2話 見えないものは周りに常に
放課後。
授業が終わるなり、ほかの生徒が声をかけるよりもずっと早く、夜風は夏南を教室から連れ出し、まず人気のない旧校舎へと向かった。
「はぁーやっぱり音楽室ってどこの学校も似たようなもんだよね」
音楽室の壁に掛けられた音楽家の肖像画をしげしげと眺めながら夜風は歩き回る。古びたピアノの鍵盤を適当に押して音を鳴らす。古びてはいるが、授業では現役なのでその音はとても綺麗だ。
教室の扉に寄りかかりながら、夏南は早く別の場所に行きたいと願っていた。夜風と一緒が嫌なわけではない。
――教室の中にいる存在のせいだ。
それさえいなければ、彼女ともっと素直に楽しめるはずなのに。
肖像画の目が一斉にギロリと夏南のほうへと向く。咄嗟に目を逸らし、気づかないふりをする。ザワザワとどこからともなく話し声のようなものが聞こえてくる。
「ねぇ、次行こうよ」
「いいよ! じゃあ美術室がいいな」
そう言うなり、夜風は夏南の手を引いて音楽室を後にする。肩越しに振り返れば、音楽室の中央には黒い靄のようなものが立っていて、こちらをじっと見つめていた。
いくつもの教室を回っていくうちに、夏南はふと疑問を口にした。
「ねぇ、私の案内って全然いらなくない?」
「え、そんなことないよ? すっごい必要」
立ち止まって振り向いた夜風が、ブーと口をとがらせる。
「いやいや、迷いなく歩いてんじゃん」
「それは、学校の地図もらって覚えてたからだもん。実際に歩いてみないとわかんないことだっていっぱいあるし……でもでも、一人で歩くのは嫌だし……」
いじいじとローファーのつま先で廊下をつつくその姿は完全に拗ねた子どもだ。それも、ちょっとやそっとでは機嫌の直らないタイプの。
そんな様子に、思わず夏南はプっと小さく噴き出す。夜風がさらにむくれた表情へと変わっていく。それが余計におかしくて笑いがこぼれ出る。
「もうっ、そんなに笑うなんてひどい」
「ごめんごめん。でも、おもしろくって」
肩を震わせて笑う夏南。
水無月以外の人としゃべっていて、こんなに楽しいと思えたのはきっと初めてだ。しかも相手は生きている普通の人間。普通の人たちからすればなんてことないことなのだろうが、夏南にとって今の状況は不思議で、むず痒い気くて、どこか嬉しい。
「夜風、最後に私のお気に入りの場所を教えてあげる」
「えっ!? ほんとに!? やった!」
その一言で、むくれていた夜風の機嫌は一瞬で直ったようで、ぱっと顔を明るくさせて夏南へと飛びつく。その姿はまるで、おやつが貰えるのがわかった子犬のようだ。きっと尻尾があったら、ちぎれんばかりに振っていたに違いない。
ある程度教室巡りを終え、夏南は夜風を学園の裏手へと案内した。そこには一本の大きな柳の木と、小さな立て看板があるだけのさびれた場所だった。
だが、その場所は今まで回ってきたどの場所よりもずっと澄んだ空気に満ちている。それをすぐに感じ取った夜風は、きょろきょろと辺りを見回しながら言った。
「すごい……空気がきれい。ここはなに?」
「すごいでしょ。ここはね、昔この街を鬼から守った武士が奥さんと過ごしたお気に入りの場所だったんだって。それに、この柳の木には神様の力が宿っていて、このあたりの空気を綺麗にしてくれてるんだよ」
得意気に説明する夏南。だが、それはすべて柳の木の根元に立てられている看板の説明の丸写しだ。看板を読んだ夜風が何か言いたげな視線を投げかけてくるのを曖昧に笑ってごまかす。
この伝説が本当なのかはわからない。けれど、夏南は本当だと信じている。なんせ悪い空気の溜まりやすいこの学園で、最初から神聖な空気で満たされていたのはここだけだったから。加えて、あれだけ大量にさまよっている霊たちは絶対にここには近寄ってこない。さらに、何もない場所だから学園の人間も寄り付かない。
本当になににも会いたくないときにだけ訪れる大切な場所。そんな場所を出会って間もない人間にあっさりと教えてしまうなんて……案外チョロい人間だなと、夏南は思わず心の中で笑ってしまう。
だが、この今までに感じたことのない感覚は心地が良かった。
「……ねぇ、この話ってさ、もしかして鬼切伝説?」
「そうだよ。知ってるの?」
