僕らの、農民一揆実録
細い月はとうに沈んだ。貯蔵倉庫とは名ばかりの空っぽの石小屋に松明の炎が揺らぐ。小屋の中央の作業机には羊皮紙が広げられ、その机を挟んで二人の若者が、そして彼らを囲んでその他大勢が、松明の灯りを受けて濃い影を石壁に落としている。
机を挟む若者のうち、金糸の髪の青年の名をジョルジュといった。彼は何度も羊皮紙を読み追い、言った。
「これで、いいよな」
不安がわずかに潜むジョルジュに対し、向かいの栗毛の青年アベルは迷いなく頷いた。
「ああ」
二年前、身寄りをなくしたとかで、どこぞの令嬢がこの領地の領主の養女となった。彼女はリリーと見紛う立ち姿で、領主を魅了した。一年間、彼女は身に宝石を、服にレースを望み、領主はそれを全て叶えた。もとより傾きかけていた財政は決定的に崩れ、もとより厳しかった税は本格的に農民を飢えへと誘った。
一年前、領主が冬の流行病で死んだ。諫言も聞かぬ領主に愛想を尽かせていた領主夫人は、すでに実家に戻っていた。領主に直系の若も姫も居らず、継ぐべき人間は浪費養女ただ一人。継いで嬢は高らかに宣った。
『領主にふさわしいローブが欲しいわ。細やかで煌びやかな刺繍がしてあるローブよ』
一年間、彼女は服飾と宝飾に贅を凝らし税を課した。農民は決起の火種に藁をくべ薪をくべ、ついに先日それが灯った。机を挟む二人が中心となって計画を練り、あとは明日の実行を待つのみである。羊皮紙には、現領主の悪行が理路整然と書き記されており、蜂起に加わる圧政の被害者の名も幾十と並んでいた。
今回の最悪のシナリオは、この農民蜂起の事実が遠く離れた王都にいる国王へと伝わる前に、あの小娘に鎮圧されて全てがなかったことにされることだ。この陳述書をかの御方に見ていただかない限り、何も解決しないどころか、ここに名のある者全員が領主に殺される。
ジョルジュの不安の正体を、その視線の先から察したアベルは、悠然と構えて言った。
「一計は案じたろう。僕が担う、大丈夫だ」
その自信は一体どこからほいほいやって来るのかと言ってやろうとしたジョルジュだったが、やめにした。栗毛の彼とて根拠も確信もないのだ。ただ、絶対と言って信じてやるしかないところまで困窮が差し迫っている。ただそれだけの話だ。
ジョルジュは、案じたという一計をぐるぐると反芻した。領内には、国直轄の主要流通路がある。適当なところで陥没を起こせば、たとえ蜂起自体が鎮圧されたとしても、領主が国道を直し終わる前に必ず商人の目に入る。主要道の異常はその持ち主である王の元へと報告されるはずだ。当代王が暗愚であるならばいざ知らずだが、彼の今までの統治からして見過ごすことはあり得ない。王宮からの調査員が派遣されることは必至で、使者が到着してしまえばこちらのものである。
ジョルジュは羊皮紙の上で拳を握り、国道と領主城がある東側を睨んだ。
「十年……、十年で三箇所だ。農民蜂起の波に乗るぞ」
当代王が愚王でないと言われる理由がここにある。一度目は、サファイアの産地で起こった二月革命。二度目はワインの産地で起こった六月革命。三度目は陶磁器の産地で起こった八月革命。農民蜂起が成功した前例三件では、領主の悪行がしかと王へと伝わり、その結果として、一時的に領政を乱したはずの民は一人として罰せられることがなかった。乱の後は、中央から派遣される管理官の元で、領民の代表が中心となって役所の仕事と管理を行い、代わりの領主が来るまでの間は自治が認められている。
四度目はここ、生糸の産地で起こして、必ず成功させてみせる。
深く頷いたアベルは集団に向かった。
