ひかりの居場所
京都の旧家に生まれ、息苦しい家族関係の中で生きてきた少女が、自分の居場所と愛に辿り着く現代小説。
ひかりの居場所
優しいイメージで統一された一室。
それにそぐわない眩しすぎる丸い照明。
無機質な金属音と周囲のざわつきが緊張感を誘う。
手慣れた準備と交わし慣れた会話を心地よく感じながら、ぼーっと天井を見つめこんな事を考えていた。
「この人達の人生の中では、繰り返し行われる何百回の中のほんの一コマに過ぎないんだろうなぁ」
──きたっ……激痛が走る。
体中を突き上げるこの痛みとも、もうおさらば。
激しいうねりが体の中をゆっくりと、かつ確実に確認できる位の熱い塊が流れ出た。
「オギャー」緊張と安堵が入り混じった空間を貫いて、温度を感じるその声に私は心を鷲掴みにされた。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」
看護婦が赤ちゃんを抱いて、私の傍までやってきた。
別の看護婦は「お母さん、よく頑張りましたね」目を細めて微笑みかけてくれた。疲れと体の強張りがどこかに飛んで行ってしまう程、一生懸命に泣く赤ちゃんの顔はしわくちゃで、今まで一心同体だったことが嘘のように目の前にいる分身が、愛らしくて愛おしくて涙が幾つも落ちていた。
超安産で奇跡の再会を終えたばかりの妊婦「伊勢谷 喜美子」は赤ちゃんがお腹に宿った時から決めていた名前をもぞもぞ動く耳元で言ってみた。
「産まれてきてくれてありがとう。あなたの名前は ひ・か・り。輝よ、よろしくね」
いくらたっても泣き止まない輝に、ひとりの看護婦が近づいてきて
「はいはい、元気な事は良い事よ。輝ちゃんの鳴き声が病院中に響き渡って、これから出産を迎えるお母さん達に希望を与えているわね」
割腹のいい世話好きな婦長さんは気の利いたコメントをしながら輝の顔を覗き込んだ。
田舎の老舗「伊勢谷呉服店」孫の二女として生まれて来た輝。
さてその境遇はというと……。
古くからのしきたりが残る名家。と言っても昔々のことで、今では古い田舎の習慣も簡素化され、若者は故郷を離れ都会へ移住する者が増えている。地域自体も昔の盛況な雰囲気は一変し、夕方には静まりかえる街になった。
伊勢谷家の祖父母は折り紙付きの商売気質で、何事も損得で判断し初めて会う人は、服装やら持ち物やら顔の造りなど、上から下までなめるように診断される。人を信用するなどもっての外、まずは足元を探り見極めた者としか取引はしない。そんな古くから続く老舗へのこだわりが強い夫婦だ。その夫婦の息子、つまり輝の父親であるタカシは両親との折り合いが悪く、職場の転勤を理由に家のことは全て妻である喜美子に任せ、海外へ行ったまま帰ってこない。一年のうち、数回戻ってきては仕事が忙しいからと逃げるように帰ってしまう。そんな中で喜美子は二人の子供を育てている。
喜美子を不憫に思う近隣の人も、この祖父母には頭が上がらない。呉服問屋でもあり、地主である事もあり、昔々から続く家柄の上下間が、今でもどこかしこに顔を出し、いささか窮屈な付き合いが残っている。
これが今から輝が育っていく環境なのである。
タクシーで帰宅した喜美子は数週間開けただけの家の門が、いつもより重く感じた。
「ただいま戻りました」
玄関の引き戸を開け、少し控えめな声で輝の帰宅を知らせた。薄暗い奥からヌッと現れたのは姑の幸代、輝の祖母にあたる。
「あらあら、ずいぶんゆっくりとしたお産だったんだね」
開口一番の心無い言葉に、喜美子はうつむきながら小さな声で
「帰りが遅くなってすみませんでした」
間髪入れずに幸代の嫌味は続く。
「あらいいのよ、もっと実家でのんびりして来たら良かったのに。あぁ、実家って無かったわね。親戚の家も長居されちゃ迷惑だものね。今まで私達三人でとても快適に過ごしていたのだけどね」
そう言って輝の顔も見ずに奥へと戻って行った。
この関係は今に始まったものではなく、喜美子とタカシの結婚が決まった時から続いている。老舗と言っても今はもう商売すらしていない。しかしそこに住む者は頑なにその栄光を握りしめ、伝統や格式という言葉で喜美子をよそ者扱いした。
そこへ舅の茂、つまり輝の祖父がやって来た。祝う迎え入れるという雰囲気はみじんも感じることなく言い放った。
「また女か。うちは代々続く伊勢谷家じゃ。跡取りも産めんとはまったく」
昔の人とひとまとめにするのは語弊があるが、男尊女卑で当たり前のように育ったものは平気で人を見下し、見下された者はこんな暴言になぜ耐えなければならなかったのだろう。輝を抱いた喜美子の腕にギュッっと力が入った。
「輝って言います。よろしくお願いします」
輝の寝顔を見つめながらか細い声で喜美子は言った。溜息交じりの茂の返事も聞こえない位、喜美子の心は大きく揺れていた。
――この家でこの子を守れるのは私だけ。私さえ我慢すればきっと輝は愛されるに違いない。
そして時は流れ、輝が中学生になった頃、大学進学を迎える姉の紫織と輝との接し方に大きな差が生まれていた。輝は良くも悪くも跡取り候補としては認識されず、姉の紫織をみんながもてはやし、あの手この手を使って機嫌を取り可愛いがっていた。年頃になってきた紫織に跡取りを意識させるために必死なのだろう。輝は随分早い時期から姉とは待遇が違うという事を認識し、寂しい想いを持ちながらも早々に諦めていた。冷めた輝の目には、滑稽な茶番としか映らなかった。
文武両道の紫織と、自由奔放な輝とでは、成績も雲泥の差、同じ環境で育ったにも関わらず、生き方や考え方は全く違い、気の合う会話など何ひとつなく分かり合う事もないすれ違い姉妹。こんな関係もなかなか珍しいと思う。
「紫織……ちょっこし来い。ほや……これやろ、お前は跡取りやさかいな。」
茂は時折紫織を部屋に呼び、輝に内緒でこずかいを渡していた。輝の財布事情は空っ風が吹いていたというのに、何でいつでも紫織は裕福なんだ思っていたら、裏でこんな取引が行われていたとは……見てはいけない現場を見たような後味の悪い気分になった。
そしてその日の夕食の時。
「紫織、輝ご飯できたわよ」
返事をしてすぐに席についたのは紫織だった。いつまで経ってもやって来ない輝に茂がしびれを切らし喜美子を叱った。
「輝は何してるんや、皆席についたんやさけ早よ来るように言わんか」
食事の時間はみんなが揃って食べるのが伊勢谷家の代々受け継がれた習慣であり常識。家長である茂が箸をつけてからみんなが食べ始めるという生まれた時からの習わしがあった。しかし今日は運悪く村の会合で茂はすでにお酒を飲んでいた。
「すみません、先に始めてください。もう一度声をかけてきます」
喜美子が申し訳なさげにそう言った矢先、輝がやってきた。呑気にやってくる輝の姿を見るや否や先に晩酌を始めていた茂は、酔った勢いで輝を窘めた。
「なんでお前は言われた事がすぐに出来んのや。紫織を見習わんか。輝この際お前に一つ言っとくぞ…世間様に後ろ指さされる事だけはせんといてくれな、伊勢谷の名は汚さんといてくれよ」
その言葉に輝の腹の中はマグマが煮えたぎり、一瞬にして祖父など黒焦げに出来るぐらいの熱量で溢れた感情はもちろん止まらなかった。
「伊勢谷伊勢谷ってそれが何?いつまで昔の栄光に縋って生きてるん?呉服屋なんてとうの昔に止めてしもてるやん!だいたいみんな揃ってご飯食べるのを強制するってそんな古臭い習慣を大事にしてるってゆうたらそれこそ世間様に笑われるわ。私かって時間自由に使いたいんや、それに……」止まらない輝の怒りを遮って喜美子が割って入った。
「輝もうやめなさい。お義父さんすみません、後でよく言って聞かせますので」
床に膝をついて喜美子は頭を下げた。幸子も紫織も何も言わずそんな喜美子を上から眺め、輝にはうっすら笑いを浮かべているようにも見えた。
危うくお酒のコップが飛んでくる一歩手前で何とか事なきを得た。
茂は酔うとさらに質が悪い。ねちねちと輝と喜美子に嫌味を言い続け、挙句の果てにはいつものセリフだ。
「お前ら二人はよう似とるさかい腹が立ってしょうがないわ、頭悪いんか理解が出来んようでかなわん。この家には相応しないてずっと言っとるのにしぶとい女や」
などと言う始末。実際喜美子に出て行かれたら、たちまち困るのは幸子と茂だというのに歳を取ると見境が無くなるのか、なんでも頭ごなしに物事を決めつける。何の権利があってここまで二人を小馬鹿にするのかを知りたくなる。この環境で過ごしてきて、素直で真っすぐな性格に育っている人がいたらそれはもう仏の化身だろう。さらに疑問なのは、喜美子はなぜここまでの扱いを受けているのに頑なに我慢し続けるのだろう。この日の夕食は、今までで一番苦い時間だった。
それから数日が経ったある日、一本の電話が伊勢谷家をさらに揺るがす出来事となる。
「はい、伊勢谷でございます。はい、輝は娘です。えっ!はい、すぐに行きます。」
取るものも取らず慌てて車に飛び乗った喜美子は、隣町の警察署に向かった。いつもなら十五分で着くはずが、道を何度も間違え三十分はかかっただろうか。喜美子の頭の中はグルグルと渦を描き、落ち着かない心の振動を静めるにも同じ時間がかかった。
パーテンションで区切られた一角に通され、そこに私服の警官と輝がやってきた。
「お宅のお嬢さんで間違いはないですか?」
「はい、うちの娘です。あの──輝が何か……。」
「ええ、まぁお母さんここへ座って。娘さんね、友達が万引きしたのを止めようとしたところを、スーパーの補導員が一緒に万引きしたんやと勘違いして、ここへ連れてこられたんやわ……。友達にも確認したらやっぱり娘さんはやってへんゆうさけ、お迎えを頼んだんですわ」砕けた雰囲気で話す私服警官は、不安げな喜美子にざっくりと状況を説明をした。
ホッと肩の力が抜けた喜美子は、無意識に輝の手を握っていた。
「心配したわ……。何があったのかと思って……。良かった、無事でよかった」
輝は少し目線を反らし何も言わなかった。
車の中で喜美子はずっと外を向いたままの輝に何と声をかけていいのか分からなかった。自宅の明かりが見えた時、大きく息を吐いて輝が言った。
「あ─あ。また面倒くさいんだろうな……」
車が車庫に入った音を聞きつけて真っ先に玄関を飛び出してきたのは幸代だった。幸代は口をパクパクさせて声にならない声で、輝の肩をつかんだかと思うとその場にしゃがみ込み泣き出した。その後ろから紫織の声が輝の心を突き刺した。
「あんた何考えてんの?恥ずかしい事しんといて!情けないわ!警察沙汰ってこの家の恥やわ!」
理由も聞かず何があったのかも知ろうとしないまま、真っ先に世間体の心配をするなんてさすがこの家の跡取りだと輝は妙に納得した。
「恥ずかしい事なんてしてへんよ」
輝は面倒くさそうに反論した。
「警察から帰ってくる事がもう恥やってゆうねん。近所の人に笑われるやんか、私ら家族が迷惑すんねん。輝、あんたはいっつも勝手な事ばっかり、誰のいう事も聞かんと自分の事しか考えてへん……。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの気持ちも考えてみいや。あんたのせいで近所の人に色々言われる事になるやん。下げんでええ頭を下げやんなん事になるやろ」
姉は跡取りとして祖父母に神の子の様に祭り上げられ育てられた。紫織を大事にしていれば祖父母から何らかの恩恵がある為、世間からも蝶よ花よともてはやされていた。全ては祖父母の支配下だと分かっていても、その優越感の味わえる地位と、いずれは地主という名声を捨てる気など姉には一ミリも無いだろう。――可哀そうな人だ。
「勝手な事ばっかりって言うけど、あんたらの言う通りにしてたら息が詰まって自分らしくでけへんわ!私はお姉ちゃんみたいな生き方したないねん」
紫織が言う世間体を主体にした家族理論は、輝には到底理解しがたいものだった。紫織の言葉にさらに泣き出す幸代。
「紫織は優しいなぁ。姉妹でこんな違うもんかの。輝も紫織見習って恥ずかしくないように生活せな……。そんな赤いスカートなんか履いて、みっともない」
何で赤のスカートを履くのに世間を意識しなきゃならないのか。もう何もかもが嫌になってきた。さらに追い打ちをかけるように茂までやってきた。
「やっぱりお前にはそんな友達しかおらへんかったんか……情けない。どうせお前もやっとってうまい事逃げたんちゃうんか。ちっさい頃から何かっちゅうたら勘に障る嫌な子やと思っとったが、やっぱりこの家にはふさわしないんやて……お前は…世間様に示しがつかんわ!」
