魔王の片鱗
「そういきりたつな、ヘルマイオス」
「黙れ! 低俗な生物如きが気安く我が名を呼ぶな! 我が実体化したら、そこの人間もろとも殺してやるぞ!!」
ヘルマイオスは鼻息荒く恫喝を加えた。その肉体は脛辺りまで現れており、全身の実体化が終わるのも時間の問題である。
「やはりわからぬか……」
呆れた様子のロアは、渋々人間の姿に変身した。アレスと同じぐらいの身長で細身。髪は肩口まで伸び、後姿は女性のそれと見紛う。
「お前、人間の姿になれるのか?」
「当然だ。我を見くびるな」
薄く茶色がかった黒髪をかきあげながら、ロアは横目でアレスを見た。女性と見紛う美しい顔立ちであるが、目つきの鋭さは尋常ではなく、凍てつく漆黒の瞳は凄まじい殺気を放っている。一瞬背筋が寒くなったアレスであったが、それでも動物の姿よりも親近感を覚えるのは、やはり人間の姿であるからだろう。
ロアがなぜこのタイミングで変身したのか、アレスにはその理由がわからない。だが、その姿を見たヘルマイオスは急におとなしくなり、ただじっとロアの顔を見つめている。やがて目の前の人間の正体に気付くと、ヘルマイオスは自ら膝を突いた。
「……まさか、このような所でロア様と再会できるとは……このヘルマイオス、感激の極みでございます」
「うむ、我も嬉しいぞ、ヘルマイオス」
そう答えたロアは威厳と覇気に満ちており、アレスが普段見ている彼とは随分印象が違っている。
「ロア様ほどのお方が、なぜあのようなお姿に……?」
「この世界では、我のように力が強い悪魔ほど真の姿を維持することは難しい。だから普段は生命力の消費を最小限に抑えるために小動物の姿でいるのだ」
「そうでしたか……先程は万死に値する無礼を働き、申し訳ございませんでした」
「気にするな。あの姿では仕方のないことだ」
驚くほど寛容に、ロアはヘルマイオスの振る舞いを許した。
「再会ついでに一つ頼みがあるのだが、聞いてくれるか?」
「はっ、なんなりと……」
「我は理由あってこやつと行動を共にしているのだが、貴様の力を貸してやってはくれぬか?」
「ロア様の命なれば、断る理由はございません。ただ、いかにロア様の命と言えども――」
「わかっておる。代償だな」
「はい」
完全にヘルマイオスを掌握し、ロアはゆっくりと振り向いた。
「無論、その覚悟はできているな、小僧」
「当然だ。ただで力を得ようなんて思っちゃいない」
アレスは力強く答えた。頷いて、ロアは再び正面に視線を移す。
「ということだ。貴様の望む代償を言え」
「我が望みは、そやつの目。その右目を頂きとうございます」
ヘルマイオスが代償の内容を告げると、アレスは思わず右目を押さえた。
「驚くことはあるまい。ヘルマイオスの力は、四位や五位の比ではない。目の一つぐらい安いものではないか」
ロアは平然と言い放った。動物の姿のロアからは想像もできない、全く異質な恐怖を感じる。
「たしかにそうだが、まさか目とは……」
低位悪魔の代償は血だったが、さすが第三位ともなると代償も違う。回復不可能な物を要求してくることを全く想定していなかったのだから、アレスの覚悟が甚だ甘かったと言うしかない。
「フッ、大見得を切った割には情けない様ではないか、小僧」
すっかり色を失ったアレスを見て、ロアは鼻で笑った。
「うるさい! 目でも何でも持っていけ! 俺は何が何でも契約を結ぶ!!」
アレスは自分を奮い立たせ、目の前の第三位悪魔を直視した。
たかが目一つでこれほどうろたえ、見え透いた強がりで自分を偽らなければまともに話もできない。そんなアレスの姿を見たヘルマイオスは、あまりの滑稽さに込み上げてくる笑いを抑えることができない。
「ハハハハッ!! 案ずることはないぞ、人間。何もお前の目を刳り貫いて食するわけではない。目を欲するのは、お前の目を通してこの世界を見たいだけだ。その際には右目の視力を失うことになるが、それも一時的なこと。そう大した問題ではあるまい」
「……わかった。代償を払おう」
アレスが了承すると、右目に鋭い痛みが走った。アレスは右目を押さえて蹲り、部屋に響き渡るほどの奇声を上げた。目の奥を抉るような激痛は数秒間続き、やがてそれが収まると、アレスは静かに立ち上がった。右目の視力が失われていることを認識しながら、手近にあった別の召喚儀式用の鏡を手にして恐る恐る覗くと、右目の瞳が黒から深紅色へと変化していた。
「これは一体……」
「それこそが契約の証。今この時より、我が力は貴様のものとなった。我を欲する時は、遠慮なく召喚するがよい……人間よ、ロア様を頼んだぞ」
意味深な言葉を言い残し、ヘルマイオスの姿は音もなく消滅した。すると、アレスの右目の視力は回復し、普段どおりの視界を取り戻した。
「これで貴様も少しはましになったな」
「今回ばかりはお前に感謝しなくてはいけないな。第三位悪魔に対する絶大な影響力……正直、驚いたぜ」
「ヘルマイオスは、魔界における我が軍の一員だ。だから我が命に従っただけで、全ての悪魔が我に従順なわけではない。敵対する者であれば、我と共にいるという理由だけで貴様は容赦なく殺される」
「つまりお前の存在は、俺にとっては諸刃の剣というわけか……」
「そういうことだ。今回手を貸したのは、相手がヘルマイオスだったからに過ぎない。我と敵対する者の方が圧倒的に多いのだから、今後、契約は慎重にやることだ。今回のような無様な交渉では、命がいくつあっても足りんぞ」
「あぁ、肝に銘じておく」
そう答えたアレスの心中は複雑だった。
結果的に契約は成功したものの、それはロアの力あってのものだ。もし一人で儀式を行っていれば、間違いなく殺されていた。彼の言葉を借りれば、この一年、まったく成長していないということを無様に露呈したに過ぎない。
そして、自身に問う。
俺はこの一年、一体何をしてきたのだろうか、と――