「前にこっちに少しだけ暮らしてたんだけど、近所のおばあちゃんから聞いたことがあったんだよね」
「ああ、そういうことね。まっ、有名な話だからね」
鬼切伝説――それは、この街で伝えられる昔話だ。
はるか昔、この土地には大きな力を持った悪鬼が住んでいた。鬼は気まぐれに人々が住む村にやってきては大暴れし、若い娘をさらっていくため、人々たちからひどく恐れられていた。
人間たちはどうにかしなければと思っていた。そんなとき、一人の武士が鬼を倒してみせると名乗り出た。それは、数日前に鬼に妻を奪われた男だった。
彼は鬼の根城である山へと向かい、数日にわたる激闘の末、なんとかその悪鬼を封印し、平和を取り戻した――そんな伝説である。
夏南が住む街の近くの山に鬼が封印されているとされており、今では観光資源の一つになっている。街のあちこちに鬼切伝説の記念碑などが建てられ、ときおりオカルト好きの観光客や民俗学者が訪れるのだ。
「うーん。本当に過ごしやすいね」
グーっと体を伸ばした夜風が、夏南を見る。
「でも、よかったの? こんなにいい場所教えてもらって」
「いいよ。夜風は特別」
そういってなんだか恥ずかしくなった夏南は視線を逸らす。夜風は目を細め、微笑を浮かべた。
その日の夜。夏南は帰ってきてもにやけ顔が収まらなかった。
だが仕方なかった。なんせ、物心ついてから生きている同世代からはいつも気味悪がられ、あんな風に誰かと楽しく過ごすしたことなんてなかったのだから。
宿題をする手も自然と軽やかになっていき、知る人が見ればすぐに上機嫌だとわかるほどだった。
そんな彼女を後ろから抱きしめ、手元を覗き込みながら水無月が囁く。
『楽しそうだな』
「そりゃそうだよ。だって、今まで同い年の人とああやってまともに過ごしたこと、なかったもん」
『そうだな。ずっと、それを望んでいたもんな』
甘い声で水無月はそう言って、夏南の頭を撫でる。その優しすぎる手つきと間近に慈しむような良すぎる顔のせいで夏南の顔に自然と熱が集まる。
生まれた時からずっと一緒の水無月。いつだって、夏南という存在を一番に考えてくれる彼女。彼女がそばにいてくれたから、あらゆる人たちから避けられようと心折れずに生きてこれた。
「……でも、水無月はあんまりうれしくないんじゃない?」
『そう思うか?』
「うん。だって、水無月は私のこと大好きじゃん。それに、いつかは私のことを連れていくつもりなんでしょ?」
水無月という存在はいずれ、夏南を自分の世界へと連れていくつもりだ。だから、この世界に執着するような出来事を快く思わないはずだと、夏南は考えていた。
なのに、彼女は平然としている。そのことに少しだけ、ほんの少しだけ“慌ててくれてもいいのに”と考えてしまう。
だからあえて、挑発的に言った。
すると、そんな考えはお見通しだと言わんばかりに水無月は赤銅色の瞳を妖艶に細める。そこに強い執着という名の熱を感じ取った夏南はハッと息を呑んだ。
『お前がほかの人間に取られる心配なんぞしていないさ。なんせ、お前は最後には絶対に私を選ぶとわかっているからな』
するりと夏南の頬を指先で撫でた水無月。その魅惑的な彼女に、夏南はまるで全身の筋肉が固まってしまったかのように動くことができなかった。なのに、心臓だけはバクバクと激しく動いている。
ゆっくりと彼女の指が頬から顎をなぞり首筋まで下りていく。それだけで、全身に感じたこともないゾクゾクとした感覚が走り抜けて体温が上昇していく。
赤銅色の瞳が夏南を射抜く。そのひりつくほどの熱と、“魂だけになって逃げだしても必ず手に入れてやる”という強い執着を感じ取ってしまった夏南はぐっと口を引き結ぶ。
「……ッ」
真っ赤な顔のままされるがままの夏南を、愛おしげに見つめる水無月。その姿はまさしく人ならざるものであった。
これ以上調子に乗らせてはいけない。振り払わなければいけないのに体が動かない。それは彼女が何かをしたというわけではなく、夏南自身が受け入れてしまっているからだ。
水無月の手がゆっくりと離れていく。名残惜しげなその動きに、思わず声が出そうになるのを夏南は必死にこらえる。
『これ以上は、お前がもう少し大人になってからとしようか』
