密偵
約二時間の仮眠を終えたアレスは、ロアを伴って屋敷を出た。雨は上がっていたが、空を覆う雲は厚く、空気はまだ僅かな湿り気を帯びている。とりわけ急ぐ必要もなく、散歩がてら、のんびりと駅への道を歩いていると、不意にロアが声を掛けてきた。
「気付いているか、小僧」
「あぁ。本人はうまくやっているつもりなんだろうが、全くなっちゃいない」
アレスは足を止めることなく答えた。
ロアに指摘されるまでもなく、尾行している男の存在に早くから気付いており、駅へと向かう本来のルートを外し、慎重に後方の様子を窺っていた。
やがて道幅が狭まり、路地が増えてきたところでアレスが誘いをかける。
「そろそろやるぞ」
「しくじるな」
「あぁ。いくぞ……一、二、三!!」
呼吸を合わせ、アレスとロアは細い路地に飛び込んだ。
見失うまいと、男は慌てて走り出す。そして角を曲がると、腕組みしたアレスが待ち構えていた。
「俺に何か用か?」
「あ、いや、その……」
男は返事に困り、踵を返して立ち去ろうとする。
「待てよ」
アレスが男の肩に手を掛けた瞬間、男はその手を取って捻りあげ、素早く背後に回った。そして間髪入れずにアレスの首に腕を回し、行動の自由を奪った。
「何の真似だ」
「別にどうということはありません。黙って見逃せばよし。さもなくば――」
「ここで殺す、ってか」
言い終わると同時にアレスが頭を横にずらすと、ロアが男の顔面に飛びついた。思念伝達による見事な連携だ。
「な、なんだ! こいつ!?」
男が必死にロアを引き剥がそうとする隙を突いて、アレスは肘うちを食らわせて男の手を脱し、腹部に拳をみまった。
男は膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れた。
ロアは素早く飛び退いて難を逃れている。
「さて、どうしたものかな」
アレスは男の処遇に頭を悩ませていた。連れ歩くのは煩わしいし、公安に突き出せば、男の証言次第ではこちらが加害者にされかねないからだ。
「悩むことはあるまい。ここで吐かせてしまえ」
「おいおい、俺に拷問でもしろってか?」
「口を割らなければ、それも当然だ。ただでさえ、警戒すべき人物が多いのだ。手ぬるいことをしていれば、いずれその身に返ってくるぞ」
ロアは容赦ない非情さを要求した。
できればそんなことはしたくないと思いながら、アレスは男の体を起こし、頬を数度叩いた。
「おい、起きろ!」
「……ん、んん……」
「気がついたか?」
「ひ、ひぃ!!」
アレスの顔を見るなり、男は顔を引きつらせてすぐに逃げ出そうとした。だが、襟をしっかりと掴まれていてはそれも叶わない。
「大丈夫だ。おとなしく答えれば、何もしない」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、約束する。ただし、正直に答えないようなら、俺は容赦なくお前を殺す」
その気はなくとも、脅し文句としてこれ以上のものはない。
迫り来る死の恐怖は、男の肝を冷やし、顔から血の気を奪った。
「……わ、わかりました……わかりましたから、命だけは助けてください」
男は土下座して命乞いをした。
「まず、お前は誰だ。誰に尾行を頼まれた」
「わ、私は……密偵のモルディルといいます」
「密偵……? お前がか……?」
「は、はい……」
モルディルは声を震わせながら答えた。
素人以下の拙い尾行、素性を簡単に口にするプロ意識の欠如。密偵というのは嘘で、実際は小銭稼ぎの何でも屋といったところだろう。こんな奴を雇う人物などたかがしれているが、それが誰なのか、はっきりさせておかなければならない。
「で、誰だ。お前に尾行を頼んだ奴は」
アレスは口調を強めて詰め寄った。モルディルはひどく怯え、目は激しく泳いでいる。身の危険を感じながらも、依頼者の名を口にすることへの抵抗があるようだ。
「さっさと言え! 本当に殺すぞ!!」
とどめとばかりに怒鳴りつけると、モルディルはついに観念した。
