迷走
夕凪島の瀬田港にフェリーが着く頃には青空が垣間見えていた。
啓助はフェリーターミナルの観光案内所で軽自動車を借りる際、対応してくれたスタッフにも舞の写真を見せたが結果は予想どおりだった。
いちいち客の一人一人を覚えているという方が不自然と言えば不自然。
車ですぐに向かった隣町の土庄町の図書館でも同様だった。
ただ、気を効かせてくれた若い女性スタッフは出勤している職員に写真を見せて回ってくれた。
せめて舞が借りた本だけでも知りたいと思い、食い下がってみたが、
「申し訳ありません……お答えすることはできません」
善意の女性スタッフをこれ以上困らせるのも忍びなく引きあげた。
情報を漏らすことはできないのは当然と言えば当然だし……
啓助は車に乗り込みアクセルを踏んだ。
図書館のある辺りは公民館や役場、大型のショッピングモールがありこの町の中心地なのであろう。
路地から県道に出て、来た道を戻る。
背の低い町並みは空が広く高い。
沿道には商店が立ち並んでいて、信号で停車すると昔ながらの写真館らしき店舗の前だった。
店の入口横の展示スペースにいくつか写真が飾ってある。
凛々しい花婿と可憐な花嫁。
ランドセルを背負ったセーラー服姿の二人の少女。
子供を中心に一家勢揃いの家族。
着物に身を包んだ七五三の兄妹。
それぞれの記念の一瞬をおさめた写真達がこちらを見て微笑んでいる。
「舞……」
ぼんやりと眺めていたら、信号が変わっていて、すでに前の車が動き出していた。
丁字路を右折すると、民家の壁がすぐ手に届きそうなほど道が狭まった。
軒先に吊るされた風鈴が、車の風に震える。
少し先の交差点を抜ければ、ようやく国道。
夕凪島の主要な町を繋ぐ動脈だけあって、幅員も余裕があり、よく整備された道で走りやすい。
渋滞する程ではないが交通量もあって、大型の観光バスや地域の路線バスとすれ違う。
時にはサイクリストやお遍路さんの姿も、ちらほらと見掛けた。
いくつかの峠を越えて瀬田町に戻ってきた。
瀬田港近くの交差点で国道は左へと続くが、そのまま直進し県道を進む。
この先の高台にあるホテル「ロイヤルビレッジ夕凪島」へと向かった。
そこは、見晴らしがよく瀬戸内海が一望でき、近くの瀬田港も見える。
啓助はチェックインし、その際に舞の忘れ物を受け取った。
スタッフの心遣いだろう、小さなレターボックスの中に、柔らかな緩衝材とともにそれは収められていた。
女性物のアクセサリーには疎く、一見何に使うのか分からないが桜の花を象った美しい物だった。
必要のない荷物をフロントに預けると、次の目的地を訪れるためホテルを後にする。
夕凪島の古刹・西龍寺。
夕凪島の中央南部に聳える標高四一二メートルの麻霧山の頂き近くに鎮座する山岳霊場で、島の八十八ヵ所の霊場の一つでもある。
先ほどの交差点まで戻り、右折して国道に入る。
町中を少し進んだ先で左に折れ、住宅街を横切る。
二つほど路地を過ぎると、道は坂を上りはじめた。山の裾野の斜面には家やみかん畑、オリーブ畑が点在している。
合間を縫うように坂道を上り、大きな桜の木の手前で、カーナビの指示通り山道に入る。
離合が難しい一本道を進むと、「西龍寺入口」と書かれた立て看板が見え、ハンドルを切った。
そこはかなり急な勾配で、ヘアピンカーブのような切り返しを何度か繰り返す。
やっと空が開け、二十台ほどは停められそうな駐車場に着いた。
外に出ると、思いのほか風が涼しく、暑さを和らげてくれる。
青と赤の車が二台止まっており、借りた黄色の軽自動車を含めると、ちょうど信号機の色になる。
どうでもいいことに気づいて、啓助はため息をつきながら首を振り、歩き出した。
駐車場の端にはいくつもの灯篭が立ち並び、そこから瀬戸内海や対岸の四国の山々が見渡せた。
夕凪島に着いた頃より雲は少なく、上空には澄んだ青空が広がっている。
駐車場の裏手には西龍寺へと続く階段があった。
奥行きのある幅広い石段で、両側には寄贈されたと思しき灯篭が山門まで整然と並んでいる。
「これを上るのか……」
山門を見上げながら吐息まじりに呟くと、意を決して一歩を踏み出した。
