4話 彼は誰時に現れるもの
「アナタは誰ですか」
そう目の前の存在へと問いかける。すると、女の肩がピクリと反応する。ゆらりと体を揺らしながら、問いかけた夏南へと目を向ける。その目は強い憎しみの色で満ちている。
その視線に晒されているだけで嫌な気分になる。これが、悪霊の憎悪になれていない普通の人間であれば、その気に当てられて正気を失っていただろう。でも同時に、目の前の存在が悲しんでいるような気もした。
夏南は深く深呼吸をする。そうすれば、感じていた嫌な感じが多少ではあるものの薄れる。
――あぁぁぁぁぁぁ……ッ。
喉が潰れたようなガラガラ声で呻きながら、女がゆらり、ゆらりと体を左右に揺らしながら近づいてくる。夏南は持っていた札を急いで地面へと叩き付ける。
ポンと音を立てて二体の真っ白な体に隈取のある柴犬が遠吠えを上げながら姿を現す。目の前の存在を即座位に敵と判断し、グルルと牙を剥くその姿はなかなかに頼もしい。無事、呼び出しが成功したことに夏南は心の中でガッツポーズをした。
『ちゃんと出せたな』
「うん。でも、これだけで結構体力持ってかれた気がする」
額から流れた汗を腕で拭う。式を呼び出すのにそれなりに体力が持っていかれることを予想はしていた。だが、練習ではそこまでじゃなかったような気がするのに。
『練習と本番では心持が違う。緊張していれば余計に体力を使ってしまうんだ。まぁ、慣れれば平気だ。そのうち、十体でも百体出も出せるようになるさ』
「仮に出せたとしても、それを操る自信はないけどね」
ふぅと息を吐き出して式へと命令を下す。
「行け」
式たちが唸り声を上げて駆け出す。そして、一体が女の腕へと飛びつき噛みついた。女が奇声を上げながらそれを振り払う。と、もう一体がその動きを狙っていたようにもう片方の腕へと勢いよく食らいついた。
ゴギリと骨の砕けるような音が響く。
――イアァァァァァァァァァァァッ!
耳をつんざくほどの悲鳴が女から放たれる。その時に夏南は思わず両手で耳を塞いでしまい、その時に式たちへの意識がそれてしまう。主からの命令という名の霊力が乱れ式の牙が弱まる。その瞬間に、女は右腕に食らいついていた式の頭を、左腕に食らいついている式ごと殴りつけ、体から慣れたところを蹴り飛ばす。
きゃいんと式の一体が煙のように消えてしまう。夏南はしまったと残った一体へと意識を戻そうとするが、そうするよりも早く女はもう一体の式の頭を握りつぶしてから夏南へと迫った。
「やばっ……!」
伸ばされた手を咄嗟に身を捻りながら後ろへと飛ぶ。あれに掴まれていたらさすがに危なかっただろう。だが、まだ息をつく暇はない。追いかけてくる女へと、夏南はバッグからお神酒の入った小瓶を取り出しキャップを片手で外し、中身を掴まんと伸ばされた女の右手へとかけた。
ジュウと焼けるような音が女の右手から響き、弾かれるように引いたその手は、熱湯でも浴びたかのように焼け爛れうっすらと煙が立ち込めていた。
叔母である奏南が送って来てくれたお神酒のおかげでなんとか助かった。夏南は激しく脈打つ心臓をどうにか沈めながら、どうするかと考える。
もう一度、式を出して戦うべきか。お神酒はもう残り少ないから戦いのメインに使うことはできない。それに、女も警戒するだろう。
残った選択肢は――自分で戦うか。
きっとそれしかないだろう。式を出したってさっきと同じ結末を辿りそうな気がするし、そもそも最初のように操る集中力を維持できるとも思えない。
「……仕方ないか」
夏南は大きく深呼吸をすると、バッグからお札を数枚取り出す。夏南の霊力に反応しうっすらと光を帯びたそれを女は睨みつける。それが、なんなのか本能的に理解できるようだ。
「はっ、わかるんだ。そうだよ、これはアンタを祓うための札だ。手加減できないから、逃げるんなら全力で逃げな」
札を女へと投げつける。まるで矢のように鋭く女へと向かったそれは、バチリと眩い光を放ち、いくつもの電撃へと姿を変えて女へと襲い掛かる。女はそれを悲鳴と共に振り払おうとするが、稲妻はそれよりも早く女の両腕を吹き飛ばす。
――アァァァァァァッ!?
