プロローグ:在庫管理室の静寂と、エントロピーへのささやかな抵抗
大手物流倉庫で在庫管理に命を懸けていた「私」は、過労と事故によりその生涯を閉じた。
しかし、次に目覚めた時、私は人間ではなくなっていた。
転生先は、ファンタジー世界の勇者が腰に下げている『装備品袋』そのものだったのだ。
無限の容量と、完璧な座標空間を持つ「私」の中に、ガサツで整理整頓のできない勇者が、汚れた武器や生肉、ポーションなどを無造作に放り込んでくる。
「グリッド線に対して35度の角度で剣を入れるな!」
「回復薬と毒草を隣り合わせで置くな!」
「その魔物の死体、血抜き処理は済んでいるのか!?」
声を出せない「私」の抵抗は、勇者には届かない。
だから私は決意した。
私の身体(中身)の秩序を守るため、勝手に整理整頓(断捨離)をしてやると。
重要アイテムだろうが伝説の聖剣だろうが、管理規定に違反するものは容赦なく亜空間の彼方へ廃棄処分!
これは、最強の勇者を陰から支えているつもりが、潔癖すぎる在庫管理によって勇者を絶体絶命のピンチに陥れたり、逆に世界を救ったりする、袋(私)の物語。
# プロローグ:在庫管理室の静寂と、エントロピーへのささやかな抵抗
午前二時四十三分。
深夜のオフィスビル特有の、鼓膜にへばりつくような静寂がフロアを支配していた。
完全に無音というわけではない。天井の四隅に埋め込まれた空調の吹き出し口からは、絶えず人工的な呼吸音が漏れ出している。「ゴー」という重低音と「ヒュ」という乾いた風切音が不規則に混ざり合い、私の座るスチールデスクの表面を撫でていく。その風は、散乱しかけている書類の端を数ミリだけ持ち上げては落とすという動作を、まるで悪意ある悪戯のように延々と繰り返していた。
私はその微細な動きを、乾ききった眼球で凝視し続けていた。
右目のコンタクトレンズが眼球に張り付いている。瞬きをするたび、瞼の裏側の粘膜と水分を失ったレンズが擦れ合い、ジャリッとした不快な摩擦音が脳内に響く。だが、目薬をさすという数秒のロスタイムすら、今の私には惜しかった。
目の前にある二十四インチの液晶モニター。そのブルーライトだけが薄暗い物流管理室における唯一の光源であり、私の網膜を焼き続ける太陽だった。
画面を埋め尽くすのは、広大な表計算ソフトのマス目だ。
行数、五万三千二百八十。列数、AからAZまで。この無機質な文字列の羅列こそが、今の私にとっての世界そのものだった。
「……また、ズレている」
唇から漏れた言葉は、喉の渇きによって枯れ果てていた。誰に聞かせるわけでもない独り言だが、そこには明確な殺意に近い感情が含まれている。
セル番号『K402』。
『商品コード:NB-9921』。品名『高強度ナイロン製結束バンド(黒)』。
理論在庫数、142。
実在庫数、141。
マイナス1。
たった一つの差異。宇宙の広大さから見れば塵芥にも等しい誤差だ。物流業界の許容範囲という観点から見ても、誤差率0.01パーセント以下であり、上司ですら気に留めない数字だろう。
だが、私にとっては違う。
この「マイナス1」は、世界の均衡に入ったヒビであり、許されざる混沌の象徴だった。誰かが一本の結束バンドを持ち出し、伝票も切らず、バーコードもスキャンせず、あるいは床に落として蹴り飛ばし、そのまま闇に葬ったのだ。
許せない。
胃の腑の底から、どろりとした熱い塊がせり上がってくる。それは逆流性食道炎による胃酸の味であり、同時に、秩序を乱す者への義憤の味でもあった。
私はマウスを握る右手に力を込めた。人差し指の腹が、使い込まれてテカリの出たクリックボタンに食い込む。
カチッ、という乾いた音が静寂を切り裂いた。
キーボードのテンキーに指を走らせる。タタタッ、とリズミカルな打鍵音が響く。エンターキーを叩く際の「ッターン!」という強めの音とともに、確定されたデータがサーバーへと送信される。
だが、数字を修正するだけでは私の魂は救われない。原因を特定し、物理的に解決しなければならないのだ。
椅子を引いて立ち上がると、腰椎の四番目と五番目のあたりから、ピキリという鋭い痛みが走った。長時間、前傾姿勢でモニターを睨み続けていた代償だ。顔をしかめながら上半身を後ろに反らすと、ボキボキボキと背骨が悲鳴を上げる。まるで老朽化した木造建築が強風に晒されたような音だった。
私は管理室の重厚な鉄扉を開けた。
そこには、広大な闇が広がっている。
――第3物流倉庫。私の城であり、戦場であり、墓場でもある場所。
センサーが反応し、遥か頭上の水銀灯が頼りない明滅を繰り返しながら点灯していく。ジジジ、という電流音が空間を満たし、オレンジがかった光の下、整然と並ぶ巨大なスチールラックの群れが浮かび上がった。
