9話 月を肴に
夕食も終えて、夏南は奏南が出してくれたお茶をすすりながら、近状の報告を行っていた。
友達ができたこと、その友達と遊びに行ったこと、その友達といつもお昼を食べていること。などなど、その話は全て夜風のこと。その一つ一つを、奏南は優しい目で相槌をうちながら丁寧に聞いていた。だからだろう、ぽんぽんと話が出てくる。
「最近は毎日学校に行くのが楽しいんだ」
「それはよかったわ。小っちゃい頃は毎日“行きたくない、行きたくない”って泣いてたもんねぇ」
「そ、そんなことないよっ!」
「あるわよ。ほんとに大変だったんだから」
揶揄うように笑ってくる奏南を睨む。が、その目つきに迫力はなく小さな子どものようだ。そのことに奏南はまたクスリと笑いをこぼす。
またしばらく、夏南は夜風のことを話す。まだであったばかりではあるが、話題は湯水のごとく出てくる。それも全部、夏南にとって初めての出来事ばかりだったから。はじめての感情ばかりだったから。
あらかた話し終えると、いつの間にか二時間近く話し通しだったらしく、いつの間にか時計の針は九時を指している。ハッとした夏南は途端に恥ずかしくなって冷め切ったお茶をずずずとすする。
頬杖をついて聞いていた奏南は噛みしめるように言った。
「……でも、本当によかったわ。貴女にいい友達ができて」
「うんっ! 最高の友達ができたよ!」
ヒマワリのような満面の笑みを浮かべる夏南。奏南は安堵の笑みを見せる。
奏南はずっと心配であった。人とは違うものが見えるせいで、彼女の周りにはなまじ友達と呼べる生きている人間はいなかった。遠くから、友達同士で遊ぶ同年代の子どもたちを見るたびに、寂し気にする彼女にどうすることもできない自分の無力さにほとほと嫌気がさしたものだった。
そんな彼女に生きている人間の友達ができた。それがどれだけ喜ばしいことか。
「よかったわね、本当に」
奏南は夏南の頭を撫でながら願う。
このまま、こちら側の世界から離れていってほしい。そして、いつまでも幸福に生きていられますように、と。
草木も眠る丑三つ時の少し前。
奏南は縁側で月を眺めながら、のんびりと晩酌を楽しんでいた。サラサラと流れる草の音の心地よさに耳を傾けていると、不意に感じ慣れた気配を感じて目を向けた。
そこには、冷たい目をした水無月が立っていた。氷よりもずっと冷たく鋭いそれに奏南はふぅとため息を吐く。その顔には夏南に向けていたような親しさは全く浮かんでいなかった。
「アンタ、まだ夏南にくっついているのね」
『無論だ。あの子を守るのが私の役目だ。それに、あの子は私のものだしな』
「守るですって? 悪霊と戦わせている癖に何を言っているのかしら」
『あの子のためだ』
冷ややかな侮蔑の目で奏南は憮然として応える水無月をにらみつける。お互いの間には殺意ともとれるほどの空気が流れ出す。普通の人間がこの状況に立ち会えば、恐ろしくなって逃げだしてしまうだろう。
「アンタがいる限り、あの子は普通の世界に入りきれない」
『はっ。私がいなくなったところであの子の力が失われることはない。むしろ、私がいなければ、あの子は三日と持たずして悪霊に食い散らかされてしまうだろうよ』
それに、と水無月は言葉をつづける。
『私はあいつと約束した。あの子を……あいつの忘れ形見は何があろうと守りぬくと』
そう言った水無月の顔に悲憤の色が強く浮かぶ。奏南は脳裏に一瞬浮かび上がった最愛の姉の笑顔に、思わず泣きそうになるのをこらえながら、酒を仰ぐ。喉をひりつかせるそれに幾分か冷静さを取り戻す。それでも、胸の奥にグツグツと沸き立つ強い感情を抑える付けることはできない。
「……そこに嘘がないっていうのはわかっているわ。でもね、守って守って、最後にアンタはあの子を連れていくんでしょう」
『あの子がそれを望んでいるからな』
そう答えた水無月は妖しく口角を上げる。その姿はまさしく魔性の存在。かつて、神隠しと称して人の子をさらった神に連なる邪悪な存在そのものと同義であった。
