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異世界日誌(仮)  作者: 鈴木啓一
第一章:赴任
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第5話:上階の医者

 自宅の整理、周辺環境の把握、風呂、トイレ、水場の使い方等々。全てを大方覚えた私は、ようやく新京市街を見て回る余裕を手に入れた。まずはなにをしようか。新生活の準備をしている間に見つけた気になる店を順次回ってみてもいいだろうし、まずはこの辺で利用できそうな店を探してみるのもいいだろう。どちらにせよ、ゆっくりと腰を据えて現地コミュニティを観察できる機会はこれが初めてであった。

 聡明な方であれば、こう考えるかもしれない。

「赴任五日目でようやく現地の店に行くのか? それまでの飯や生活はどうしていたのか」と。

ここでちゃんと説明を入れておくべきだろう。まず朝昼晩の三食についてだが、家の中で済ませるべきことが多く、移動販売車の簡単なご飯を購入して食べていた。最近は田舎でも見なくなった移動販売車であるが、こちらでは今なお現役である。やはり食品衛生の観念が強い日本人が、すぐに現地の食べ物を受け入れることは難しく、多くの赴任者は最初にこうした移動販売車からおにぎりやパンを購入して食べることになる。私もその例に漏れず、現地の食べ物に対する漠然とした不安感、店の扉をくぐる多少のハードル、忙しさなどから移動販売車を選んでいた。市庁が雇用しているので、当然販売員は日本人で製品には日本語が書かれている。こうした異郷の地で母語を見ると、それとなく安心感を得られるのも新任者が現地料理を選ばない理由の一つだろう。ご飯の他にも生活上テフレア人と触れ合う機会は選べばあるが、当初の私は家と市庁を行き来するので数日を費やしている。現地人とまじかで触れ合う機会は、それこそ銭湯くらいしかなかった。銭湯については日常生活の一部であるし、今後書く機会もあろう。今は文字数を割かないでおく。


仕事が始まるのが約三日後、それも現地研修から始まるので、生徒との初対面は一か月後という計算となる。当然一か月もの間を長々とここに書き記していたら冗長でつまらないものになるだろうから、初授業までの日々で書く内容はそう多くはならない。しかしこの小説の執筆目的、日本本土の方々に異世界の現実を見ていただく。という主題に関して書いておきたいものは幾つかある。赴任五日目の私の小冒険も、その中の一つだろう。少なくともご笑覧いただく程度の価値はあると思っている。


さて、現地時刻は四月十日、午前九時半。余談だがこちらの一日はだいたい三十時間、一か月は二十日である。地球換算で約二十五日、約六百時間で一日となる。……この辺の計算は閏日なども合わせれば複雑なものとなるが、一日=三十時間という計算さえ覚えて頂ければ、今は然程問題ない。

なので、九時はまだ夜明けからそう時間が経っていない状態である。地球時間で言う所の七時過ぎ相当と考えて頂ければいい。ちなみに正午は十五時、日没はだいたい二十一時以降と考えていただきたい。これは一秒を地球と同じ長さで捉えるために起こる現象である。当然現地には現地なりの時間計算法があるのだろうが、地球人にはこちらの方が混乱せずにすむので地球式で計算する。拙作でもこの表記法(一日=三十時間、一か月=二十日)を採用させていただくので、悪しからず。


この日起床した私は、突然の多忙から解放された多くの人が陥る状態にあった。つまり、「暇になったけど何しよう?」と考えあぐねる状態である。当然やりたいこと自体はあるが、それをどの順序でやるのか。という整理が全くできていない状態だった。

漠然と、この街を冒険をしたい。という少年心から来る情熱はあった。しかしどこをどう見ていくかは決まっていない。近くの店を見て回るにしても、大した用事もなく鍛冶屋や武器や等に入っても迷惑だろう。こういったときのベターな選択肢としては酒場だが、当然昼から酒盛りするほど呑み手ではない。冒険者ギルドらしき場所もあったが……。当然、定職のある人間が行く場所ではないだろう。喫茶店のようなものはあるとしても、前情報なく入るのは蛮勇だろう。花街? 論外である。

