第二章・第3話:換気扇のない焼肉屋と、空気清浄機の憂鬱
私の内部空間は、黄昏時のロンドンのように深い霧に包まれていた。
ただし、その霧の正体は水蒸気ではない。茶色い土埃と白い小麦粉が絶妙な比率で混合された、特製の「勇者風ミックスパウダー」である。
吸い込めば即座に塵肺(じん肺)になりそうな環境だが、私には肺がないのでセーフだ。
精神衛生上はアウトだが。
「さてと、鍋、鍋……っと」
勇者の手が再び侵入してきた。
もはや恒例行事だ。巨大な手が粉塵の霧をかき分け、ガサゴソと探りを入れる。
鍋。金属製品だ。
私は、小麦粉まみれになった視界(認識マップ)で、該当する鉄製品を探知した。
【オブジェクト識別:鉄製片手鍋(凹みあり)】
座標:Z軸マイナス5メートル付近。
勇者の手は、見当違いな方向(Y軸プラス)を探っている。そこにあるのは予備のブーツ(臭い)だ。
私は、もはや反射的にサポート行動に移っていた。
鍋を、念動力で少しだけ浮かせる。そして、勇者の手の甲にコツンとぶつける。
「ここですよ」というささやかなアピールだ。
「お、あったあった」
勇者は鍋を掴み、引き抜いていった。
当然、鍋の表面は小麦粉でコーティングされ、まるで天ぷらの準備万端といった風情だ。
勇者は気にする様子もなく、「どうせ洗うしな」と呟いて鍋を外へ持ち出した。
洗う?
川の水で?
その発想があるなら、しまう前に洗ってくれ。
続いて、食材の選定だ。
「今日は豪華にオークのステーキといこうか。一番いい肉、頼むぜ」
一番いい肉。
私のデータベースには「オークの肉」というカテゴリのアイテムが複数登録されている。
先ほどの戦闘で回収した睾丸以外にも、以前倒した個体から剥ぎ取ったと思われる肉塊が、空間の片隅に放置されていたのだ。
『オークの肩ロース(熟成中)』。
熟成、といえば聞こえはいいが、要するに常温で放置されて腐りかけ寸前の肉だ。表面が少し緑色に変色している気がするが、異世界補正でセーフなのだろうか。
私は、その肉塊を念動力で押し出した。
早く持って行ってくれ。この生臭いタンパク質の塊がなくなるだけで、空間の衛生レベルが1ポイント上がる。
ぬるり。
肉塊が出口を通過し、外の世界へと消えた。
よし、これで少しはマシになる――
そう思ったのも束の間、外から強烈な「匂い」が逆流してきた。
ジュワァァァァ……!
肉が焼ける音。
脂が炭火に落ちて爆ぜる音。
そして何より、焦げた獣脂の濃厚な香りが、開いたままの「入り口」を通じて、竜巻のように吸い込まれてきたのだ。
臭い!
いや、一般的には「香ばしい」と表現されるべき匂いかもしれない。
だが、ここは密閉空間だ。
換気扇も窓もないこの場所に、焼肉の煙が充満したらどうなるか。
匂いの分子が壁に吸着し、アイテムに染み込み、永遠に取れない「残り香」となるのだ。
ファブリーズを持ってこい!
私はパニックになりながら、見えない窓を開けようとした。
だが、窓はない。
唯一の開口部は、頭上の「入り口」だけだ。
そこからは、勇者が「うめぇ! やっぱオーク肉は脂がのってて最高だぜ!」と咀嚼する音とともに、さらなる煙が送り込まれてくる。
入り口を閉めろ!