今まで生きてきた中で、精一杯の怒りの感情をフル稼働しても全然追い付かない程の憎しみみたいな感情が溢れて来た。同時に失望感と焦燥感に足元から飲み込まれそうになった。
「私は違う」と思っても毎回毎回繰り返される罵りに答えるようにやってくる強烈な劣等感。自分を守る事に限界を感じた瞬間、輝の目の輝きが消えた事に気づく者は誰もいなかった。
そして輝はこの日を境に心を閉ざしてしまった。
私達は世間体というそれが何かも分からない不安定なものに、いつまで捕らわれ続けるのだろうか…。その中で「自分」を生きるということは狂気に近いのだろうか…。何かを捨てなければ自分らしさを保てないなんてことがあるのか。互いの生き方を認め合い心豊かに共有し合える世間様なら、もっと時代は変わっているだろう。
時代錯誤の非情な滅多打ちがあった伊勢谷家にも、何事もなかったように爽やかな朝はやって来た。それが救いでもあり、悲しくもあった。
喜美子がいつものように輝の部屋を覗いたら、そこに輝の姿はない。紫織の部屋の扉が開き、眠そうに紫織が出て来た。
「紫織、輝が部屋に居ないんだけど…知らない?」
「知らんよ、また何か企んでるんちゃうの?ほんま迷惑な話やわ」
「そんな事ばっかり言ってないで、たった二人の姉妹じゃない」
「私だって選べたんなら弟が良かったわ。妹なんてちっとも可愛くないねんから」
「紫織……。」
「いまさら言ったって仕方ないけど」
喜美子はもう一度輝の部屋をよく見渡した。
──無い。旅行用の大きなカバンが無い。それに服も……。
輝はきっと家を出たに違いないと急いで車を走らせた喜美子。そう遠くへは行ってないと心のどこかで確信していた。。
昨日、警察から連絡を受けた時より何故か落ち着いていた。まさかとは思っていたが、輝の性格を考えたら喜美子もどこかで予想がついていた事なのだろう。周りを注意深く見渡しながら昨日の出来事を想い出したら涙が出てきた。
──輝はきっと今までになく傷ついただろう。間違えられた上に警察に連れていかれて怖かっただろうに……。友達の事もきっと大切に思って言わなかったのね。
朝のラッシュでごった返すコンビニの横を通った時、そこに似つかわしくない周りのざわつきと相反する動きの止まったうずくまる輝の姿を駐車場の片隅にみつけた。自分の前に止まった車をゆっくりと見上げた輝。真っ赤に腫らした目を見れば、あれからずっと泣き続けたのだとすぐに分かった。
喜美子は輝に家に帰る様に言ったが輝はぼんやりと焦点の合わない目で喜美子を見つめ、無言のまま首を横に振り喜美子の腕をすり抜けていった。喜美子はとてつもない悲しみを子供に負わせてしまった事に気づき、腰から崩れ落ちた。この時見た光のない眼が事の重大さを明確にした。今までの自分の行いが全部間違いだと言われた気がして、喜美子の揺ぐ事の無かった張り詰めた糸がぷつんと確かな音と共に切れてしまった。
コンビニの駐車場で呆然と座り込む二人を、足早に何人もの人が見て見ぬふりをしながら通り過ぎて行った。
どれくらいの時間がたったのか分からないが、コンビニの定員が空き缶を回収する音に喜美子はふと我に返って輝を半ば強引に車に乗せた。向かった先は小高い山の見晴らし台だった。
二人は車から降りずにしばらく中から景色を眺めていた。喜美子が先に口を開いた。
「昨日は辛かったよね。大丈夫?」
輝は黙ったままだ。
「お母さんの事少し話していい? お母さんね、小さい頃に両親を亡くして親戚の家に預けられてたの。すごく不安だった。でも生きていかなきゃいけないから、親戚の人に嫌われない様に、追い出されない様に我慢する癖がついちゃったみたい。一度本当に嫌な事があって信頼していた叔母さんに素直に気持ちを言った時にね、すごく怒られたの。だから私さえ我慢すればどんな状況もやり過ごせるって思っていたの。輝がお祖父ちゃんにひどい事言われてても、どうする事も出来ずにただ黙って罵倒を受け入れる事が輝を守る事ことだと思っていた。私と輝は違うのに同じ様に我慢させてしまったのね。…情けないんだけどお母さん、それが違うって事に今気づいたの。今まで輝の何を見て来たのかしら……。ごめんなさい。お母さん、輝をとても傷つけてしまった」そう言って涙を流した。
ジッと空を見ながら聞いていた輝は、その事には一切触れず小さな声でつぶやいた。
「やっぱりあの人たちと一緒に住むのは限界、もうあの家に帰りたくない」
喜美子は輝の気持ちを考えるとNOとは言えなかった。輝は今中学三年、母として輝の今後の人生を考えたら、今容易く家を出るのを認める事も出来なかった。かといってこのまま輝を家に縛り付けても輝が壊れてしまうのは目に見えていた。喜美子はある提案をしてみた。輝はそれを渋々納得し受け入れてくれたようだった。2人は行き場のない想いを少しずつ整理する様に、しばらく車を走らせ遠回りしながら家に帰った。
その後も輝や喜美子に対する態度や嫌味が無くなることはなかった。約束通り輝は学校にもちゃんと通い、友達ともそれなりに楽しく残り八か月を過ごした。しかし家ではずっと部屋に閉じこもり、家族との関りを一切持たず誰とも話すことはなかった。輝の態度について相変わらず幸子や茂から攻撃の的になっていた喜美子は、何も語ろうとしない輝を守り続けていた。茂が酔っ払って帰って来た日は階段の下から大声で輝を呼んだり、輝の部屋のドアをドンドンと叩いたりして威圧し続けた。そのたびに喜美子は頭を下げ謝り続け、輝はそれが始まると大音量のヘッドホンで耳をふさぎ、ベッドの中に潜り込んで心も体も小さく丸くした。
警察のお世話になった輝の友人も自分の家は仮面家族なんだと話していた。何のために仮面をかぶるのか、何を守るために偽善者になろうとするのか、誰が人の善し悪しを決めているのだろう。様々な人種や性格の人が住んでいるこの地球上で、縁があって一緒に過ごすことになった家族って、もっと優しくて平和で思いやりがあるんじゃないかと、若者の理想は現実の雑踏にかき消され続けた。家族だからこそ許せる事や、家族だからこそ苦しい事もある。輝にとってはこの家族との繋がりは、四方を壁で覆いつくされた窮屈なものでしかなかった。生まれた時は小さな柔らかい手一杯に夢や希望を握りしめて来たはずが、すべてが上手くいく事はないのだと脳裏と心に深く刻まれ、自分の望む生き方を貫くことを諦めてしまった。
いつの時代も我慢は美徳なのだろうか……いや、そう思う人だけがその中で生き続ければよく、我慢は必要ないと感じた人は、古い知識をさっさと手放し新しい時代を満喫した方が人生は豊かなものになるだろう。そして習慣という捕らわれからいつでも抜け出せる力が私達にはある。ほんの少し今を疑う勇気を持つことが自分の人生をより有意義なものとしてくれるだろう。
寒さも和らいだ三月、輝が中学を卒業した。輝は喜美子の親友の経営する横浜の美容室に見習いで就職することになった。【働きながら通信教育で美容師を目指す】というあの時の提案が現実のものとなった。皮肉交じりの日々とももうおさらば。いい思い出など無いこの家を出て行ける事に心底せいせいしていた。『あの人たちが死んだって、絶対この家に帰るもんか』奥歯と拳に力が入った。
「いらっしゃいませ。佐々木様いつもありがとうございます。今日はカットですね。店長お願いします」
元気いっぱいの輝の声が、明るい店内をその名の通りキラキラと輝かせていた。輝はこの美容室で働きながら通信教育を終え、美容師免許を取得して二年が経っていた。中学を卒業したばかりの輝は見習いとして働いていたので、何事にも不慣れな感じがお客様の母性本能をくすぐるらしく、親元を離れて頑張っている姿は好評でとても好かれていた。輝の事を誰も知らない環境は、人生をもう一度ゼロからスタートさせているかの様で嬉しかった。そんな輝にも指名をしてくれるお客様が最近増えて、ほんの少しキャリアというこそばゆい言葉が似合う成長を遂げていた。
下済み時代は、先輩美容師「明美さん」にこっぴどくしごかれ、トイレに駆け込み泣いた日々もあった。美容を愛するが故、技術に厳しすぎるのは納得がいく…だがしかし出来ない事を何度も何度も注意されるのは、自分が不甲斐無く思えて腹が立ったし辛かった。
そんな明美さんは先日寿退社。今は輝と身元引受人兼横浜の母と言われる喜美子の親友「木村紀子店長」のもとで腕を磨いている。どうやらこの美容室には世話好きのお客様が多いようで、その代表格で有名なのは隣に住む常連の武田さん。
「クンクン…おや、甘辛いこの香りは…。
輝の美味しいセンサーが動き出す。もしかしてばぁばの十八番では?思ったと同時に威勢よく裏口の扉が開いた。
「輝ちゃーん、今日は肉じゃがだよー」
やっぱり、正解!一瞬で店中に甘辛い肉じゃがの香りが立ち込め、来店中のお客様の夕食の献立選びにも貢献した。
輝は住み込みで働いているため、独り暮らしで世話好きの武田さんは度々夕食のおかずを差し入れてくれる。作ったご飯を美味しそうにモリモリ食べる輝を本当の孫の様に大切に思ってくれていて、輝にとっては頼れるお祖母ちゃん的な存在だった。最近輝は仕事をしながらご近所から漂ってくる夕ご飯を嗅覚で当てる才能が開花してきた。
「武田さん、いつもありがとね」
紀子も裏口に顔を出した。
「紀ちゃんいいのよ。沢山作った方が美味しくできるし、紀ちゃんも仕事終わってから煮物は大変でしょ。ばあばのお節介よ」
「ばあばの肉じゃが大好き!今日も美味しく完食するね、ありがとう」
嬉しそうにお礼を言う輝の満面の笑みに満足して武田さんは手を振り帰っていった。その夜、ばあばの料理と焼き魚とその他つまみを並べ終え二人とも席についた。肉じゃがを挟んで輝と紀子の肉じゃが取り合い合戦のゴングが鳴った。輝が肉じゃが界の異端児インゲンに手を伸ばした時、ビールを飲み始めた紀子が聞いてきた。「輝、今年の年末は帰るんでしょ。喜美子からも連絡あったわよ」そう言って紀子は味の染みた本命のじゃが芋を頬張った。
「あぁーやっぱり武田さんの作る煮物は絶品よね~」
今度は輝がクタクタになった名わき役玉ねぎを食べ「帰んないよ」そっけなく返した。大好きな人参を一口噛み締めシュワッとビールで流し込んだ紀子は「だって来年は紫織ちゃんの結婚式もあるじゃない」
輝は負じと人参をぱくりと食べ、愛想無い感じで輝は
「もっと関係ないよ。家族や世間様に盛大に祝ってもらったらいいんじゃない?」
「屈折してるわねー。あんたに愛はないの愛は?」
とあきれ顔の紀子肉じゃがバトルとこの手の話は終わりがない。
輝は毎年、年末年始に連休があっても今まで実家に帰ったことがない。ここの暮らしは心地よく仕事も充実してた為、帰りたいと思ったことがまず無い。定休日には講習会に出かけたり、何人か気の合うお客様ともショッピングや食事に行ったりして、何処にでもいる活発で行動力のある女の子になっていたからだ。実家に帰るときっとまた居心地が悪く、昔の自分に戻ってしまうと思っているのかもしれないし、周りの環境も今と昔は余りにも違いすぎて、そのギャップに耐えられないのかもしれない。輝にとって実家での出来事は忘れたくても細胞の隅々までべっとりこびりついたトラウマでしかない。家族で出掛けた楽しい思い出、運動会にみんなで食べたお弁当、心はやる嬉しい出来事、そんな記憶は頭の片隅から一つ残らず消えてしまっている。アルバムを見ないと自分が笑って過ごしていたのかさえ思いだせない位なのだ。
人によって悲しみや苦しみの感じ方は違う。自分が味わった悲しい出来事よりも誰かの辛い物語の方がストーリー的に上回っていると、「あの人に比べたら、私の悲しみなんてまだ我慢できる」等と比べる必要のない悲しみを天秤にかけ、自分を卑下し更に悲しみに耐えられるサイボーグに作り上げていく。
しかし現実の世界では人と自分をさんざん競り合わせた挙句、さらに自らを追い込み自虐ネタまでいくつも持ち合わせる始末。誰が何のためにそう仕込んだのか…。たとえこれが人生の大きな罠だったとしても、「自分はそんな人間なんだ」と最終的に承認してしまった自分の責任。またそれが両親や世間から刷り込まれたものであったとしても、自分自身がそれを受け入れなければ安易に通り抜けられる小さな罠でしかない。でもその小さな罠を見分けられる術を誰も教えてはくれない。
昔々から「村八分」という恐ろしい言葉がある。村の秩序を乱す者を村全員で仲間外れにするという悍ましい習慣だ。
しかし現代でも集団意識が学校や社会など多くを占め、群れる事が安心・安全と錯覚しそこに馴染めない者はすぐさま弾かれ孤立へと追い込まれていく。
だから今もいじめは無くならない。
何故?個が偉大だという真実に気づかせない為に?
