プロローグ・第3話:在庫管理室の静寂と、エントロピーへのささやかな抵抗3
緊急事態発生。
コード・レッド。
異物混入警報が、私の意識領域全体でけたたましく鳴り響いた。
視覚情報としての「赤ランプ」はない。だが、私の思考回路――かつて倉庫管理システム(WMS)と一体化していた私の魂――が、破滅的な未来予測図を瞬時にはじき出していた。
落下してくる物体:『採取したての薬草(未洗浄)』。
推定落下地点:座標(0,0,0)。
衝突予測時間:0.8秒後。
まずい。あまりにもまずい。
このままでは、あの無造作に放り投げられた緑色の有機物が、私が精神をすり減らして分離させたばかりの「汚泥の塊」を突き抜け、その勢いで下にある「錆びた剣」に激突する。
そうなればどうなるか?
汚泥が飛び散り、薬草はヘドロまみれになって薬効成分が変質する。いわゆる「コンタミネーション(交差汚染)」だ。
さらに、勢い余った薬草が剣の刃に触れれば、葉が千切れ、茎が折れ、商品価値が著しく低下する「破損事故」が発生する。
そして何より、再びすべてが混ざり合い、私の神聖なる空間がカオスの坩堝と化すのだ。
許さない。
死んでも(もう死んでいるが)阻止する。
「どけぇぇぇッ!!」
私は心の中で絶叫した。
物理的な手足はない。使えるのは、空間内の座標を支配する「意志の力」のみ。
0.7秒。
薬草が空中で回転しているのが見える。
根っこについた黒土が、遠心力によってパラパラと飛散し、微細な散弾となって先行して降り注いでくる。
その土の粒子一つ一つが、私の清浄な空間を穢していく。ああ、掃除機をかけたい。
0.5秒。
私は意識を二つに分割した。マルチタスクだ。
「処理A」:水平に静止させた剣を、X軸プラス方向(右)へ全力でスライドさせる。
「処理B」:浮遊させている汚泥の塊を、X軸マイナス方向(左)へ弾き飛ばす。
間に合え。
私は脳(のような中枢)に過負荷がかかるのを感じた。
グググッ……!
空間内の粘性が抵抗となる。剣が重い。汚泥がしつこい。
だが、動く。
ズズッ……!
剣が、見えないベルトコンベアに乗せられたかのように、水平を保ったまま右へ滑り始めた。
同時に、汚泥のゼリーも左へ流れる。
その間隙――かつて座標(0,0,0)だった場所――に、ぽっかりと空白が生まれた。
0.1秒。
薬草が、汚泥の塊の端をかすめた。
ヒヤリとした感覚が走る。
汚泥の表面張力が震え、アメーバのように触手を伸ばしかけたが、なんとか接触は回避された。
0.0秒。
着弾。
ボフッ。
軽い、頼りない音がした。
薬草は、剣も汚泥も存在しない、虚無の空間の「床」に見事着地した。
成功だ。
回避成功だ。
私は安堵のため息をつこうとした。
しかし、現実は非情だった。
薬草は着地の衝撃でバウンドし、くたびれた葉を広げ、そして静止した。
その瞬間。
パラララッ……。
根っこに固まっていた土塊が崩壊した。
乾燥した土が、衝撃によって砕け散り、黒い粉となって周囲に拡散していく。
それはまるで、スローモーション映像を見るようだった。
微粒子となった土埃が、無重力に近い浮遊感を持って広がり、半径三十センチメートルの範囲をうっすらと汚染していく。
「あ……あ……」
絶望。
床が。
私の、鏡のように磨き上げられた(概念上の)床が、ザラザラの砂埃で覆われてしまった。
しかも、それだけではない。
薬草から漂う匂い。
青臭い植物の香りと、湿った土のカビ臭さ。それが、鼻のない私に「嗅覚情報」としてダイレクトに突き刺さる。
さらに、湿気だ。
薬草が持ち込んだ水分が気化し、空間内の湿度が0.001パーセントほど上昇したのを感じる。
錆びる。
剣が錆びてしまう。
私は震える意識で、現在の在庫状況を確認した。
【保管区画A(右舷)】
・アイテム:錆びた鉄の剣
・状態:水平保管、表面乾燥済み。
【保管区画B(左舷)】
・アイテム:汚泥と油の混合物(浮遊中)
・状態:不安定。廃棄待ち。
【保管区画C(中央)】
・アイテム:名もなき薬草
・状態:根に土壌付着。葉に微細な損傷あり。
・付帯環境汚染:半径30cmに土砂散乱。
汚い。
あまりにも美しくない配置だ。
中央にゴミ(土)をまき散らす草があり、左右にそれを避けた物品がある。
まるで、掃除をサボって部屋の隅に荷物を寄せただけの、自堕落な大学生の部屋のようだ。
私の美学が、これを「整理整頓」とは認めない。
これは単なる「散らかした状態」だ。
整理し直さなければ。
まず、この散らばった土をどうにかして集めなければならない。
ほうきとちりとりが欲しい。
いや、そんなものはない。
ならば、また「念動力」で、砂粒の一つ一つをつまみ上げ、一箇所にまとめるしかないのか?