私は叫んだが、アイテムボックスの開閉権限は、原則として持ち主(勇者)にあるらしい。
彼が食事を楽しみ、出し入れをする可能性がある限り、口は半開き状態なのだ。
このままでは、私の内部空間が燻製室になってしまう。
すべてのアイテムがオーク肉風味になる。
着替えの服も、魔法のスクロールも、予備のパンツも、すべてがバーベキュー臭くなる未来。
それだけは回避しなければならない。
考えろ。
空気の流れを制御しろ。
私は、空間内に充満する煙の粒子をデータとして認識しようと試みた。
先ほどの土埃よりもさらに細かい、分子レベルの粒子だ。
【解析:煙粒子(炭化水素・油分)】
濃度:上昇中。
これをどうにかして外に出す。
入り口は一つ。そこからは煙が入ってくる。
ならば、「逆風」を起こせばいいのではないか?
入り口から外に向かって、強力な風を吹き出せば、煙の侵入を防ぎつつ、内部の汚れた空気(粉塵含む)を排出できるはずだ。
エア・カーテン。
あるいは、局所排気装置。
私はイメージした。
空間内の空気を圧縮し、入り口一点に向かって爆発的に放出するイメージを。
私の体積は無限だが、空気の量は有限だ。いや、そもそもここにあるのは「空気」なのか?
わからないが、対流は起きている。ならば風は作れる。
――全機、排気モードへ移行!
――最大出力、ブロー(送風)!
ゴォォォォォォ……!
空間が唸った。
私の意志に応え、底の方に溜まっていた空気が上昇気流となって巻き上がった。
それは、舞っていた小麦粉と土埃を巻き込み、巨大なベージュ色の竜巻となって頭上の出口へ殺到した。
外の世界。
焚き火の前で肉を食らっていた勇者の視点。
彼の腰にある薄汚れた袋の口から、突如として猛烈な突風が吹き出したのだ。
ブォォォォッ!!
それはただの風ではない。
高濃度の粉塵を含んだ、粉っぽい突風だ。
「うわっ!? なんだ!?」
勇者が驚いて仰け反る。
袋から噴出した粉塵竜巻は、焚き火の煙を押し返し、勇者の顔面を直撃した。
そして、焚き火そのものにも吹き付けた。
ボッ。
火の粉が舞い上がる。
空中に漂う高濃度の小麦粉。
そこに、火種が供給される。
何が起こるか。
理科の実験で習ったはずだ。
「粉塵爆発」。
カッッッ!!
閃光。
そして、爆轟。
ドォォォォォン!!
小規模ながらも、立派な爆発が焚き火の周囲で発生した。
勇者は吹き飛ばされ、焼きかけのオーク肉は空高く舞い上がった。
私は、その衝撃を内部から感じていた。
やったか?
いや、やりすぎたか?
爆風が収まった後、私の内部空間は奇妙なほど静かだった。
粉塵の多くが、爆発とともに外へ排出された(あるいは燃焼した)おかげで、視界が驚くほどクリアになっていたのだ。
空気も入れ替わった気がする。
成功だ。
強制換気システム、稼働確認よし。
多少の犠牲(勇者の安否と夕食)はあったが、私の内部環境は劇的に改善された。
しかし。
外から、焦げ臭い匂いと共に、煤だらけになった勇者の呻き声が聞こえてきた。
「ゲホッ、ゴホッ……! な、なんだ今の……? 敵襲か……?」
勇者はアフロヘアのように爆発した髪を払いながら、煤まみれの手で地面を探った。
そして、空から落ちてきた「何か」を拾い上げた。
それは、爆発の熱で一瞬にしてウェルダン、いや、炭にまで焼き上げられた、元オーク肉の塊だった。
「俺の……晩飯が……」
悲痛な叫び。
だが、勇者は諦めなかった。
炭化した肉を見つめ、決意を固めたように呟いた。
「表面を削れば食えるはずだ。捨てるのはもったいない」
そして。
その炭化した肉を。
まだ熱を持っている、煙を上げる黒い塊を。
「とりあえず冷ますために、袋に入れとくか」
え?
勇者は、再び私(袋)の口を広げた。
そこには、焦げた肉と、勇者自身の煤まみれの手から落ちる黒い粉が迫っていた。
嘘でしょ。
せっかく換気して綺麗にしたのに。
今度は「炭」と「焦げ臭さ」の追加オーダーですか?




