第4話:新生活の準備
新京第一日目は先述の通りである。諸々のつまらない事務仕事や私事を省いて説明すれば、読者の皆様には一見して地方赴任や海外赴任と大差ないが如く見えるのは当然の事かと考える。しかしここは欧米や、況やアフリカでさえない。我々とは完全に文明と世界を異にした人々の棲む世界なのである。その点を考慮すれば、このまま万事何事もなく初仕事――。とは当然ならない。
第一に新生活を始める準備が必要である。家は配給されてこそいるが、到着してすぐに新生活という訳にはいかない。生活必需品を取り寄せて配置し、家周囲の環境をすぐに調べておく必要がある。これは国内の場合でも同様だろう。
これから三年間の住処となる場所は、入り組んだ煉瓦造りの住宅街の一角にあった。漆喰で塗られた三階建ての集合住宅で、明らかに現地の建築である。被災者用の仮設住宅のような、無機質なプレハブ小屋を想像していたので、これには大いに驚いた。後に聞いたところによると、通電上下水完備のプレハブ小屋もあるにはあるが、招聘された研究者や役人、あるいはインフラ従事者などに優先的に宛がわれているとのことだった。当然これは不当な優遇などではなく、一般の赴任者に対して配給する数がないという意味であろう。
私たちのような優先度の相対的に低い従事者は、現地の建築物を補修した家屋が宛がわれていた。修繕して使える建物がそう都合よく大量にあるのか。という疑問は尤もであるが、ここについての詳細は省く。大まかに言えば、ある宗教的理由によって放棄された街を市庁が買い上げ、日本人街として再設定した。というのが正しいか。
閑話休題。私の家は三階建て住宅の二階部分に当たる。ところどころ漆喰らしき壁塗りが新旧入り混じっており、突貫で仕立てたのが窺える。住むには問題なく綺麗であり、概ね満足が行く状態だった。不満をいえば、水場とガラス窓がない所か。
これは本土の人々が今も驚くことではあるが、こちらの世界、すくなくとも現地建築にはほとんど炊事場が無かった。洗濯や食器洗いは共同水場でやることになっており、それは当然私たち日本人も例に漏れない。いつかは上下水道が引かれる予定である旨は伝えられていたが、それがいつになることやら、今現在になっても分からない。もう慣れたが。
さて、間取りは日本式の表現法を使えば2DKといったところか。ダイニングとキッチン(当然水道はない)が六畳ほど、窓側の部屋が一つ、通路側の部屋が一つ。一人暮らしには少し広めかもしれない。部屋の窓を開けると隣は同じような現地建築。下を伺うと少し開けた空間となっており、共同水場があった。
一番苦労したトイレは、探し回ってようやく見つけた。一階脇にある、あまりに雰囲気に沿わないプレハブトイレ。これには苦笑を禁じ得なかった。しかしまあ、江戸時代のボットン便所や中世欧州の路外排泄をやらされるよりははるかにマシだろう。こういう所も、異世界に日本人が来ない大きな理由なのかもしれない。
荷は解いて備え付けのクローゼットや部屋の隅に整理しておき、一息つく。本棚や机、ベッドといった大型家具は本土で既に配送を頼んでいたので、小物はそれが届き次第収納する形になる。
先ほど述べたように、周辺環境の把握は赴任地において最初にやるべき事項の一つである。当然私も家を出て(玄関の鍵は当時、まさかのチェーンロックのみ!)新自宅の周りを見物しに向かった。
先に結論を言えば、目に見える範囲に特筆すべきものはなかった。私の住んでいる場所は何の変哲もない住宅街であり、共同水場、現地人用の公共トイレらしき石造りの建物、個人の事務所らしきものはある程度。路地を二本跨げば中規模の公道に出ており、そちらには酒場や(日本人警察の)交番など施設はあるが、当然コンビニや自動販売機などは存在するはずもない。日本人が如何に文明の利器に依存して生きているか、私はこれ以降の数日でひしひしと感じることになった。
一つ気になったのは、私の住む界隈では日本人とテフレア人が3:1程の割合で住んでいるらしいことだ。この辺は日本人用に買い上げられた区域なのだから日本人が多いのはそこまでおかしくはないのだが、この辺で普通に生活しているテフレア人は一体どういう経緯でここに住んでいるのだろうか。いや、よしんば3:1という割合が私のあてずっぽうだったとしても、我が家の真下の共同水場で洗濯物をしていた獣人のお姉さんは間違いなくこの辺の住人だろう。このお姉さんとも後に仲良くなるのだが、その話はまた今度にしよう。
荷解き、周辺把握。と来たら、次はお隣さんへの挨拶がベターだろう。私の場合、二階は全部が私の占有部分なので一階の方と三階の方へのご挨拶となるのだが。
日本人が住んでいる集合住宅になることは予め聞いていたので、地元土産を持参しつつ挨拶に向かった。当然どちらも日本人である。