困惑の声を上げて女がたじろぐ。夏南は白い光を帯びた札を女へと投げつける。それは眩い光と共に真っ白な鎖へと形を変え、女の体を縛り付け、地面へと引き倒す。あっという間に自由を失った女が抜け出そうと激しくもがく。だが、ガッチリと絡みついた鎖をそれを許さない。
声にならない声を上げる女。
「……」
このまま祓ってしまおう。
静かに札を構えた時だった。
夏南は目の前の女の目から涙が流れていることに気が付く。それは、普通の生きている人が流すように悲しみに満ちていて、このまま殺していいのかという思いがことりと胸に落ちる。
気が付くと夏南はそんな彼女の元へと近づいていた。そして、目の前で腰を下ろすと、至近距離から女の顔を覗き込んだ。
「なんで悪霊になった」
静かな問いかけに女は歯ぎしりをして夏南を睨みつける。それに対して夏南は表情一つ変えずに女を見つめたままもう一度「なんで、悪霊になった」と同じ問いを投げた。
「言葉、わかるでしょ。悪霊になるぐらい悔しいことがあったはずだろう。言え。でなきゃ、このまま祓うよ」
女は暫し夏南をジッと睨みつけていたが、やがて諦めるように項垂れる。そこに憎悪の色はなく、ただただ強い悲愴の色で満ちている。つられるかのように夏南の表情が僅かに歪む。
――ワタシ、ハ……
そうしてぽつりと紡がれたのは悲しい女の人生だった。
女はどこにでもいる普通のOLだった。普通に仕事をして普通に恋愛をして普通に暮らしていくと自分自身も思っていたし、それ以上を望もうなんてみじんも思っていなかった。
そんな女には愛する婚約者がいた。会社の先輩である彼は優しく誠実で心の底から愛していた。幸せの絶頂だった。
だが、そんな幸せはたった一人の女のせいですべて崩れ去ってしまった。
婚約者である男は、女の後輩と浮気をしていたのだ。そしてそのまま婚約破棄を叩き付けられてしまう。会社にも居づらくなり、放心状態のまま彼女は近くのビルから飛び降りて命を絶ってしまったというものであった。
――ミンナ、ワタシヲ、ステル。ダカラ、ワタシモ、イラナイ。
ポタポタと女の瞳から大粒の雨が降り始める。それはとどまることを知らないと言ったように次々と落ちて地面を濡らす。そんな彼女を夏南はじっと見つめる。
かわいそうだと思った。幸せだったのに、それを全て奪われた。それがどれほどに辛かったか。人生経験の少ない夏南では真の意味で理解することはできないだろう。
でも、彼女の心に指先を当ててしまったからか、まるで自分のことのようにその悲しみの波が夏南の心を包む。
「悲しかったね」
――ツライ。モウ、イヤダ。ナニモカモ。コウヤッテ、ヒトヲニクムコトシカ、デキナイワタシガキライ。ダイキライ。
「うん。アナタはとても優しいね。そんな目に逢っても、ほかの人じゃなくて自分を責めるんだから」
――モウ、イヤダ。
「そっか。……消えたい?」
女の背に手を置いて、夏南は優しく問う。女はボロボロと涙を零したまま、縋るような目で見つめる。そして、ゆるゆると力なく頷いた。
夏南は微笑を浮かべてそっと背中を撫でる。
「なら、もう消してあげる。もう、苦しくないよ」
――ホントウニ?
「うん。だから、ゆっくりと目を閉じて眠ってしまいなさい」
夏南の手から暖かい光が溢れ出し、それは女の体を包み込む。女はその日差しのような温かさに身を委ねるようにして目を閉じると、
――ありがとう。
生前の姿を取り戻した女が綺麗な笑みを浮かべて消えていく。
見送った夏南は、辺りから女の気配が完全に消えるのを確認すると、大きく息を吐き出した。
「だぁーっ、緊張した」
『問題なく祓えたようだな。あの女も苦しみから解放されただろう』
「……そうだといいな」
あの女の口からきいた時、凄まじいまでの悲しみが波のように押し寄せてきた。自分とは違う孤独へと落ちていき、最終的に絶望した。そして、憎しみを抱いてこの世に残ってしまった。
その悲しみが少しでも和らいでいればそれでいい。自分ができることなんてそれぐらいしかないから。彼女の代わりに恨みを晴らしてあげることのできないただの人間だから。
だがそこで、夏南はふと疑問を感じた。
こんな祓い方を習った覚えないのに、どうしてできたのだろう、と。女に触れた時に霊力の流れがいつもと違ったような気がした。
だが、それを今再現しろと言われたらできない。いったい、何だったのだろうか。
「まぁ、いいか」
夏南はグーっと体を伸ばす。その横で、水無月はじっと彼女を見つめる。
『……やはり、朝守の血を引いているということか。まさか、そのやり方をするとは』