自由を手に入れさせない為に?
いや違う、ここはすべてが選べる自由な世界。
もちろん今も昔も「自らを大切にし、勇気をもって歩んだ人だけが見える自由な世界」だという事は忘れてはいけない。
さて、ここで輝の世話役の話も軽くしておこう…
活発でやり手経営者ではあるが、そんな紀子もかつては悩める子羊だった。小さい頃から「思い込んだら即行動」の典型的なタイプだったので、周りからは予想のつかない破天荒娘と言われていたが、本人はそんな周囲の噂などお構いなしで、気のみ気の向くまま生きていた。輝と似てはいるがここからはちょっと…いや随分違う。紀子はこう見えて「才女」だった。とにかく成績は学年トップに居座り、誰もが知る名高い中学・高校へ進み、挙句には東大も狙えると…学校を上げて先生や両親も期待に胸を膨らませ、将来は大手総合商社か弁護士か…なんて両親の方が夢を膨らませた。紀子も最初はその気で勉強していたが、ある日、本屋でふと手に取った雑誌の特集記事を読んで突然、美容学校に行くと言い出したからもう大変!
周りのすざまじぃ猛反対の嵐も紀子にとっては頬にふんわりそよ風が心地よく吹いてる程度の事だった。その上、寮に入るから家も出ると言い出す始末。この上ない破天荒ぶりに母親は一気に血圧が上がりその場に倒れて救急車で運ばれ、父親は驚きのあまり腰を抜かし、ぎっくり腰で寝込むことになってしまった。それでも淡々と美容学校への入学準備を進める紀子をもう誰も止められなかった。
昔は職業によって優劣のある言われ方をした。紀子の目指す美容師はどちらかというと、不良上がりや勉強のできない人がなる職業だと、信憑性のない不思議な偏見があった。やはり世間体を気にする紀子の両親もそんな信憑性のない噂を信じていたから何倍も驚いたのだろう。もちろん当時も立派な意思を持って美容師を志している人が多かったのも事実。どんな仕事も尊くて素晴らしく、初めに優劣をつけた誰かの顔を見てみたい。
─肉じゃがの食卓に戻ろう。
二人は話題を変えて盛り上がっている。テーマは「愛」だ。この壮大なテーマはどこから始まったのか覚えているだろうか?数ページ前の紀子の言葉で
「屈折してるわねー。あんたに愛はないの愛は?」で輝のスイッチが入った。輝はいったん箸を置き、呼吸を整えて言った。
「は?愛って何ですか?あの家には愛なんてありませんよ」と冷静に顔色一つ変えず言い返したもんだから、紀子はちょっと考える時間をキープするために一気にビールを飲みほし、冷蔵庫からもう一本取り出しながら言った。
「もうちょっと大人になったらどうかしら」
おもむろに席を立った輝は紀子の隣をすり抜け、冷蔵庫のビールをカシュっと開け、ゴクゴクと飲んでから「お酒も飲める大人です」得意げに紀子を見た。
少しあきれた紀子は「あんたって子は……。結婚式には出席するん…」紀子の質問を遮りちょっと遠くを見ながら「紀子さん、大人って何でしょうね。聞き分けよく周りに呼吸を合わせて、嫌な事も我慢してやるって言うのが大人って事ですか?」輝の眉間はしわくちゃになった。
紀子は輝のその質問にハッとした。自分も昔はそう思っていたからだ。たぶん誰しもが成長の段階で一度はよぎる疑問なのかもしれない
「大人って何だろう…」
ある意味成人式って大人というカテゴリーに分類される日の事で、その日から我慢という重荷が増え、純粋に感じた事を封印する儀式の様なものかもしれない…
「愛って何だろう…」
そもそもこんな子供じみた事を考えてる私は愛されているんだろうか…これから大人になって人を愛することが出来るだろうか…
当時紀子は、勉強の合間にふと自分の未来に意識を飛ばすと、急に不安になり泣けてきて眠れなくなることがあった。なぜこんなに不安になるのか当時の紀子には全く分からない程、日常は忙しく自動化していた。大学進学を考える頃には、平穏な家族の中でただ一人、破天荒を名乗ることに相当の勇気が必要だという事に直面していた。子供の頃は「無邪気」という言葉で済まされていたことも、少しずつ成長すると共に「我儘」に代わっていき、紀子自身は何一つ変わっていないのに周りが勝手に大人として、または大人予備軍としての行動ではないと判断しだした。その頃から自分の中の居心地の悪さの正体は「自分らしく生きられない」事だと理解し、自分を守るために家を出る事を決めたのだ。
輝もよく似た境遇で、祖父・祖母・紫織の結束が強かった為にいつも蚊帳の外にいた輝は、自分は愛されていないんだと感じて生きて来た。学校では「人にやさしく」とか「思いやり」とか教えられるけど、実際家庭では思いやりの「お」の字もなかった。
そんな二人が愛だの大人だのを語ると話は着地点を見失うが、成長し様々な経験値の分だけ過去に捕らわれなくなって来た…つまり紀子の年の功というハイグレードなアイテムを所有している為、圧勝で終了する
そんな中でも二人の共通点は喜美子だった。輝が喜美子の事を不満げに話すと、昔の喜美子を知っている紀子はとても不思議な気持ちになる。なぜなら昔の喜美子自身の良さが消えてしまい別人になっているからだ。
紀子は喜美子と中学・高校と一緒で不思議なことにクラスが離れる事はなかった。学校ではいつも一緒にいて、放課後も図書室に残り二人で勉強を頑張っていた。
──って事はつまり喜美子も優秀だったことが判明した。
紀子はちょっと微笑んでから、懐かしそうに外を見つめ「喜美子は昔から辛抱強くてね、寂しい時も、寂しいって言わずに隠れて泣いてたのよ。小さい頃に両親を亡くしているからきっと沢山苦労をしてきたのだと思うわ。独りで我慢して小刻みに震える喜美子の後ろ姿を何度見たことか。私ねそんな喜美子を見ていると、どんな慰めの言葉も軽々しく聞こえて私が喜美子を救うなんておこがましいって想ったわ」
輝は片付けをしながら母としての喜美子を思い出し「お母さんの口癖でよく「仕方ない」とか「分からない」って言ってたけど、自分の気持ちって自分が一番知ってるじゃん。なのにいつもで出くる言葉はこればっかりで…これってさ逃げてるだけじゃん。何にでも選択肢があって自由に選べるわけでしょ。だけどお母さん観てると、その選択を全部放棄してるみたいに思えて、何だか凄く心がザワザワして気持ち悪い感覚になるんだよね」
カチャカチャと食器を洗う音が少しばかり大きくなった。
「喜美子はきっと自信がないのよ。そして勇気もない…っていうか無くなっちゃったのね。気を抜けない生活環境がそうさせたのかもしれないけど、そのせいで輝を苦しめたって言ってたわ。あの子自分を犠牲にする所があるでしょ。私が心配するのはそこなんだけどね」
大きくうなずいた輝は素直な気持ちで言った。
「いつも人ばっかり優先してさ、一見優しさの様に見えるけど嫌われたくないだけで、いい人で居たいんだよ。私ね、お母さんが笑ってくれてたらそれだけでいいと思ってる。お母さんの人生これで楽しいのかなって本気で思うよ。もっと怒ったり嫌だって言ったり思いっきり楽しんだりして自由にしてくれたらなって」
喜美子を思う輝の気持ちを知った紀子は嬉しそうに言った
「輝は優しいんだね……。」
「あっちでは疫病神だったよ」
「でもこっちではみんな輝のこと、可愛がってくれるじゃない?今日だってほら武田さんもさ」
「うん、すっごくありがたいって思ってる」
「輝……あっちでもこっちでもあなたの人生に必要で欠かせない事しか起こらないと思うの。嫌だなって感じる事も、いつかはちゃんとあなたの幸せに繋がっていくのよ」
「そんなもんなのかなぁ~」
「私ね、美容室って、髪を綺麗にするだけじゃないって思うのよ。みんな毎日何かしら頑張って生活してるじゃない?社会人だって学生だって子供だって……。色んな思いを持ったお客様が肩の荷を少し降ろしていく場所じゃないかって思うの。そしてスッキリしてまた明日から生き生きと過ごしてくれる。そんな見えないサポートみたいなことも自然にしているんじゃないかって。だからつらい事や悲しい経験をしたことない人が、お客様の心になんて寄り添えないでしょ。いっぱい泣いた分だけ優しくなれるのよ、そしてそれはちゃんと輝の人生でも活きてくるの」
「なるほど……そっか……深い仕事なんだなぁー。ってゆうか紀子さん!飲みすぎです!明日も仕事なんですよ」
「はいはい、分かってる。先にお風呂入っちゃいなさい」
「はーい。紀子さん色々話してくれてありがとうございました。お礼です」そう言って冷蔵庫からもう一本ビールを出して紀子の前に置いた。
紀子「飲みすぎッて言ってたのにどっちなんだよー」紀子は嬉しそうにビールを開けた。──カシュッ。
こんなやり取りをしながら一日が終わる。
一緒にご飯を食べる人がいて、共有できる話があって、終着点のない話をダラダラと出来るのも幸せな事のひとつで、血の繋がりは無くともお互いの生き様を素直に語れる相手がいるって事が、本当は一番幸せなことだったりする。人によって幸せと感じる価値観は様々だけど、どんな人にも小さな幸せが身の回りに散りばめられている。それにひとつひとつ気づくことが大きな幸せに繋がって行くのだ。
幸せになるには努力や我慢をしてやっと手に入いるもので、ささやかな幸せほど美しいなどと囁かれそれを信じる。
でもそれは違う。
──幸せになるじゃなく、「幸せは在る」そう、もう在ったんです。
ダメだった事にフォーカスするのではなく、駄目だと思った事の中にもいい事や自分にプラスになる事が沢山含まれているのだと幼いころから言われ続けていたら、目の前の世界はもっと違っていただろう。今からでも遅くはない「幸せの中でずっと私達は生きている」って思って、身の回りに散りばめられた幸せに気づこうとすれば現実はきっと変化する。
まもなく十四番線に十時六分発新大阪行きのぞみ三百十五号が到着いたします。アナウンスを聞きながら輝が小さく呟いた。
「一緒に行けて良かった」
スーツケースをニコニコと引きながらスイスイ進んで行く輝の後ろを履きなれないパンプスをパタパタ鳴らして紀子が足早にやって来た。
「喜美子がどうしてもって言うからさぁ……。披露宴終わったら私はすぐ帰るから、輝はゆっくりすればいいんだからね」ちょっと強めの口調で言った。
「無理だと思うなぁー。絶対泊まってけって話になるよ」
輝はニヤリと笑って、母が紀子を帰すはずがないと確信しながら言った。息を切らしながら「はぁはぁ、そんなおめでたい時に部外者の私はお邪魔でしょ。」ホームの空いているイスを見つけ大きなため息と同時にドスン音を立てて座った。
結局輝の実家、京都に行くことになった紀子は久しぶりに喜美子に逢えると何だかんだで内心喜んでいた。よっぽど相性がいいのか飽きもせず頻繁に喜美子と紀子は電話でやり取りをしていて、これは学生の頃から変わらず続いているらしい。そんなウキウキの紀子も輝から聞いている噂ラスボス的存在の姉、紫織に逢うのはちょっと緊張していた。
輝は窓側の席に座り、移り行く窓の景色を見て言った。
「近くの景色ってスピードが上がれば何が何なのか全然分からないのに、遠くにある建物や景色はゆっくりと動いていくよね、ふっしぎ~富士山ってどこから見ても重量感があってさすがだなって今改めて感動したよ」とりとめのない話で小さな不安を隠した。
ギリギリ披露宴に間に合った紀子と輝。招待客の多さにびっくりしながらスタッフに案内され席に着いた。駅からすぐだったけど、慌てて走ってきたので紀子はすぐさま喉を潤したい気持ちだったが、ぐっと抑え乾きに乾いた砂漠のオアシスタイムを待った。
ライトが落ち、感動的な定番の入場曲が流れてきた。
「それでは新郎新婦のご入場です。皆さん大きな拍手でお迎えください」司会者の絶妙な盛り上げ方にあおられ、会場は一斉に拍手の波に沸いた。
恥ずかしがる感じもなく、「今日の主役は私達」的に堂々と入場する新郎新婦を見て、「私、絶対こんなのしない」と輝は固く心に誓ったのでした。
「ふ~ん相手は普通の人だよね」無表情で輝がつぶやいた。
「普通でいいじゃないの」愛想笑いの紀子がつぶやいた。
音もしないやる気のない付き合い程度の拍手をしながら「ありゃ、姉さんの言いなりだな」輝は確信を突いたように断言した。
「仮にもお義兄さんよ…でも誠実そうじゃない」満面の笑みのまま紀子も言う。
「まあ、幸せそうで何よりなんじゃない。でもあの笑顔の裏側を知ったら即離婚だな…。それか、そこがたまらんっていう変わった癖の持ち主かだな…。くさやが好きってのと一緒」
「これ、お口が過ぎます!」そう言って机の下の輝の太ももをつねった。
「イテテ……。」
食事は豪華な和洋折衷。お品書きを読むだけで前菜だけでもすごい数でデザートまでにいったい何品食べるんだろう…結構お腹も膨らんで来た所に、追い打ちをかける様にメインはステーキ。これは肉じゃが大使の武田さんには食べきれない量だろうなぁ……とどうでもいい心配をしてみる。
それに足元にある引き出物の袋の大きいこと大きいこと。THE見栄っ張りのやりそうなことだと輝は思った。持って帰る人の気持ちを考えないなんてさすが伊勢谷家のやりそうな事。
挨拶に回っていた喜美子が紀子のもとへやってきた。
「紀子……久し振り、遠い所までありがとう。会いたかったわ~全然変わってないわね」
「喜美子だって昔のまんまじゃん」
──昔のまんま…な訳ないじゃん。しかも女子高生のノリだよねこれ。輝は黙々と食べながら心の中で無言の突っ込みを入れた。
「今日は無理行ってごめんね。いつも輝がお世話になって」
「こちらこそよー。輝が居てくれるから毎日退屈しないわ」
「迷惑かけてないかしら……。」
「ここはいいから他回って来なよ」そっけない輝に喜美子はちょっと嬉しそうに「そう?じゃあそうするわ。輝も元気そうで良かったわ。紀子も輝も今日は泊って行ってね。その時ゆっくり話しましょ」そう言っていそいそと挨拶周りを続けた。
「ほらね、お泊り決定」してやったり顔の輝に少しあきれて「まあ、いいわ。喜美子も話したい事あるんでしょ」それを聞いて輝は思った。──しょっちゅう電話してんじゃん──輝のひとり突っ込みが止まらない。
おいしい食事と豊富なドリンクメニュー。そうこうしているうちに紀子のご機嫌は進み、輝はある事を想い出した。以前、紀子と友達が自宅で女子会をした時に、ずいぶん気持ちよくなっていた紀子が突然トイレに駆け込む事件があった。冷たいビールの飲みすぎでお腹を下してトイレから出れないという大惨事。輝は紀子のコップに慌てて蓋をして焦って言ったもんだから声のボリューム調整が出来ず「紀子さん!また下痢する!」思った以上に大きかったらしく、紀子は輝の肩を大きく揺らして「しぃー。何ちょっと急に!声が大きい!」あちこち見まわしながら輝の口を塞ぐと同時にいいタイミングで暗転した。次はなんだ?
