第二章・第4話:水没する密室と、カビの予感
ジュッ。
そんな音が聞こえた気がした。
私のクリアになったばかりの空間に、黒い彗星が落下してきた。
勇者が投げ入れた『炭化したオーク肉』だ。
それはまだ赤熱しており、中心部には残り火が燻っている。
熱い。
温度センサーはないが、空間の熱エネルギー密度が局所的に急上昇しているのがわかる。
【警告:高温物体を検知】
推定温度:350度。
危険度:火災リスク大。
冗談じゃない。倉庫火災は物流屋にとっての悪夢だ。
私は必死にその炭塊を、燃えやすいもの(ボロ布や紙類)から遠ざけようとした。
「隔離」エリアへ!
例の、ヘドロと薬草と睾丸が融合した「汚物アート」がある壁際のデッドスペースだ。あそこなら、もう燃えようが腐ろうが構わない。
私は炭塊を念動力で弾いた。
炭は放物線を描き、汚物アートの少し手前の床に転がった。
ジジジ……と床(概念的な境界面)を焦がすような音がするが、とりあえず延焼は防いだ。
「ふぁぁ……。飯も食ったし寝るか」
勇者は炭化した肉の残りを齧り、不満げに腹をさすると、テントへと潜り込んだ。
ようやく静かな時間が訪れる。
勇者のいびきが振動として伝わってくるが、日中の激しいシェイクに比べれば子守唄のようなものだ。
私は、静寂の中で被害状況の確認を行った。
・炭化した肉(高温)
・粉塵(換気により減少したが、隅に残存)
・ヘドロ混合体(壁に付着、乾燥中)
・その他雑多なアイテム(位置ズレ多数)
ため息が出る(肺はないが)。
明日は早起きして、これらの位置をミリ単位で修正しよう。
そう決意し、私は意識のスリープモードに入ろうとした。
しかし。
異変は深夜に訪れた。
ポツ、ポツ。
外の世界で、テントを叩く音が聞こえ始めた。
雨だ。
しかも、次第に激しさを増していく。バラバラバラバラ! という豪雨の音に変わる。
「うおっ、冷てっ!」
勇者が飛び起きた。
どうやら、あのボロテントは防水加工が死んでいるらしい。雨漏りどころか、浸水レベルだろう。
「くそっ、どしゃ降りじゃねーか! テントの中まで水浸しだ!」
ガサガサと慌てる音。
そして、勇者はとんでもない決断を下した。
「やべえ、道具が濡れちまう。とりあえず、全部袋に避難だ!」
は?
ちょっと待て。
避難?
今、外は豪雨だぞ?
濡れたものを入れるってことか?
ガバッ。
私の口が全開にされた。
その瞬間、入り口から大量の雨水が滝のように流れ込んできた。
ザバァァァァァッ!!
「うわあああああ!!」
私は絶叫した。
水だ。本物の水だ。
アイテムボックスは通常、水を入れることはできない(専用の容器が必要)という設定の小説も多いが、私は「物理的に入るものは何でも入る」タイプの袋らしい。
雨水が、私の床を洗う。
いや、洗うのではない。汚染しているのだ。
さらに、勇者が次々とアイテムを放り込んでくる。
びしょ濡れになったマント。
泥だらけのブーツ。
水を吸って重くなった毛布。
それらが、ドチャッ、ベチャッ、という湿った音を立てて、私の内部に積み上げられていく。
「これも! あれも! 全部入れろ!」
勇者はパニック状態で、手当たり次第に放り込む。
最後に、彼自身も入ろうかという勢いだったが、さすがに人間は入らないらしい。
彼は袋の口を紐で縛り(外からの物理干渉)、自分は濡れたテントの中で丸まったようだ。
残されたのは私だ。
口は閉じられたが、すでに手遅れだった。
私の内部空間の底には、深さ数センチメートルの水たまり――いや、池ができていた。
冷たい水。
そこに浮いているのは、炭の燃えカス、ちぎれた薬草、小麦粉のダマ、そして謎の木片やゴミたち。
最悪のスープだ。
『闇鍋』という言葉があるが、これは文字通りの『ゴミ汁』だ。
さらに深刻なのは湿度だ。
密閉された空間内で、濡れた毛布やマントから水分が蒸発し、湿度が100%に達している。
ムッとした熱気と、カビ臭い湿気が充満する。
カビる。
絶対にカビる。
このまま朝まで放置すれば、全てのアイテムに青カビと黒カビのコロニーが形成されるだろう。パンなんて一瞬だ。
そして、金属製品は錆びる。
私が必死に手入れしたあの剣も、一晩で赤錆まみれになるだろう。
許容できない。
水没(水濡れ損)。物流において最も避けるべき事故の一つだ。
排水だ。
水を抜け。
私は出口を探した。だが、口は紐で縛られている。勇者は寝ている。
外に出すことはできない。
ならば、どうする?