ぼそりと水無月がそんなことを呟いているのを夏南は気付かなかった。
しばらく休憩し、そろそろ帰ろうとかと夏南が立ち上がった時、嫌な気配を感じて視線を向ける。すると、そこにはいくつもの黒い靄のようなものが揺らめいていた。
それは、悪霊になりかけの霊体だった。放っておけばいずれ悪霊となってしまう。アレを放置して帰るわけにはいかない。祓った後で体力が心もとないと思いつつ夏南が式神を出そうと札を取り出したとき、水無月が片手で制す。
『失せろ』
たった一言。水無月の声が響いたと思った次の瞬間、靄のようなものが一瞬にして消え去っていく。同時に辺りを包んでいた陰鬱とした空気も消えていく。あれらを祓うと同時にここ一帯の空気も浄化したのだと気付いた夏南は感嘆の息を漏らす。
「はぇぇ、相変わらず凄いことで」
『ふっ、私は他とは違うからな。お前も、いずれは今みたいに言葉一つで祓えるようになるさ』
「えぇ、本当かなー」
『本当だとも。なんせ、私が鍛えるんだからな。それに、あれくらいできるようにならないと、私の世界に来た時に苦労するぞ』
不敵に笑う水無月に、夏南はため息を吐く。
水無月の世界にも悪霊や妖怪といった存在がいる。それも、ここなんかよりもずっと人の生活に近いらしい。だからこそ、雑魚ぐらいは自分でどうにかしないと後々苦労するのは自分だ。それでも、今みたいなことができるようになるのか少し不安だ。
「ねぇ、妖怪ってさどんな見た目なの? やっぱり怖い?」
この街には悪霊はたくさんいるが妖怪を見たことはない。いることにはいるらしいがその数はとても少ないらしい。昔見た妖怪映画をイメージしながら聞けば、水無月は顎に手を当てて小さく唸る。
『うーむ、色々いるな。それこそ、人に似たモノもいれば獣とも呼べないほどにおぞましい姿を持った奴もいる。まぁ、悪霊と変わらんな。ただ、決定的な違いと言えば、そいつらは恨みや憎しみだけで動くわけじゃない。ちゃんと意志と心を持って行動しているということだ』
「じゃあ、やろうと思えば友達になれるってこと?」
何気なく言った言葉に水無月は目を瞬かせる。いつもすまし顔でいる彼女の珍しい表情に少しだけ不安になる。もしや、妖怪とはあまり接しない方がよかったのだろうか。
すると、その想像は少し違ったのか。水無月は喉の奥でクククと笑い声を零す。
『友達か……確かに、あいつらは気のいい奴が多い。きっと、いい友達になれるだろうよ。……まったく、お前は本当に母親にそっくりだな。アイツも同じことを言っていたよ』
「そうなの?」
『ああ、最初は危ないから近づくなと言ったのに、気付いたら妖怪と一緒に茶を楽しんでいたんだからな。あの時は本当に驚いたよ』
遠くを見つめる水無月。その横顔に夏南は、顔も知らぬ母を夢想する。
夏南の母親は物心つく前にはもうこの世にはいなかった。どうして命を落としたのかは水無月は知っているようだが教えてはくれない。それでも、時折こうして楽しかった時の思い出を話してくれる。
その話を聞くのも、その話をしているときの水無月を見るのも夏南は好きだった。
「ねぇ、水無月」
『ん?』
「お母さんはどのくらい水無月の世界にいたの?」
『一週間ほどだったかな。その間に大妖怪を何人も打ち倒しては友人関係を結んでいたな』
母はかなりのお転婆だったのか。そして、かなりの力を持っていたようだ。そんな母がもし生きていたら、自分はどんな人間になっていたのだろう。
『間違ってもアイツみたいになってくれるなよ? 私の心が休まらんからな』
「そんなにすごかったんだ」
『あれは、すごいぞ。怖いもの知らずで、凄まじい力を持ってるから何でもできたら余計にな』
「……会ってみたかったな」
その言葉に水無月は眉尻を下げる。そして、ポンと夏南の頭に手を置く。
『ああ、私もお前たちが一緒にいるところを見たかった。きっと、毎日がもっともっと楽しかったに違いないだろう』
その瞳はとても寂しそうで、それだけで水無月が母のことが彼女にとって大切な友人だったことが嫌というほどわかる。だから、何度も知りたいと思った母の死を聞くことができなかった。
彼女の悲しい顔を見るのは嫌だから。彼女にはいつも笑っていて欲しいから。
「水無月」
『ん?』
「水無月はずっと私の傍にいてね。何があっても私から離れちゃいやだからね?」
ギュッと水無月の手を握った夏南は真剣な表情で彼女を見上げる。
『……ああ、もちろんだとも。お前が私を嫌っても永遠に一緒にいるさ』
「私が水無月を嫌うことなんて一生ないから安心だね」
二っと笑う夏南を水無月は目を細めて見つめた。




