第二章:融合する汚濁と、マトリクス・ソートの萌芽
静寂が戻った。
勇者の歩く振動だけが、ドスン、ドスンと規則的なリズムで私の世界を揺らしている。
私は、目の前に完成してしまった「それ」を、虚ろな意識で見つめ続けていた。
私の神聖なる座標空間の、X軸プラス方向の果てにある「壁」。そこに張り付いている、忌まわしき三位一体の融合体。
基盤となっているのは、最初に剣から剥ぎ取った『泥と油のヘドロ』。
その粘着質な茶色いキャンバスの上に、デコピンで弾き飛ばされた『潰れた薬草』がへばりついている。
そして、その頂点に君臨するように、最後に投げ込まれた『オークの睾丸』がめり込んでいた。
なんて……前衛的なんだ。
現代美術館の片隅に置かれていれば、「現代社会の腐敗と生命の生々しさ」なんてタイトルで評価されたかもしれない。
だが、ここは美術館ではない。食品も扱う(予定の)物流倉庫だ。
オークの睾丸は、ヘドロのクッションに半ば埋没しつつも、自重でゆっくりと下にズレようとしていた。
その切断面からは、まだ鮮血が滲み出ている。
赤い血液が、薬草の緑色の上を伝い、茶色いヘドロと混ざり合う。
赤、緑、茶色。
補色関係にある色が混ざり合い、視覚的に最も食欲を減退させるドブ色へと変貌していく様は、ある種の科学実験を見ているようだった。
「…………」
私は思考することを放棄しかけていた。
もういい。好きにしろ。
どうせ私はただの袋だ。汚物を詰め込まれるためのゴミ袋だ。
そう思えば、少しは楽になれるかもしれない。
――いや、待て。
私の魂の奥底、かつて「在庫差異ゼロ」を誇った管理者のプライドが、微かな火花を散らした。
諦めるな。
状況は最悪だが、まだ「管理」は可能だ。
私は、あの汚物塊から目をそらし、空間全体を俯瞰してみることにした。
幸いなことに、私はあの塊を「隔離」することには成功していた。
座標X=10000付近。
中心点(0,0,0)からは遥かに遠い、辺境の地だ。
ここ(中心部)は、まだ更地だ。
先ほどの土埃がうっすらと床を覆ってはいるが、致命的な汚染物はない。
問題は、「情報」だ。
私はあの汚物塊を、なんと呼べばいい?
「ゴミ」? 「汚物」?
そんな曖昧な定義では、データベース管理はできない。
正確な品名、数量、状態。それらを定義し、ラベリングしなければ、私の精神的安定は得られない。
私は意識をあの融合体に集中させた。
嫌悪感を抑え込み、冷徹な「スキャナー」になりきる。
解析しろ。
構成要素を分解し、データとして再構築しろ。
ピピピ……。
脳内(システム内)で、電子音が鳴った気がした。
【解析開始】
対象オブジェクト群の結合状態を確認。
……エラー。複合体が複雑すぎます。
……再試行。
……構成物質の個別認識を実行。
お?
何かが視えた。
視覚的な映像の上に、半透明のウィンドウのようなものがオーバーレイ表示される感覚。
これは、いわゆる「ステータス画面」か?
いや、もっと無機質な、業務用ソフトのプロパティ画面に近い。
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【複合オブジェクト ID:001】
├ 構成要素A: オークの睾丸(生・破損)
│ └ 状態: 腐敗進行中(0.1%)
├ 構成要素B: 薬草(種別不明・圧壊)
│ └ 状態: 薬効喪失
└ 構成要素C: 汚泥(鉱物油・土・血液)
└ 状態: 粘着性・高
--------------------------------------------------
見えた。
データが見えた!
私は歓喜した。この世界に来て初めての、純粋な喜びだった。
「汚い塊」という曖昧な恐怖の対象が、「ID:001」という管理可能なデータに変換された瞬間だ。
名前がつけば、それは恐怖ではなくなる。管理対象になる。
さらに、私は気づいた。
このウィンドウには、編集可能なカーソルが点滅していることに。
「ID:001」の部分が書き換えられそうだ。
私は意識で入力した。
『廃棄予定_混合ゴミ_01』
エンター。
カチッ。
名称が確定された。
すると、不思議なことに、あのグロテスクな融合体が、少しだけ「記号的」に見えるようになった。
まるで、高解像度のテクスチャ設定を「低」に落とした時のように、生々しさが薄れ、ただの「処理待ちアイコン」のように認識できるようになったのだ。
これは……使える。
この能力を使えば、私は正気を保てるかもしれない。
「認知フィルター」のようなものか。あるいは、管理者権限による「オブジェクト定義の書き換え」か。
私は調子に乗って、床に散らばっている土埃にも目を向けた。
無数の微粒子。これら一つ一つをデータ化するのは処理落ちしそうだ。
だが、「範囲選択」はどうだ?