コイツを祓う力があれば。何度思ったかと奏南は唇を噛みしめる。だが、人間で彼女を祓える存在なんて現代にはいないだろう。それこそ、すべての祓い師の原点である安倍晴明ぐらいの力がなければ無理だ。
「あの子は連れて行かせない。その時は、私がアンタのことを今度こそ完全に祓ってみせるから」
『ククク、やりたければやればいい。だがな、私を殺せるとしたら、アイツか夏南だけだ。貴様ごときでは私を祓えんさ。だがまぁ、それでもというならば――』
目の光を消した水無月はずいと奏南に顔を近づける。
『貴様の魂は残らず消し去る。文字通り、朝守奏南という存在すべてを消し去る』
濁った底なし沼を思わせるその眼に奏南の本能が戦慄する。背筋に冷たい汗が流れ肌は粟立つ。だが、負けられない。大切な姉さんの愛する娘をこんなバケモノに渡してなるものかと自身を奮い立たせる。
「はん、やってみなさい。その時は絶対にアンタを道連れにでもしてやるから。それができなきゃ、そのきれいな顔に消えない傷の一つや二つ付けてやるわ」
強気な姿勢を崩すことなくにらみ続ける奏南を、しばらく見つめていた水無月は、やがて力を抜くように小さく笑みをこぼした。そこにはもうすでに、先ほどまでのような殺気はなかった。
『毎度のごとく、このやり取りをするがお前は変わらんな』
「アンタもね。そろそろ諦めなさいよ」
『無理だ。日を追うごとに、あの子は魅力的になっていからな。余計に誰にも渡したくなるというものだ』
「相変わらずベタ惚れじゃないの」
『当然だ』
肩の力を抜いて奏南は月を見上げる。星に囲まれた上弦の月は見ているとそのまま吸い込まれてしまいそうだ。
「水無月」
『なんだ』
「あの子は本当に楽しくやっているのよね」
『……もちろんだ。あの子が話していた通り……その人間の友達と仲良くやっている』
どこか歯切れの悪い答えに奏南は訝しげに見る。
「なにかありそうね」
『まぁ、な。……その人間がな、おそらく私の姿が視えてるようだ』
「は? アンタが見えんの? もしかして、神社の家系とか?」
奏南が驚愕するのも当然のことだった。水無月という存在は普通の幽霊とかとは格が違う。強い力を持ちながらも、基本的にはその力をも気配もすべて消しており、単純に霊感があって“視える”程度では存在を感じ取ることすらできないのだ。
それが感じるだけではなく視えるというならば、それほどに強い力持った存在であることの証明だ。だから、奏南は真っ先に自分と同じように神社の家系で強い力持っているのではと考えた。
だが、水無月は否定するように首を横に振る。そこに釈然としないといった風な空気を感じ取った奏南は眉を顰める。
「なんか、ほかにもありそうね」
『あぁ、視えているはずなのに、その娘からは霊力も何も感じられないんだ』
「はぁ? おかしすぎるでしょ」
奏南は信じられないといった顔で額に手を当てる。水無月が視えるのであれば、強い霊力を持っているはず。そして、それは水無月の目であれば容易に見ることができるはずだ。なのに、それが見えないなんて、もうおかしいを通り越してありえない話だ。
「その子の名前は?」
『仙堂夜風という名前だ。私の記憶では、仙堂という名の陰陽師を聞いたことはないな』
「私もないわ。神社関連でも聞き覚えないし。でも、もぐりの祓い師とかかもしれないわね。あとは、まだ無名か途絶えたと思われた家系の生き残りか……まっ、ちょっと調べておいたほうがよさそうね。アンタが視えてるってことは、夏南が視えてるってわかってんのにあえて黙ってるんだからね」
それが気遣いからか、何かの思惑があってからなのか。この世界にいると視える人間は常に警戒しなければいけない。なんせ、最近では悪霊に魅入られてしまう祓い師が多いからだ。
この前も、とある山に封印されていた強力な力持った悪霊を解放したバカがいた。その人間は殺して、暴れていた悪霊も何とか再度封印したところまで思い出した奏南は酒を勢いよくあおった。
「まったく、最近の奴は何考えてんだかわかんないからね。夏南が対峙した悪霊だって、もっと早くどうにかするつもりだったのに、協会の連中が“若手の練習相手にする”から何もするなって言うし」
『むっ、ならばマズったか?』