「それでは新郎新婦のお色直しも終わり、皆様のテーブルにキャンドルを灯してまいります。拍手と共にお迎えください」盛り上がる音楽にのせて二人がスポットライトとカメラのフラッシュにまみれて入場してきた。
──あーあ、とうとうこのテーブルにも来るのか。ラスボス登場の気分だ。
輝の想いとは裏腹に祝福モードに包まれ、大きなピンクの髪飾りをつけたド派手な衣装が近づいて来た。
「あら、親類席にいないと想ったらここに居たの。また家出してるのかと思ったわ」
「姉さんが席を決めたんでしょ、わざとらしい」
「あんたなんかに会いたくなかったけど、優しいこの人が呼んでやれって聞かなかったから仕方なしよ…べつに来なくても良かったのに。それ食べたらさっさと帰りなさい、やっぱり顔も見たくないわ」
「それは失礼しました。姉さんの本性がバレない事を祈ってるわ」
輝の言葉を聞くこともなく、紫織は何も言わずクルリと向きを変え笑顔で隣のテーブルへと去っていった。笑顔を崩さないままあんなに嫌味な事を話せるなんて、腹話術でも習ってんじゃないかと輝は密かに思った。どこに居たのか紀子が暗闇からスウーっと現れ、あわあわと言葉にならない言葉を発した。
「し衝撃…ぜぜ絶句だわ」
「でしょ。誰も知らない笑顔の下の悪魔登場だよ」
分厚いメインのお肉にナイフを入れながら輝は得意げに言った。
すると突然目をウルウルさせながら輝の手を握った紀子は
「輝……。あんた本っっっっ当に可哀そうだったんだね」
そこまで心を込めてしみじみ言われると、何だか自分が空しく思えてきた。
「話には聞いてたけどまさか姉妹でそこまで…って想ってたから目と耳を疑っちゃったよ…ホントだったんだね。小さい声だったけどちゃんと聴いちゃった」
紀子は隣で「家政婦は見た」ばりに存在を消して聞き入っていたのだ。久々のラスボス登場で、しかもお構いなしに波動だけでグッサグッサと得意の滅多切り。この人幸せ真っ最中の新婦だよね?って疑ってしまう程、久々の衝撃に輝の心はちょっと折れかけていた。古傷に塩をどっさり塗り込まれた感じだった。心が疼きだした。
そんな輝の様子に気づいたのか、紀子は輝の頭を何度も撫でた。小さな子供だったら、ちょっとはにかんで嬉しそうにするんだろうけど、まあそれなりに大きいので輝はちょっと照れ臭そうにうつむいた。それでも紀子の気持ちは収まらず、
「輝……。なんかギュッてしたくなってきた」
本気の顔で言うもんだからあわててトイレに行くふりをして席を立った。
輝の今の感情なんてあっさりと埋もれて消えてしまう程、披露宴は最高に盛り上がりその嘘くさい息苦しさから解放されたくてドアを強く推し開けて外へ駆け出た。滞りなく披露宴も終わり、紫織たちはその足で幸せそうに新婚旅行へ飛び立った。ラスボスも去り、もう狩られる心配がないので安心して輝と紀子は実家へ向かった。
懐かしくも窮屈な出来事を思い出させる玄関の外灯は変わらずそこに佇んでいた。飲み物とおつまみを買う寄り道をしていた二人より先に家に帰っていた喜美子が車の音を聞いて二人を出迎えた。
玄関を入るや否や、輝が聞いた。
「で、いつから寝たきりなの?今家にいるの?」
喜美子は「しぃー」っと人差し指を口に当て、足早に薄っすらと明かりのついた部屋の前を通り抜け、奥の部屋へ二人を案内し注意深くそっと扉を閉めた。
祖父の茂は一年ほど前に脳梗塞で倒れ、自宅で介護をしていたのだか、最近は認知症も進み施設への入所を考えていると話す喜美子。祖母の幸代も二年前から特別養護老人ホームへ入居している。
二人にはこのことは何も話していなかった為、喜美子がここ数年大変だったことを今知った輝と紀子。披露宴で久しぶりに見た母の姿が心なしかやつれたように映ったのは間違いではなかった。
そんな喜美子を気遣いながら紀子が話し出した。
「ずっと私達に黙っているのも辛かったでしょ。独りでよく頑張ってきたわね。あんたはいっつもそうなんだから……言いなさいよね。愚痴でもなんでも聞いたのに」
そう言って喜美子の肩を抱いた。喜美子は紀子の言葉にホッとしたのか、全身の力が抜けた様子で声を殺して泣き出した。母のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも唇を噛み締めて感情を抑え込んでいる背中しか見てこなかった輝。紀子の腕の中で声をあげて泣く喜美子は小さな子供のようで、初めて見るその光景に安堵感を覚えた。
──きっとお母さんの心を許せる人は紀子さんなんだ──何の戸惑いもなく紀子さんに私を預けた意味が分かった気がした。
祖父には時間という概念がもう無いようなので、急いで祖父へあいさつをする必要はなかった。
喜美子はキンキンに冷えたビールと、自分用の冷酒を用意した。手伝う輝は人の家のような台所の使い勝手の悪さに、横浜での生活の慣れを感じた。さっき買ってきたチーズやかまぼこをお皿に盛っている時、戸棚に口の空いたナッツや乾き物があるのを見つけた。
──お母さん独りで飲んだりしてたのかな。
昔懐かしい大きいビーズで作られた間仕切りというのだろうか暖簾の隙間から、まるで学生時代にタイムスリップした様な泣き笑いする二人を見て何だか胸のあたりがジーンとした。そういえば二人の間柄や仲の良さを知る機会が今まで無かったな。
やっと仲間に入れてもらえそうな流れが来た!そこを逃さずに、おつまみを持って合流しようと居間に入った。少しばかり頬が赤くなった母に比べ、何の変化も見せない紀子。
「輝もここに座りなさい」
強引に紀子に引っ張られ、軽くしりもちをついた輝。力加減が危ういのは少々飲みすぎているのでは……と思いながら無言で軽く突っ込む。
話の話題は次々と変わっていって、まるで回転ずし状態。今まさにそこへ新ネタが登場した。紫織の夫、隆二の転勤で紫織が仙台に引っ越すことになるという。隆二の両親の意向でそこに家を建てることになるらしい。
「えっ!じゃあ喜美子、本当にこの家に独りで住む事になるじゃない?」
紀子はこんな広い家を持て余し、たった一・二部屋で過ごしている喜美子を想像すると急に心配になったようだ。
こんな展開は誰も予測してなかっただろう。
祖父も祖母も元気で、紫織が婿養子をもらい、後継ぎに男の子が生まれて万々歳ってな具合だっただろう。この家族が描いていた幸せのストーリーとは程遠い現実にほんの少しの憐れみを感じたと同時に、この家を出る時今の現状の様になればいいと願っていた悪魔的な自分を思い出した。
そうしている間に次の話のネタが回って来た。
存在が薄すぎたのと輝が産まれた時にすら関りがほとんど無かったから気づかなかったっという方が近いのかもしれないけど、父タカシは披露宴にも居なかったんじゃ……。
輝は降って湧いた当たり前の疑問を母に聞いた。
「お母さん!お父さんって何で今日来てなかったの?」
喜美子と紀子は顔を見合わせて苦笑い。ははーん。紀子さんも何かを知ってるな?
