契約儀式
「ゴホッ、ゴホッ……こりゃひどいな……」
地下一階を経由して地下二階へ辿り着いたアレスは、空気を吸って咳き込んだ。ただでさえ密閉された換気の悪い部屋である上に、約一年、人の出入りがなかったこともあり、埃が積もり、空気が悪い。その上、これまで召喚儀式で用いてきた生贄の血の臭いがほのかに漂い、何とも言えない不快さを醸し出している。
「我は快適だ。鼻腔を擽るこの臭いがたまらん」
ロアは鼻を突き出し、いつになく上機嫌である。
こんな居心地の悪い空間が快適だという神経を、アレスは到底理解できないが、本来彼がいるべき場所である魔界は、こんな不快な環境なのだろうかと思いを馳せずにはいられない。
「準備にかかる。邪魔するなよ」
「この一年の貴様の成長、とくと見せてもらうぞ」
ロアに試されているようであまりいい気はしないが、アレスは早速儀式の準備に取り掛かった。
本来なら魔法陣の製作から入るのだが、部屋の中央には、ルヴァロフが描いた魔法陣がそのまま残っている。普通、一度使用すれば消滅するものらしいのだが、どういう仕組みなのか、ここではずっと同じ魔法陣を用いている。
「魔法陣は大丈夫だな。次は――」
儀式に必要な道具を揃えなければいけない。
ラムド式悪魔契約儀式に必要な道具は、剣、蝋燭、漆黒の法衣、香炉、そして生贄の鶏だ。生贄の鶏以外は一通り揃っているはずなので、きちんと整理された棚を順に調べ、一つ一つ確認しながら手にしていく。
「よし、全部あるな」
全ての道具を揃えたアレスは、いよいよ悪魔召喚儀式に入る。
儀式の手順としては、まず漆黒の法衣に着替える。これは悪魔を象徴する色である黒を身に纏うことで、悪魔との交渉権を得るためだと言われている。
次に、蝋燭に火をつけ、香を焚く。悪魔ごとに好みの香りがあり、選択を間違えると悪魔は召喚に応じないという。
こうして儀式の場を整え終わると、今度は剣と鶏を手に持ち、鶏の首を落とす。その滴り落ちる血を魔法陣に十分に吸わせた後、今度はその剣で自分の指を傷つけ、魔法陣に自らの名と召喚記号を刻む。
召喚記号とは、悪魔召喚の際に必要な記号の総称である。悪魔は固有に召喚記号を持ち、言葉、数字、記号、模様など、種類は様々。必要な文字数が一文字の者がいれば、十や二十の者もおり、中には複数個必要な者もいる。これをあてずっぽうで当てることはまず不可能であり、正確な知識を持って魔法陣に刻まなければ、どんな優秀な悪魔召喚師であっても、望む悪魔を召喚することはできない。
以上の手順を踏み、動物の骨を削ったという白い粉で描かれた魔法陣が赤く染まれば、無事準備完了。後は呪文を詠唱して悪魔を召喚するだけである。
「我が名はアレス。神に背きし不逞の徒にして、悪魔との契約を求める者なり。闇の儀式にて欲するは、悪魔ヘルマイオス。かの者、我が声が聞こえるならば、我が召喚に応え、その姿をここに現せ!」
召喚呪文を唱え終えたアレスは、緊張の面持ちで魔法陣を注視する。十秒、二十秒と時間が過ぎていく中で、魔法陣に変化はない。失敗かと思ったその時、魔法陣が輝き、異形の姿が浮かび上がってきた。それは頭部から徐々に現れ、腰の辺りで止まった。
魔法陣から上半身だけ実体化した悪魔――第三位第一種悪魔ヘルマイオスは、口からどす黒い瘴気を吐きながら、ぎらつく瞳の焦点をアレスに合わせた。
「……我を呼び出したのは、貴様か?」
「そうだ」
強烈な威圧感の中、アレスは毅然と答えた。その脳裏には、父ルヴァロフの言葉が浮かぶ。
