【第38話】レイヤーの剥離と再結合
編集室の中は、外の霧の荒野が嘘のように無機質な静寂に包まれていた。
宙に浮かぶ幾枚もの半透明のウィンドウには、見たこともない文字や、絶えず変動するグラフが映し出されている。ミラはその一つに指を触れようとしたが、指先が触れる直前でパチリと火花が散り、拒絶された。
「……触るな。ミラの魔力特性はここでは『未定義の干渉』として処理される。最悪、指のデータがバグるぞ」
オペレーション・シートに深く腰掛けたレイが、視線を動かさずに警告した。彼の耳元では、現実の音に混じって、透き通った無機質な少女の声が響いている。
『直人様、ミラの魔力波形を遮断しました。現在の拠点セキュリティレベルは「最高(AA)」を維持。ですが、外部の論理隔離壁の接近により、演算リソースの32パーセントがノイズ相殺に割かれています』
レイの右足は、部屋の床から伸びる銀色のケーブル状の構造体と半ば融合している。そこを通じて、レイの脳はこの拠点全体の演算機能、そしてARIAの処理系と直結していた。
「……レイ。ガルドは大丈夫なのか!?。あいつ、さっきから色が透けたり濃くなったりを繰り返しているが」
ライオネルが、光り輝く台座――「パレット」の上で横たわる相棒を案じて声を上げる。ガルドの全身には、レイが走らせるペンに合わせて、細かなグリッド線が投影されていた。
『個体名「ガルド・バラン」の状況を報告します。損傷率88パーセント。存在確率が閾値を下回っています。直人様、パッチデータの流し込み準備が完了しました』
「……重症だ。ガルドの存在基盤が、管理者の消去プログラムによってズタズタに引き裂かれてる。今は、俺のペンで無理やり周辺のゴミデータをパテ代わりに詰め込んで、形だけを維持してる状態だ」
レイは空中に浮かぶウィンドウを、手慣れた動作でスワイプした。
「……読み込み(ロード)完了。……よし、ARIA、ここからが本番だ。ガルドの記憶レイヤーと、肉体テクスチャの再結合を始める。同期タイミングを合わせろ」
『了解。カウントダウン開始。3、2、1……レンダリング・スタート』
レイの瞳が銀色に発光し、手の中のオーバーライト・ペンが激しく振動を始めた。パレットの上のガルドが、苦しげに身悶えする。だが、その口から漏れるのは悲鳴ではなく、電子音のような耳障りなノイズだった。
「ガルド! しっかりして!」
エレナが駆け寄ろうとするが、ミラがその肩を掴んで止めた。
「待ちなさい、エレナ。……今のあそこは、私たちが知っている『生身の領域』じゃないわ。見て……ガルドの腕が……」
ミラの指摘通り、ガルドの右腕が、一瞬だけ巨大な岩の塊に変化し、次の瞬間には数百本の細い糸のような光の束へと分解された。
『警告、同期に0.12秒の遅延が発生。ガルド氏の精神データが「過去の残像」に引っ張られています。直人様、フレームレートを調整してください!』
「……クソッ、同期が合わねえ。フレームレートを落とせ。……もっとだ。……一コマずつ、手作業で修正してやる……!」
レイの目から血が伝い落ちる。彼の視界には、ガルドという存在が「動画素材」のように見えていた。笑うガルド、盾を構えるガルド、酒を飲むガルド。それら無数のフレームが、管理者の攻撃によってバラバラに裁断されている。レイはその断片を一つずつ拾い上げ、ARIAが計算する座標へと、タイムラインの上へ並べていく。
(……ここだ。ガルドの『守護者』としての定義が欠落してる。だからこいつの身体は、自分を『盾』として認識できずに崩壊し続けてるんだ)
レイはペンを突き立て、空中に新たな記述を書き込んだ。
『定義:不撓不屈の重戦士。属性:金属性。優先度:最上位。……ARIA、この定義を全フレームに強制適用しろ!』