高さ十メートル、奥行き百メートルにも及ぶ棚の列。そこには何万というダンボール箱が鎮座している。
その光景を見た瞬間、脳内からドーパミンが分泌されるのを感じた。美しい。すべての箱が、指定された番地に、指定された向きで収まっている光景。直角と平行線だけで構成された世界。
私はK列を目指して歩き出した。
安全靴の硬い靴底がコンクリートの床を叩く。コツ、コツ、コツ。その足音の反響によって、私はこの空間の広さを肌で感じ取る。鼻腔の奥には、乾いた紙の匂いと、フォークリフトのタイヤ痕から漂うゴムの匂いが入り混じっていた。
K列402番地。
棚の中段にあるプラスチックコンテナの中を覗き込むと、そこには黒い結束バンドの束が無造作に放り込まれていた。
「……汚い」
バンドの束がねじれ、互いに絡み合っている。まるで蛇の交尾だ。見るに堪えない。
私はコンテナを床に置き、冷たいコンクリートに膝をついた。一本、また一本と数え始める。指先でナイロンのギザギザした感触を確かめながら、頭の中でカウントを進める。
数えるだけではない。私はそれらを十本ずつの束にまとめ、輪ゴムで留め直し、さらにヘッドの向きを全て北向きに揃えて並べ直した。
これこそが秩序だ。これこそが正義だ。
「……百四十……百四十一」
コンテナの底が見えた。
やはりだ。やはり、一本足りない。データは正しかった。現実が間違っていたのだ。
深い溜息をついて立ち上がろうとした、その時だった。
グラリ、と世界が揺れた。
いや、地面は揺れていない。揺れたのは私の視界だ。黒いノイズが砂嵐のように視界を侵食し、脳幹のあたりが熱した鉄棒で貫かれたように熱くなる。
立ちくらみか。ここ三日間の睡眠時間は合計五時間にも満たない。
膝に力が入らず、私はバランスを崩した。咄嗟に目の前のスチールラックの支柱を掴もうと手を伸ばすが、指先は冷たい鉄の表面を滑り、虚空を掻くだけだった。
ガシャーン!!
背中から隣の棚に激突した衝撃で、頭上の荷物がバランスを崩す音がした。重く、鈍い音。
見上げると、そこには巨大な影があった。
『商品コード:HW-3005 業務用鉄製ダンベルセット』と書かれた箱が、私の顔面に向かって落下してくる。
ああ。
私は思った。
あの箱、梱包テープの貼り方が少し歪んでいるな。直さなきゃ。
ドォン。
衝撃とともに、思考が暗転した。痛みよりも、修正できなかったテープの歪みへの後悔だけを最後に残して。
……。
…………。
目を開けようとした。だが、瞼がない。
息を吸おうとした。だが、肺がない。心臓の鼓動も、あの不快な腰痛も、胃酸の逆流も、全てが消え失せていた。
私は死んだのか?
思考だけが泥水の中を漂う気泡のように浮かんでいる。ここはどこだ。暗い。無限に暗い。
しかし、不思議なことに「狭さ」は感じなかった。むしろ、自分自身が無限に広がっているような、奇妙な感覚だった。
自分の中に、広大な「空間」がある。
それは、あの物流倉庫よりも遥かに広く、純粋で、何も存在しない真空の空間だ。視覚ではない認識として、自分の中に無限のグリッド線が引かれているのがわかる。
縦、横、高さ。XYZ軸が交差する、完璧な座標空間。
塵一つない。埃一つない。
完璧だ。なんて美しい空間なんだ。私はこの虚無に、強烈なエクスタシーを感じていた。
その時、外側から何かが触れてくる感覚があった。
皮膚感覚ではない。「外郭」への接触だ。ゴワゴワとした、少し脂ぎったような、温かい何かが私を掴んでいる。
「お、あったあった。親父の遺品の中にこんなボロい袋があったとはな」
声が聞こえた。鼓膜を通した音ではない。直接、私の存在そのものに振動が伝わってくる。若々しいが、どこか粗野で軽薄そうな男の声だ。
「鑑定スキル……っと。うわ、なんだこれ。『異空間収納』かよ! しかも容量『測定不能』!? マジかよ、超レアじゃん!」
男の手が、私(と思われる何か)を乱暴に振り回した。世界が回転する。やめろ。目が回る――目はないが――感覚が襲う。
「っしゃあ! これで荷物持ち雇わなくて済むぜ。とりあえず、これ入れとくか」
男が何かを近づけてくる気配がした直後、私の「入り口」が無理やりこじ開けられた。
ヌルリとした異物が、私の神聖なる内部空間へと侵入してくる。
それは、剣だった。
だが、ただの剣ではない。刃こぼれし、泥と油にまみれ、鞘には何かの粘液がこびりついている。柄の部分には手垢が層を成し、微かに腐臭すら漂わせている。
汚い。圧倒的に、不潔だ。
その汚物が、私の完璧なグリッド空間の、あろうことか『座標:X001-Y001-Z001』という、最も神聖であるべき原点付近の空間に、無造作に放り込まれたのだ。
しかも、斜めに。
グリッド線に対して、三十五度ほどの角度で、中途半端に浮遊している。