「最後の確認だ。主たる目的は国王陛下に惨事ここに有りと伝えること。そのために領主をその座から引きずり下ろすこと。仮に逃げられ失敗した場合でも陛下に異常を知らせるため、国道に穴を空けること。穴は爆薬を使って空けるが、爆発は陽動でもある。領主城の兵が国道へ向かった隙に本部隊が領主城を叩く。本部隊はこいつが、陽動班は僕が指揮を取る」
決行は明日、新月の夜である。
* * *
滑稽だわ、と己の指元で光る石を蝋燭に照らし、リュカの主人ブランシュはくすくすと笑っていた。主人は興が乗ってくると酒を飲みたがる節がある。リュカは尋ねた。
「お嬢様、何かお持ちいたしますか」
「そうね、おばかな一部始終が美味しそうに熟しているけれど。でも足りないわ。もっと甘くなくちゃ」
「では、デザートワインを」
「そうね。とびきり甘いやつよ。それから、わたあめも」
主人の所望に、リュカは首をかしげた。主人は甘すぎる菓子は好まないはずだった。
リュカの顔色を見やって、リュカの主人は笑った。リュカの、誰より貴いブランシュが、誰をも虜にし、あるいは圧倒し敗北させる笑みを、その紅々とした唇の上で踊らせた。
「私が食べるのじゃないわ。火をつけるとね、燃えるのよ、綺麗に。それを見たいと思って。ねえ、何も知らないおばかさんたちは、これを見てどう思うかしら。考えただけで楽しいわ」
リュカは一歩下がって礼を取った。
「ご随意に」
* * *
太陽と月が同時に沈み、陽動が始まった。主要道での派手な爆発で領主城の守りは手薄になり、士気の高い農民側がこれを制するのは想定していたよりもはるかに易かった。ただし、城内に領主の姿は見当たらず、ジョルジュが探しに追って行かせた農民たちが捕らえてきた者は、いずれも偽者だったが。
(まあ、いい)
一応縄にかけておいた偽者を見下しながら、ジョルジュは王都の方角に目を向ける。
あの小娘狐がどこへ行こうと、たとえ王城へ出向いて国王に嘘偽りを吹き込もうとも、ひっくり返らないだけの証拠ーー納税の割合と実際の収穫量との比較から、領主の贅沢品の領収書までーーは集めて羊皮紙の嘆願書と一緒に置いてある。
異変を察知し、あるいは己の役割を終え、街道から領主城へ戻った兵は、城を占領した農民に取って食われ、悟った彼らは命のために大人しく縄にかかった。
領主は取り逃したが、目的は達せられた。
『主たる目的は国王陛下に惨事ここに有りと伝えること』
そう易々とは消えない狼煙を立たせることができただろう。
『そのために領主をその座から引きずり下ろすこと』
現在、本人がどこにいるのであれ、領主城の城主の椅子は空であり、十中八九逃亡済みで、戻ってくることはないと見える。
『仮に逃げられ失敗した場合でも陛下に異常を知らせるため、国道に穴を空けること』
これもアベルがよくやってくれた。あえて言うならば、ジョルジュが想像していたよりも大規模な爆発ではあったが。
『穴は爆薬を使って空けるが、爆発は陽動でもある。領主城の兵が国道へ向かった隙に本部隊が領主城を叩く』
おかげで想定よりも多くの兵が領主城から離れ、最もよかったのは、農民側に死者がいないことだった。
陽動班は、アベルを入れて五人。この五人が領主城に入ってくれば、一件落着大団円ーーしかし、しばらくして領主城にやってきたのは四人だけだった。背格好からしておそらく陽動班の者たちであろうのに、アベルらしき影が見当たらない。
(ーーああ)
ジョルジュはその画で全てを悟った。全部が全部上手く行くはずがないのだ、こういうことは。だが、なぜ。
ジョルジュは己の前髪をくしゃりと握り込んだ。あと一歩というところで、どうしてお前なんだ、アベル。
明かりを灯したホールまで四人が歩いてくると、やはり彼らの涙を目の当たりにすることとなった。
「爆薬が……! 頼んでいたものと別だったみたいで、アベルが……!」