マウスをドラッグして囲むイメージで、床の一角を意識で囲ってみる。
【範囲選択:床面(1m x 1m)】
検出オブジェクト:土粒子(微細) x 45,280個
アクションを選択してください:
[移動] [結合] [削除(権限不足)]
「削除」はグレーアウトしていて選べない。くそっ、やはり「捨てる」には物理的に外に出すしかないのか。
だが、「結合」?
これはなんだ?
ファイルをzipで圧縮するようなものか?
私は好奇心に駆られ、[結合] を選択(実行)してみた。
シュンッ。
一瞬だった。
床に散らばっていた四万個以上の土埃が、中心の一点に吸い寄せられ、凝縮した。
そして、そこには一つの小さな、しかし密度の高い「泥団子」が転がっていた。
おお……!
私は感動に震えた。
掃除だ! これは究極の掃除スキルだ!
散らかったゴミを、ワンクリックで一箇所にまとめることができる。
これなら、ちりとりがなくても回収できる。
私は夢中で作業を始めた。
空間内に散らばる残りの土埃を次々と範囲選択し、[結合] していく。
シュン、シュン、シュン。
次々と生まれる泥団子たち。
それらをさらにまとめて [結合] 。
やがて、私の目の前には、ソフトボール大の綺麗な球体の土塊が一つ、完成した。
床はピカピカだ。
グリッド線が美しく輝いている。
これだ。私が求めていたのはこの秩序だ。
私は達成感に浸りながら、その土塊にも名前を付けた。
『回収済み土砂_01』。
そして、それを念動力で慎重に移動させ、例の『廃棄予定_混合ゴミ_01』(ヘドロ薬草睾丸)のすぐ近くに配置した。
種類は違うが、同じ「ゴミ属性」としてゾーニングするためだ。
よし、完璧だ。
これでいつ誰に見られても(誰にも見られないが)恥ずかしくない倉庫になった。
そう思った矢先だった。
外の世界の揺れが止まった。
勇者が足を止めたのだ。
「ふぅ……。そろそろ日が暮れるな。今日はこの辺で野営にするか」
野営。キャンプ。
その言葉の意味するところを、私は瞬時に理解し、身構えた。
キャンプということは、テントを張る。火をおこす。飯を食う。寝る。
つまり、大量の「出し入れ」が発生するイベントだ。
「えーっと、まずはテントだな」
勇者の手が、私の口に伸びてくる。
来るぞ。
テント。
テントと言えば、布、ポール、ペグ(杭)、ロープ。
これらがきちんと収納袋に収まっていればいい。
だが、このガサツな勇者のことだ。まさか……。
ガバッ。
口が開いた。
勇者が手を突っ込んでくる。
「あれ? テントどこだっけ? 奥の方に入れたんだよなー」
巨大な手が、私の内部空間を掻き回し始めた。
やめろ!
掻き回すな!
せっかく整頓したのに!
勇者の手は、実体を持った嵐のように空間内を暴れまわる。
その風圧で、私が隅に寄せておいた『廃棄予定_混合ゴミ_01』がカタカタと震える。
そして、あろうことか、勇者の指先が、あの「綺麗な泥団子」に触れた。
「ん? なんだこれ。石か?」
勇者は無造作にその泥団子を掴み上げた。
やめて!
それはゴミです! テントじゃありません!
出さないで!
「ポイッ」
勇者は手の中の異物(泥団子)を確認もせず、空間の「奥」の方へ放り投げた。
探しているのはテントだから、違うものは邪魔だと言わんばかりに。
放り投げられた泥団子は、放物線を描いて飛んでいく。
その着地地点には――
まだ何も入っていない、広大な「未使用エリア(フリースぺース)」が広がっていた。
セーフか?
いや、泥団子の結合は、私の意志によって保たれていたものだ。
勇者の粗雑な物理干渉を受けたことで、その結合が不安定になっている。
空中で、泥団子にヒビが入った。
パァンッ!
破裂した。
圧縮されていた四万個の土粒子が、弾けるように解放された。
それはまるで、くす玉が割れるように。あるいは、不発弾が爆発するように。
私の清掃作業の結晶が、一瞬にして元の「微細な粉塵」へと戻り、しかも今度は爆風に乗って、空間全体へと均等に拡散していった。
キラキラキラ……。
美しいダイヤモンドダストのように、土埃が空間全域に降り注ぐ。
X軸の端から端まで。
Y軸の隅から隅まで。
Z軸の天井から床まで。
全域汚染。
「…………」
私の心の中で、何かがプツリと切れる音がした。