喜美子がテレビの下の引き出しを開けて手紙を見せてきた。
流れ的にこれは父からの手紙だろう。英語で書かれた宛先を見て、帰る気が無かったのだと直感的に思った。
その中には、どうしても仕事の関係で日本には帰れないと書いてあった。そもそも父がどんな仕事をしているのかさえも輝は詳しく知らなかった。
よくよく考えたら顔を見て話したことなんて数えるくらいで、一世一代かもしれない娘の結婚式よりも仕事を優先するところは自分の父親ながら情けなくなった。そして姉さんの事もほんのちょっと可哀想に思えたけど、それは大きな間違いだと気づき一瞬で消し去った。
何だろう、この違和感。
知りたいような、でも触れたらいけないような何とも掴みどころのない家族関係ってこれ正常なんだろうか。いま輝の頭で考えても、グルグルと言葉が廻るだけで現状が変わるわけでもない。その事に早々に気づいた輝は頭の雑念を振り払うようにビールを一気飲み。
その時、輝の中に抑えられない1つの知りたい願望が沸いてきた。
──お母さんはそんなお父さんをどう思っているんだろう。
何事もなかったかのように、昔話に花を満開に咲かせている二人の間を割って輝が聞いた。
「ところでお母さん。お母さんはそんなお父さんの事どう思ってるの」
来たか!って感じでまた二人は顔を見合わせた。
ははーん、この件も紀子さんは何かを知っているんだな…仲良しだねー、ちょくちょく電話で話してるだけなのに、こんなぶっとい絆で結ばれていたとは素直に仰天。
紀子さんがやけにソワソワしだしたぞ。大体こういう時は何かを誤魔化そうとする時だ!私の目はごまかせないぞ……。今度は探偵気取りでお母さんの様子を見た。
あれ?何このシラッとした表情は…。思いがけない態度に拍子抜けした。
「あのさ…べつに言いたくなかったらいいよ、二人の白々しさに聞く気も失せたじゃん」
「もう少ししたら、ちゃんと話すわね」
お母さんの表情がスッと和らいだ。
──募る話もあるだろうから後は二人だけにしてあげよう。
「お祖父ちゃんとこ覗いてから寝るわ…後は二人でごゆっくり」
そう言って輝は居間を出た。
輝は心臓の音と足音しかしない薄暗い廊下を歩きながら、困惑している自分を感じていた。
部屋の前に立って深呼吸し、少しだけ引き戸を開けてそぉっと中を覗いてみると、ベッドサイドの灯りでテレビを観る姿がぼんやり見えたのでゆっくり入ってみた。
ツンとした独特な匂いとジトっとした空気感の中に、意気揚々とした強気な昔の姿は無く、眉間に刻まれた深いしわから読み取れる祖父がいた。
輝が部屋に入ってきても分からない程集中してテレビを観ているから何が面白いのかと近づいてみると、ただ意味もなく煌々とテレビだけが付いていたのだと分かった。声をかけようかどうしようか迷っていたら
「誰じゃ」
祖父の方が気づいてこっちを見たから
「ひ、ひかり」
少し上ずったそして緊張のピークで喉を詰まらせた。
「誰じゃて?」
祖父が聞き直してきた。耳も遠くなったようだ。
「お祖父ちゃん、ご無沙汰してます……輝です」
どことなく丁寧な言葉遣いになってしまった。
「おお、紫織の友達か。紫織はもうすぐ学校から帰ってくるさかい、ちょっと待っとってやって。後で冷蔵庫に入ってるプリン一緒に食べたらええわいね」
祖父の突飛な回答に混乱した。
えっ!誰がどうしたって? 輝はもう一度言った。
「お祖父ちゃん、輝だよ。お姉ちゃんの結婚式で帰って来たんだよ」
「ほぉーそうかね。あんたのお姉ちゃんが結婚したんかね。うちの紫織はまだランドセル背負てるさかいな、ずぅっと先の話じゃわ。そりゃめでたい事じゃの。」
そして一瞬にして表情が無くなり、首をくるりとテレビに向けてまた一点を静かに見つめた。
──なんだ、めっちゃボケてんじゃん。
祖父の紫織の記憶は小さな孫のまま止まっていた。そしてその記憶の中にも輝はいなかった。口うるさく、輝を毛嫌いしてワンマンで高圧的な昔の姿とは想像できない程枯れ果てた祖父のリアルな今を見たのだった。あんなに大事に育てていた紫織がこの家を出てしまう事や、長年連れ添った奥さんがもう傍に居ない事など、何も知らずにただ生きているのかと想うと、あわれみの涙か、悲しみの涙か分からないけど知らない間にその場で泣いていた。「ざまあみろ」という感情と共にほんの少し思い出した祖父との優しく懐かしい記憶が一瞬蘇った。きっともう祖父には会う事はないだろうと確信した。
どんなに嫌な思いをしても、こだわりを握りしめて生きたとしても、病気であれ死であれ、全てを忘れてしまう時がいつかは来るんだ。
「苦労は買ってでもしろ」とか「努力したものが報われる」とか「人生は修行だ」などと言い伝えられてきたものは、たった一度きりの人生を味気ないものにしかねない。そういった伝承に魅力を感じる人はその道を行けばいい。だけど何もない真っ新な子供達に、何を伝えていくかは一度よく考えた方がいい。努力が必要ないという訳ではなく、その努力は「何の為にするのか」が大切なのではないだろうか。
そもそも苦労や努力がなくて出来る事って「才能」って言うんじゃないだろうか?その才能をつぶして、自分達も苦しんできた枠や古臭い迷信を伝えて何になるのだろう。記憶や習慣なんて無くなってしまえばそこで終わりなのに。
青空に反射した様に薄いピンクの花びらが、風にあおられ簡単に大木からひらひらと離れていく。綿毛の様に種はないけれど、人の心に夏の到来を植え付けていった。
輝の生活にも少しずつ変化が現れ、仕事だけでなく自分の人生を創り上げる時期に入った様だ。
今日は輝の彼が紀子の所に挨拶にやってくる。あっちにウロウロこっちにウロウロ…いつにもまして紀子の落ち着きのない動き。何度もトイレに行っているが、毎回出てるんだろうかと思うと可笑しくなる。寿命を削っているかの様な紀子のこの緊張感は、本来なら喜美子が味わうべきもの。そしてやはり喜美子の姿はここにはない。つまりまた電話のやり取りでこうなったに違いないが、横浜の母という肩書がずっしりとのし掛かかった紀子の姿を見ると少し申し訳ない気になった。
そんな大げさな紀子の想いなどつゆ知らず、輝は能天気に鼻歌交じりで料理を運んでいたその時「ピンポーン」スリッパをパタパタと鳴らし玄関へ急ぐ輝。大きな花束とケーキの箱を持って輝の彼がやってきた。花束を持っているからと言ってキザな男では決してない。「こんな時には花束を持っていくもんだ」と職場の先輩に言われ、その言葉をあっさり信じて持ってきてしまう単純で素直な男なのだ。あいさつ程度のイベントには大きすぎる花束越しにお互いが見えないまま彼と紀子がご対面。
「これ花瓶に入れるね」
輝は和樹の手から花束を取ると二人は初めて顔を合わせた。
「初めまして宮本和樹と言います。今、輝さんとお付き合いさせてもらってます」
緊張で紀子の額を見て話す和樹の心臓の爆音が、廊下伝いに輝まで伝わる勢いでした。
「こっこちらこそ、輝がいつもお世話になってます」
かなりギクシャクした二人を見て輝が笑うと和樹と紀子は同時に「輝!」この一言で二人は緊張から解き放たれました。
「とりあえずご飯食べよ」
紀子はとっておきのスパークリングワインを棚の奥から出してきた。グラスにワインを注ぎ、息を整えてかしこまった。
「改めて、和樹くんよく来てくれたわね。ありがとう」
和樹も背筋を伸ばし
「えっと、のっ紀子さん! 今は輝さんとお付き合いしていますが、僕は結婚したいと思っているんです。輝さんと結婚させてください!」
ハトが豆鉄砲…。というのに対面したことはないけれど、まさに紀子の顔はそんな感じだった。
「えっ!えぇ~! 付き合ってます宣言じゃなかったの今日! どどど、どうしよう。結婚?そんな大事なこと私がどうぞって返事できないわよ」
思ってもいない事が起こって動揺する紀子を見て輝は
「横浜の母的にでいいんだよ」
和樹と顔を見合わせて微笑んだ。
「もう、それならそうと言っておいてよ。輝も意地悪ね」
ホッとした紀子はワインを一気に飲み干した。
「ちょっと紀子さん、乾杯まだしてないじゃん」
「あらやだ私ったらごめんなさい」
場はほどなく和み、紀子も二人の結婚を祝福した。
「何もかも美味いです」
そういうや否や和樹のお箸がおかずと口の往復を慌ただしく繰り返していた。紀子の料理上手の話を輝から毎日聞かされていた和樹は、今日をずっと楽しみにしていた。和樹は紀子十八番のポテトサラダを口に入れ、しばらく味わった後こう言った。
「俺、母親早くに死んだんで、親父と二人暮らしだったんだけど、二年前に親父も死んでしまってそれからずっと一人だったからこんな美味い手作り料理食べられるなんて、今すごく感動してます」
ちょっとアルコールが効いてきた紀子の目はすでに潤んで和樹の両手をぎゅっと掴み
「そっか…大変だったんだね。輝!ちゃんと料理覚えなさいよ……。そんで和ちゃんに美味しいごはんを作ってあげなさい」
──和ちゃんって――
みんな色んな事を乗り越えて生き続けている。誰かの言葉に励まされ、誰かの作ったものに癒され、生きる希望が満ちて来る。たった一つの出来事にも沢山の奇跡やサポートが用意されているなんて、なんて素敵な事なのだろう。
輝と和樹が盛り上がって話し込んでいる傍らで、紀子はこっそり喜美子に電話をした。和樹と輝の結婚する話を早く伝えたかったのだ。電話越しの喜美子も驚き、しばらくすると声が震え思いもよらない吉報に歓びを隠せないでいたそうだ。早くに家を離れて自立しなければならなかった輝の当時を思い出し、喜美子はただただ安堵して泣いた。紀子も電話を切るでもなく何度もうなずきながら喜美子の心に寄り添っていた。
しばらくして輝と和樹の呼ぶ声に、喜美子との電話に区切りをつけ冷蔵庫からデザートを持って二人のもとに駆け寄った。
喜美子の想いを二人に伝えると、輝は和樹の胸の中で顔を埋めて泣いた。何の抵抗もなく身を預ける輝を見て、つらい事もあったけどそのことが二人を結びつけたのかもしれないと紀子は思った。
世紀の結婚告白から半年、紀子は今日もソワソワしていた。見た目は落ち着きなく感じるけれど、実は頑固で決めた事には腰を据え、必ず実行するという行動力がある。しかしその行動は手に取る様に分かり易く、輝はいつでも紀子の言いたい事を心の中で当てきた。嘘偽りのない単純明快な人だ。
「今日和ちゃん来る?」
「うん来るよ」
――おや?和樹繋がりのソワソワなのか?
どうやら二人に大事な話があるようだ。そういえばこのところ仕事が終わってからも出かけることが多かったし、この前も泊りで居なかったなぁー。
はっ!彼氏が出来たのか。
まさかそんな事は……ハハハ。結婚には懲りてたし……。でも結婚とかじゃなく付き合うくらいなら重く考えなくていいかもしれないし。そのうちやってきた和樹も輝の妄想に加わり、二人の中で彼氏を紹介されるんだという結果に辿り着いた。二人はドキドキしながらソファーに並んで座り、お茶の準備をしている紀子を待った。お茶を出し終えた紀子がいよいよ口火を切った。
「実はね……お店を辞めようと思ってるの」
まったく予想だにしなかった的外れで思いがけないな話に固まる二人。
そんな二人の腑抜けた顔に気づかずに話を続ける紀子。輝はまだ話のどこかに彼が出てこないか前のめりになって聴き耳をたてた。
「あのね・・・私この先もずっと結婚とかしないと思うのよ。で、ここでずっと働けるまで仕事してもいいかなって想っていたんだけど、思いがけずちょっと楽しそうな話が出てきて・・・」
憂いを含んだ微妙な顔でにやける紀子と、そろそろ彼の話題が出て来るんじゃないかといよいよニヤける輝。まだ彼氏の登場を心待ちにしているのだろうと呆れた顔で輝を見つめる完全に第三者的和樹。そんな歪なの空想だらけの密林をかき分け右手を大きく上げて威勢よく言い切った。
「わたくし木村紀子は古民家カフェをオープンしま~す」
──えっ!カフェ? しかも古民家カフェ?完全に路線変更……。確かに紀子の料理の腕は絶品だ。しかしなぜ今?お店は赤字ではないはず……どちらかというと黒。そんな時に冒険する?いや、おかしい。これはただ事ではない。きっと黒幕がいるはずだ……。それがきっと彼なんだ。彼の夢を叶えるために紀子さんはお店を捨てて、その彼と一緒に新しい人生を歩んでいくつもりなんだ
──いや、待てよ。そうなると私は住むところが無くなるじゃん。職場も探さなきゃ。
コロコロと変わる表情に紀子は吹き出した。
「ひかり、何その不思議な百面相は……いったいどんな気持ちで聞いてる訳?どうせくだらない空想してるんでしょ」
さすが紀子、その通りだ。
輝はたまらず聞いた!
「紀子さん一人でするの?カフェ」
紀子はもう一人の誰かと共同経営で始めるのだと話し始めた。やっぱり…いよいよ核心に触れてきそうだと手に汗握る輝と和樹。
どうやらその相手は突然独り身になったらしく、今までずっと窮屈な人生を送ってきた様で、身の回りの整理も終わり落ち着いてきたので、これから自分の人生を見直してみようと思いこの話に発展したようだ。
すぐに輝は思った──きっと妻に先立たれ、その悲しみから立ち直ると決心した矢先、紀子さんと出逢い予てからの夢だったカフェ経営の話へと……。とまあ、こんな感じだと思い込んだ。
「じゃあ、その彼氏と一緒にこれからの新しい道を行くんだね」
正解を確信したかの自信にあふれ、うんうん頷きながら輝は言った。
一瞬空気が張り詰め、そして間髪を入れずにものすごい勢いで紀子の突っ込みが入った。
「んなわけないじゃん。彼氏なんてどこから出てくるのよ。輝!あんたどんな妄想して聞いてたのよ~まったく~」
あきれ果てた紀子はソファーにうなだれた。
「え!彼じゃなの!な~んだ」
そう言って輝もソファーにゆっくり倒れ、転がったままひと通り妄想話を聞かせた。
――じゃあいったい誰なんだ――
輝の頭は新たな疑惑にササッと切り替えられ、また当たりもしない推理を始めた。最近新しく始まったテレビの推理サスペンスにどっぷりハマっていたので今度は妄想ではなく推理だと自分に言い聞かせ探偵ぶって腕を組んだ。
しかし、紀子さんが共同経営するくらい信頼していて、急に独り身になった人って誰か居たかな?