「別にいいわよ。待てないから退治したって嫌味を込めたメールを送るから」
そう吐き捨てて酒をあおる。そんな奏南の顔は真っ赤だ。水無月はもうほとんど残っていない一升瓶とその横を転がる数本の酒瓶を見ながら肩をすくめる。
朝守の人間は全員、大酒飲みなのだろうか。夏南の母親も毎日大量の酒を飲んではその状態で悪霊退治もしていたことを思い出す。
『さて、酔っ払いと話すのはここまでだ。私はそろそろ戻る』
「あーはいはい、とっとと戻んなさい。アンタがいるとうまい酒もまずくなるわ」
『祟ってやろうか』
「やってみなさいよ」
ベーっと舌を出す奏南に水無月は眉を引きつかせると、『子どもかお前は』と言い残しその場からスゥと姿を消す。静けさが辺りを包む。心なしか、温度が上がったような気がする。
「せっかく、あの子に友達ができたのに」
そうこぼして一升瓶に手を伸ばす。すると、先ほどよりもずしりとした重さに奏南は首をかしげて顔を向ける。
「……アイツめ」
それは、奏南が先ほどまで飲んでいた日本酒よりもずっと上等な大吟醸だった。ふたを開ければふわりと香るのは花のように甘くも軽やかな香り。奏南の酒好きの本能がこれはいい酒だと教えてくれる。
「こういうことするから、嫌いになり切れないのよねぇ。ははぁ、こりゃ美味いわ、最高だわ」
遠慮なくそれを呑んだ奏南は月を肴に晩酌の続きを楽しんだ。
水無月が音もなく部屋へと入ると、布団の中で眠っていたはずの夏南がパチリと目を開けて「水無月」と眠たげに舌足らずな口調で呼んだ。水無月は目を細めると、そっと彼女の傍に腰を下ろす。
『なんだ、寝ていたんじゃないのか』
「ん……水無月がいないから、ちゃんと眠れ、ない」
水無月が伸ばした手へと頬を摺り寄せる夏南はどこまでも安心しきったように頬を緩める。それだけで、水無月の心は愛おしさでいっぱいになってしまう。
ああ、本当に愛おしくて仕方がない。このままガブリと噛みついてすべてを喰らい尽くしてしまいたくなってしまう。だが、そうするのは、彼女が自らの意思でこちらの世界へとやってきた時まで我慢しなければいけない。
『なんだ、寂しかったのか』
「そう、かもね」
素直な彼女にグツリとした熱が浮かぶ。が、それを悟られないように水無月は猫を撫でるように夏南の顎筋をなぞる。もう今にも眠ってしまいそうな彼女に微笑みかける。
『今日は疲れただろう。早く寝てしまえ』
「う、ん。でも、ね。なんだか今日はもう少しだけ……水無月と話していたい」
『いつでも話せるだろうに』
「わかってる。でも、こうやって……無理やりでも引き止めないと、いなくなってしまいそうだから」
不意に上げられた夏南の瞳に水無月は小さく息を呑む。それは、魂の奥底まで見通してくるような、どこまでも澄んだ瞳に心臓がドキリとする。
あぁ、なんて懐かしい瞳だろうか。水無月は今は亡き夏南の母の深く澄んだ池のような瞳を思い出す。
「水無月」
『なんだ』
「ずーっと、私の傍にいてね」
『言われずとも、約束しよう。私はずーっと、お前の傍にいると』
きゅっと握られた手が微かに震えていることに気が付いた水無月は、心配するなと伝えるように強く握り返す。だが、夏南はまだ信じられないといった様子だ。その表情ですら、彼女の母を連想させる。
『お前は本当に母親にそっくりだな。そうやって、私のことを縛り付ける言葉を簡単に吐き出す』
――めんどうだから、私に取り憑いちゃいなさいな。
消えそうだった時に言われた言葉が脳裏をよぎる。何でもないように、まるでちょっと一緒に買い物にでも行こうというかのような軽さで言ってのけたセリフ。それはいつ思い出しても腹を抱えて笑い出してしまいそうなほどに衝撃的な出来事だった。
『だが、あの時の言葉があったから私は救われた』
水無月は愛おしさに満ちた目で見つめる。あどけなく、まだまだ子どもの彼女。だが、大人になるのはあっという間だろう。その時、この子はいったいどんな大人になるのだろうか。
『夏南、お前のことは守る。それで、お前が傷つくことになってしまっても』
水無月は夏南の額にそっと口づけを落とした。