何千、何万という粒子を?
気が遠くなる作業だ。だが、やらねばならない。それが倉庫番(私)の使命だからだ。
私が、最初の一粒――雲母の欠片のように光る小さな砂――に意識を集中しようとした、その時だった。
モニョ。
不穏な動きがあった。
薬草の葉の裏側。
裏返って地面に接している、少し黄色に変色しかけた葉の陰から、何かが這い出してきた。
鮮やかな黄緑色。
体長、約五ミリメートル。
半透明の柔らかそうな身体に、六本の短い足。
頭部には、黒い小さな点のような目と、忙しなく動く触角。
アブラムシだ。
いや、この世界での名称は知らないが、構造的には地球のアブラムシに酷似している。
生体反応あり。
「……!!!」
声にならない叫びが、私の内部空間を引き裂いた。
虫!
虫がいる!
生きた虫が、私の体内に!
これは「物品」ではない。「生物」だ。
倉庫管理規則第18条、『生体の保管には検疫を経なければならない』。
検疫なしの生体持ち込みなど、バイオハザードのリスクそのものだ。もしこいつが繁殖したら? 卵を産んだら? 剣の革巻きの柄を食べ始めたら?
排除しなければ。
即座に排除しなければ。
私はパニック状態で、その小さな虫に全神経を集中させた。
潰すか?
いや、潰せば体液が出る。黄色い汁が床を汚す。それは嫌だ。
ならば、つまんで外に出すか?
しかし、「入り口」を開けるには、外側の持ち主(勇者)の許可か、あるいは外からのアクセスが必要なのではないか? 内側から勝手に口を開けられるのか?
試してみる価値はある。
私は見えないピンセットで、アブラムシの背中を優しく、しかし逃さぬように摘み上げようとした。
だが、その時。
外の世界で、持ち主の男が大きく跳躍した。
「よっと! 川越え~!」
ドォォォォン!
強烈なGがかかった。
着地の衝撃。
私の内部空間全体が、激震に見舞われた。
固定されていないものは、すべて慣性の法則に従って吹き飛ばされる。
浮遊させていた汚泥の塊が、コントロールを失って弾丸のように射出された。
集めようとしていた土埃が、舞い上がって砂嵐となった。
そして、私が摘もうとしていたアブラムシは、衝撃に驚いて薬草からジャンプした。
スローモーションの中で、私は見た。
空中に舞うアブラムシが、コントロールを失って暴走する汚泥の塊と空中で交差し――
ベチャッ。
汚泥に取り込まれた。
さらに、その汚泥の塊(虫入り)は、勢いを殺しきれず、X軸プラス方向にあった「剣」の方へと飛んでいく。
衝突コースだ。
またしても。
しかも今度は、さっきよりも状況が悪い。
私は叫んだ。
「揺らすなぁぁぁぁっ!!!」