「お客さんじゃないの?」
和樹も参入してきた。
輝は天井の模様を眺めながらお客様の顔を浮かべてみても…
「居ないなぁ~」
「じゃあ業者さんとかは?」
和樹も絞り出しているようだ。
今度はカーペットの繊維を見つめて店に出入りしている業者さんの顔を浮かべてみた輝。
「違うよな~」
う~ん………もう尽きた。
あーだこーだと輝と和樹の突然始まったコントを特等席で楽しんでいたが見かねて紀子は言った。
「何言ってんの!喜美子よ」
「へぇ~、喜美子さん……えっ!お母さん!」ザ・パニック。
完全に予想外・想定外!ここで母の名が出てくることに理解が出来ずに輝の頭はショート寸前。さすがの和樹も立ち上がって頓珍漢な事を言った。
「えっ、お義父さん亡くなったんですか?まだ挨拶もさせてもらってないのに」
素直な意見を述べた。
「死んでないわよ、離婚したの。二人ともまあ落ち着きなさい」
そう言われても予想をはるかに超えた衝撃過ぎる展開に落ち着いてはいられない。二人はソファーの上で脱力しきっていた。頭の上から湯気がブスブス出ているかの様だ。紀子が仕事終わりにちょくちょく出かけていたのも、一泊でお泊りしていたのも、彼氏が出来たわけじゃなく、喜美子とタカシとの離婚手続きや、札幌へ移住を決めた紫織の新築の件、祖父母の遺産手続きなどいっきに重なってしまったので、紀子は喜美子をサポートしていたのだそう。
「にしても、なんで内密に進めていたの」
輝の言葉を聞いて、確かにと言わんばかりに和樹もうなずいた。
「喜美子はね、輝と和ちゃんの一番楽しい時期に離婚だとか遺産相続だとか、そんな話をするのは気が引けるって言うのよ。それに今じゃなくても全部が落ち着いてから話せばいいからって、母の愛よね」
そう言って紀子は二人に微笑んだ。自分が大変な時でも、母は私の事を思ってくれていた事を知るとふと昔を思い出した。
輝はいつも控えめな母の姿があまり好きではなかった。自己主張するわけでなく、いつも誰かや何かを優先して我慢ばかりをしているように輝には映っていたのだ。「こんな生き方の何が楽しいんだろう」とシニカルな視点で母を見ては「自分は絶対にこんな風にならない」といつも自分に言い聞かせていた。けれどこんな想い方、愛し方が母なのだと腑に落ちた。
輝の父タカシは金髪の女性に心を奪われ、それ以来ずっと一緒に暮らしていたそうだ。海外に赴任して間もなく出逢ったらしい。残酷な報告だ。喜美子は二十年近く騙されていたなんて知る由もなく、ただひたすら家族に尽くしてきたのに、最近になってその話が確証を得たとたんに今まで耐えて耐えて耐え抜いてきた理性という鎖がぶっ飛んで爆発したらしい。
タカシは長年の喜美子に対しての罪悪感から解放されたいが為に、両親の遺産を放棄すると言ってきた。しかし余りにもショックだった事と、口下手だった喜美子は言葉が見つからず唇を噛み締めていた事と、淡々と静かにそして多くを語らなかった事が、タカシの恐怖心を誘い慰謝料が跳ね上がったそうだ。
そのお金を元手に伊勢谷家をリフォームし、カフェを始めようという事になった。少し冷静さを取り戻した輝は、「これは本気で私も住むところと仕事場探さなきゃ」心のどこかで冷静に考えていた。
そこで紀子は冷蔵庫からいつものビールを三本出して、カシュっと開けて輝と和樹に渡し自分のも開けてこう言った
「それでね、ここからが重大発表」
紀子は深呼吸をした。
「ちょちょちょっとまだあるの?いくら若くても心臓がついていく気がしないよ」
「喜美子がね、輝達さえ良ければ一緒に住もうって。離れが在るでしょ。そこをリフォームしてあなた達の住むスペースと美容室を作らないかって。どう輝?もちろん返事はすぐじゃなくていいの、和ちゃんとゆっくり話し合って決めていいのよ」
静まり返った空間に心臓の音が跳ね上がって行く気がして輝は慌てて胸を押さえた。和樹は輝の肩を優しく抱いて引き寄せた。
「いい話なんじゃないか?だっていつもお母さんの事気にしてたじゃないか」
確かに輝は母をあの家に置いて出た事を心のどこかで後悔していた。かといってあの時、自分が母の為に出来る事なんて何もなかったし、母を救うなんて大それた事もできなかった。ただ自分を守ることに精一杯だった。当時は無力だったけれど、今なら母の為に何か出来るかもしれないし、一緒に暮らすことが二人にとって幸せなのかもしれない。そう思いながらも輝は長年の母に対する憎しみのような思いを払拭できず迷っていた。そんな輝を見て和樹は
「輝、頭で考えたら駄目だ。迷った時こそシンプルにするんだ。輝の心はどう感じてるんだい?今の話を聞いて心はどう動いた?イライラ?ドキドキ?ワクワク?鳥肌が立つほど嫌な話だったかい?」
輝は黙って首を横に振った。
心が追い付いて来ないんじゃない、心に頭がついて来なかった。
二人のやり取りを穏やかな気持ちで見つめていた紀子が、輝を気遣い今夜は寝るように伝えた。
どんなに心が動くいい話であっても、輝の辛い子供時代を過ごした場所に帰ると思っただけで体が自然に強張った。輝にとってこの話は、辛かった感情やトラウマを手放すチャンスだと本人も周りもよく分かっていた。しかし誰も輝を急かす事はしなかった。いつの間にか輝の気持ちを大切に考えてくれる人達に見守られていた事、そしてそれがどれほど幸福な事なのかを噛み締める程、胸が熱くなり涙があふれて眠る事が出来なかった。
人生の中で「チャンス」は幾度となくやってくるだろう。そのチャンスを見極めるには頭で考えない方がいい。頭の中のデータには今まで成長と共に育ってきた環境で得た不確かなものや、人の希望や願いも刷り込まれている。それが自分の本当の望みなのか、誰かの願いなのかを分からなくさせてしまう。
ではどう判断すればいいのか……。
それは「自分の心と向き合う」こと。
チャンス到来で自分の心が楽しくわくわく弾んでいるか。チャンスを掴んで夢を叶えた未来の自分が笑顔で幸せにしているかをイメージが出来たら、自らの人生を創造できるのだ。
無意識に刷り込まれた情報は、挑戦を拒む。
「みんなと同じように」「人に優しく自分に厳しく」「困難を乗り越えた先に幸せは在る」など聞いたことのあるフレーズだけれど、このじんわりと意識の根っこに標された社会の法則から外れると村八分が待っていると不安を植え付け行く手を阻む。
~あたかも自分が考えたように~
そうすると必死になってまた頭を使い出し、「そうだ人が喜ぶことをすれば良かったんだった」「みんなが言ってるから本当は嫌だけどその方が丸く収まるよね」こうやって本音に蓋をして誰かの犠牲になって生きにくさを感じながら出口を探す人生が始まる。
自分自身に無視され、素直な感情に蓋をされ、抑え込まれた本心は行き場を失い、いつかのタイミングで爆発しあふれ出す。無意識に自ら病気を作りその現状から逃げ出そうとしたり、そうした状況に出くわさない為に家に閉じこもったり、最悪の場合は死をもちらつかせる。今の自分の人生に納得できないのなら、病気や死ぬ選択をする前に一度自分の本当の声を聴いて素直になってみるのもいいんじゃないだろうか。
今までは虚勢を張ってなきゃ、やってられなかったんだ。無言を決めてかっこつけなきゃ、やってられなかったんだ。そんな窮屈な誰かの決めた刷り込みの中を生きていくのをやめてみるのも一つの選択だ。
なぁに死にゃしないさ。人生が楽になるだけ。
暖かな日差しの青空に朧雲のカーテンがかかる穏やかな大安吉日。喜美子と紀子、念願の古民家カフェの引き渡しが行われた。オープンを三週間後に控え二人は大忙し。
紀子の美容室はどうなったかというと、これがまた神がかっていて歌子さんという常連客のお孫さんが東京での武者修行を終えて横浜で独立しようと美容室の居ぬき物件を探し始めてるとパーマ中の歌子さんがボソッと話したのが運のツキ。双方ともに条件を満たしていたので話は急展開に進み、お孫さんはこれを機に結婚・独立へと駒を進め、店舗付き住宅ゲットで一石二鳥のラッキーガールに、そして紀子はこの神がかった出逢いに一度も悩むことなく全てスムーズな万々歳の幕引きとなった。
結局、輝と和樹も伊勢谷家の離れに住むことを決め、住居もお店も輝の好きなようにデザインさせてもらいリフォームも完成し、これから四人の新しい生活がスタートする。
隣町で仕事をすぐ見つけられた和樹は、手に職があり身についた技術はどんな場所でも信用にも繋がる事だったんだと師匠の顔を思い浮かべ改めて感謝した。人懐こい和樹はすぐに他の職人とも打ち解けて存分にキャリアを活かし重宝がられた。
その夜、オープンするカフェ「リベルタ」で祝賀会を開いた。と言ってもいつもと変わらないメンバーではあるが、お祝いなので飲み物と食べ物がワンランク上の物が用意されていた。
「リベルタ」とはイタリア語で自由を意味している。
紀子もこの土地にすぐ馴染み、ご近所さん情報で美味しいワインをゲット。さすが長年サービス業をしていただけの事はあり、特に女性との話は難なく距離をつめる事が出来る。
何といっても大変貌を遂げたのは喜美子だった。
例えば、大事故で死にかけた人が命を取り留めたら別人のように悟りを開いていた……みたいな話がよくあるが、まさに喜美子にもそれが当てはまる。事故は起こしていないが、人生の大事故を経験したのでまるで「つきもの」がとれたように明るく・軽く眩しいくらいの笑顔が印象的になった。
紀子は「学生の頃に戻ったみたい。」と懐かしがっていたが、輝にとっては信じがたい光景で、母は双子だったんじゃないかとお得意の妄想癖が首を出した。変身後に出逢った和樹に至っては、話に聞いた昔の喜美子の方が信じられないと疑う始末。
母はたった一度の人生で二人の性格を体験したようで何だかお得感があるなと輝ならではの安直な納得の仕方をした。祝賀会が楽しく始まった頃、輝が喜美子と紀子に聞いた。
「ねえ、このカフェなんで完全予約の会員制にしたの?」
これには深い理由が色々あった。
一、予約だとお客さんの人数が分かるので仕入れに無駄がない。
二、喜美子と紀子の年齢を考え心身ともに無理をしない様に。
三、世の中には夫婦間でモラハラや、フキハラを受け、喜美子の様に言いたい事も言えずに苦しんでいる人がいるから、この店でだけは気兼ねなく話が出来て共有もできて、独りじゃないんだって前を向いて欲しいから、お客さんの層を限定しみんなで支え合いながら自立できる様に寄り添って行きたいという思いが込められていた自分達の経験が困っている人の役に立てばと考え、いわば駆け込み寺のようなものだろう。喜美子は店名を「駆け込み寺」と名付ける予定だったがあまりのダサさに紀子は必死に説得し、それでもまだ後ろ髪をひかれる思いで居たのだから輝の安直なセンスのなさは喜美子譲りかもしれない。お店のコンセプトを話しているうちにどんどんワクワクする二人とは反対に輝の顔は曇っていた。いち早くその変化に気づいたのは和樹。やっぱりここは和樹でなければ。
「輝、どうしたの?食欲なさそうだね。さっきからフルーツばっかり食べてるよ」
輝はお店のソファーにゆっくり座り
「うん、何だか身体もだるいの…風邪かな?」
そう言った輝の表情を喜美子は見逃さなかった。
「もしかして輝、あなた妊娠してない?」
喜美子が核心をついたように言った。紀子も和樹も目をまん丸くして一斉に輝をみた。
輝の生理のサイクルは不安定だったため、遅れてるのかどうか分からなったが、さすがに三か月遅れているとなると妊娠の確立が百パーセントに近づく。輝はどこかで分かっていた様な顔つきで静かにうなずいた。
「やっぱりね。今日会った時、顔つきが少し変わったって思ったのよ…何故だか分からなかったけど今納得したわ。それだけ遅れていたらたぶん確実じゃないかしら」
輝は皆に妊娠を受け入れてもらった事にホッとしたのか「明日病院に行ってくる」そう言って笑顔でまたフルーツを食べ始めた。ここで固まったままの若輩者の和樹が我に返り輝に詰め寄った。
「マジで!子供ってマジで?」
目を大きく開き少女漫画の様にキラキラさせ、溢れでる歓びを必死に抑えて冷静を装っているが、残念ながらだだもれだ。
「病院行ってみないと分かんないよ」
和樹は軽く冷たく輝にあしらわれ、紀子に頭をポンポンされなぐさめられた。
翌日、病院では嬉しい結果に輝の心が弾む……と思っていた。
しかしエコーで赤ちゃんの心音を確認しても、看護婦さんに「おめでとう」を連発されてもまだお腹の中で赤ちゃんが生きてるだなんて実感が湧かなかった。そして自分に子育てなど出来るのか一気に不安が押し寄せた。が、取り敢えず先ずは一旦赤ちゃんと一緒に喜ぼうとお腹に手を当てて「これからよろしくね」と静かにほほ笑んだ
その夜輝の中に宿る新しい命をみんなで祝福し、もうそこは幸せを分かち合える場所になっていた。
