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【第29話】忘却の残響


 朝日がライオネルの実家、その庭の隅に建つ離れの石床を冷たく照らしていた。

 

 窓から差し込む光は、浮遊する埃の粒を白く輝かせている。しかし、その光が照らすべき場所には、もう誰もいなかった。先ほどまでそこに座り、ベッドを軋ませていたはずの巨躯も、彼が愛用していた大盾が立てかけられていた壁の傷跡も、すべてが「最初から存在しなかった」かのように滑らかに塗り潰されている。

 

 世界がガルドという個体を削除したことで生じた、完璧すぎるほどの空白。それは、単なる「死」よりも残酷な、存在そのものの否定だった。

 

「……どうして、何も思い出せないの」

 

 エレナは、ガルドが座っていた場所――今はただの空っぽのベッド――を呆然と見つめていた。目からは涙が溢れ続けているのに、その理由となる記憶が心の深淵から吸い上げられ、霧散していく。神官としての聖なる力も、慈愛の心も、失われたログを繋ぎ止めることはできなかった。

 

 彼女にとって、今の涙は「理由のない故障」のようなものだ。悲しいはずなのに、誰を想って悲しいのかがわからない。その矛盾が、彼女の精神を内側から削り取っていく。

 

「エレナ、顔を洗ってきなよ。……今日はこれから、ライオネルの両親に挨拶をして、次の街へ発つ準備をしなきゃいけないんだろ」

 

 レイは、自分の声が他人のもののように無機質に響くのを感じていた。網膜に映るインターフェースには、ガルドを削除パージして得られた莫大な「空きメモリ」の数値が、残酷なほど鮮やかな緑色で点灯している。この数字が増えるたびに、レイの人間としての感情は、システムの一部へと置換されていくようだった。

 

「……冷たいのね、レイ。あなたは、大切な何かが壊れてしまったみたい」

 

 エレナは吐き捨てるように言うと、ふらつく足取りで部屋を出て行った。彼女の背中を見送るレイの視界には、彼女の精神汚染度サイコ・ディストラクションが、警戒域を示す黄色に染まっているのが見えた。

 

「直人様、忠告します。エレナ氏の精神状態は不安定です。これ以上の情報の隠蔽マスキングは、彼女の人格形成データに不可逆的な損傷を与える恐れがあります。システムによる強制修正パッチが入る前に、彼女の感情リソースを安定させる必要があります」

 

(わかっている、ARIA。だが、真実を言えば彼女も消される。……管理者が俺を見ているんだ。あいつらにとって、俺たちはただのデータ容量の無駄遣いに過ぎないんだからな。……ガルドを消したメモリで、俺はエレナを救う方法を探す。皮肉な話だろ)

 

 レイは離れの窓を開けた。庭ではライオネルが、早朝の素振りをしていた。その剣筋は鋭いが、時折、自分の左側を庇うような、不自然な隙が生じている。本来そこには、大盾を構えたガルドがいたはずなのだ。肉体は覚えていても、脳がその理由を拒絶している。ライオネルは困惑したように自分の左手を見つめ、首を傾げていた。

 

記録ログ……。そうだ、俺のスキルなら、消されたあいつの破片を見つけ出せるはずだ。世界がどれだけ上書きしようとしても、処理の隙間に残ったキャッシュまでは消しきれないはずだ)

 

 レイは、指先を空中で滑らせた。通常のインターフェースのさらに奥、システムの根幹領域ルート・ディレクトリへの強制アクセス。ガルド・バランという人間が、この世界で呼吸し、笑い、泥にまみれて戦ったという「残響」を、文字通り力ずくで引きずり出す。

 

 視界が急速にデジタルノイズで埋め尽くされていく。レイの脳は、人間の許容量を超えた秒間数テラバイトの情報処理速度に悲鳴を上げた。視神経が焼け付くような熱を持ち、鼻から熱い血が滴り、純白のシーツに不気味な赤い斑点を作った。

 

検索開始サーチ・ログ……。ガルド・バラン、および彼に関連するすべての未確定事象を抽出……来い!あいつのログを、俺のハードディスクに直接書き込め!」

 

 その瞬間、レイの脳裏に、濁流だくりゅうのような映像が流れ込んできた。

 