悪魔との交渉において、卑屈になったり、弱みを見せたりすれば、そこをつけこまれる。悪魔に心の隙を見せることは、心臓を剥き出しで晒すようなものだ――
悪魔を圧倒するぐらいの気構えで交渉に臨まなければ、死を覚悟しなければならないと戒めた言葉であるが、実践するのは存外難しい。
下位悪魔ならまだしも、上位悪魔ともなれば、人間など地面を這う蟻のごとしであり、いつでも容易に踏み潰せる。そんな相手に対し、揺るがぬ精神状態を維持して駆け引きに勝利するのは容易ではない。だからこそ、気持ちだけは絶対に負けてはいけないのであり、そこに契約成功の重要な要因が内包されていることをしっかり認識しなければならない。
「まずは問おう。我に何用だ?」
ヘルマイオスは低くどすの利いた声で尋ねた。閉鎖的な空間であるため、その声は反響し、実際の声以上に凄みを増している。
「俺と、契約を結んで欲しい」
アレスは少し声を震わせながらも、しっかりとした口調で答えた。
これまで第五位悪魔としか契約をしたことのないアレスにとって、契約召喚した悪魔に召喚理由を問われることは初めての経験だった。
第五位や第六位の下位悪魔の多くは、血や生気を勝手に奪っていくので、言語でのコミュニケーションがなくとも契約に支障はない。だが、第三位ともなると、契約儀式も命懸けである。気に障る言動をすれば、その場で命を奪われることもありうるのだから。
「ほぉ、契約か。貴様が我が力を欲するのは、他人の財を奪い取るためか? それとも気に入らない奴を殺すためか?」
随分偏った考え方であるが、相手は悪魔。冷静に考えれば、実に悪魔らしい思考回路だと、アレスは得心した。その上でどう交渉するのが最善かを考え、納得のいく回答を口の端に乗せる。
「そのどちらでもない。俺は、ただ人を助けたい」
「人を助ける、だと……?」
「そうだ。理不尽に人を殺したり苦しめたりする輩から、多くの人を助けたい。そのためにあんたの力が欲しい」
アレスは嘘偽りない本心で訴えかけた。それがヘルマイオスの意に反する内容と知りながらも、自分の信念を貫き通す。
「破壊と虐殺を好む我にとって、その願いは不愉快の極みだ。貴様、死にたいのか?」
ヘルマイオスは目を細め、静かに恫喝した。
進むか引くか、アレスは重大な決断を強いられていた。額には汗が滲み、喉の渇きを抑えるために何度も唾を飲み込む。
交渉失敗の先に行き着くところは、間違いなく死である。今ならまだ引くことができるかもしれないが、今後のことを考えれば、ヘルマイオスの力は必要不可欠。易々と引き下がるわけにもいかない。
「俺は、人を守るため、生かすために力が欲しい。頼む、俺に力を貸してくれ!」
「まだそのような戯言を言うか。いいだろう。望みどおり、貴様には死をくれてやる」
「待ってくれ! 俺の話を――」
「黙れ、人間! 貴様は我が怒りを買ったのだ! 残された僅かな時間、逃れられぬ死の恐怖に打ち震えるがよいわ!!」
ヘルマイオスは一方的に交渉を終わらせると、両手を握り締めて低く苦しげな声を上げ始めた。
契約交渉に失敗し、ヘルマイオスが全身の実体化を始めたのだと気付いたアレスは、いよいよ状況が最悪を極めんとしていることを認識した。
もしヘルマイオスが魔法陣から出てこようものなら、この場で命を絶たれるだけでなく、不完全召喚者の烙印を押され、王都にも甚大な被害が出るに違いない。そうとわかっていながら、暴走状態のヘルマイオスを止める術はない。
窮地に立たされたアレスは死を覚悟し、無意識に一歩、二歩と後退さる。その時、ひょこひょこと歩み出できたロアが、二人の間に割って入った。