この時、私は自分が赴任することになる学校さえ知らない状態だった。それを通知されるのは三日後の現地研修からであり、その現地研修も市庁のホール(元舞踏場らしい)で行われることになっていたからだ。ゆえに自分が派遣される学校を事前に視察しに行く選択肢はとれない。かといって普通のショッピングもあまり気ノリはしない。この辺で買える現地の物品といえばせいぜい日用品か食べ物。日用品は地球製品がいいに決まっているし、食べ物もできれば事前に情報が欲しい。特にナマ物なぞは寄生虫や病気の心配がある。本屋というのも考えたが、日本語の本があるかさえ怪しいだろう。

 市庁から配給された地図も開いて吟味してみた。地図は厚く、ベッドの三分の一を占めるほどの大きさで三枚セットになっている。一枚目は東大陸全体の地図、二枚目は四公国近隣の地図、三枚目は新京市街の地図である。市営の公共施設や避難所、日本人街などが細かに記されている。しかし観光マップではないため、面白そうな場所。というのは見当たらない。

 地図を収めてベッドのサイドテーブルに投げ捨てたその時、玄関を叩く音が聞こえた。

 扉の先にいたのは先日の三階の方だった。名前は大平といい、市庁で医院勤務のお医者さんである。

「おはようございます鈴木先生……って、おやすみでした?」

 そう言われて自分がパジャマだったことに気が付いた。決まりが悪かった。

「ああ、大丈夫です。大平さんは休みですか」

「今日は遅番なんですわ。先生、今日はお暇ですか?」

 体格も良くサッパリした頭で、ニカッと笑う。第一印象は体育会系っぽいな。というものだった。勉強もスポーツもできる、エリートらしいエリートの匂いがした。

「昨日新生活の準備を終わらせて、午前中はゆっくり見物でもしようかと思ってたところですよ」

「ああ~、なるほど。右も左も分からんでしょうしなぁ」

「大平先生はこっち来て長いんですか?」

「長いと言っても、まだ三年くらいですわ。とはいえ、こっちにいる日本人の最古参でも五年いかない人が多いんとちゃいますかね」

 後から聞いた話だが、この人は第一次開拓団の時に応募してやってきたらしい。それまでは東京の大病院で外科医をしていたというが、それ以上の話はまた後日。

 この時私は早く話を終わらせて、物見遊山の段取りをつける作業に戻りたかった。その私の雰囲気を知ってか知らずか、大平は饒舌にこう告げた。

「いやね、先生。先生もこっち来て忙しそうやったから中々声かけられんかったんやけど、折角隣近所になったんですし、色々お話したいなと思っとった所なんですわ」

 チラチラとこちらのお伺いを立てながら話してくる姿から察するに、恐らくは私に少し好奇心があるのだろう。しかしこの時私は少しばかり怪訝な気持ちで話を聞いていた。国外の地で日本人から馴れ馴れしく話しかけられる事案は、詐欺やマルチの勧誘と繋がっていることがあるという話は当然耳にしていた。こちらでそういう危険に出くわす可能性は皆無ではないだろう。彼が先日の他愛もない会話から私に純粋な興味を持った可能性も大いにあるが、とはいえまだお互い顔を知った程度の付き合い。深入りしてくるのに警戒するのは人の自然な行動だろう。

 とはいえ、この申し出が私にとってありがたかったのも事実である。市庁で働く友人以外に頼る伝手がない私に、外科医というつながりができるのは非常に強いパイプとして今後の生活に生きてくることだろう。少なくとも、未知の病気に慄かずにすむ。

 それにいくらこちらが邪推したところで、向こうが悪意を持っているという証拠は全くない。ここは付き合っていた方が今後の生活にも好影響だろうという打算的な理由もあった。