誰かが言いづらそうに歯切れ悪く言うのを、ジョルジュは努めて冷静にさえぎった。
「いい。巻き込まれたんだろう。アベル以外の皆は」
「飛んできた破片でかすり傷作ったくらいで……」
「なら良い。良いと、言う男だろう、あいつは」
ジョルジュとアベルは、そう古い仲というわけではない。むしろ二年かそこらの付き合いだ。しかし、初めて会ってからというもの、会えば会うほど感覚の近さを覚え、話せば話すほど意気投合し、ジョルジュは生涯の知己を得たと思っていた。そもそもこの蜂起も、アベルの支えがなければ、自分が指揮を取って実行するところまでは到底たどり着けやしなかった。
(……虚しいな)
ジョルジュは一人天を仰いだ。シャンデリアが眩しすぎて、ジョルジュは目伏せた。
革命は成功した。そのことは、これより後の生糸の村に対する政策と体制でもって証明された。しかし、それを最も一緒に喜びたかった相手を、ジョルジュは失っていた。
国で四番目の農民革命を成功させた金髪の青年は、褒め称えられ、担ぎ上げられたが、その顔にははにかんだ笑みしか浮かぶことがなく、彼は唯一の犠牲者である同志の墓へと足を運び続けた。
* * *
街の建物の影、森の木々の影ーーどこにでもある、しかしどことも知れぬ影に、その白色はいた。
「まったく、きれいに燃えたわね」
白の名を欲しいままに体現するブランシュは、黒をも自在に操ると見え、異様なほど闇に溶け込み笑う。
「おばかさんはああでなくちゃ」
そんなブランシュの、そのまた影に控えていたリュカは、主人の口角を瞳に映し、その画を脳に焼き付けて目を閉じた。やはりブランシュはこの世の何よりも妖しく美しい。そして、主はリュカの背後をひらり鱗粉をまく蝶のように振り返り、コロコロと鈴音を響かせるのだ。
「ねえ、ご満足いただけまして、殿下」
主人の意図を汲みとったリュカは跪いたままにじり下がり、主と殿下の間に道を空けた。その道を行き、応えるように笑っている殿下がブランシュの前に歩み出て、その栗色の髪をなびかせる。
「もちろん。今回もよくやってくれた」
「貴方ほどではございませんわ。たった二年で信頼を勝ち得て、親友の座にお座りになるなんて」
今までの農民革命について、農民側の被害が最小限で成功したことに注目が集まりすぎているせいで、重要視されていない点が三点ある。一点目は、蜂起決行日の領兵が普段よりも腑抜けであること。二点目は、農民側の死者が極めて少なく、それぞれたった一人であることーー言い換えれば、必ず一人が死んでいることーーさらに言えば、その唯一の犠牲者が必ず栗毛であること。三点目は、革命が起こる一、二年前から、白百合の少女あるいは令嬢が、圧政を敷く権力者の側に姿を現し、この白百合だけは凶弾に倒れることがないこと。
さながら圧政者に墓地行きを通告するかのような美麗な白百合に、栗毛の死者は微笑みかけた。
「大したことではないさ。そもそも君たちの助けがなければ成り立たないからね。おかげで、また兄上の美談が増えるよ」
「これ以上増やされて、一体何がなさりたいの」
「なにも。僕はただ、圧政者を野放しにする能無しだとかいう兄上の悪評が許せないだけだ。利権と私欲のために、どこかの癌が上へ報告していないだけなのに、その皺寄せが全て兄上に行くなんてことは許されない」
栗毛の青年は、王都の方角を見据え、微笑みを浮かべて続けた。
「兄上は素晴らしい。兄上は美しい。兄上は名君だ。僕はそれを知らしめられればそれでいい」
「そのために、国王の弟君ともあろう御方が、ご自身の近衛兵をこんなふうにお使いになるなんて、一体誰が想像するかしら」