「は、はい……こ、国王陛下です」
「国王だと?」
「はい。私に依頼した男は、確かにそう言いました。陛下直々の依頼であると……そして、アレス=フォウルバルトは天下の大罪人の息子。罪は免れたが、何をしでかすかわからない。だからその行動を常に監視し、逐一報告するようにと……」
「なるほどな……」
アレスの反応は、実に冷めたものだった。
監視や尾行は覚悟しており、今更そんなことを知ったところで微塵も驚くことはない。ただ、どうせならもっと有能な人物を監視につけてほしかったものだと思う余裕さえあった。
「もう行っていいぞ」
アレスは手で追い払う仕草をして、自分もその場から立ち去ろうとした。すると、モルディルがもじもじしながら話し掛けてきた。
「あのぉ……」
「なんだ」
「これからも、報告を続けていいですか?」
「はぁ……?」
アレスは素っ頓狂な声を上げた。なんとも間の抜けた質問だが、尾行の失敗が国王の耳に入るのが怖いのだろう。
尾行がばれたことを伏せておくことを条件に、アレスは頼みを聞き入れた。モルディルが自分の口で不手際をばらすはずもないが、釘を刺しておく意味でも条件として提示するのは当然の判断であった。
モルディルは何度も頭を下げて、駆け足で姿を消した。
「いいのか、あのまま帰して」
「これでいい。お互い何もなかったように振舞うのが、一番都合がいいんだ。むしろ気になるのは、誰が奴に命じたかだ」
「国王ではないのか?」
「奴の言葉どおりならな」
「その口振り……貴様はルヴァロフの処刑はラドニスの本意ではないと考えているのだな?」
「あぁ。処刑の時は頭に血が上っていて冷静に物事を考えられなかったが、今にして思えば、ラドニスが本当に処刑を命じた張本人であるなら、国民の前で俺へ罪が及ばないと明言する必要はないし、尾行をつけるような回りくどいことをする必要もない。つまり、俺に尾行をつけたのは、奴の名を利用して俺の行動を監視したがっている輩の仕業だ」
アレスは無能な密偵に感謝した。彼のおかげで処刑前後の事象を冷静に整理することができ、その背景がおぼろげながらに見えてきていた。
「目星はついているのか?」
「まぁな。確たる証拠はないが、他に思い浮かぶ奴もいない」
「誰だ。もったいぶらずに教えろ」
ロアが催促すると、アレスは一呼吸置いてその名を口にした。
「宰相のノーラだ」
「フッ、あの女狐か……」
予想の範疇を超えない人物の名は、ロアを落胆させると同時に得心もさせた。
元々先王の妾であった人物だが、寵愛を受けていることをいいことに先王を裏から操っていたとの噂がある。その真偽はともかく、事実として、先王は時折理解に苦しむ施策や命令を下したことがあった。心ある忠臣たちはその度にノーラを疑ってかかったが、それを立証するには至らなかった。
その後、先王はノーラに宰相の地位を与え、彼女をますます寵愛するようになった。次第に忠臣たちの言葉に耳を貸さなくなり、挙句の果てには、ノーラの言葉だけを信じるようになってしまった。
そんな折、唯一彼女に対抗しうるであろう人物が、絶大な推挙を受けて王宮に招かれた。
誰あろう、ルヴァロフ=フォウルバルトである。
宮廷魔術師に就任するや、彼は国内外で次々と功績をあげ、先王の信頼を勝ち取っていった。
それを快く思わないノーラは、事あるごとにルヴァロフと対立したが、心ある臣下たちの多くは彼を支持し、いつしか反ノーラの旗頭たる存在となっていた。
やがて先王は病死し、ラドニスが国王の地位に就いた。
ラドニスは先王と違い、ノーラだけを特別扱いしなかったが、宰相の地位を剥奪することもなかった。
ルヴァロフとノーラの対立は水面下でなおも続いていたが、それもルヴァロフの処刑によって終止符が打たれた。
これにより発言力を取り戻したノーラは、事実上国内ナンバーツーの実力者として今日も王宮で権力を振るっている。
「まぁ遅かれ早かれ、貴様も一度は顔を合わせることになるだろう。その時までに確たる証拠とやらが見つかっていればいいがな……」