プロローグ・第4話:在庫管理室の静寂と、エントロピーへのささやかな抵抗4
衝突まで、0.2秒。
私の思考速度は極限まで加速していた。もはや走馬灯に近い。
視界の中央を占めるのは、茶色く濁った半流動体の塊だ。
直径約五センチメートル。不規則に回転しながら迫り来るその姿は、まるで宇宙空間を漂う小惑星のようであり、同時に、日曜日の朝に酔っ払いが吐き散らした吐瀉物のようでもあった。
そのゼリー状の内部には、哀れなアブラムシが閉じ込められている。
気泡とともに半透明の肢をもがかせているのが見えた。窒息の苦しみか、あるいは粘液の毒性による麻痺か。その断末魔の動きさえも、汚泥弾の回転エネルギーの一部となって、破壊力を増幅させているように感じられた。
標的は、右舷に退避させていた『錆びた鉄の剣』。
私が苦労して、サビだらけとはいえ「乾燥」状態まで持ち込んだ、現時点での最高傑作だ。
あれが再び汚れる?
あのヌルヌルとした悪臭放つ液体に、再び犯される?
――否。
断じて否だ。
私の倉庫管理プライドにかけて、二度目の汚染など認めるわけにはいかない。
だが、間に合うか?
汚泥弾の速度は、先ほどの勇者の跳躍によるGを受けて加速している。私の貧弱な念動力で、この質量を真横から叩いて軌道を変えるには、エネルギーが足りない。
剣を動かすか?
いや、剣は重い。慣性の法則は、この精神世界においても絶対的な枷として機能している。急停止させたばかりの重い鉄塊を、逆方向へ急発進させるにはタイムラグが生じる。
どうする。どうすればいい。
0.1秒。
汚泥弾の表面が、剣から発せられる微弱な空気抵抗を受けて波打つのが見えた。
もう目の前だ。
ぶつかる。
その時、私の脳裏に、かつて読んだ物流マニュアルの一節が閃いた。
『重量物の急な移動が困難な場合、受風面積を最小化せよ』。
台風対策の項目だったか。
これだ。
逃げるのではない。
かわすのでもない。
「当たり判定」を極限まで小さくするのだ。
私は、全精神力を剣の「軸」に叩きつけた。
移動ではない。回転だ。
それも、長手方向を軸にしたローリング回転。
――回れぇぇぇッ!!
ギュンッ!
空間が軋む音とともに、剣が反応した。
水平に寝ていた剣が、その場で九十度回転する。
平らな刀身が、汚泥弾に対して垂直に立ち上がった。
刃を、飛来物に向ける形だ。
次の瞬間、汚泥弾が剣のあった座標を通過した。
ヒュッ。
風切り音。
そして――
ブチッ。
湿った音が響いた。
汚泥の塊は、剣の「刃」に真正面から激突した。
だが、止まらなかった。
鋭く(はないが、薄い)刃によって、ゼリー状の塊は真っ二つに両断されたのだ。
物理演算、成功。
切断された汚泥は、上下二つの塊に分かれ、剣の表面を滑るようにして上下を通過していった。
上の塊は天井方向へ。
下の塊は床方向へ。
剣の側面(平らな部分)には、一滴のしぶきも付着していない。
刃先にわずかに油膜が残ったかもしれないが、それは「切断」の結果であり「被弾」ではない。許容範囲だ。
「……勝った」
私は心の中で勝利を確信した。
素晴らしい。完璧な防御機動だ。
アブラムシがどちらの塊に含まれていたかは定かではないが、少なくとも剣という重要資産は守られた。
しかし。
安堵は、またしても一瞬で絶望へと塗り替えられた。
通過した二つの汚泥弾は、どこへ行くのか?
この空間に、出口はない。
あるのは、「境界」だけだ。
私の認識領域の果て。無限に続くと思われたグリッド空間の、見えない壁。
バチュッ。
ベチャァッ。
二つの不快な音が、ステレオで響き渡った。
私の背後――認識上の後方――にある「壁」に、汚泥が激突したのだ。
私は恐る恐る(首はないが視点を回して)振り返った。
そこには、地獄絵図があった。
何もない透明な空間の空中に、茶色いシミが二つ、張り付いている。
まるで、透明なガラス板に泥団子を投げつけたような惨状だ。
重力に従って、ゆっくりと垂れ落ちてくる筋。
その先端に、アブラムシの死骸らしき黒い点が混ざっているのが見えた。
壁が。
私の内壁が。
汚れた。
「う、うわぁぁぁぁ……!」
剣を守ることに固執するあまり、自分自身(容器の内側)を犠牲にしてしまった。
これは、新品のブランドバッグの中に、蓋の空いたコーヒーをぶちまけたのと同義だ。
拭けない。
ここにはティッシュもウェットスーツもない。
あのシミは、私が死ぬまで(あるいはこの袋が破れるまで)、あそこにこびりつき続けるのか?
