本の中に
啓助は眼鏡の背中に一礼をしてソファに腰かけると、もう一冊の『考察オホノデヒメ』の付箋部分のページをめくった。
――夕凪島は古代から吉備国児島郡に属し、吉備国が分割された後も備前国に属すなど、中世までは本州側の行政区画に組み込まれていた。
平安時代初期からは皇室の御料地となるが。
1347年(貞和3年)南北朝時代。
南朝に呼応した、島を支配していた飽浦信胤が細川師氏に攻められ倒されて以後、島は細川氏領となり皇室領は解体された。
またこの細川氏は讃岐国守護であり、この時から政治的な支配者という側面では本州側の手を離れ、四国側に移ったという。
このように、夕凪島は元々は本州、吉備の国や皇室との繋がりが濃い。
これは重要な要素で吉備の国には巫女の系譜がある。
古代の出雲にも祭祀を司る姫が居たという。
それは古来縄文の血を引いた、もしくは流れをくんだ者たちであろう。
国津神と呼ばれる神々は日本に縄文の時代から居住し日本に残った神々で、天津神とは縄文の御代に日本を旅立ち、弥生の御代に故郷へ帰郷した人々を指すと考える。
緩やかに交わった部分もあったであろうが、神武東征に見られるような争いも少なからずあったのであろう。
経緯はどうあれ融合は果たされた訳で。
天皇の后に巫女の系譜(国津神)が多いのも古来の血や能力を受け継ぐといった部分もあったのであろうと考えることも出来る。
オホノデヒメは実は双子の女神である。
突拍子もない推察、暴論かもしれない。
オホノデヒメを祀る神社は、銚子渓にあるオホノデヒメ神社と星ヶ城山にあるユナキ神社(西峰と東峰があり、オホノデヒメが祀られているのは西峰)の二つ。
なぜ、もともと瀬田町の島玉神を祀った社があるにもかかわらず、二つに分けたのか?
何故、名前を分けているのか?
ちなみに星ヶ城山にある二つのユナキ神社には大層な神々が祀られている。
東峰には、天之御中主神。
高皇産霊尊。
瓊瓊杵尊。
天児屋根命。
天太玉命。
豊受大御神。
と言った面々だ。
一方のオホノデヒメが祀られている西峰の社は『古事記』では弥都波能売神。
『日本書紀』では罔象女神と表記する神と一緒に祀られている。
この神は日本における代表的な水の神(水神)である。
何故水の神様が一緒に祀られているのか?
人の生活において飲料水の確保は至上命題である。
夕凪島は山々が蓄えた湧水があり尚かつ、ため池を等を作り水を確保してきたと考えられる。
そして時には雨乞いの儀式を通じて雨を祈願する事もあったのであろう。
もし、水の神の名を借りてもう一人のオホノデヒメを祀ったとしたら。
一説にはオホノデヒメは、海の神とされていて美しい女性の姿をしており、海の波や潮の神秘的な力を司っていたとされる。
彼女の名前は『大海の女神』とも解釈されるという。
話は変わるが、水は時に蛇や龍に姿を変え人々の畏敬を持って歴史に登場する。
その水を自在に操り、人々に恩恵をもたらした偉人がいる。
そう弘法大師。
かの偉人がこの島で修行をし霊場を開いたのも浅からぬ理由があったのであろう。
西龍寺には暴れる龍を弘法大師が鎮めたという伝説も残っている。
因みに龍は女性を意味する事もあるという。
はてさてそうなってくると色々伝わる龍伝説もにわかに騒がしくなりそうだが……。
話をオホノデヒメに戻して。
漢字で記載すると『大野手比売』おおぬでひめと解釈するのが定説のようで、ぬで「鐸」(ぬで、ぬて、ぬりて)とは銅鐸のことを指すという。
昭和4年に安田地区にある三五郎池の西側で採石中に銅鐸が出土した。
さらに3年後には銅剣が。
昭和45年には、土器や銅剣の破片が発見され極ヶ谷牛飼場遺跡と言われている。
銅鐸は祭事の時に使用されたという説がある。
用途は楽器として鳴らしたのだと。
2世紀頃が製造が盛んで弥生時代に当たる。
卑弥呼が自然と頭に浮かぶがそれと似たようなもので、オホノデヒメも祭祀を遂行する巫女=シャーマン的要素があったのではないかと推察する。
もっというと、縄文の頃は女性がコミュニティの長であったという。
女性が優位の社会は1万年以上続いたと言われていて、恐らくそういう血筋は日本各地に残っている。
即ち、この夕凪島にも残っていたのではなかろうか?
