第五章・第7話:断崖の振り子と、オーバーフローする人工知能
垂直に近い岩壁が、目前に立ちはだかっていた。
高さおよそ三十メートル。ビルで言えば十階建てに相当する。
そこから垂れ下がっているのは、頼りない麻のロープ一本のみ。
試験官たちは正気なのだろうか。荷物を持たずに登るだけでも骨が折れるこの壁を、割れ物(卵)と生鮮食品(魚)と水(20キロ)を抱えて登れと言うのだから。
「へっ、これくらいどうってことねぇよ!」
勇者は強がりを言いながら、ロープに手をかけた。
右手でロープを握りしめ、左脇には重い水樽を抱えている。
そして腰には私(袋)。私の中には、100個の卵と50匹のイワシ、ガラス細工、そして迷子のカーバンクルが詰まっている。
総重量は軽減されているとはいえ、バランスの悪さは致命的だ。
ズリッ。
勇者が足を踏み出すたび、岩肌から小石が剥がれ落ちる。
彼の身体が持ち上がる。
それに伴い、腰にぶら下がった私は重力に引かれ、振り子のように揺れる。
ガリッ!
私の外皮(キャンバス地)が、鋭利な岩の突起に擦れた。
痛い!
いや、私に痛覚はないが、布地の繊維が数本断裂した感覚が伝わってくる。
耐久度が削られていく。中身を守るための最後の砦が、物理的に摩耗していく恐怖。
だが、自分の痛みになど構っていられない。
内部空間は、外の揺れを数倍に増幅したようなカオス状態になっていた。
ぐわんっ、ぐわんっ。
視界が激しく回転する。
私は、空間の中央に固定した「カーバンクル用簡易ベビーベッド(パンツ製)」を、必死の念動力で水平に保とうとしていた。
ジャイロ機能のフル稼働だ。
中のカーバンクルは「みゅ……みゅ……」と目を回している。すまない、今は耐えてくれ。
しかし、その集中力の代償として、他のエリアの制御が甘くなっていた。
『イワシ棚』の結界が緩む。
一匹のイワシが、遠心力に負けて棚から飛び出した。
銀色の魚体が、スローモーションで宙を舞う。
その軌道の先には――
『ガラスの白鳥』を隠しているサブバッグの口がある。
入るな!
生魚がサブバッグに入ったら、中で腐って、ガラス細工ごと異臭まみれになる!
私は反射的に、飛び出したイワシを念動力で弾いた。
ペチッ。
イワシは壁(境界)に激突し、ベチャリと張り付いた。
壁が汚れた。鱗がついた。
だが、サブバッグへの侵入は防いだ。
こんな綱渡りのような処理を、一歩登るごとに数十回繰り返さなければならない。
私の演算処理能力(脳みそ)からは煙が出そうだ。
ふと、隣のレーンに気配を感じた。
ライバルのレオンだ。
彼は魔法による浮遊を使わず、自力で登っていた。どうやらこのエリアは魔法禁止区域らしい。
彼の腰にある白い高級鞄『シルヴィア』もまた、激しく揺れている。
『警告、警告。内部カオス度上昇中。害虫駆除プロセス、失敗。対象生物、高速移動中』
『マスター、揺らさないで! 中身が! 中身がミックスジュースになっちゃう!』
シルヴィアの悲痛なテレパシーが漏れ聞こえてくる。
どうやら、先ほどのゴキブリ(コックローチ・ナイト)がまだ中で暴れているらしい。
精密機械のような彼女の管理システムにとって、予測不能な動きをする生物の存在は、バグそのものなのだろう。
レオンも焦っている。
額に脂汗を浮かべ、呼吸が乱れている。
「ええい、シルヴィア! なんとかしろ! 中の荷物を圧縮して固定しろ!」
『圧縮……了解。コンプレッション・モード起動。全アイテムを強制圧縮します』
おい、やめろ。
嫌な予感がする。
「全アイテム」には、卵も含まれているんじゃないのか?
それに、あのゴキブリも。
ブォォォォン……。
シルヴィアから、不穏な重低音が響き始めた。
魔力が暴走している。
圧縮された空間の圧力が高まり、限界点を超えようとしているのが、隣にいる私にも肌で感じられた。
バチッ、バチッ。
白い革の表面に、青白いスパークが走る。
オーバーフローだ。
その瞬間。
レオンが手をかけた岩が、脆くも崩れた。
「うわっ!?」
支えを失ったレオンの身体が宙に浮く。
落下する!
高さはすでに20メートル。落ちればただでは済まない。
誰もが息を呑んだ。
だが、一人の男だけが動いた。
私の持ち主、勇者カイだ。
「っとぉ! 危ねえ!」
カイは、自分のロープを握りしめたまま、空いている左手(水樽を抱えている腕!)を伸ばした。
そして、落下していくレオンの腕を、ガシッと掴んだのだ。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃がかかる。
カイの右腕一本に、カイ自身の体重、水樽(20キロ)、私(中身入り)、そしてレオンとシルヴィアの重量、すべてがかかった。
当然、その負荷は、カイの腰にぶら下がっている私にも伝播する。
ビシッ!
私の口紐が食い込み、布地が悲鳴を上げた。
メリメリメリ……。
縫い目が広がる音。
破れる。
底が抜ける!
私は必死に、自身の構造維持に全魔力を注いだ。
(耐えろ! ここで破れたら、カーバンクルも卵もゴミ団子も、全部真っ逆さまだ!)
内部空間でも、衝撃で全てのアイテムが天井(入り口方向)に叩きつけられそうになった。
私は全てのアイテムを「下」へ押し付けるような重力制御を行った。
カーバンクルが「みゅぅぅ!」と目を回してしがみついている。
「はぁっ……はぁっ……! おいキザ野郎! しっかり掴まってろよ!」
カイが歯を食いしばり、血管を浮き上がらせて叫ぶ。
レオンは目を見開き、信じられないものを見るようにカイを見上げていた。
「き、君は……どうして……」
「ライバルでも見捨てねぇよ! それが冒険者だろ!」
かっこいいこと言ってるが、私の耐久値は限界だぞ!
早く引き上げろ!
いや、それよりもシルヴィアだ!
彼女の暴走は止まっていない。むしろ、衝撃でさらに悪化している!
『エラー、エラー。内部圧力臨界点突破。緊急排出シークエンス、自動開始』
シルヴィアから、無機質な警告音が響いた。
パージ?
ここで?
ボンッ!!
シルヴィアの口が勝手に開き、圧縮されていた中身が爆発的に噴出した。
潰れた卵の殻、ひしゃげたポーションの瓶、そしてペチャンコになったゴキブリの死骸。
それらが、カイとレオンの顔面にシャワーのように降り注いだ。
「ぶべらっ!?」
「うわあああ!」
最悪だ。
卵液とガラス片と虫の死骸の雨。
だが、そのおかげでシルヴィアの暴走は止まり、軽くなったレオンをカイが引き上げることに成功した。
二人は岩棚に転がり込んだ。
泥と卵まみれの二人の男。
そして、ボロボロになった私と、虚脱状態のシルヴィア。
試験としては滅茶苦茶だ。
だが、なぜか会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こっていた。
私は、自分の縫い目がなんとか繋がっていることを確認し、安堵のため息をついた。
カーバンクルも無事だ。
ただ、イワシが一匹、壁に張り付いたまま干物になりかけているが……まあ、許容範囲だろう。