 酒場で笑いながら、安物のエールを酌み交わした夜の熱気。

 ドラゴンに挑む直前、恐怖で震えるレイの肩を無言で叩いた、あの分厚い掌の重み。

 「俺に任せろ、お前は前だけを見ていろ」と言って、巨大な盾を構えた逞しい背中。

 

 それは、世界が「不要」と断じ、ゴミ箱に捨てた、美しくも泥臭い生きた証だった。削除プロセスが進行するなか、レイは必死にその断片をかき集める。一つでも見落とせば、ガルドという男は永遠に虚無へと消える。

 

「……見つけた。これだ、これがあいつの『芯』だ」

 

 レイは、視界の隅に表示された小さな、今にも消えそうな光の粒を掴み取った。それはガルドの魂そのものではない。だが、彼がこの世界に残した「影響力」の残滓ざんし――いわば、バックアップデータの最小単位だった。

 

「警告、直人様。そのデータの保持は、システム管理規約に対する重大な違反行為です。管理者に検知された場合、直人様の権限剥奪、および強制初期化フォーマットが実行されます。直ちに破棄を推奨します」

 

(構わない。……俺がこの世界の『柱』になるって決めたんだ。あいつがいたことを、俺だけは絶対に忘れない。たとえ俺の脳が焼き切れて、記憶回路がショートしたとしても、このログだけは手放さない)

 

 レイは、その熱い光の断片を、自分の心臓部に近いプライベートメモリ領域へと封じ込めた。激しい拒絶反応が全身を襲い、視界が白濁する。レイは糸が切れた人形のようにベッドに倒れ伏した。

 

 しばらくして、部屋の扉が再び開いた。戻ってきたのは、少しだけ落ち着きを取り戻したエレナだった。彼女は、血を流して倒れているレイを見て、悲鳴を上げながら駆け寄る。

 

「レイ! どうしたの、その鼻血……! やっぱり、無理をしていたのね!」

 

 エレナの手がレイの額に触れる。その冷たさが心地よかった。レイは荒い呼吸を整えながら、彼女の腕を借りてゆっくりと起き上がった。

 

「……ああ、少し計算をやりすぎただけだ。大丈夫だよ、エレナ。ほら、もう止まっただろ」

 

 レイは嘘を吐いた。彼の内側では、ガルドのログとシステムの防御プログラムが、今も火花を散らして衝突を続けている。

 

 その時、ふとエレナの視線が、部屋の隅の床に落ちていた「あるもの」に止まった。それは、ベッドの脚に隠れるようにして、静かにそこにあった。

 

 古びた、しかし丁寧に彫られた小さな木彫りの守護像。

 

 それはガルドが「故郷の守り神だ」と言って、寝る前には必ず磨いていたものだった。削除のプロセスを免れた奇跡か、あるいはレイの「記録」スキルが、世界の理をねじ曲げて呼び寄せたバグなのか。

 

「……これ、誰の……?」

 

 エレナが震える手でそれを拾い上げた。指先が、その彫刻の溝をなぞる。

 

 その瞬間、彼女の瞳に、かつてないほどの激しい混乱と、そして言葉にできないほど切実な希望が宿るのをレイは見逃さなかった。彼女の記憶の中にはもう「ガルド」という名前は存在しない。けれど、この木彫りの守護像に触れた瞬間、彼女の魂の深い場所が、誰かの温もりを思い出したかのように震えていた。

 

「わからない……。でも、これを見ていると、胸が締め付けられるの。レイ、私たち……誰か、とっても大切な人を、ここに置いてきてしまったんじゃないかしら?」

 

 エレナの問いに、レイは答えることができなかった。窓の外では、何も知らない王都の住人たちが、今日も変わらぬ一日を始めようと活気づいている。

 

 ガルドという一人の男が消えたことなど、広大な世界のデータログからすれば、砂浜から砂を一粒失った程度の変化に過ぎない。

 

 だが、レイ・クロノスという人間が、冷徹なシステムへと堕ちていくカウントダウンは、この小さな「残響」を拾い上げたことで、加速すると同時に、決定的な変質を遂げた。

 

(待ってろ、ガルド。必ず、お前を書き戻してやる。……この世界がどれだけお前を拒んでも、俺がお前の『正解』を証明してやる)

 

 レイは、エレナが持つ木彫りの守護像を見つめながら、心の中で固く誓った。


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