召喚
背中とひざ裏に腕を回し、アルジャーノを引き寄せながら抱き上げると、イセリナはゆっくりとアレスたちの元に戻ってきた。
「容体は?」
「すぐにでも医務室へ運びたいところですが、ひとまずここで止血を施します。手伝っていただけますか、ケフィさん」
「はい」
イセリナの要請を受け、ケフィも作業に加わる。
「おやおや。そんな奴、放っておけばいいのに」
呆れた様子でフォルセウスが言うと、アレスは勢いよく振り返り、にやついた顔を激しく睨みつけた。すかさず、ロアが注意を喚起する。
〈あの小僧を軽くあしらった相手だ。油断するな〉
〈あぁ、わかっている〉
アレスは数歩前に出ると、斜め下前方に向けて右掌を突き出した。
「待たせたな。解陣――」
力強く言葉を発すると、右手が赤く発光し、半径一メートルほどの円形模様が浮かび上がり、程なく地面に定着した。
「魔法陣か……!」
フォルセウスは警戒を強め、初めて身構えた。
「さっきまでの余裕はどうした。かかってこないのか?」
にやりと笑みを浮かべ、アレスが不敵な挑発をした次の瞬間、魔法陣は眩い輝きを放ち、直上に一体の悪魔を召喚した。二枚の翼を有し、人間の女性と酷似した漆黒の悪魔――第五位二種悪魔ヘカトは、目を閉じ、胸の前で両腕を交差した姿で現れた。
「まさか、悪魔召喚師とはねぇ……こりゃ驚いた」
「本当に驚くのはこれからだ。目覚めよ、ヘカト!」
アレスの命に反応し、ヘカトはゆっくりと目を開き、妖艶に光る紅い瞳で眼前の敵を捉えた。目が合ったフォルセウスは、全身が吸い込まれそうな不思議な感覚を覚えた。
「悪魔にしておくにはもったいない美貌だ。ぜひ別の場所でお相手してもらいたいもんだねぇ」
「フッ、そんなことを言っていられるのも今のうちだ。直にヘカトの恐ろしさを知ることになる」
その直後、自分の意思とは無関係に、フォルセウスの右足が一歩踏み出された。
「なんだ、これは……」
踏み止まろうとしても、歩みは止まらない。別の意思に支配された肉体は、一歩、また一歩と前進を続ける。
「あの目か……」
視線を断ち切れば肉体の自由を回復できると踏み、フォルセウスは迷わず目を閉じた。だが、瞼の裏にはヘカトの紅い瞳がはっきりと映り、瞬きもせずにじっとこちらを見つめている。
「無駄だ。一度目を見たら最後、ヘカトの意思には逆らえない。お前は何の抵抗もできないまま、俺の手に落ちる」
その言葉は嘘ではなく、強い意思で抵抗しても肉体の制御を奪還できない。目を閉じても何の意味もないと判断し、フォルセウスはすぐに目を見開いた。
「なかなか面白い能力だねぇ。だが、こんなのは所詮子供騙し。俺には通じないね……ハァッッッ!!!」
大気を震わす凄まじい気合は、ヘカトの呪縛を瞬時に解除した。
「馬鹿な! 気合だけで」
「この程度で捕らえたつもりなら、俺も随分甘く見られたもんだ」
踊るようなステップで足の感覚を確認した後、フォルセウスは少し後退して自分の間合いを確保した。この間も、アレスの挙動には細心の注意を払っている。
「ならば!!」
アレスはヘカトを送還し、素早く別の悪魔を召喚した。手足が短く、鰐のような顔をした三頭身の悪魔――第五位三種悪魔ガルベルは、全く緊張感のない緩慢な動きで床に腰をおろした。
「何だ、それは」
ガルベルの風貌の珍妙さに、フォルセウスは呆れ返った。
「れっきとした悪魔だ。なめたら痛い目を見るぞ」
アレスは不敵な笑みを浮かべると、無防備なまま、じわじわと距離を詰めていく。
フォルセウスは端からガルベルの存在を無視し、アレスにのみ注意を払っている。その心中を見透かしたように、アレスはふてぶてしく言葉を放つ。