からりと笑った水無月の瞳から、先ほどまで浮かんでいた熱はすでに消えている。夏南はそんな彼女を睨む。
だが、拗ねた子どもが不満をぶつけてくるような視線は、水無月からしたら可愛らしい以外の何物でもない。
『お前に友達ができてよかった』
「えっ?」
思わぬ言葉に夏南は目を瞬かせる。
『確かに隣には私がいた。だが、普通の人間から見ればお前はいつも一人ぼっちだ。いつも周りから距離を置かれるお前を見るのは気分が良くなかった。この街の奴らを祟ってやろうかと思ったことも、一度や二度ではない』
「水無月……」
『だから、生きている人間の友人ができることはこちらの世界に執着することに繋がることになるだろう。それでも気にはせん。私は夏南、お前にはいつも笑顔でいてほしいのだからな』
その声色は、姉が妹を心配するかのように優しく真剣で、夏南の胸をきゅっと締め付けた。思わず涙がにじみそうになる。
「水無月」
『ん?』
「ありがとう」
そう言って夏南は、彼女に頬を摺り寄せた。
次の日。
夏南がいつもの場所でもそもそと昼食のおにぎりを食べていると、夜風が大きく手を振りながら駆けてくる。
「かなーん! 今日も一緒に食べてもいい?」
「えっ、い、いいけど……クラスの人はいいの?」
教室を出るとき、夜風が昨日と同様クラスメイトに囲まれているのを見ていた夏南が尋ねると、彼女はこれでもかと顔をしかめて「べつにー」と答えた。
「だって、話しててつまんないしー。夏南と一緒にいたほうがずっと楽しいもん」
「え、あ、う……」
へらりと笑いかける夜風に、夏南は一瞬ぽかんとしてしまう。そして、もごもごと言葉にならない声を漏らす。
こうしてまっすぐな好意を向けられると、どう反応していいかまだ分からない。視界の端で水無月がにやにやしているのを見て、夏南はむっと顔を逸らした。
「ふふふ、本当に夏南って面白いね」
「どこがさ」
「そうやって可愛いところとか」
からかうようなに言われ、夏南は何とも言えない表情を浮かべる。それを見た夜風が噴き出す。
「ちょっ、なにその顔」
「う、うるさいっ」
強がるも夏南の顔は真っ赤だ。夜風はにやりと笑うと、夏南の肩に腕を伸ばして組んだ。夏南は咄嗟に逃げようとするもが、がっちりと固定されているために逃げることはできない。
「暑い」
「ふふーん。照れちゃってー」
「ね、マジで暑いから離れてって」
そう言いつつ強く抵抗してないことに気をよくした夜風は、へへへと笑いながらのしかかるように夏南の体をこれでもかと強く抱きしめる。水無月とは違った柔らかさだ。
「うわっ、おもっ」
「ちょっと、女の子に重いはひどくない? 女心がわかってないなー」
「私も女なんだけど……」
うりうりと体を押し付けてくる彼女を退かすのを諦める。抵抗がなくなったことに気が付いた夜風は、にやりと笑っていた。
しばらくくっついていたが、流石に暑くなった夜風が離れる。さらりと吹いたぬるい風が少しだけ涼しく感じられた。
「ねぇねぇ、放課後、暇?」
「え? 暇だけど」
「じゃあさ、放課後ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
「私が?」
夜風からもらったデザートの一口ゼリーを食べる。凍らせてあったのか、半分ほど溶けて少ししゃりとッとしたレモン味のそれはさっぱりとしていて夏にはぴったりだ。
「まだここに来たばっかりで、いろいろと足りないものがあってさ」
そういいながらもう一つ、レモンゼリーを夏南に手渡した夜風に、なんとなくこれから言われることが予想できた夏南はそれを口にする。
「荷物持ちってことね」
「いやいや、そ、そそそんなことないよ」
「嘘下手すぎでしょ」
思わずプッと笑う。夜風は「違うもん!」と言い張っているがあまり意味をなしていない。
「もー! それだけじゃないって。普通に夏南とも遊びたいんだよぉ」
「はいはい。わかったわかった。何か奢ってくれんならいいよ」
「奢る奢る。なんでも買ってあげちゃうよ」
にひっと笑って夜風が再び抱き着いてくる。うっとおしそうにしながらも、夏南の表情はどこか嬉しそうだった。
多分、彼女に頼まれたら今後も断れないんだろう。ほほえましげに見守る水無月を見ながら、夏南はそんなことを考えていた。