「それは、願ってもないですよ。私も心細かったところですから」

「ほんまですか? 先生がご迷惑やないならでいいですが」

「いえいえ、むしろ心強い限りです。大平先生さえ良ければお話ついでに是非、行きつけのお店なんかを教えてくださいよ」

「そらもちろん。先生朝ご飯はまだですか?」

「何も食べてないですね」

「そんなら、軽食屋にでも行きましょか。まだこちらの食べ物にも慣れてへんでしょうし、私がちゃんと食べられる所に案内しますわ」


 狭い住宅街から広めの公道に出て、その公道を北に。東西に街を縦貫する新京一のメインストリートまでは行かず、また狭い裏路地に入ってすぐにその店はあった。

「喫茶 ツォミタ」

 と、たどたどしい日本語で書かれている。おそらくは現地の人によって書かれた文章なのだろう。しかし私が驚いたのは、筆記者が漢字を流暢に記していることである。新京の公用語として日本語が教授されている事実は知っていた(でなければ、どうして英検すら持っていない私が飛び込みで講師などやれるだろうか。)が、実際のところどこまで日本語が通じるかは私の中で完全に未知数だったのである。最悪の場合、私は現地語の辞書とにらめっこしながら講義を行うことになるかもしれないという危惧さえあった。看板を書いた人物は、従業員か何かだろうか? 機会があれば会ってみたいものだ。

「ここは俺が診たテフレア人の一人がやってる店ですわ。味付けも日本人好みやし、食品の仕入れ先も保健所の認可が降りとるんで安心できます」

 木製の扉を開けると、チーンという高い音が鳴る。来店を知らせる玄関ベルはこちらの世界にもあるのだな。などと感心していると店員がやってきた。

「いらさいませー」

 撥音は比較的流暢だが、イントネーションに違和感のある日本語が帰ってきた。声の主は暗いグレーの髪をなびかせる若い女性で、テフレア人らしい質素な服にエプロンをつけている。私たち二人を見て、顔をほころばせた。

「ああ、オオヒラせんせい! よくきたね」

「よっ、アレムさん」

「いつでもきていいよ。その人は誰?」

 教科書の例文のような返事でそのアレムさんは私を指した。

「この人は鈴木先生。私の隣に住んでる、教師だよ」

「きょおし?」

「教える人って意味の言葉。こっちの言葉ではなんだったかな……。パ、パシェル?パシャル?」

「パーシャール! この人パーシャール、きょうしね。パーシャール・スヅキ。ニフォンゴでなんてよべばいい?」

「すずきせんせい、って呼んだげて」

「わかった。スヅキせんせい、よろしく」

 時刻はまだ昼前、十三時(お昼は十五時なので、地球の十時半くらいの時間帯)。ガラガラの店内で比較的調理場に近い円卓を選び、私たち二人は腰を掛けた。


 気持ち悪いのは自覚しているし、地域社会の模範たるべき教師がこんな話をするのは憚られることである。しかし一方で私も健全な男性であり、連れも男性となれば話が下種な話題に向ったとしてもなんらおかしいことではないはずだ。

「先ほどのアレムさん、綺麗な人ですねえ」

 大平も待ってましたとばかりに食いつく。

「でしょう?」

 料理を待っている間、距離感を掴みかねている二人が即座に盛り上がれる話題と言えば限られる。お互いに身の上話を繰り返すにもどこまで突っ込んでいいのかは測りかねるため、無難な話題から会話をスタートさせるのは極々一般的な技術だろう。特にそれが同性同士なら、会話が異性の話で始まることはそう珍しいことではない。

「俺もアレムさんは美人やと思うんですがね、どうもこっちの価値観ではそれほどでもないらしいんですわ」

「と、いうと。こちらではあれでも美人じゃないと?」

 私は驚いて彼女の方に目線を送る。厨房で食材を確認でもしているらしい彼女は、何処からどう見ても日本人基準で言えば美人だろう。ダークグレーの髪は、ところどころメッシュをかけたように赤髪が見え隠れしている。肌はわずかに日焼けしているが細身で、目もぱっちりと開いていた。

「まあ、美人の基準は地球とあまり変わらんと思いますよ。大きな目、小さな鼻と口、無駄のない輪郭あたりですか? せやけどこっちはあれで普通扱いですからね。重要視されるのは、どうやら肌と髪の質感あたりらしいです。ところで鈴木先生は、エルフを見たことはあります?」

「いえ、ないですね」

「先生もこっちで何年も過ごすことになるでしょうし、是非一度はエルフを見ておいた方がええですよ。ありゃあ人間を超越してる。まるで動く芸術彫刻かなんかです。顔は勿論、シルエットも肌も、全てが理想的な人体を持ってますから。あと魔族も。エルフとは対になる扱いですけど、人に近い魔族もこれまた魅惑的というか、神秘的というか。地球人には一生かかっても手に入らないような美貌を、男女共に持ってますから」

