邂逅
朝食を済ませて自室に戻ったアレスは、ベッドに大の字になった。フレイの機転のおかげで、朝食の席で寝てしまうという醜態を見せずには済んだ。だが、一杯の水の効果はそう長くは持たないらしく、撃退したはずの睡魔が再度アレスを襲い始めていた。
「……なぁ、ロア。ずっと考えていたんだが、一連の事件の発端は、親父の死、なのか……?」
アレスは虚ろな目で天井を見つめながら、どうにも気だるそうに尋ねた。
「微妙なところだな。聖堂会や軍事学校の事件は、直接的にはあやつの死は関係してはいまい。だが、あやつの死の直後という絶妙の好機に事件が起きたことを考えると、無関係だと断言することもできぬ」
「だよな……でもそう考えると、ケフィが真っ先に狙われなかったことが……腑に落ちない。親父の死は誰もが知り得たはずで……それを知れば……当然ケフィを狙うのが筋じゃないか……?」
「その通りだ。ところが犯人は小娘を狙わず、わざわざ他の対象者を捜し出すことから始め、それが判明するや、即座に殺害した」
「つまり……犯人は、ケフィに手を出せない……もしくは、手を出す必要がない……ということなのか……」
「そうかもしれんな。貴様、その手の輩に心当たりはないのか?」
「……」
「おい、小僧、聞いているのか?」
不審に思ったロアがベッドに飛び上がると、アレスは寝息を立てて眠っていた。
「気持ちよさそうに寝ておるわ……」
悪戯気分で前足を顔の上に置くと、アレスはそれを無意識に手で払った。
「こやつ、起きているのではあるまいな」
ロアは訝しがってもう一度同じ行為をしてみた。今度は何の反応もない。
「つまらん……」
早々に一人遊びに飽き、ロアは窓の外に視線を移した。冬の訪れを間近に控えた冷たい雨が、しとしとと降っている。
「あやつとの出会いも、こんな雨の日だったか……」
ロアは柄にもなく感慨に耽り、十数年前に思いを馳せた。
――魔界での闘争に敗れ、人間界に堕とされた我の前に現れた一人の男。年の頃は三十半ばぐらいだろうか。体躯は頑強にして表情は晴れ渡る空のように爽やか。我が忌み嫌う満面の笑顔の持ち主だった。
「大丈夫か?」
冷たい雨の中、男は白い息を吐きながらそう言った。
傷つき力を失っているとはいえ、人間に情けをかけられるなど、我の矜持が許すはずもない。我はすかさず噛みついた。
「黙れ、人間……」
「ほぉ、まだ虚勢を張る元気はあるようだな。お前、悪魔だろ? 小さな動物に……そう、猫とかに変身はできないのか?」
「無論、可能だ……だが、なぜそのようなことを訊く」
「その姿は目立ちすぎる。傷が癒えるまで俺が面倒みてやるから、さっさと変身しろ」
「誰が人間如きに……クッ!!」
興奮したのが傷に響いたのだろう。我は小さく呻き声を上げた。
「お前が人間に助けられることを快く思っていないのはわかっているつもりだ。だが、その怪我ではどうすることもできまい。ここは騙されたと思って俺についてこい」
我はしばらく考えた末、猫に似た小動物に姿を変えた。猫の姿にならなかったのは、下級動物の姿をとることをよしとしなかったからだ。
「……いいだろう。貴様の提案を受けてやる。だが、これだけは覚えておけ。我の不況を買えば、即座に死をくれてやるからな」
「あぁ、その時は好きにやってくれ」
男は笑いながらそう答え、我を抱きかかえた。
こうして我はその男の世話になることとなった。
一緒に生活するようになって、わかったことが幾つかあった。
男が悪魔召喚師であること。男の妻は他界し、幼い男児が一人いること。
ある日、我は尋ねた。
「貴様、なぜ悪魔召喚師などやっている」
「弱い人たちを助けるためだ」
男は即答した。
私利私欲が目的でないことに我は驚いた。
「貴様は他人のために自分を犠牲にしているというのか」
「犠牲……? そんなこと、これっぽちも思っちゃいない。むしろ天職だと思っているぐらいさ」
「馬鹿な。他人のために自分の生命をすり減らすことが天職なはずがあるまい」
「悪魔のお前にはわからないかもしれないが、人間の中にはたまにいるのさ。自分よりも他人を大事にしたがる俺のような変人がな」
自分を変人と卑下しながら、男の顔は実に誇らしげだった。
その時、我は思った。
この男なら、我を魔界へ帰すことができるかもしれないと。
その日を境に、我は悪魔に関する知識を男に叩き込んだ。男は歓喜し、我の持つ知識を余すことなく吸収していった。
やがてその名を轟かせ始めた男は、政府の要職に抜擢され、この国を支える要人として活躍の場を広げていった。そして比類なき最強の悪魔召喚師として確固たる地位を築き、男が掲げた生涯目標である『弱者救済』も本格的に体を成していった。
外には他国に睨みを利かし、内には民衆の代弁者として国王に物申す存在として、誰もが男を英雄視し始めた。男の人気と力はまさに絶頂を迎え、ここからどういった展開を見せるのか、我は密かに楽しみにしていた。
そんなある日、運命の歯車が突然狂いだした。
男は国家に弓引く大逆人として逮捕され、処刑されることとなったのだ。
我は思った。人間どもの薄情さ、変わり身の早さは、悪魔以上ではないかと。こんな連中のために男は身を粉にして生きてきたのかと思うと、さすがの我も憤りを感じずにはいられなかった。
そして、その時はやってきた。死神は音も立てずに忍び寄り、熟した果実をもぎ取るが如くあっさりと、男の命を奪っていった――
「最強の悪魔召喚師などと持て囃されながら、あの無様な最期はなんだ。我を遺して自分だけ逝ってしまいおって……しかも貴様の遺児は想像以上の体たらく。とても貴様の血を引いておるとは思えんぞ」
ロアは隣ですやすやと眠るアレスに目を向けた。
「だがな、こやつには貴様にはない何かを感じるのだ。それが何なのか、我もはっきりとはわからぬが、貴様もそれを見抜いてこやつに我を託したのか……我が友ルヴァロフよ……」
ロアはもう一度、窓の外に目を向けた。
雨はまだ降り続き、空を覆う雲は、彼の心中を映し出す鏡のごとく、厚くどこまでも広がりを見せている。
(この雲がいずれ晴れるように、我の心を覆う暗雲が取り除かれる日は来るのだろうか……)
ふとそう思ったロアを叱咤するように、雷鳴が轟いた。
「フッ、魔王たる我がなんと女々しいことを……」
我に返ったロアは、この数分の言動を自嘲すると、アレスの枕元に蹲り、程なく心地よい眠りに落ちていった。