内部で処理するしかない。
水を、集めろ。
先ほどの「土埃の結合」と同じ要領だ。
液体にも適用できるはずだ。
私は、床に広がる汚水と、空間に充満する湿気(水分子)をターゲットにした。
【範囲選択:液体(H2O + 不純物)】
【アクション:凝縮】
ギュンッ。
空間内の水が一斉に動いた。
床の汚水が渦を巻き、空中の湿気が霧となって集まる。
それらは中心の一点に凝縮され、巨大な水球となって浮かび上がった。
直径1メートルほどの、茶色く濁った水の塊。
中にはゴミが回転している。
まるで巨大なスライムだ。
よし、水は集めた。
これで他のアイテムは(表面的な水分を除いて)乾いた状態に近づいた。
だが、この巨大な汚水スライムをどうする?
浮かせたまま維持する?
私の精神力(MP)が持つか?
寝ている間に力が抜けたら、バシャーンと再びぶちまけられることになるぞ?
固めたい。
水を、固形物にしてしまえば管理が楽なのに。
凍らせる? 冷凍機能なんてない。
ゼリー状にする? 凝固剤なんてない。
待てよ。
凝固剤はないが、「吸水材」ならあるのではないか?
私はアイテムリストを高速検索した。
布類はもうびしょ濡れだ。
他に水を吸うものは……。
あった。
さっき大破した『小麦粉袋』の残骸だ。
まだ底の方に、こぼれずに残っている小麦粉があるはずだ。
小麦粉に水を混ぜればどうなる?
生地になる。
固形(粘土状)になる!
私は賭けに出た。
この巨大な汚水球を、残った小麦粉と混ぜ合わせ、巨大な「泥パン生地」にしてしまえば、流動性を失い、管理可能な「固体ゴミ」になるはずだ。
私は汚水球を、小麦粉の残るエリアへと誘導した。
そして、念動力で小麦粉を巻き上げ、水球の中へと強制混入させた。
グルグルグル……。
私の脳内で、ミキサー車の回転音が響く。
水と、泥と、ゴミと、小麦粉が混ざり合う。
粘度が増していく。
サラサラした液体から、ドロドロのペーストへ。そして、ボテッとした固形物へ。
数分後。
そこには、巨大な灰色のアート作品が完成していた。
『未焼成・泥とゴミのパン生地(直径1.2メートル)』。
動かない。垂れない。
成功だ。
私は液体を封じ込めたのだ。
私は疲労困憊の精神で、その巨大な団子を、例の「隔離エリア」――ヘドロ壁の近く――にそっと着地させた。
ズシン。
重い音がした。
これで、今夜の危機は去った。
空間内の湿度は下がった。アイテムは守られた。
代わりに、謎の巨大なゴミ団子が増えたが、それは未来の私がなんとかするだろう。
私は安心して意識を落とした。
翌朝、勇者がこの団子を見て何と言うか、それは考えないことにした。




