構内に響き渡るほどの大声で叫んだ。驚いた見物人たちは逃げるように移動を再開し、駅は瞬く間に日常の喧騒を取り戻した。
〈怒鳴り散らすぐらいなら、最初からこちらで話せばよかろうに……〉
〈話を始めたのはお前だ。不注意だったのはお前だろ!〉
さっと振り返り、アレスは怒りに満ちた視線を足元に向けた。そこにいる漆黒の相棒は、退屈そうに大きな欠伸を一つし、気だるそうに答える。
〈遠距離での意思の疎通、それが思念通話の本来の使用法だ。我になんら落ち度はない〉
〈たとえそうだとしても、こんな人通りの多い所で普通に話していたら、さっきみたいに人が集まってくることぐらい想像できるだろうが〉
〈我は一向に構わん。気にしているのは貴様だけだ〉
〈お前なぁ……〉
アレスは呆れて頭を掻いた。
この世界で動物が言語を話すということがどれほど不自然なことなのか、ロアは全く理解していない。
もしそんな動物が発見されれば、世紀の大発見である。
この世界でちやほやされたいというのであれば話は別だが、ロアの気性からしてそんなことがあろうはずもない。ならば、目立った言動を避け、正体を隠し通すのが利口であることぐらいわかりそうなものである。
〈いいか、お前はこの世界では異質な存在なんだ。面倒を避けるためにも、せめて人の多い場所では思念通話を使ってくれ。いいな?〉
〈よかろう。くだらぬ要望だが、聞き入れてやる〉
〈そうしてくれ。それがお互いの平穏のためだ〉
ようやく話の帰結点に辿り着いたアレスは、ふと本来の目的を思い出して構内の時計を探した。思いのほか話し込んでしまったので、どれぐらい時間が経ったのかが気になったのだ。
〈何をしている?〉
〈いや、ちよっと時間をな……〉
〈そんなもの、確認するまでもあるまい〉
〈お前、わかるのか?〉
アレスは思わず振り返り、足元に視線を向けた。
〈ここで無為に時間を潰すぐらいなら、待ち合わせ場所で待てばよいだけのこと。いちいち時間を気に掛ける必要もあるまい〉
〈それが嫌だから気にしているんだ!〉
〈では好きにしろ。我は先に行く〉
ロアは可愛らしく足を小刻みに動かし、我侭な同行者を置き去りにした。
「ったく……待ち合わせ場所も知らないくせに、どこへ行くつもりだ……」
アレスは大きな溜息をついた。目に余る言動が今後も続くのかと思うと、正直気が滅入る。それでも父親の忘れ形見であるロアを手放すわけにもいかず、不安と期待が微妙なバランスを保った状態で今後も接し続けるしかなかった。
「ん、あれは……」
前方で時刻表を見つめている人物の横顔に心当たりがあった。
ルヴァロフの一番弟子、アルテイラだ。
見間違いでなければ、処刑に関する話を聞けるまたとない機会である。
その強烈な誘惑にいてもたってもいられず、アレスが駆け出そうとすると、目の前を怪しげな宗教信者の一団が横切った。二百名はくだらない大所帯で、アレスは前進を阻まれただけでなく、視界をも完全に遮断されてしまった。
やがて一団が通過して行動の自由を回復すると、アルテイラと思しき人物の姿を捜した。だが、時すでに遅く、周囲を見回してもそれらしき人物を見つけることはできなかった。
「くそっ!!」
千載一遇の機会を逃し、アレスは周囲を憚らずに感情を吐き出した。そのおかげでほどなく冷静さを取り戻し、ある疑問の芽が芽生えていたことを自覚した。
「王宮にいるはずのアルテイラさんがどうしてこんな所に……」