 大平の弁が熱を持っていくのが分かる。それが医者としての医学的興味からなのか、単純に性的な興味なのかは敢えて掘り下げないが、どちらにせよこのお医者先生はテフレア人の人体に並々ならぬ興味を抱いていることは強く伝わった。

「で、実際こっちの人間もそう思ってるらしいんです。だから美人の基準はエルフになっとるんです。顔は当然として、エルフのようにきめ細かい肌と、艶やかな単色の髪を持ってるか否か。これが重要みたいなんですわ。人間の貴族なんか、地球と同じでわざわざ染めてまでエルフに近づけようとするんですね。耳にも被り物をしたりなんかするんです」

「とすると、アレムさんはあのメッシュがかった髪と肌がエルフ的ではないから、美人扱いにはならないと」

「残念ながら、そういう判断になるようです。顔もパーツが明確で淡白な方がエルフ的でモテるようですわ。そういう意味では、顔の濃い日本人より、俺たちみたいな東洋人の方がこっちの人はウケがええかもわからんですよ。鈴木先生なんかは肌が白いし、意外とモテるんやないですか?」

 そう言って大平は私の顔をまじまじと見つめた。断っておくが、会話内容は多分に私の記憶補正と執筆都合による補正が入ってこそいるが、全体的な内容自体は違えてないつもりであるし、大平の最後の世辞も聞いた覚えがあるからここに記しているのである。決して私の自己顕示欲から来るものではないことをここに書き記しておく。

 とにかく、男二人はそのような下世話な(誤用)話題に終始した覚えがある。会話が止まったのはアレムが注文を伺いに来たからだった。

「オオヒラせんせい、スヅキせんせい。注文はなににする?」

「今日のおすすめは何かな?」

「焼き大蛇魚のサンド、だよ」

「じゃあ俺はそれにしよか。鈴木先生は……」

 この時私は反応に困っていた。雑談をしながら日本語のメニューを目に流してはいたのだが、正直言って安易に現地食料を食べる気にはなれないことは、以前にも申し上げた通りである。最悪、生ものでなければ食えると腹は括っているのだが、そうなると次はメニューの中身が、何が何だかわからない。大見出しがあるので、魚料理か肉料理か、ドリンクかアルコールかくらいの区別ができる程度である。

 そんな私の戸惑いを見てか、大平が耳打ちをした。

「先生、先生。ここの食べ物は全部市庁の認可済み卸商から入れてるから、変な心配はご無用ですよ。それとも、アレルギーのご心配ですか?」

「いえ、特にアレルギーはないんです。それよりも、何を頼めばいいのか……」

「じゃあ、俺と同じものを頼んでください。これでも私は関西人ですからね、食べ物の味にはうるさいんです」

 そういうと私の反応も見ずに注文を取った。

「じゃあアレムさん、鈴木先生も俺と同じものを。あと、ラウチンを二人分お願いね」

「はーい! ちょっと待っててね」

 私の小さな不安を置いてけぼりにして、アレムは厨房へと走り去る。


 結論から言えば、美味しかった。

 お近づきの印に、ここは俺が払いますわ。と豪語する大平は私の顔を観ながらニヤニヤと反応を楽しんでいるようだった。出てきたのは茶色いパンに挟まれた謎のクリームと白身魚。それと歪なグラスに入った茶色いお茶のようなドリンク。見た目は不味そうではなかったので一安心したが、それでも一口目は多少の勇気がいる。しかし大平の好意を無駄にするわけにもいかない。

 医者が安全だと言ってるのだから、これ以上疑う理由はない。ままよ。と楕円形の端にかじりつき、ゴワゴワとしたその触感を味わった。

 パンは強い穀物の風味が残っている。ロシアや東欧の黒パンに近いだろうか。それよりも香りが強く、甘いと思う。魚の方は触感が鯨肉だった。多少の生臭さはあるが、日本人であれば耐えられる程度のものだろう。比較的淡白な味わいである。白いソースは……表現が難しい。見た目から想像されるマヨネーズやシーザードレッシングとはかけ離れている。どちらかといえば醤油? 甘めの醤油をベースに、ブイヨンを足したような味である。つまり、「焼いた淡白な鯨肉を醤油、ブイヨンで味付けして黒パンで挟んだ」ような食べ物。脂っこくはないので食べやすいが、ソースが少し濃いめで重い。