命の誕生は歓びでもあり、責任でもあり、不安の種でもあったりする。実際五体満足で生まれて来る保証はどこにもない。今体が十分に動いているなら奇跡であり、感謝するべき大きなポイントだろう。かといってハンディーを持って生まれた子供やその家族が必ずしも不幸であるとは限らない。何が自分にとって本当に大切なのかを分かっていれば、きっと愛にあふれた人生を送れる。「このままの自分でいい」と腑に落ちた瞬間から自分の生きている現実の世界が魔法の様に変わりだすのです。
美容室の窓から見える楓が暖かく鮮やかに色づいた頃、輝の大きなお腹はお店のセットイスにつっかえる程になっていた。有難い事にお腹の赤ちゃんも順調に大きくなり、どうやらドライヤーの音がしていると心地いいのかピクリとも動かず眠っている様子で、仕事をしている時に困る事はなかった。
お風呂に入るとこれまた気持ちいいのかお腹の外からでも赤ちゃんのかかとがわかる位、グーンと伸びを何度もした。しかし困ったことに輝の寝る時間になると元気よく動いてなかなか寝てくれない。仕事に協力的な母想いな赤ちゃんで助かったが、夜は純粋に寝かせて欲しかった。
ある日お客様から「パーマやカラー中に産気づいても困るから、そろそろお店を閉めて出産に向けて心も身体も準備したらどう」と気遣われ、その後産休のお知らせDMを顧客に出した。
会員制のカフェはというと、ネットに載せた事で必要な人に広まり思いもよらず連日大盛況。それだけ悩んでいる人が多いという事だろうか。
四人ともそれぞれの場所で、日々忙しく過ごしているけれど心のどこかで「その時」を待ち望んでいた。
そんなある夜、静かに眠る和樹をユラユラと起こす輝。
「和ちゃん起きて、何か私漏らしちゃったみたい」
「えぇ…。漏らしたって何を?」
寝ぼけながら和樹が寝返りをうった。
「だからいよいよ赤ちゃん生まれるかもって事」
「えぇっっっ!ちょちょちょっと待って、どどどうすればいいんだっけな」寝ぼけ眼だけどパニックの和樹。
輝はどうやら破水をしたようだ。事前に病院で説明を受けていた為、案外落ち着いていた。右往左往する和樹をよそに輝はシャワーを浴びて着々と入院の準備を始めた。和樹の役割は病院に連絡を入れ、母屋の二人に状況を伝え、荷物を車に乗せて玄関で待機をする、それが和樹に与えられたミッションだ
病院に着いた輝は、喜美子と紀子に支えられ重そうなお腹を大事に守りながら、1つの新しい命を生み出すその時に向かって勇ましく入って行った。
まだすぐに生まれるわけでは無さそうなので、喜美子と紀子は自宅に戻り報告を待つことにした。破水はしたものの陣痛が来ないので身体を動かすように言われ、病院内をウロウロしていたが赤ちゃんからはまだ何の音沙汰もない。
──それはそうと何だかうまくいっているな――
二日前お客様にDMを送り終えていた事に改めてホッとした。
和樹は休暇願を出しに一度会社に行き、立ち合い出産に向けて段取りを始めていた。輝も階段の上り下りを繰り返していたが、さすがに疲れて来たので病室に戻ると喜美子と紀子が来ていた。見るからに不安そうな輝に喜美子はこう言った。
「輝、大丈夫よ。赤ちゃんだってあなたに会えるのを楽しみにしているの。赤ちゃんと二人で協力して一大イベントを乗り越えるのよ」
輝は少し涙ぐんで
「私が生まれた事はあまり喜んでもらえなかったけど、この子はみんなに祝福されている。パパにだってお祖母ちゃんにだって紀子さんやお客様、ご近所さんにも……。あなたは幸せ者よ。良かったね」
そう言ってお腹をさすって子供に語り掛けた。
紀子はすかさず
「そうよ紀ちゃんも待ってるからね~」
そう言って輝のお腹をさすって励ました。
「伊勢谷さん、そろそろタイムアップだからお薬入れて陣痛を起こしましょうか」
看護婦が点滴を持って輝の部屋に入ってきた。
自力での陣痛は無理だったので、いよいよ促進剤の点滴が投与されるようで、輝は静かにベッドへ横になり緊張しながらはにかんだ。
点滴を始めても喜美子や紀子と「薬効かないね~」なんて陽気に話していたのだが、次第に顔が歪みはじめ腹部と腰にじわじわと痛みを感じるようになってきた。
それと同時に和樹が帰ってきて、休暇願も受理され二週間、心置きなく輝の傍に居られる事を伝えるとちから強く手を握った。
「さあバトンタッチ、ここからは夫婦力を合わせて乗り越えなきゃね」と喜美子と紀子は病室を出た。促進剤で誘発された陣痛は、体が自然に起こしたものでは無い為か痛みのない時間があまり感じられない。ずっと続く痛みの中に強弱があり、強い時はアニメによく出て来る百㌧ハンマーで腰をガンガン叩かれているようだった。今まで生きて来た中で感じた事のない痛みがひたすら続く。言葉にならない声で「ヒーヒーフー」震えながら息を整える。とにかく励まし続けるしかできない和樹は、輝の腰をさすりながらどんどん変貌していく妻の姿に若干恐怖を覚えてきた。出産は痛みの頂点に近づく当たりから、女性らしさやしおらしさなどというものがバッサバッサと剥がれ落ち、理性すら完全に崩壊させながら生み出す痛みを乗り越えていくようだ。
女性は強い、母は凄い。女性は怖い。母はたくましい。
和樹はリアルタイムで現場の空気を感じていた。普段は絶対言わないが痛みに対して罵詈雑言の数々が輝の口から飛び出して来るのを、ただひたすらクラッシック音楽を聴いているのだと自分に言い聞かせ、その(・・)時芽生えた(・・・・)「愛」で聞き流そうと心に決めた。
この世に生まれ出るという事は、一つのドラマが始まるという事。
その人生にはどんな歓びや楽しみが待ち構えているのか、どんな辛い出来事を乗り越えなければならないのか…人生とは奇跡の連続だ。人の多くは成長と共に、共存するものの影響で「ありのままの自分を生きる」事が困難に感じる時が一度は来る。「人と自分は同じではない」と物心ついた辺りから意識し始める。人と自分は同じである訳がなく、違っていて当然で表現は自由であっていいのに制限され、人生の本質を誰かに教えられるでもなく誤解したまま大人になっていくのだ。
そもそも完全な調和のとれた状態で生まれているのに、歪んだこの世界であえて時間をかけ不完全な形を創り出し、その自ら作り出した幻影に悩み苦しむ。魂は永遠だが、長いようで短い人生の中で、何にフォーカスし何が歓びなのかを見つけていくのは簡単なゲームのようで、複雑に入り組んだ迷路のようなその時々によって形を変える異空間に私達は人生という旅に出ているのだ。
「本当の自分に出逢う為に」
長丁場の陣痛も輝の粘りも、やむなく限界を見せ始め一晩頑張り続けた輝が吐血した。母子ともに元気で逢うには帝王切開という新しい選択肢が和樹達に与えられた。手術の準備を始める看護師たちと、廊下の椅子の上で慌ただしくサインをする和樹の前を、疲れきった勇者の輝が運ばれていくのを数歩追いかけては立ち止まり何を語るでもなく静かに見送った
廊下に響き渡るストレッチャーの音が小さくなるのを追いかけて、後ろからパタパタとランダムなスリッパの音が近づく……連絡を受けた喜美子と紀子だった。三人は廊下の長椅子に座り、手術中の赤いランプを交互に見つめ、祈る想いで誕生の瞬間を待ち続けた。和樹は血を吐いた輝の姿が脳裏から離れず、このまま何かあったらと心配になりガタガタと震えはじめた。
「大丈夫。輝にも赤ちゃんにも、もうすぐ逢えるわ」
紀子は和樹の弱弱しい背中をさすりながらそう言った。
喜美子も和樹の手を取り
「お母さんって強いのよ、輝も子供も大丈夫よ、パパがしっかりしなきゃ」そう言って励ました。
「そうよ、赤ちゃんは輝しか産めないけど、和ちゃんは和ちゃんにしか出来ない事をちゃんとしているわ。輝にだって赤ちゃんにだってちゃんと伝わっているわ」
二人の愛のある叱咤激励を受け和樹はようやく自分を取り戻し、ふと顔を上げた。
「母さんもこんな思いをして俺を産んでくれたのかな……。親の事こんなふうに思ったことないから偉そうな事ばっかり言ってたな。今だったら絶対ありがとうって言える気がする」そう言って目を潤ませながら小さな声でつぶやいた。
「おぎゃーおぎゃー」静けさを蹴破り元気な鳴き声が響き渡り、三人は一斉に立ち上がってお互いの体中をたたき合って歓んだ。満面の笑みを浮かべた看護婦さんが手術室から出てきて和樹を連れて行った。
和樹にとっては神域に入るかのように呼吸を整え鳴り何故か一礼し、元気な輝と子供の顔を確かめたくて、鳴り止まない心臓の爆音と足早なスリッパの音とがリンクした。
「パパさんおめでとうございます」
最後の扉が開いた瞬間、フワッと赤ちゃん誕生の柔らかい祝福ムードに包まれた。和樹はパパとしてゲートをくぐり、遅ればせながら家族の一員である称号をもらった気がした。目の前のベッドにはまばゆいばかりに後光のさした輝と、その隣には小さな小さな二人の奇跡が眠っていた。少しの対面の間に沢山の言葉が和樹の脳裏を駆け巡った。
「可愛い…」
「輝ありがとう。こんなかわいい子生んでくれてありがとう…よく頑張ってくれたね…ありがとう」
こんな当たり前の言葉しか出てこなかった。
輝は後の処置が残っている為その場に残り、和樹たちは病室で待つ事にした。輝の神々しいあの姿をどう2人に分かってもらおうかと、身振り手振りで伝えようとする姿が滑稽で喜美子も紀子もクスクスと笑った。そしてこの子になら輝を預けても大丈夫だと安堵した。
しばらくして輝が病室に帰ってきた。さすがに切腹をした後なので心なしか元気が無いように見えるが、鎮痛剤が効いているのか口は随分饒舌になっていた。吐血してから帝王切開、赤ちゃん誕生までの一部始終をペラペラと流暢に解説し始めた。
──局部麻酔とはいえ切開後なのだから普通なら疲れて眠ったりするんじゃないか── と三人共心の中では思っていたが、そんな常識も吹っ飛ばす勢いで輝は誇らしげに話し続けた。つまり、産後ハイとでも言うのだろうか。
輝は大きな不安や大きな痛みを乗り越え小さな命を授かった事が、これまでの嫌な思い出や辛い過去も一掃されたような清々しい気持ちに包まれていた。
しばらく話して電池が切れたように輝は眠りについた。
三人はスヤスヤ眠る無垢な赤ちゃんのベッドを囲み、まるで教祖様を慈しむ信者の様に生まれたての奇跡を改めて実感していた。そんな中、和樹がまた独り言のように静かに話し出した。
「僕が初めて輝と逢ったのは、親しい友達四人での飲み会の時で、結構お酒も入って楽しくて盛り上がってたんですよ。同じ店に飲みに来ていた輝がトイレに行った時、爆笑する僕の横を通りすがりながら「あんた寂しそうだね」って言ったんですよ。もうギョッとしました。一瞬ですべてを見透かされたように感じて身震いしたんです。その言葉の意味を理解するまで時間が止まったようでした。父が亡くなった事がいたたまれなくて飲み歩く日が続いてたんで」
喜美子も紀子も輝の共感力の高さに「輝らしいな」って微笑んだ。
「和樹君の悲しみや寂しい心がハッキリと観えたのね。あの子も小さい頃から我慢しなきゃいけない境遇で辛い思いを沢山して来たと思うから」
そう言って喜美子は眠っている輝を見つめ子供の頃を思い出していた。
雨上がりの虹が山の合間にくっきりと顔を出した青と白のまばらな空の下、当時四年生だった輝は、姉の紫織と近所の子供達四・五人で田んぼや畑の畦道を走り回っていた。輝の家の裏手には発展途上の小高い山があり、よく皆でおやつを持って探検に行ったり、かくれんぼをして遊んでいた。しかし山でのかくれんぼに至っては範囲が広すぎてなかなか見つからず、逆に退屈になるので初めてみるものの、いつも早いうちに却下された。
一通り走り回りエネルギーを発散させた後、のどを潤すのに家に戻り皆でオロナミンCを一気に飲み干すのが贅沢な日バージョンで、普段は子供といったら麦茶と決まっていた。この当時オロナミンCと瓶のサイダーはどこの家庭でも冷蔵庫に常備されていて、オロナミンCは何故か子供心をわくわくさせる代物だった。
この日輝の幼馴染の京子ちゃんは、誕生日に買ってもらったドールハウスをみんなで遊ぼうと持って来ていた。これもまたこの時代は女の子に爆発的な人気で、ミニチュアのウサギシリーズや○○ちゃん人形お店シリーズなどがツートップだった。京子ちゃんがプレゼントしてもらったのは、○○人形のお店シリーズ「おしゃれに変身キラキラ美容室」というさらに女心をくすぐるネーミングのドールハウス。シャンプー台もありレジもちゃんと完備していて、セットイスに人形を座らせて、前の鏡に色んなヘアースタイルが描かれたパネルを入れ替えるだけという至ってシンプルな構造なのだが、女の子たちの目には星が沢山輝いていた。
「いらっしゃいませ~」「今日はどうされますか~」「はい、短くカットですね」なんて店員や客になりきり、交代しながらキャッキャ言いながらなりきり遊びを楽しむのです。
いよいよ輝の番がやってきたその時、村中にけたたましく響き渡る魔のサイレンが鳴りだしたのです。
「ウゥーーー」五時を知らせるサイレンです。