あのまま乾燥して、カピカピになった茶色い跡として、永遠に私の視界の端に残り続けるのか?
発狂しそうだ。
潔癖症の精神構造を持つ私にとって、それは拷問に等しい光景だった。
さらに追い打ちをかけるように、空間内には、先ほどの衝撃で舞い上がった土埃が、キラキラと漂い続けている。
チンダル現象のように、どこからともなく差し込む光(光源不明)に反射して、美しくも残酷に舞う粉塵。
これらがやがて静かに降り積もり、空間全体を薄汚れた廃墟のように変えていくのだろう。
私は力尽きたように、意識の出力を落とした。
もう、動く気力がない。
剣は横倒しのままだし、薬草はひっくり返っているし、壁にはヘドロが張り付いている。
エントロピーの増大には勝てないのか。
熱力学第二法則は、異世界でも絶対なのか。
その時。
外の世界から、新たな振動と、男の緊迫した声が伝わってきた。
「っと、おいおい嘘だろ? なんでこんな所にオークがいんだよ!」
オーク。
豚の顔をした亜人。ファンタジー小説の定番モンスター。
どうやら、戦闘が発生したらしい。
ジャキン、と金属音がした。
男が、腰の鞘から本来の武器――おそらくメインウェポンである剣――を抜いた音だ。
私の出番ではない。よかった。
私はただの「袋」だ。戦闘中は大人しく揺られているだけでいい。
「っち、数が多いな! 三体かよ!」
激しい足音。
私の視界(内部空間)も、激しくシェイクされる。
上下左右、不規則なG。
壁に張り付いたヘドロが、遠心力でジワジワと横に広がっていくのが見える。やめてくれ。アート作品みたいに伸ばさないでくれ。
「おい、袋!」
え?
男が叫んだ。私に?
「予備の武器だ! さっき拾った剣、出せ!」
は?
私の思考が停止した。
さっき拾った剣?
あの、錆びて、汚れて、私が必死に乾燥させた、あのボロ剣のことか?
メインウェポンがあるんじゃないのか?
「メインの剣じゃ刃こぼれが怖い! 硬い皮の相手には、使い捨ての剣でいく!」
なんて理屈だ。
だが、持ち主の命令は絶対だ。
私の意思とは関係なく、「出口」のシステムが強制起動される感覚があった。
吸い出し(エクスポート)処理、開始。
対象:『錆びた鉄の剣』。
見えない力が、私が守り抜いた剣を掴み、出口(上空)へと引っ張り上げようとする。
待って。
ちょっと待ってくれ。
その剣は、今、縦向き(刃が上)になっている。
しかも、その軌道上には――
私の意識マップ上では、剣の引き上げルートの直上に、さきほど漂っていた土埃の密集地帯があった。
このまま引き上げれば、静電気を帯びた刀身が、舞っている土埃を吸着してしまう。
せっかく綺麗にしたのに。
泥だらけの剣として出力されてしまう。
いや、それよりも問題なのは。
そのすぐ近くを漂っている、あの「薬草」だ。
無重力状態でフワフワしている薬草が、出口へ向かう気流に巻き込まれようとしている。
このままだと、剣と一緒に薬草も飛び出してしまう。
あるいは、剣の鍔に薬草が引っかかって、絡まった状態で出ていくことになる。
「剣を抜いたら、ネギもついてきました」みたいな間抜けな絵面になるぞ。
勇者の威厳に関わる。
いや、私のピッキング精度の問題だ。
オーダーは「剣」のみ。
異物混入は誤出荷にあたる。
私は残った精神力を振り絞った。
剣を引き抜く力には逆らえない。ならば、邪魔な薬草をどかすしかない。
――そこをどけぇッ!
私は薬草に見えないデコピンを食らわせた。
パチン。
薬草は勢いよく弾き飛ばされた。
しかし、その弾かれた先は。
またしても、悪い予感しかしない方向だった。
壁に張り付いている、あの「ヘドロのシミ」に向かって、薬草は一直線に飛んでいった。




