早起き 7月15日土曜日 2日目
7月15日土曜日 2日目
朝の潮風公園では町内の一団がラジオ体操をしている。
まだ、涼しさの残る風が、楢の木の枝葉を揺らして踊っているよう。
その光の瞬きを自転車を押しながら香は眺めていた。
変わりのない日常の景色。
穏やかな時間。
防波堤の傍に自転車を止めて、そこに上がると傍にいた二匹の雀がチュンチュンと囀り飛び去った。
「あ、ごめん」
その空を見上げた。
雲がゆっくりと流れている。
ザザー、ザザー。
腰掛けると、髪と長いスカートの裾を揺らして、風が通り過ぎていった。
海はいつものように凪いでいて、心地良いリズムで波が打ち寄せている。
土曜日だというのに6時に目が覚めた。
……あの夢は何だったのだろう……
黒い人影が「助けて」と男性か女性か分からない声だった。
母が夢の話をしようとしていたのも気になるし……
祖母の夢も久しぶりに見た。
ザザー、ザザー。
沖合にはこちらへ向かうフェリーがゆっくりと近づいて来ている。
「まあるいおひさま、おつきさま、さんかくおやま、なみなみおうみ……」
何気なく口ずさんだ、祖母から教わった童歌。
「香ちゃん早いね、おはよう」
ハッとして、振り向くと声の主は毛利久美子だった。
母の友人でパートとして店も手伝ってくれている。
母よりも年上だけど、すらっとした長身のせいか、見た目より若く見える。
家がこの公園の近くだったはず。
「おはようございます」
「これ、ハナちゃん」
毛利の飼い犬のハナが香の所へ行こうと防波堤の斜面を足でカリカリしながら登ろうとしている。
香は向き直り地面に降りた。
ハナは尻尾を目まぐるしい速さで振って香に纏わりついた。
そんなハナの頭をしゃがんで撫でると、地面に寝そべりお腹を見せた。
「あらあら」
毛利は、その姿を見て笑っている。
「そうだ、香ちゃんごめんね、お母さんには言ってあるけど、今日のお昼行けんのよ」
「いいえ大丈夫ですよ、私も手伝うし、美樹も来てくれるみたいなんで」
お腹を撫でてあげると、ハナは気持ちよさそうに舌を出している。
「そしたらね、ハナちゃん行くよ」
毛利がリードを引くと、ハナはくるっと起き上がり、名残惜しそうに香の方を一瞥し歩いて行った。
「バイバイ」
手を振る香に「ワン」とハナは吠え。
まるで返事をしているようだった。
香が立ち上がり防波堤にあがろうとすると、
「香ちゃんおはよう」
今度は男の声がした。
声の主は真一郎の兄の京一郎だった。
「おはようございます」
軽くお辞儀をした視線の先に、近寄ってきた京一郎の足元の革靴は相変わらず汚れていた。
「あっ、その髪留め、かわいいね」
京一郎は香の頭を指さした。
「友達がプレゼントしてくれたんです」
香が髪留めに軽く触れながら答えると、
「ふーん、美樹ちゃんか」
探偵が謎解きを解明した時みたいに、人差し指を顔の脇に立てニコッと笑っている。
なんとなく見透かされているようで気分は良くなかった。
「どこで買ったんだろ?」
京一郎は腕組みをして微笑んでいる。
「先週のお祭りの出店だと思います」
「あー、お祭りか……なるほどね」
パチン。
手のひらに拳を当てて納得しているようだった。
「そしたら」
京一郎は片手を上げて港のほうに歩いて行った。
「ふー」
香は深呼吸して防波堤に上がる。
ザザー、ザザー。
沖にいたフェリーが、瀬田港に迫っていた。
何処からともなく飛んできた、真っ白なモンシロチョウが膝に止まった。
「ごはん食べたん」
羽を休める蝶を見つめていると、不意に人の気配がした。
「あっ」
蝶は羽を広げて優雅に宙に舞った。
「香、おはよう」
気配の主は香の隣に腰かけた。
「あ、ビックリした渚先生、おはようございます」
大内渚は香が通う高校の体育教師。
学生時代はテニスで国体にも出たらしい。
美人でスタイルも良く、男女ともに羨望の眼差しを送る憧れの存在である。
「ごめん、ごめん」
ランニングウェアに身を包んだ渚は、胡座をかいて座り、髪をかき上げながら笑っていった。
シャンプーの良い匂いが風に乗った。
「ジョギングですか?」
「そう、でも珍しいね香が一人って、大概、美樹と一緒に居るでしょ?」
「まあ、確かに」
「ん? 悩み事? 香も美樹も運動すればいいのに」
何でわかるのか不思議で自然と頬に手を当てていた。
「先生みたいに、運動神経良くないから」
「そんなの関係ないよ、体動かしてたら、余計な事考えなくなるよ」
「そうなんですか?」
「香は正直者だし、真面目だし先生は好きだよそういう所、でもねもう少し力抜いてもいいんだよ、考えたり、悩んだりするのは、決して悪いことじゃないけど、そうしてもどうにもならないこともある。だったらその時間を他の事に使った方がいいでしょ? だから運動はお勧めよ」
香は穏やかな笑みを湛えながら発する渚の言葉と表情に見惚れていた。
「まあ、無理にとは言わないけどね」
渚はそう言ってウインクをすると立ち上がり、
「じゃあね、相談があるならいつでもおいで」
渚は腰を左右に捻る。
そして、軽々しく防波堤から飛び降りて走り去った。
「運動かぁ」
見上げた青い空には、いつものように鳶がゆっくりと旋回していた。
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