山門まで五、六十メートルはあるだろう。階段の一段一段には傾斜がついており、運動不足の身には思った以上に堪える。
木造のしっかりとした山門を潜ると、青々とした楓の木が左右から覆いかぶさり、空気がひんやりと変わる。
辺り一面に、湿った緑の匂いが立ちこめていた。
その場で息を整えていると——
ゴオォーン。
境内に鐘の音が鳴り響いた。
音の出所は正面の階段を上った先に見えた鐘撞堂だ。
また階段……
ゴオォーン。
どうやら、お遍路さん達が鐘を撞いているようだった。
啓助が階段を上り鐘撞堂には寄らずに、敷かれた石畳に導かれるまま左へと曲がると、見上げた視線の先にある異質な光景に足を止めた。
ゴオォーン。
背中から通り過ぎる鐘の音。
それは見たことのない物で、お堂が切り立った垂直の岩壁から突き出している。
もしくは岩壁にへばり付いているようにも見える。
何だ……ここ……凄いな……
「こんにちは」
声の主は、お遍路さん達だった。声を掛けて追い越していった。
「こんにちは」
三人連れの年配の女性達が追い越して行った。
啓助は辺りを見回した、境内は山城の郭のような造りで、至る所段差はあるものの、思いのほか広く仏像や灯篭等が所狭しと配置されている。
また階段を上る。
その右側の岩肌には横穴があり奥に石像が祀られていた。
階段を上りきると正面に母屋であろう建物があった。
その手前に小さな池まであり傍に咲いている花には蝶が休息を取っている。
啓助は、おもむろにカメラのシャッターを切った。
丁度、池の真上が岩壁のお堂だった。
母屋の左手を通る石畳はすぐ先で右に折れ、横長の平屋を右手に見ながら進む。
すると、前方に寺の住職と思われる人物が先程のお遍路さん達と会話をしていた。
背が高く、眼鏡を掛けた住職は黒い法衣に身を包み、柔和な笑顔を見せていた。
お遍路さんたちを、母屋の先にある別のお堂へと案内している。
啓助は、初めて訪れた空間に圧倒されながらも、不思議な感覚にとらわれていた。
母屋のあるこの区画に入ってから、どこか懐かしいような気がしてならない。
初めて来たはずなのに。
霊感があるわけではないが、畏敬というか、威厳というか──
うまく言葉にできない力のようなものを感じていた。
お遍路さんたちが案内されたお堂は、十段ほどの階段を上った先にある。
階段の両側には、やはり灯籠が整然と並んでいた。
よく見ると、お堂そのものが垂直の岩肌にはめ込まれるように建てられている。
入口の引き戸は開いていて、その上には「西龍寺」と記された大きな額が掲げられていた。
ここが、この寺の本堂なのだろう。
本堂の左手、岩肌の途中からは、どこかで湧き出た水が一筋の滝となり、小さな池へとチョロチョロと滴っている。
さらにその滝の左側には、朱色の小さな木製の社が岩壁に張りつくように建っていた。
山の上によく作ったものだ……。
感心しながら、啓助は本堂の向かいにある休憩小屋に目をやる。
小屋の中には灰皿が置かれ、壁沿いに長椅子が据えられている。
簡素な台の上にはジャグジーと紙コップがあり、「ご自由にお飲みください」と書かれた紙が貼られていた。
啓助は煙草に火をつけ、一息つく。
小屋の脇には見事なクスノキが天を突くように枝葉を広げ、その影が地面に木漏れ日を描いて揺れていた。
やがて、お堂の中から読経の声が響いてきた。
すると、どこからともなく鳥の鳴き声がする。
声の主を探すと、境内を囲む塀の瓦の上を、青い鳥がチョコチョコと跳ねていた。
啓助がカメラを構えた瞬間、サーッと風が吹き、ザザザッと枝葉が騒めく。
青い鳥は翼を広げ、どこかへ飛び去った。
本堂の中からは、線香や蝋の匂いが微かに漂ってくる。
東京ではなかなか出会えない匂いや音が、やけに心地よかった。
不安でざわついていた頭の中が、少しずつ静まっていく気がする。
「大丈夫……だよな」
啓助は目を閉じ、浮かび上がる舞の顔に向かって、そっとつぶやいた。
お読み頂きありがとうございます。
感想など、お気軽にコメントしてください。
また、どこかいいなと感じて頂けたらスキをポチッと押して頂けると、
とてもうれしく、喜び、励みになり幸いです。