『全セグメントへの書き込みを確認。存在確率、60……80……100パーセントに回復。上書き、確定しました』
書き込みが確定した瞬間、ガルドの身体に走っていたノイズが劇的に収まった。透けていた皮膚に色が戻り、無機質なブロックノイズが、徐々に血の通った筋肉の質感へと「上書き」されていく。
「……はあ、はあ……。……書き出し(エンコード)、終了だ」
呼吸も乱れつつ。レイがペンを置くと同時に、室内の明かりが大きく明滅し、沈黙が訪れた。
「……ガルド?」
ライオネルが恐る恐る呼びかける。パレットの上の巨漢が、大きく息を吸い込んだ。
「……ごふっ……げほっ! ……あ、あー……。……オレは……何を……」
ガルドがゆっくりと上体を起こした。その目はまだ焦点が合っていないが、確かに「実体」としてそこに存在していた。
「ガルド! よかった……本当に、消えちゃったかと思ったんだから!」
エレナが泣きながらガルドに抱きつく。
「……エレナ……? ライオネルも……。……悪い、何だか、とんでもなく長い悪夢を見ていたような……」
ガルドが自分の手を見つめる。その掌には、かつての戦いではなかったはずの、微かな銀色の文様が回路のように刻まれていた。
「……レイ。感謝するぜ。お前がいなきゃ、オレは今頃……」
「……感謝なんていい。激しく動けば、またノイズが出るかもしれねえ。当分は安静にしてろ」
レイは椅子に深く沈み込み、目を閉じた。右足を通じて流れてくる拠点の冷却エネルギーが、焼けるような脳の熱を辛うじて抑えていた。
『直人様、神経伝達物質の枯渇を確認。強制スリープまであと180秒です。休息を推奨します』
「……レイ。一つ聞いてもいいかしら」
ミラの静かな声が響く。彼女はレイの右足と、部屋の壁に刻まれた奇妙な文字を交互に見つめていた。
「……何だ」
「あなたが今やったことは、回復魔法でも、死者蘇生でもないわ。……あなたは、ガルドの『運命』そのものを、強引に捏造したのね? 世界が彼を『いらない』と言ったのに、あなたがそれを『いる』と書き換えた。……そんなことが、人に許されると思っているの?」
「許されるかどうか、なんて考えたこともない。……俺はただの編集者だ。出来の悪いシナリオを、仲間を、直しただけだ」
レイは薄く目を開け、冷徹な銀色の瞳でミラを見返した。
「……それとも何か? 管理者の言う通り、ガルドを黙って消去させてやるのが『人間らしい』正解だったっていうのかよ!」
ミラは答えられなかった。
「……偵察、戻ったわよ! ……って、何、この空気?」
そこへ、外の偵察に出ていたフィリスとルクスが飛び込んできた。
「……フィリス。外はどうだった」
レイが話を逸らすように問いかけると、フィリスは顔を引きつらせて首を振った。
「……最悪よ。霧の向こう側……地面が丸ごと『消えて』いたわ。……代わりに、巨大な、真っ黒な壁が迫ってきてる。まるで、世界そのものが『閉じて』いくみたいに」
レイの指が、デスクの端を強く掴んだ。
『補足します。フィリス氏の報告した現象は、世界領域の「一括フォーマット」の物理的発現です。この拠点が消失するまで、予測残り時間:12時間24分です』
(……やっぱりか。管理者はヴィンセントを消しただけじゃ満足できずに。……エラーを吐き出したこの世界ごと、フォーマットする気だ)
「……時間が、思っていたよりないな」
レイは立ち上がった。異形の右足が、不気味な光を放ちながら床を叩く。
「全員、装備を点検しろ。……管理者の本拠地――『システム中枢』へ、直接乗り込む」
『了解。ルート検索を開始します。直人様……今度こそ、成功させてください……』
ARIAの小さな囁きと共に、絶望の荒野に、反撃の火蓋が切られようとしていた。




