プロローグ・第2話:在庫管理室の静寂と、エントロピーへのささやかな抵抗2
許せない。
許容できない。
生理的に、いや、構造的に無理だ。
私の意識という名の広大なキャンバス、その中心点である座標(0,0,0)付近に、異物が浮遊している。
それだけならまだいい。問題はその「在り方」だ。
私の視界――というよりは、空間把握能力――には、明確なグリッド線(補助線)が見えている。縦、横、高さ。すべてが直角に交わり、神聖なる幾何学模様を描いている絶対的な定規だ。
その美しい秩序に対し、あの剣はあろうことか、約三十五度という中途半端きわまりない角度で静止していた。
三十五度。
四十五度のような半分という潔さもなく、三十度のような三等分の美しさもない。
ただただ、投げ入れた人間の手首の角度と、重力の気まぐれによって生まれた、無意味で醜悪な数字。
「あ、ああ、ああああ……!」
声帯がないため、私の絶叫は虚無の空間に波動として響くだけだった。
気持ち悪い。
背中(外郭の布地)に虫が這うような、あるいは歯の間に取れない肉の筋が挟まり続けているような、強烈な不快感が思考を焦がしていく。
さらに最悪なことに、この空間には「時間」が流れているらしかった。
多くの異空間収納小説において、収納内部は時間停止空間であることがお約束だ。腐らない、冷めない、変化しない。それが物流における究極の理想郷だ。
だが、現実は違った。
剣の刃こぼれした部分から、ドロリとした茶色の液体が垂れようとしていたのだ。あれは、前の持ち主――おそらくゴブリンか何かの亜人だろう――の血液と、泥沼の汚水が混ざり合った混合物だ。
その液体が、重力に従ってゆっくりと、私の神聖なる空間の「下」に向かって雫を作っている。
ポタリ。
落ちた。
汚水の一滴が、何もない虚空の「床」――座標Z=0の平面――に落下した。
波紋は広がらない。しかし、私の認識上のグリッド線の一部が、茶色く汚染された。
「ひっ!?」
悲鳴を上げたかった。
汚れる。私の世界が汚れていく。
整理整頓以前の問題だ。これは環境破壊だ。テロリズムだ。
私はパニックに陥りかけた。だが、生前の二十年間、過酷な物流倉庫で培った「トラブルシューティング」の思考回路が、奇跡的に作動した。
――状況確認。
対象:不衛生な剣(推定重量1.2キログラム)。
状態:空間内浮遊中。座標軸に対して不適切な角度で静止。
汚染度:極めて高い。継続的な液垂れを確認。
目標:対象の適切な保管、および汚染の拡大防止。
動かさなければならない。
誰が?
私がだ。
あのガサツな男(所有者)は、すでに歩き始めている。
外の世界から、ドスン、ドスンという振動が伝わってくる。男の腰に吊り下げられた私は、一歩ごとに振り子のように揺らされ、そのたびに私の意識もシェイクされる。
だが、内部空間の座標は固定されているようだ。剣の位置自体は変わらない。相対的に私の「視点」だけが揺れている感覚に近い。
まるで船酔いだ。しかし、吐くための胃袋はない。
私は意識を集中させた。
対象物は、あの剣だ。
手はない。足もない。だが、この空間は「私」そのものだ。ならば、私の意志でこの空間内の法則に干渉できるはずだ。
イメージしろ。
フォークリフトの爪を。あるいは、自らの手指を。
見えない力場で、あの汚れた鉄塊を包み込むのだ。
ぬぅぅぅぅぅ……。
私は精神力を振り絞った。脳の血管(存在しないが)が切れそうなほどの圧力を感じる。
すると、空間内の空気が――空気があるのかは不明だが――粘度を増したような感覚が生まれた。
私の意識が、剣の輪郭に触れた。
ザラザラとした錆の感触。ヌルリとした油の感触。それらがダイレクトに脳髄に流れ込んでくる。
汚い! 触りたくない!
だが、このまま放置することのほうが苦痛だ。私は嫌悪感を殺し、見えない手で剣の柄と刀身を鷲掴みにした。
重い。
物理的な重量ではない。「概念的な質量」としての抵抗を感じる。
私はその重みに抗いながら、念じた。
――回転。
――X軸に対して、平行になれ。
ギギギ……。
空間内で、何かがきしむ音がした気がした。
剣が動く。
切っ先が、ゆっくりと持ち上がっていく。
三十五度。
三十四度。
三十三度。
遅い!
もっとスムーズに動け!
外側の男は、鼻歌を歌いながら軽快に歩いている。
「~♪ 今日はいい天気だなぁ。これ売ったらいくらになるかなぁ」
そんな間抜けな独り言が振動として伝わってくる間も、私は必死の形相(顔はないが)で、ミリ単位の角度修正と戦っていた。
二十度。
十五度。
十度。
あと少し。あと少しだ。
五度。
三度。
一度。
零点五度。
――今だ!