とすると、この飲み物で休憩するのがベターなのだろう。こちらは半透明の麦茶色だが、少し粘り気がある。飲み心地はラッシーだろうか。味は甜茶のような感じで、わずかにヨーグルトのような酸味がある。発酵飲料であることは間違いないだろう。

総じて食感はあまりよくないが、味自体は美味しい。当然、二口目は抵抗なく受け入れることができた。

「今日はラッキーでしたね。日本人好みの味付けで」

 私の反応に満足したらしい大平が話し始める。

「大蛇魚なら外れんですよ」

「ということは、外れもあると?」

「ええ。これが岩鳥の赤ソース和えだったら先生にはおススメできんかったでしょう。漢方薬みたいな味がしますから」

「この飲み物は?」

「それは炒った木の実を煮出して発酵させたものですわ。極々微量のアルコール分も入ってますけど、一リットル飲んでもビール一口分もありません。ビタミンやミネラルが豊富ですし、飲みやすいので私も常飲してますよ」

 話を聞きながら私はこのテフレア風サンドイッチを頬張っていた。ゴワゴワした触感は容赦なく口内の水分を奪っていくが、それをラウチンで潤す。

 私の最初の異世界飯は、ありふれた軽食だったが満足の行くものであった。


「先生は」

 二人分のラウチンのお代わりが来て、大蛇魚のサンドの皿が下げられた。そのタイミングだった。

「学校教師としてこちらに赴任されるということですが、実際どんな学生を対象に講義をされるんですか?」

 他愛もない雑談から急に真面目な話題に移ったので、多少は驚いた。

「そうですね。私もまだ詳しい講習は受けてないんですが、私の枠ですと社会人、こちらの社会人なので十五歳以上の学生を対象に、社会人教育をするような形になる。というのは聞いています」

「社会人教育……というのは、大学の生涯学習センターのような感じなんでしょうか? それとも、社会人教育というくらいだから、マナー講師のような感じで?」

「私も想像でしかないんですが、恐らくはどちらとも違う形になると思います。大平先生はご存知か分かりませんが、社会人学校と言えば日本や欧米では、戦後間もない頃に戦時下で教育を受けられなかった有職者に対して行った教育です。だから対象は社会人、でも内容は意外と基本的な、歴史や国語、基礎的な数学、化学といった所です。ですが中学や高校のように拘束の強い講義形式ではなく、大学の講義のように参加は任意の形式になるでしょう。大学で高校授業をやるイメージ。と言えば分かりやすいかもしれませんね」

「そこで先生はどういった科目を教えられるんですか?」

「私は高校教諭免許の公民専修ですので、教えられる範囲は公民に限られます。恐らくは人権、法律、倫理、政治、経済などを通して、日本人の社会通念や考え方を教えるような形になるかと」

「なるほど……」

 大平は深く考えるように頷き虚空を見つめる。

 実際の所、私は仕事が始まるまでは自分の仕事をこのように予想していた。恐らく複数の講義を一日数回九十分程度、クラスか講義を変えて行うような形になるだろうと。より高校のような形式に近ければ副担任のように常駐する教室があるかもしれないが、社会人学校という以上は大学に近い講義形式になると予想していた。

 結局その予想は外れたのだが、解説は次回に回す。

 大平は時々ラウチンでのどを潤しながら私の話を聞いていた。顔つきから察するに、なにか思う所があったらしい。

「ということは先生は、地球式の考え方を教えるのが職務というわけですか」

「そうなります。ですが私たちも、他の職業よりも比較的テフレア人と接する機会の多い仕事ですから。テフレア人の考え方をいち早く理解して、日本人とテフレア人の間に軋轢が生まれないよう相互理解を進めていく。というのも、重要な役割になりますね。一口にテフレア人、地球人と言っても、生まれ育った環境でその差異は大きくなるでしょう? 日本人とアメリカ人が同じ発想をしないように、隣接する四公国民でさえ、それぞれの考え方には差異があるはずですから。その理解も、私たち教師の仕事の一つです」