「それを言うなら君もだよ、ブランシュ。小悪党を華麗にリードする君が近衛兵だなんて、一体誰が想像するだろう」
ブランシュは、幼少のみぎりより武術の才に長けていた。それを見抜いた当代王は、彼女を国王の弟である皇嗣の近衛に加え、護衛の任に当たらせた。しかし、ブランシュの才は武に関するものだけにとどまらず、皇嗣は彼女に別の任を与えた。
承諾した幼いブランシュの可憐さに、あるいは妙齢のブランシュの艶麗さに、ほだされ流された権力者は、彼女の口車に自ら喜んで飛び乗り、それまで領民に悟られないように使っていた裏金を惜しみなくばらまき始めた。ブランシュの要求品が領外のものであるならば金に糸目をつけずに手に入れ、領内のものであるならば権力にものを言わせて領民から絞り取る。例えば、純度が限りなく高いサファイアで、今までにないカッティング法でネックレスを作り納めよ。あるいは、五十年物よりも芳醇なワインを年内に作り納めよ。もしくは、ティーカップから大皿に至るまでのあらゆる食器を薄く繊細なものでそろえよ。そうでなければ、ドレスからローブに至るまでのあらゆる服飾に刺繍とレースをふんだんに施せ。
そうして、裏金の調達方法と農民の底力がすべてブランシュに嗅ぎ当てられてしまえば、もう為政者は用済みとなる。赤の着彩が得意な白百合は、雄しべたるエペでもって、対象に赤い花粉を撒き散らす。ブランシュ自らが為政者の皮をかぶった後は、領民に分かりやすく裏金を使い、その経路を調べさせ、栗毛の青年に懐柔させられ蜂起を促された若き指導者にそれを書きとらせる。決起の日には、兵たちの食事に混ぜものをし、彼らをしびれさせ、存分に戦えないようにする。農民側は、皇嗣と白百合がリードする舞踏の間では、圧勝する以外のステップを踏めなかった。
革命後、領民たちに残されているのは、ブランシュの無茶に応えたことで培われれきた、並外れた技術力と研究成果であった。火事場でなければ決して生み出せなかったであろう馬鹿力を、まっとうな統治下でふるえば、それは瞬く間に付加価値の付いた特産品を成し、高く評価され、買い手が付いた。革命が起こった土地では金銭面での豊かさの基盤が何段階も強固になった。
しかも、ブランシュが悪政者に大金を落とさせた先は、それ以前の革命地の高級特産品を扱う店がほとんどであった。曰く、糾弾されるべきおばかさんの汚い金など、全て農民への対価として巡っていけば良いのだ、と。
今もブランシュの指本で光るサファイアを見て、皇嗣は目を細めた。
「ああ、さすがの美しき所業だ」
皇嗣は続けて、ずっと跪いたままでいたリュカに手を差し伸べ、立ち上がるよう促して言った。
「僕の頼れるもう一人の近衛兵。これまで通り、僕に仕える必要はないよ。これからも彼女をよく助けておくれね」
リュカは皇嗣の手を取り、恭順の意を示して答えた。
「必ず」
* * *
ああ、まだあの弟を放蕩馬鹿だのぼんくらだのと陰口を叩く者がいるのかと、昇らぬ月に盃をかざして王城の主は余裕に満ちた笑みを浮かべる。
――我が弟は素晴らしい。我が弟は愛らしい。我が弟は有能だ。その真価すら見極められぬ者など、弟が帰ってくるべきこの王宮には要らぬ。
民のためではなく、兄のために民を守る皇嗣がいた。皇嗣に従い、悪漢の傍で咲く二輪の白百合があった。国のためではなく、弟のために家を守る王がいた。彼の両親が惨殺されたことで幕の開いた彼の治世では、地方・中央を問わず、汚職や世襲で官位を得ただけの癌が一掃され、国民に重きを置いた舵取りがなされ、彼は後に賢王と呼ばれる。その内情は、己の財産を守ろうとした民と、己の兄弟または主を偏愛した青少年と、己の道楽を追求した白百合が、その利己心をどこまでも満たしただけのものであった。