私は「確定」キーを叩くようなイメージで、精神の楔を打ち込んだ。
カォン。
小気味よい音が、私の認識領域で鳴り響いた。
スナップ機能が働いたかのように、剣はピタリと真横になった。
X軸に対して0度。
Y軸に対して0度。
Z軸に対して0度。
完全なる水平。完全なる平行。
「ふぅ……」
達成感。
圧倒的なカタルシスが私を満たした。
美しい。先ほどまでの不快なノイズが消え、静謐な直線美だけがそこにある。
だが、安息は一瞬だった。
ポタリ。
また一滴、汚水が垂れた。
今度は、水平になった刀身の中腹あたりから、重力に引かれたヘドロが糸を引いている。
そうだ、忘れていた。
角度を直しただけでは、この「汚れ」の問題は解決していない。
むしろ、剣を水平にしたことで、表面張力でギリギリ留まっていた汚れが、全体的に下側へと回り込み、ポタポタと滴下する面積が増えてしまった。
ああ、なんということだ。
私の空間の床に、点々とした茶色のシミが増えていく。
拭きたい。
雑巾が欲しい。アルコールスプレーが欲しい。
しかし、ここには何もない。あるのは無限の虚空と、薄汚い剣一本だけだ。
待てよ?
私は冷静になろうと努めた。
ここは「異空間」だ。物理法則はある程度支配されているが、現実世界とは違うルールがあるはずだ。
私は、剣に付着している「汚れ」そのものを凝視した。
鑑定。解析。呼び方はなんでもいい。
物流倉庫時代、ラベルの貼られていない謎の入荷物を前に、中身を推測したあの洞察力を思い出せ。
意識の解像度を高めていく。
剣、という一つのオブジェクトとして捉えるのではない。
「鉄(錆びている)」と、「泥」と、「血液」と、「油」。
これらは本来、別々の物質だ。
分子レベルでの結合はしていない。単に表面に付着しているだけだ。
ならば――分離できるのではないか?
私は再び、見えない精神の手を伸ばした。
今度は、剣そのものではなく、その表面を覆う「不純物」だけをつまみ上げるイメージで。
指先が、ヌルリとした粘液に触れる。
吐き気がする。だが、耐えろ。
これを剥がせば、世界は浄化される。
――剥離。
私は念じた。
シール剥がしスプレーを使って、頑固な値札シールを剥がす時のように。慎重に、ゆっくりと。
ズズズ……。
剣の表面から、茶色い膜が浮き上がった。
やった。動く。
泥と油の混合物は、まるでゼリーのように一体化し、剣の表面から1ミリメートルほど浮遊した。
その隙間には、本来の金属の輝き――いや、錆びついてはいるが、少なくとも物質としての「剣」の肌が見えた。
私は一気に力を込めた。
ひっぺがす!
ボリュン。
不快な音とともに、剣全体を覆っていた汚れの塊が、完全に分離した。
今、私の空間には二つの物体が存在している。
一つは、水平に静止した、古びているが乾いた剣。
もう一つは、そのすぐ下に漂う、剣の形をした茶色いヘドロの抜け殻。
成功だ。
私は心の中でガッツポーズをした。
これで剣は「保管基準A」を満たした。
だが、次なる問題が即座に浮上した。
この剥がしたヘドロ、どうする?
捨てる場所がない。
この空間すべてが収納スペースであり、ゴミ箱はないのだ。
まさか、このまま永遠にこの汚物を、剣の隣に浮かべておくのか?
いや、それこそ許しがたい。
カテゴリーの違う物品(武器と廃棄物)を、同一の座標区画に混在させるなど、在庫管理の基本に反する。
その時、外の世界から声が聞こえた。
「おっ、薬草発見。これも拾っとくか」
私の思考が凍りついた。
おい、待て。
拾う?
入れる気か? ここ(私の中)に?
視覚情報はないが、外の様子が気配として伝わってくる。
男が腰をかがめ、地面に生えている草をむしり取った。
根っこには土がついている。葉には朝露がついている。ひょっとしたら小さな虫もついているかもしれない。
それを、処理もせず、袋(ビニール袋ですらない)にも入れず、そのまま?
ガバッ。
私の「口」が、再び無慈悲に開けられた。
光が差し込む。そして、巨大な指に摘まれた緑色の雑草が、私の聖域へと迫ってくる。
「ポイッとな」
男は、あろうことか、その草を投げ入れた。
放物線を描いて飛んでくる草。
その落下地点の予測座標は――
X001-Y001-Z001。
つまり、私が苦労して水平にし、汚れを分離したばかりの「剣」と「ヘドロの抜け殻」がある、まさにその場所だ。