一階部分に住んでいたのは眼付きの悪いご老人。挨拶は必要最低限の会話で終始する口数の少ない人だったが、最後に手土産を渡すと「若いのに礼儀がなってるな」とお褒めを頂いたので、そこまで悪印象ではなかったのだろう。頭を下げて失礼しようとすると。
「あんたはなんの仕事でやってきたんだ」
「教師です」
「そうか、頭いいんだな。俺は土建屋だ。家のことで困ったことがあれば、言ってくれ」
程度の会話はした記憶がある。実際、この建設業さんには今もお世話になっている。
三階部分は関西弁のお医者さんであった。話しやすそうな人で、歳も私と五、六歳ほどしか違わないだろう。私が教師採用でやってきたと聞いて、興味を持ってくれたようだった。
「鈴木さん、教師なんですね。外国文化とかも詳しそうや」
「いえいえ、全然。一般教養程度です」
「ご謙遜を。私は普段、市街地の出張所で現地人も診てますから、患者との交流で難儀することがあればご意見聞かせてください。その代わり、先生が病気になってしもたらご相談を」
「ありがとうございます。その時は是非力添えさせてください」
こんな感じだったか。一応本土の例に沿って向こう三軒両隣は挨拶に回った。この二人は後々本作で活躍していただくことになるだろうから、ここに特に記しておく。
さて、初日の行動はこんなものだったか。その日は夜に配給食糧や市庁の公共サービスについてのガイドを聞いてから現地の公共浴場(日本人は市庁が負担するのでタダ!)に向かい、日本人とテフレア人に揉まれながら風呂を堪能した後に就寝した。ベッドは届いていなかったので、持ってきた寝袋を代用した。
石畳の上で就寝したのだから、当然翌日は体中が痛くて仕方がなかった。
翌日も翌々日も新生活の準備で大忙しであった。赴任は一日にしてならず。
朝は大型荷物の受け取りである。ベッド一台、本棚二架、パソコンデスクとチェア一台ずつ、パソコン(当然、ネット接続は不可)が一台、ダイニングテーブル一台と椅子二席、ソファ一台、収納ボックス二台、食器セット、その他小物etc…。といった具合。家の目の前は幅が二メートルない程度の細い路地であり、トラックが通れるかが心配だった。案の定というか路地からはトラックから台車に荷物を移して運び入れざるを得ず、配達員と一緒に汗だくになりながら各種荷物を二階に運んでいった。
息絶え絶えのまま各種梱包を解き、組み立てが必要なものは組み立てる。夕方には私たちの地区で必需品の配給があるために取りに行かなければならず、それまでに片づけられるものは全て片付けておこうという算段だった。結局新居の整理は予定していた定時通りには終わらず、翌日に持ち越すこととなってしまった。
髪もぼさぼさのまま配給所へと向かう。ここでは現代的な生活をするために最低限必要なものが赴任者に貸与という形で供給される。例えば大容量バッテリー。これは当然、スマホやパソコンの電源に使用する。一人当たり二台の貸し出しで、無沙汰にパソコンやスマホを使い続けなければ一週間は持つ程度の電力量はあるものだ。充電は電力供給所でお金を払って行わなければならない。一回ごとの支払いは微々たるものだが、それでも本土の電力料金よりは割高になるのだろう。あまり無駄にはできない。
他にも水のろ過装置や無電源加湿器(新京は石造りの建物で年中住める環境であることを鑑みれば、日本人には特に必要なものである)などは市庁からタダで貸し出しを受けられる。一方で鍋(これも必需品! 米を炊くのに炊飯器は電力が勿体ないためである)やコンロといったものは有料で業者から購入せねばならず、早速一万円札が跳んでいく。そうそう、たしかこの時、手持ちの金は全部現地貨幣に交換していたはずなので、正確には五千「新京円」が跳んでいった。管理通貨制度の運命として多少の変動はあれど、相場は一新京円=二日本円程度で換算していただければ問題はない。発行は日本政府出資の新京銀行で、使用感は殆ど日本円と言って差し支えないだろう。以降特筆する場合を除き、「円=新京円」で記述させていただく。
さて、こうした配給物資を運び入れるのにも一苦労あった。なにせバスはメインの通りしか通っておらず、現地の馬車は相場が分からない。当時は新京円で払えることも知らず、ふっかけられるのも癪だと思った私は、借り物の台車を押して往復数キロの道のりを三往復してようやく運び入れた。(当然、最後は翌日に持ち越したが。)今思えば下のご老人か上の医者の伝手で車を頼んでもよかったのかもしれないが、そこまで思い至らなかった。また、知り合ってすぐに頼みごとをするのも少し気が引けたというのもある。
ようやく自室の整理が整い、新生活の準備が整ったのは赴任から四日目のことだった。