「あっ五時だ、帰らなくちゃ。輝ちゃんはまた今度ね」
京子ちゃんはパタパタとドールハウスを片付け「バイバーイ」と無邪気に帰っていった。輝の虚しさたるやもう・・・。
順番を待つ間に強烈なわくわく感を感じていた為、期待と高揚感をごっそりサイレンにもぎ取られ、呆気にとられ口をぽかんと開けたままの輝はその場でぽろぽろと泣いてしまった。
「泣いても仕方ないわね、あれは京子ちゃんのもんやさけなぁー」
ちっとも慰めにならない祖母の言葉に輝は腹を立てて
「そんなん分かってるわ」
行き場のない悔しさで祖母に当たってしまった。
それ以降京子ちゃんはドールハウスを持って遊びに来ることはなかった。
「次は私の番だったのに…京子ちゃんは嘘つきだ。」
きっとあの日は単にみんなに見せびらかしたかっただけなんだと輝は京子との仲に亀裂が入らないよう自分を納得させるしかなかった。
ちなみにその年に輝が買ってもらった誕生日プレゼントは「クイズダービー」TBS系伝説のクイズ番組で毎週土曜日の茶の間を賑わしていた。それのボードゲームが出て、あのテレビごしのワクワクが自宅で出来るなんて夢のようだった。賭け点の所がクルクルと回るシステムになっていて、子供はそれだけでときめいてドゥルルルルルルと鳴るドラムボタンを押す司会者の取り合いになった程でした。
輝の子供時代は楽しかったのかと思いきや、やはり実際そうでもなかった。
姉妹が居る家庭の場合、大抵は「お姉ちゃんなんだからちょっとは我慢しなさい」というフレーズが多いと思うのだが、伊勢谷家は違った。「妹なんだからお姉ちゃんに譲って当然」というあり様。男尊女卑ならぬ長女絶対制度がはびこっていた。
紫織の誕生日には○○ちゃん人形のバカでかいドールハウス。一方輝はといえば先程のクイズダービー。超人気番組なだけに遊びに来た友達は取り敢えず遊ぶけれど、やっぱり女子受けがいいのは着せ替えなりきり遊びだ。紫織の三階建てのドールハウスは置き場に困る事は無いのだが、なにせ三階建てだから人形も沢山準備され、着せ替える服や靴といった小道具も品ぞろえ豊富だったため、近所の女の子はこぞって紫織を訪ねて来た。悲しいかな輝も黙ってその輪に入る。輝だって人形で遊びたかったのだ。紫織は何故か二人の時には決して遊ばせてくれない。きっとみんなの前で妹に優しい姉を演じたいだけなのだろうと輝はまた自分を納得させた。
子供の頃に背負った小さな心の傷は、やがて大人になった時に体の隅々から顔を出し始める。子供ながらに納得させた想いはまだ未熟で、思い違いをしたまま疎外感や猜疑心と形を変え人生の大事な場面で行く手を阻んでくる。
幾重にも塗り替えられた傷への想いはいずれ自分を無価値だと思い込む。
子供の頃に悲しい想いをした時、悲しいと言える環境で無かったならきっとその思いを飲み込み無かったことにしただろう。「悲しかったんだね、そっかーあなたは辛いんだね」と気持ちを理解してくれ、寄り添ってくれる人が居たなら違っただろうか。
たらればの話は全く意味がない。
選択した現実が望むもので無かったらきっと選択しなかった方が良かったのだと思い込んでしまうからだ。そんな不安定なたられば話は続けるだけ時間の無駄だろう。
辛い思い出のある人の幼少期にこう言われることが多かったのではないか…
「文句を言ってはならない」
「楽しい事ばかりをしてはならない」
「自分を優先してはならない」
「親や先祖を敬いしきたりを守りなさい」
直接この言葉ではないにしても、遠回しに言葉巧みに誘導する。
誘導している人もそう言われて育ったのか悪気も罪悪感もない。本人がそのことに気づくまでは。こんな風にコントロールされて感情の出し方を忘れた大人は、コントロールをする人たちとって都合のいい大人に改造される。良い人を演じていれば文句も言われないし、関わってもらえるしそれが愛だと錯覚し自分を消すことを無意識に選択する。消した自分はどこに行くのか…どこにも行かない。だって自分だからどこにも行きようがない。そしていい人を演じる中で本心は光を浴びずにいつまでもモヤモヤとくすぶり続ける。
同時に二つの自分を管理するのはかなり疲れる。
「本来の想いではない言葉」「本来の感情ではない行動」そのギャップと分離が気力や体力を消耗させ、いつか身体が動かなくなる。病気や引きこもりを誘発しいい人を続けられなくさせ、ここからくすぶり続けた感情の反逆が始まる。そもそも自分という存在の片方だけを認め受け入れ、片方を無かったことにするなんておかしい。人に認めてもらいたいから自分を変えるなんて自分に失礼極まりない。
「自分を生きる」とは、自分の感情全てに責任を持つという事だ。「自分を生きる」ことを放棄するのは一番「愛」のない行動だ。
人に求める愛を自分に向ける事で本当に本当に本当に満たされる。求め続けているものは外側には無い。あの日あの時に葬り去った感情に自分が向き合うだけでいい。
「○○が優しくしてくれたら」
「○○が寂しさに気づいてくれたら」
そんないつ埋まるか分からない不安定なものより、自分自身で「私はあの時すごく悔しかったんだよね。ほんとは殴りかかってでもあの人に謝らせたかったんだ。それ程屈辱的だったんだ…でも出来なかったんだよね。その選択でその時は良かったんだよ…大丈夫だよ。頑張ったね…抑え込んでごめんね…ありがとう」これだけで長年心の中に住み続けた違和感やくすぶり続けた感情は解放される。
本当に開放されたいのは抑え込んだあの時の自分からの解放なんだろう。
「宙空そら」と名付けられた元気な男の子。
帝王切開で生まれて来たからなのか、少し呼吸の仕方が不規則だとしばらくの間保育器に入れられていた。。
「産道を通っていない分、赤ちゃんにストレスがかからず突然外の世界に出たもんだから、自分で息をするのを忘れてしまうんだよ」
そう主治医に笑いながら説明を受けた輝は
「そうなんだー息するのを忘れるんだー」
先生に合わせて軽く言ってたけど、よくよく考えてみたらその止まってる時に誰も気づかなかったら…輝は青ざめてすぐにナースコールを押し看護婦さんに詳しく話を聞いた。命には別条はないという事を諭されひとまず落ち着いたが、後に安易な説明で不安をあおった主治医は産後のナーバスな状態のお母さんになんてことを言うのかと婦長さんにこっぴどく怒られたらしい。
そんなこんなで無事退院をして家に帰った輝家族。入院している間にみんなは帰って来る輝と宙空が過ごし易いように必要な物をそろえて環境を整えてくれていた。腕に宙空を抱き、その空間に入るや否や幸せいっぱいになった。
──この時までは――
「おぎゃー」
「おかしいなぁーおっぱいも飲んだし、おむつも変えたのに」
「おぎゃーおぎゃー」
「よしよし何で泣くんだろう……。私が泣きたいよ」
お腹の中ではお利口で母想いだったのに、出て来たらとにかく寝ない宙空ちゃん。和樹の仕事に差し支えない様に外に連れ出しては月を見ながら宥め、あまりにも泣く時は車でドライブに出かける。車に揺られると案外すぐに寝てくれたのだが、いつ何時もドライブというわけにはいかない。やっと寝たと思ってもすぐに起きて泣く。この繰り返しで輝の頭は混沌とし、愛しい我が子を虐待する人の気持ちがほんの少し理解できる所まで追い詰められていた。もちろん喜美子や紀子も手伝ってくれているけれど、二人にも仕事があるので甘えっぱなしという訳にはいかなかった。
「子育てって大変だ……可愛いいだけでは育てられないよ」
輝は弱音を吐きながら月明かりに照らされた宙空を見た時に、初めてキャッキャッと声をたてて笑ったのだ。
「笑ってるよ…もしかして慰めてくれてるのかな」
やっぱり愛しい。たまらなく愛しい。こうやってぷにゅぷにゅとした心地の良い肌触りは最大の癒し。純真無垢とはこの事で、何もできない小さな手が逆に愛おしく感じて、私に全てを委ね信頼してくれているのだと実感した。
「私がへこたれてたら駄目だよね。でも私だってお母さん初めてだからちょっとは大目に見てよね宙空」
満ち足りた気持ちのまま輝は宙空と一緒に眠りに就いたのでした。
出来ない事を責める前に大変な思いをして子供を誕生させた自分を誇らしく思えばいいのではないか。
子供を何人育てようと一人一人の性格は違い、その分関わり方も変わってくる。子供にとってはお母さんは毎回初めてのお母さんなのだ
うつらうつらしながら和樹の朝ごはんを準備していると、よく寝たのかスッキリした顔の和樹がテンション高めで起きて来た。
「グンモーニン♪」
スリッパで思いっきり頭をはたいてやりたくなった。
「宙空ちゃん、よく寝たかな~パパは爆睡しましたよ~」
和樹は我が道を行くタイプで悪気がないのは重々分かっている。だけどこの沸々と湧き出るマグマのような収まらない怒りはどこへ持っていけばいいのだろう。
「あれ?目玉焼き焦げてる…形も崩れてる…輝ちょっと苦いよ」
――へへん、ざまあみろ、状況をよく見て起きてきなさいよね――
「あれ?そうだった?さて洗濯回してこよっと」
今日は小さな反撃だけれど、これは一度膝を突き合わせて話さなければならない絶対案件だと輝は静かにそう思った。
【人の視線】を気にする時、自分の感情はどこか三番目辺りの引き出しに仕舞い込んであったりする。その仕舞い込んだ感情に再度触れることなく死んでいく人もいるだろう。これは少し寂しいものだ。自分の中のかけがえのない唯一無二の感情なのに、触れることなく、無かったものとして葬り去るのだから。私達は、あまりにも自分というものを蔑ろにしている気がする。
だからと言って自分自分と言えば、やれ我儘だの、自己中だの言われ、自分を大事にしている人を見つけては、やれナルシストだ、空気を読めないなどと言われる。さしずめ、自分自分と言わなけりゃ、それはそれで優柔不断だの、自分を持ってないだの好き勝手に言われる始末だろう。この「人の視線」すなわち「人の価値観」にどれ程の意味があり、どれだけ自分にプラスになるんだろうと思ってしまう。
しかし、「人」を意識するのは「個」としての自分を観る事が出来るから必要と言えば必要なのだ。ただあまりにも振り回されすぎるのは自分を苦しめてしまう事になるから注意が必要だ
「宙~空ちゃん、今日も可愛いね~」
にぎにぎとオバ様方がやって来た。
「あらあらなんて顔してるの。輝~ちゃんと寝てるの?」
あぁ、なんて思いやりのある言葉。さすが母上有難く存じます。
「うーん、夜なかなか寝てくれないからなぁー。怖い夢でも見てるのか突然泣き出すから心臓に悪いったらないわ。」
「やっぱり親子ね。あなたも全然寝なくて、私もよく外で月を見たわ」
喜美子は鼻で笑いながら軽くあしらった。
「あーあ、それは輝も宙空ちゃんの事責められないわね~」
紀子さんまで加勢した。
キィィ!さっきの感謝の気持ちは撤回だ。
「明日はお店が休みだから今夜は私が見てあげるわ。ちょっとゆっくりしなさい。」
さらにまた前文撤回。
「ありがとう~ホント神だわ。」
「大げさねまったく。これから先は長いのよ、人手が在るんだから分担すればいいのよ。それに色んな人と関わっておくほうが宙空ちゃんの為にもなるのよ」
「そうなの?」
「そうよ~人見知りもしなくなるし、世渡り上手になるのよ」
子育て経験のない紀子が妙に説得力のある話をした。
「えっ、じゃあいっぱい見てもらおっと」
「基本は親です」
キッパリと喜美子に釘を刺された。
「はーい」
「和ちゃんにも、もう少し協力してもらいなさい。」
喜美子宙空を抱き上げながら確信をついた。
「でも和ちゃん一日外で仕事してくれてるから、家の事まで頼んだら何だか悪いなって思うから、ついついゆっくりしててって言っちゃうの」
「初めはそれでいいと思うけど、お店の仕事が始まったら後々キツクなるわよ。段々子供に手がかかる様になっても家事育児に触れてこなかった旦那さんはいきなり言われても出来ないのよ」
またまた子育て経験なしの紀子は説得力のある話をした。
「そうよ、これからの方がもっと大変なんだから、和樹君にもっと甘えなさい。旦那さんてね、頼られるとそれがパワーになるのよ。私ももっと早くその事を知っていればお父さんとも別れなくて済んだかもしれないわね。何でも私が抱え込んで1人で意地はって頑張って来たから甘えるって事が出来なかったのね…。そりゃ男の人にとっては可愛くないわよね、あははは!」
心ばかり小さくなった母の背中にそっと触れ
「和ちゃんと話してみる、お母さんありがとう。」
喜美子の心地よい揺れの中で眠りについた宙空。
穏やかな日差しの差し込む愛の在る場所で、いったいどんな夢を見ているのだろう。そしてこの小さな冒険者はこれからどんな夢に向かって歩んで行くのかをそっと見守って行こうとほほ笑む三人だった。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
この物語が誰かの静かな時間に寄り添えたなら嬉しいです。