 大平はいつになく真剣に聴いていた。私の話が終わるや否や、頭を掻きながら口を開く。

「いやね、今日俺が鈴木先生を誘ったのは、先生の御職業に非常に興味があったからなんです」

「本土では未経験ですがね」

「いえいえ、そこではないんです。教師というからには、やはりテフレア人との交流が否応にも深くなる御職業でしょう。毎日お相手するんですから。ですから、俺も色々とご相談できることがあるんじゃないかなと思いまして」

「と、言いますと?」

「前も申し上げた通り、俺はテフレア人を相手に医療を提供する業務を執り行っとります。実際毎日かなりの人数を捌くんですが、やはりこっちの人の心情というものが分からなくて、コミュニケーションにかなり支障があるんですわ。白衣を恐れる人とか、逆に怒り出す人とか……。全員ではないですが、毎日困難の連続でして。俺たち医者連中としても、試行錯誤して向こうの心情理解には務めているんですが、やはり文化的、慣習的側面については疎いものですから」

「私もこっちに来たばかりで、テフレアの文化慣習については全くの無知ですよ。先生の方がお詳しいのでは?」

「いえ、いえ。そういうことやないんです。理解の方法が分からないんです。俺たちも可能な限り患者の話は聞くようにしてますが、それでも限界はあります。例えば先生、この間俺はドワーフの患者を診たんです。俺は一応内科なんですが、こっちでは人手不足で多少の外傷も診てるんですけどね。手に怪我して、化膿して膨れ上がった状態なんです。それで包帯を巻こうとしたら、すごく抵抗するんです。散々話を聞いた挙句に、そのドワーフは木工をしていて繊細な作業が要求されるから、手に包帯なんてできないって。俺たちはこの怪我でそのまま仕事に行こうとすること自体、想定の範囲外だったんです。この程度ならいいんですよ。一、二階の通院で済みますからね。でも長期通院や入院が必要な患者、緊急外来なんかはそうもいきません。宗教的理由から喧嘩になった。なんてのもあります。そういった患者が来た時に、どうしても相談できる相手がいなくて。」

「それが私に適任かは、まだ仕事もしてないので分からないですよ」

「いや、いや。別の視点からご意見を頂けるだけでも貴重なんです。それが解決に繋がればそれが最高ですけどね。MSF出身の先生がいるところなんかはある程度上手く行ってるらしいんですけど、俺の周りにいるのはみんな本土出身の医者ばかりで、異文化交流なんてのは全くの素人なんですわ。もしまた困った時に先生のご意見が頂ければ、これ以上の助けはありません」

 つまり、医療行為に最低限必要なコミュニケーションが文化的差異のせいで支障をきたす場合があるから、どちらかというとそちらに適合度の高い職である教師とのつながりを持って、アドバイスを聞きたい。というのが今回私を連れ出した理由だったらしい。詐欺や勧誘を警戒していた私からすれば多少の拍子抜け感はあったが、そういった互助の申し出であればこれ以上に有難い話はなかった。

「私としては、どれほどお力になれるかは不明ですが出来る限りお手伝いしますよ。私も大平先生のお力添えを頂く機会は多いでしょうし、その程度でしたら喜んでお手伝いさせてください」

 そう言うと大平は安心したように笑みを浮かべた。

「もちろん、医者としてできる限りのサポートはしますよ。最初は水とか食べ物とかも苦労しますからね。先生が病気になったら、第十四診療所に来ていただければいつでも診察します。少し遠いですが、メインストリートの東西バスを使えばあまり歩かずに済みますよ」

「是非、その時はお願いします」

 それ以降、このお医者先生とは話が弾んだ。身の上話から友人の話、果ては麻雀のことまで。昼過ぎに店を出る頃にはすっかり打ち解けてしまい、宅飲みや次行く場所を話し合うほどになっていた。

 この後先生は夕方からの仕事の準備、私は官庁にいる友達の所へ顔を出しに行くため別れたと記憶している。私の家路は新しい友人を得たことで軽い足取りとなり、吟遊詩人におひねりを落とすくらいには上機嫌で公道を進んでいた。

 あるいは、大平の言う以上にラウチンのアルコールが強かったのかもしれない。

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