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【第19話】観測の偏り


 深い森の探索を終え、ようやく辿り着いた拠点に夜の帳が下りる頃、空は吸い込まれるような深い群青に塗り潰されていた。

 焚き火のオレンジ色の光が周囲の木々を不規則に揺らしている。パチパチと薪が鳴る音、仲間の静かな吐息。それは見慣れたはずの光景だった。

 ――はずだった。

 

(……違う。何かが、決定的に違っている)

 

 レイは無意識に周囲を見渡していた。映像編集者としての習性が、視界に入るすべての「絵」をスキャンし、微細なエラーを検出しようと躍起になっている。

 投影される影の落ち方、音が届くまでのわずかなタイムラグ。現実という映像の上に、透明度の低い「別の何か」が被さっているような、薄気味悪い違和感が拭えない。

 

「……どうしたの、レイ?」

 隣に腰を下ろしたエレナが、心配そうに声をかけてきた。

「少しは、落ち着いた……? さっきの場所から離れれば、楽になるって言ってたけど」

 

「……ああ。心配かけて悪かった」

 嘘ではないが、本当のことでもない。肉体的な疲労は癒えても、彼の視覚情報は劇的に変化してしまっていた。

(見えてるんだ。存在と存在の間に横たわる、描画びょうがされない『余白』。本来なら意識してはならない世界の構造が、ノイズとして網膜に焼き付いている)

 

「……なあ、エレナ。ここには別の何かが、誰かがいたはずなのに、それが最初から無かったことにされてるような……そんな欠落感がないか?」

 

 焚き火の向こう側で、ライオネルが身を起こした。

「は? 足りねぇのはお前の睡眠時間だろ、レイ」

 ぶっきらぼうな物言いだったが、その目は笑っていなかった。彼もまた、この場所に漂い始めた「異常」を本能的に察知し始めている。

 

「……いや。これ、たぶん気のせいじゃないんだ」

 

 その言葉が引き金となった。

 唐突に風が止み、木々のざわめきがスイッチを切ったように消え失せる。焚き火の炎は垂直に固定され、時間が静止したかのような奇妙な静寂が拠点を包んだ。

 

『――そうだ』

 

 声。今度はレイの頭の中だけではない。大気を震わせる実体を持った音として響いた。

 

「……今の、声……。誰なの……?」

 エレナが顔を上げ、ライオネルが即座に剣を掴む。

 

『――ようやく、届いた。こちらの、観測が……』

 

 焚き火のすぐ向こう側、何もない空中の一点が、古いテレビの砂嵐のような「ノイズ」に包まれる。空間が物理的に裂けているのではない。二つの映像を無理やり重ね合わせた(オーバーレイした)ときのように、境界が「滲んで」いるのだ。

 

(俺のせいか……。『欠片』を持ち込んだせいで、外側との同期が始まってしまったのか?)

 

 ノイズの中からゆっくりと人影が浮かび上がってきた。輪郭は絶えず揺らぎ、解像度の極めて低いホログラムのように透けては消える。

 

「……なんだよ、あれ。魔物か?」

 ライオネルが剣先を震わせる。だが、レイには分かった。

(これは、奪われた側だ。不要として切り捨てられ、誰の記憶からも消去された『削除された側』の成れの果てだ)

 

『――ずっと、探してた。だれかに、見つけてほしくて。でも、だれも……ぼくたちを、観測してくれない』

 

 その声が発せられた瞬間――レイの全感覚が、凄まじい重力を伴って反転した。

 一瞬だけ、拠点の景色が消え去り「別の景色」が脳内に投射される。

 

 色のない、幾何学的に崩れた街並み。重力に従わず浮遊する瓦礫。

 太陽も星もない、灰色の雲が広がる打ち捨てられた世界の残骸。

 

「っ……が、あぁ……っ!」

 

 激痛とともに視界が戻る。全身が嫌な汗で濡れていた。

「今の……何……? 壊れた街が見えたわ……」

 エレナが震える声で呟く。彼女にも今のイメージが共有されていた。

 

『――助けて』

 

 あまりにも鮮明な、一人の人間の叫び。

 

「……ふざけんなよ……!」

 ライオネルが自らの無力さに顔を歪める。「実体もねぇ幽霊みたいな奴を、どうやって助けりゃいいんだよ! 俺の剣じゃ、そいつは斬れねぇんだぞ!」

 

 答えは提示されない。だが、レイには分かっていた。この霧散しそうな情報を繋ぎ止める方法が、一つだけあることを。

 

『――頼む……ぼくを……わすれない……で……』

 

 レイはゆっくりと立ち上がった。

(これは俺にしかできない。この世界の『バグ』を、俺が責任を持って記録するんだ)

 

 指先が、人影の「境界」に触れた。

 実体はないはずなのに、凍りつくような冷たさと焼けるような熱さが同時に伝わる。

 

【 警告:未分類データへの『接続』を承認。記録同期を開始します 】

 

 レイの意識は、底なしの暗淵へと引き込まれた。

 凄まじい光と爆音。奔流となって流れ込む、見知らぬ誰かの人生の断片。

 愛した人の名前、嫌いだった食べ物の味、いつか見上げたいと願っていた空の色。膨大な「生」の記録が、レイの脳というハードウェアに無理やり書き込まれていく。

 

 そして――見てしまった。

 この存在がなぜ消されなければならなかったのか。

 この世界のシステムが何を「禁忌きんき」としているのか。その残酷なプログラムの一端を。

 

(……これは……そういうことだったのか……!)

 

 理解が始まると同時に、レイの身体から人間らしい「重み」が失われていく。

 彼は今、この世界の住人としてではなく、世界そのものを記録する「デバイス」へと、一歩近づいてしまった。

 

 暗転する意識の中で、レイはただ一つのことだけを思っていた。

 たとえこの先、自分がどう変質してしまおうとも。

 拾い上げたこの「声」だけは、決して消させはしない、と。


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