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【第18話】侵入する声


 深い森を抜け、拠点へと続く緩やかな街道。

 先ほどまでの異常な空間が嘘のように穏やかな陽光が降り注いでいるが、俺達の間に会話はない。誰もが、あの「世界の裂け目」と残酷な真実を咀嚼そしゃくできずにいた。

 

 風の音だけが不自然なほど大きく、木の葉が擦れ合う音が誰かの囁きのように聞こえ、レイの神経を執拗に逆撫でする。

(……静かすぎる。いや、ノイズが多すぎるのか……?)

 

 レイは、自分の内側に潜む「違和感」に全神経を集中させていた。

 「外側」の情報を取り込むことを拒絶したはずだった。だが、固有スキル『記録ログ』の深層には、拭いきれない残熱ざんねつのような感覚がへばりついている。

 バックアップをキャンセルした直後、キャッシュメモリに残ってしまった不良セクタのように、何かが内側に居座っている。

 

「……レイ?」

 

 隣を歩いていたエレナが、覗き込むようにして彼の顔を凝視した。

「さっきから、ずっと変だよ。何かに怯えてるみたい」

 

「顔色も最悪だぞ。まるで、幽霊でも背負ってるみたいだぜ」

 ライオネルも足を止め、怪訝けげんそうな顔で覗き込んできた。

 

「……いや、大丈夫だ。少し、情報の整理に手こずってるだけだよ」

 反射的に、嘘ではない範囲で言葉を返す。大容量データを読み込んだ直後にシステムが重くなる、まさにあの状態なのだと自分に言い聞かせる。

 

 だが、その思考を断ち切るように、それは響いた。

 

『――そこじゃない』

 

 羽虫が飛ぶような、あるいは機材がハウリングを起こす直前のような微かな声。

 他の誰にも聞こえていない。レイの「脳内」だけで再生された、明確な意志を持つ音。

 

「どうした、レイ?」

 

「……いや……今、なんか、聞こえなかったか?」

 言いかけて、レイは言葉を飲み込んだ。説明できるはずがない。それは、先ほど覗き見た「世界のゴミ箱」の中の声なのだから。

 

「……何でもない。空耳だ、気にするな」

 無理やり歩き出す。だが現実は、決定的な「バグ」を露呈ろていさせ始めた。

 

 視界がぐらりと揺れる。

 一瞬だけレンダリングが間に合わなかったかのように景色が横にズレ、鮮やかだった森の緑が灰色にくすむ。

 

『――ちがう』

 

 今度は鋭く。

『――そこじゃ、ない。おまえが、いるべき場所は……』

 

「っ……!」

 レイは頭を抱え、その場にうずくまった。頭蓋骨の裏側を冷たい針で掻き回されるような激痛。

 

「おい、レイ! 大丈夫か!?」

 

 ライオネルの声も、エレナが触れる感触も、一拍遅れて神経に届く。自分という存在が世界の「再生時間」から数フレームだけ遅延ラグを起こしているような、堪え難い感覚。

(やばい……浸食されてる。境界が、ボロボロだ……!)

 映像レイヤーが剥がれ、背景の虚無が表出ひょうしゅつし始めている。

 

「レイ、私を見て! ちゃんとここにいる? 私たちの側に立ってる!?」

 

『――ちがう。おまえは、そっち側の存在じゃない。記録されるものではなく、記録する側の……』

 

「うるせぇ……黙れッ!」

 

 耐えきれず叫んだ。ライオネルとエレナが凍りついたように息を呑む。

 視界の端に、ガラスが割れるような鋭い「ひび」が入る。現実にではなく、レイの「認識」というレンズに亀裂が走ったのだ。

 

「……落ち着け。そのノイズに呑まれるな」

 

 いつの間にか、数歩先にあの白いローブの人物が立っていた。

「敵ではないと言ったはずだ。その少年の均衡きんこうが崩れかけている。これ以上の混乱は、彼の消滅を早めるだけだ」

 

「……これ、何だよ。俺の中で、何が起きてる……」

 

残滓ざんしだ。お前が触れ、完全には捨て去らなかった『外側』の欠片。不完全な拒絶は、侵入を招く招待状と同じだ。進行すれば、お前の精神と世界の間に横たわる『境界』が完全に崩壊するだろう」

 

 内側という「現実」と、外側という「虚無」の区別。それが曖昧になれば、もはやどちらの住人でもなくなる。再生不可能なノイズの塊――それは死よりも残酷な末路に思えた。

 

「なんとかなんねぇのかよ!」とライオネルが怒鳴る。「レイを助ける方法を教えろ!」

 

「方法はある。だが、それは――またしても、選択だ」

 

 白いローブの人物は淡々と告げる。

「今すぐ、その欠片を強制的にデリートしろ。そうすればお前は『内側』の住人に戻れる。……ただし、切り離した欠片は二度と誰にも観測されることなく、永遠の無へと帰る。それが一つ目だ」

 

 レイの胸が激しくざわついた。頭の中で響く「助けて」という声。

 自分の平穏のために、それを「消去」するのか。それは、前世で最も嫌悪していた「意味のあるカットを切り捨てる」行為そのものではないか。

 

「……もう一つは?」

 

「受け入れることだ。欠片を自分の一部として統合する。だが、お前は徐々に人としての定義を失い、『外側』へと近づき続けることになるだろう」

 

「ダメ……! レイ、それだけは絶対にダメよ!」

 エレナが叫び、レイの腕を折れそうなほど強く掴んだ。「どこか遠くへ行っちゃう気がする。お願い、戻ってきて……!」

 

『――たすけて』

『――わすれないで』

 

 拳が血が滲むほどに震える。

 守るために、完全に切り捨てるのか。

 自分を壊してでも、残滓ざんしを繋ぎ止めるのか。

 

「……少しだけだ」

 レイは、はっきりと言葉を紡いだ。

「完全には受け入れない。でも、切り捨てもしない。俺の『記録』領域に、隔離したまま保持し続ける」

 

「中途半端だな。常に侵食の毒に晒され続けることになるぞ」

 

「分かってる。でも、それでいいんだ。これが俺のやり方だ」

 

 捨てるのでもなく、呑み込まれるのでもない。「記録」し、コントロール下に置く。

 それが、観測者であるレイにしかできない、世界へのあらがい方だ。

 

 ◇

 

 空気がわずかに揺れた。レイを襲っていた激しいノイズと眩暈めまいが、嘘のように引いていく。

 レイがその「バグ」を自分の一部として強引に認め、システムの中に隔離したことで、均衡が保たれたのだ。

 

「……なるほど。それがお前の、観測者としての解答か」

 

 視界がクリアになり、景色のズレが直る。声は完全に消えたわけではないが、今は深い霧の奥に遠のいている。

 

「……無茶しやがって。本当、肝が冷えたぜ」

 ライオネルが低く笑い、エレナがまだ不安そうにレイを見つめる。

「……本当に、大丈夫なの?」

 

「ああ。少なくとも、今はもう大丈夫だ」

 

 レイは高く広がる青空を見上げた。耳を澄ませば、まだ聞こえる。

 かすれた、孤独な声。

 「外側」は、すぐ隣にある。この世界の皮一枚隔てた向こう側に。

 

 いつか、逃げ場のない選択を迫られる日が来るだろう。その時、自分は何を守り、何を捨てるのか。

 

 レイの胸の奥で、小さな「ノイズ」が静かに脈打っていた。


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