「いいのか、あいつを無視して」
殊更に注意を向けさせようとする言葉が逆に怪しいと考えたフォルセウスは、僅かな時間で一つの結論に至った。
程なく攻撃可能な距離まで詰めたアレスは、歩みを止めて対峙する。
「お前の考えを当ててやろうか? あの悪魔はただのはったり。意識を乱すための囮に過ぎない。どうだ、図星だろう?」
「それがどうした。したり顔で言うようなことじゃねぇだろ」
「ところがそうでもなくてな。俺は今から一つの予言をする。信じるも信じないもお前の勝手だが」
「予言だと……?」
フォルセウスは訝しげな表情を浮かべた。
「お前は俺に一撃も食らわすことなく敗北する――どうだ、面白い予言だろ?」
「フッ、何を言うかと思えば……そんな予言なら俺でもできるぜ。あんたは俺に完敗する――これでどうだ」
「自信過剰なお前らしいな。そこまで自信があるなら、かかってきたらどうだ。どうせ俺の予言なんか信じてないんだろ?」
「そんな戯言、信じる馬鹿がどこにいる! あんたの命運はここで尽きるんだよ! この俺の手でな!!」
挑発に乗って攻撃を仕掛けようとした瞬間、誰かに足首を掴まれ、後方に引っ張られた。本来なら苦もなく逃れられる弱々しい力だが、前方に踏み出した直後の軸足を狙われたのが不運だった。完全無欠を自負する殺人鬼も、体のバランスを崩してはつんのめるしかない。その時、振り返った先に見えたのは、皆殺しにしたはずの信者の一人だった。
「馬鹿な……なぜ生きている……」
その背後に残る生々しい血の軌跡が、彼の執念を物語っていた。何時息絶えてもおかしくない体で床を這って忍び寄り、最後の力を振り絞ってささやかな報復を果たしたのだ。
「――どこを見ている」
意識が逸れた一瞬を逃さず、背後に回りこんだアレスは、指を組んで高く構えた両手に渾身の力を籠めて振り下ろした。何もしなくても倒れる予定だったフォルセウスの肉体は、背後からの不意打ちという加速を得て、床に激しく叩きつけられた。
打ちつけた顔面と背中に走る鈍い痛みに耐えながら、両手を突いて急いで起き上がろうとすると、今度は後頭部に衝撃が走った。アレスが放った踵落しが決まったのだ。
アルジャーノとの一戦を間近で見ていたアレスは、一切の容赦をしなかった。一度ペースを持っていかれたら彼の二の舞になるとわかっていたから、たとえ卑怯者と罵られようとも隙を見つけたら徹底的に叩くという姿勢を貫いたのである。
無様に突っ伏したフォルセウスを仰向けにすると、アレスはその上に跨った。
「これまでだな」
喉元に手刀を押し当て、アレスは勝敗の帰趨が決したことを告げた。
「あーあ、負けた負けた……でも、あんたも案外卑怯だねぇ……」
「なんとでも言え。ガルベルを甘く見たことがお前の敗因だ」
「ガルベル……? あぁ、あのお座り悪魔か……一体どんな能力であんたに貢献したっていうんだ」
「さぁな。手の内をばらすほど、俺は馬鹿じゃない」
「違いねぇ。そんな馬鹿はいねぇよな、ハハハハハッ!!」
質問した自分自身を嘲笑うかのように、フォルセウスは大笑いした。命運を握られている場面であるにも拘らず、緊張感がまるでなく、どこか余裕さえ感じられる。
「俺は何も話さないが、お前には話してもらうぞ。ここを襲った本当の目的をな」
「目的ねぇ……俺としては、あんたと楽しめたことが一番の収穫だったわけだが……まぁ、すぐにわかるさ。もう目的は達しただろうしな」
「どういう意味だ! 目的とはなんだ!」
嫌な予感がしたアレスは、胸倉を掴んで洗い浚い吐かせようとした。その時、地下支部から繋がる通路から、聖堂会の女性職員が駆け込んできた。