巫女は神楽を舞ったり、祈祷をしたり、占いをしたり、神託を得て他の者に伝えたり、魂や霊的な物を自身の体に一時的に宿し、口寄せなどをする役割を持っていた。
それらの中で神を自らの身体に宿す「神降し」(かみくだし)や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。
そのような能力があったからこそ、時の権力者に見初められ縁を結んだのではと考える。
ちなみに夕凪島の景勝地『寒霞渓』元々は鍵掛(鉤掛)、神懸、神駆などの字が当てられてカンカケの名で呼ばれていたそうだ。
『先代旧事本紀』にのみ登場する女性。
日向賀牟度美良姫を、オホノデヒメと同一人物とする説を採用すれば、渟中底姫命の母親となり、その姫は安寧天皇(第3代の天皇)の皇后である。
また渟中底姫命の兄は健飯勝命(たけいいかつ の みこと/たけいいかち の みこと)で三輪氏・賀茂氏の祖ということになる。
つまりは天皇家に嫁いだという事になる。
『日本書紀』によると応神天皇は吉備行幸の旅に出た折に、淡路島を経て夕凪島に上陸した。
上陸地は諸説あるようだが夕凪島には次のような伝説がある。
応神天皇が最初に上陸したのは吉備ケ崎で、その付近で休息した(伊喜末八幡神社)あと、同地より再び乗船し沿岸の沿って双子浦の潮土山(富丘山)の麓に停泊して上陸した(富丘八幡神社)。
宿泊した場所に柏の木を植えた(宝樹院のシンパク)。
明くる日、陸路にて瀬田の里に向かい、途中の八幡山にて島玉神を祀った。
生田の森から乗船した(瀬田神社)。
三都半島を迂回し内海水木の御荷ケ崎(鬼ケ崎)に到着。
そこから北へ向かい神懸山(寒霞渓)に登山し狩猟(鷹取展望台)した。
下山して馬目木台(宮山、亀甲山)に至り宿泊した(内海八幡神社)。
翌朝、旭峠を超えて橘港より船に乗り吉備に向かおうとするが、突然の嵐のため福田港に寄港した。
田中に丸木と刈穂による行宮を建てた(葦田八幡神社)と伝わる。
行程が西から東なので吉備に行くなら逆ルート。
吉備からの帰りなら上記のルートがスムーズのような気もする。
もう一つの疑問は島玉神を祀った場所だ。
八幡山とあるが何故その場所にお祀りしたのか。
ルートに沿って進むと瀬田町に至る峠に当たる場所に今も小さな祠がある。
その場所、もしくは近くにオホノデヒメに関する何かがあったのではないか?
だから応神天皇はそこにオホノデヒメをお祀りしたと考えるのが自然であろう。
背後に聳える麻霧山か三井津岬の先にある不自然な大岩か。
いずれにせよ、意味があるに違いない。
応神天皇ゆかりの八幡神社のある場所には古墳や磐座があり『夕凪島八幡宮五社由来記』には富丘八幡神社は応神天皇巡幸の跡地と伝えられている。
同じく巡幸の跡地四ヶ所(伊喜末、瀬田、内海、葦田)へ勧請し、これら五社の八幡神社を『夕凪島五社』と称している。
応神天皇吉備行幸の際に先祖の御霊に礼を尽くしに来たと考えれば、夕凪島巡幸の謂れにも納得がいくのではないか。
夕凪島に寄る理由があったからだ、吉備に行くだけなら夕凪島の北側を回ればいい。
もしくは本州沿いを航行すればいい。
応神天皇は寄るべくして寄ったのだ。
その応神天皇を祭神として祀る八幡神社にもいわくありげな話がある。
八幡宮の総本社である宇佐神宮の主祭神は比売大神、応神天皇、神功皇后である。
宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、応神天皇と神功皇后は後の世に祀られるようなったという。
比売大神は宇佐神宮では宗像三女神『田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神』としてお祀りされているが、天美津玉照比売命や大日孁貴尊、豊玉姫に比定しお祀りしている神社もある。
元々お祀りされていたのは比売大神で、いずれにせよ言えることは比売=姫=女性と言う事である。
その八幡神社が五つもあるのは興味深い事ではなかろうか。
もしかしたらその五つというのも意味があるのかもしれない。
では、島の象徴たるヒメが都へ嫁いだとして、その後も変わらずに島に脈々と受け継がれている信仰や文化の根本となるものは何か。
それは、オホノデヒメは双子だったという考察だ。
もう一人は島に残り人々に影響を与え信仰は続き、そして血統は連綿と続きおそらく現代にまで続いている。
夕凪島に続く風習『神舞』は、二人の巫女が神の化身として島の人々の安寧のために神楽を奉納する。
瀬田神社にだけに伝わるこの風習は江戸時代に現在の形が整備されたというが、古より続いてきたのに想像は難くない。
私達が抱いている舞のイメージとは一線を画すこの舞は、巫女装束からしてそれは異彩を放つ。
一人は上下白の装束に薄紫の千早、一人は黒い衣に赤袴、黒の千早という、ここだけでみられる物だ。
神舞は終了間際に曲調が、がらりと変わり激しく舞い踊る。
楽器が織りなす音色もそれまでのゆったりと穏やかな調べから、不協和音が混じった速い曲調に転じるが、しだいにその不協和音が心地よくなってくる。
それを見て確信したのだ、この音や踊りで変性意識状態、所謂トランス状態に入った巫女は神と交信するのだと。
双子ともなれば一糸乱れぬ動きともなろう。
さらに興味深いのはこの瀬田神社のご神体は「二つの勾玉」で、一つは白、一つは朱色の勾玉が対となっている。
神舞が終わった後に舞を踊った巫女さんから勾玉を象った飴を貰った。
香ばしさと甘みがある鼈甲飴の味だった。
神威のお裾分けということだそうだ。
さらに幸運なことに私は『神舞』に使用される扇を拝観させて頂く機会に恵まれた。
扇に描かれたそれは、山と海をイメージさせる線画であった。
神舞に関する全てのものが一対のモノになっている。
この風習こそが著者の薄っぺらい根拠の証左である。
蟹江空見子 著
本の冒頭部分、見開きのページには、
『親愛なる友へ、この本を書くに至ったきっかけをくれたあなたに感謝し、あなたの探求の一助になれば幸いです』
そう記されていた。
舞がこれらの本を読んだとしてどう行動する?
まずは実地調査だろうな。
行って見るしかないよな。
啓助は本を閉じると席を立った。
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