騎士が守るは百合の手鏡
こちらまでいらしてくださりありがとうございます。
ひねりもなんもないお話ですが、ほっとしていただけたら嬉しいです!
ころん、ころんとベッドの上で寝返りを打って、そのうち起き上がった。
眠気が来ない。
兄王子と姉王女もエスパリア国の王族として同席する、明日の騎士爵授爵式に、末っ子のノーミナは呼ばれなかった。まだ幼いからというのと、王妃の機嫌を損ねないために。
王族としての公務や予定は、側妃の子には基本的に関わりがない。
枕元に置いた手鏡をたぐり寄せる。月の光を頼りに映るのはぺったりした金髪に、明るさも深みもない中間の茶色をした瞳を持った少女。母の容姿には似ているけれど、母の持つ滲みでるような気品はまだない。
病で母を失ってもうすぐ三年。まだ三年、だろうか。
このように眠れない夜にはこっそり寝室を抜け出して、王城の祈りの間へ訪れる。聖堂を模した部屋で、夜にかち合う者はいままでいなかった。自室で履く楽なスリッパのまま、部屋の外へ出る。
母と毎朝使っていた手鏡は持っている品のうちで一番思い入れがあった。夜には添い寝をして、母と話したい気分のときに持ち出すほどには。ノーミナの手からはみ出る大きさの手鏡。
短い柄をしっかり持って早歩きする。
****
蝶番が掠れる。扉の音は最小でありながら、ワイアットの気を引きつけた。人に会ったのは陽が沈む頃に司祭が最後でなければならない。教会への信心を誓った後は、ひとりで夜を明かす。
おぼろげながらもシルエットはやわらかい子どものもので、息を呑んだのが空気で伝わってきた。驚いたのはこちらのほうだ。こんな夜更けにやってくるとは。この年頃ならば下働きの使用人か。王族だとすれば、表によく出てくる姫にしては小柄で幼い。それとも近くで見るとこんなものだろうか。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「お兄さまは、どうしてこの祈りの間に?」
「……明日は騎士爵授爵式だ」
爵位を賜る前夜に、騎士の従者であり候補生は夜通しで神へ祈願を捧げるしきたりだ。
祭壇には明日授けられる予定の、拍車や盾、鎧が置かれている。
少女は「あっ」と声を上げた。
「大事なお祈りの時間に邪魔をしてしまったのですね。ごめんなさい。神さまにはわたしから謝罪いたします。隣でご一緒してもいいですか?」
祭壇の前で手を組む。
少女が目を開けるのを待って、ワイアットは声をかけた。
「きみは、なんのためにこの祈りの間へ?」
「遠くへいらっしゃる、わたしのお母さまにお話がしたかったのです。でも、また今度にします」
天に召された母とは生前よくここに訪れ、ともに祈りを捧げた。その間は、母娘ふたりきりで気兼ねなく過ごせたものだ。
「お祈りを中断させてしまい申し訳ありません」
「いや」
「なにかお詫びを。わたしが持っているものといえば……」
胸に抱いた母の手鏡。
ときに隠しときに肌身離さず持っているけれども、いつか姉に見つかって奪われ、最悪には壊されるのでは。父や兄がそれとなく庇ってくれるけれども、第一王女をひいきする正妃の怒りを買うとあとが厄介だ。
これを持っていて不安に怯えるくらいなら。
いっそのこと。
「どうか、こちらを持っていってくださいませんか」
それがまるで自分の命そのもののように捧げる。男はためらった。
「きみにとって大切なものでは?」
「だからこそ、わたしでは守れないから」
口にしてから、ハッと表情を曇らせる。
「……ごめんなさい、これでは謝罪になりませんね。なんて押しつけがましいことを……」
細工の施された小さな手鏡は換金できる価値だけにとどまらず、彼女の宝物なのだとわかる。「守れない」とこの子は言った。だから、代わりにワイアットに守ってほしいということだろう。
跪いて、空の両手を差し出した。
式典本番は明日。この姿勢で王から剣を授かる。その儀式の所作こそがいまこの場に求められていると感じられた。
「よろしければ、お預かりしましょう。俺はまだ騎士の従騎士にしかすぎないが、しっかりお守りすることを誓います」
ーーきみの心を。
この手鏡はおそらく少女の誇りで、拠り所。これから騎士になる者として思慮と決意を示した。
遠くの祭壇に立てられたろうそくの光だけでは、表情の機微まではわからない。けれど少女は安堵の息をもらした。男の手に鏡を横たえる。
簡略式ではあるが、剣なくしても騎士の誓いは成った。
立ち上がって、服のポケットに手鏡を仕舞い込む。
「ありがとうございます。お兄さまのお名前をおききしてもよろしいですか?」
「お互い怒られないために、知らないことにしよう。きみは見つからないうちに帰ったほうがいいのではないか」
どうせ明日の騎士任命式でワイアットの名前は発表される。それでいい。今夜は何も知らないふりをしよう。
「そう……ですね」
少女が片足を引いて頭を下げる。
「明日は善き日になるでしょう。騎士さまのご活躍をお祈りしております」
「感謝する。……おやすみ、いい夢を」
なにごともなかったかのように夜は過ぎた。
****
騎士見習いは使用人と同義語。洗濯をすることからはじまり食事の給仕もする。外に伝言や手紙があれば自らの足を使った。こまごました雑用からはじめて、木の盾を構え木剣で標的人形を突くことを覚え、馬を乗りこなし槍を振り回すようになる。
騎士爵位を賜るのは通常ならば二十一歳まで待たねばならない。それが先の小競り合いで功績を上げたため特例が下りた。
十七歳の騎士爵授爵式がはじまる。
「私、ワイアット・ガードナーは我が君主である陛下に剣を捧げることを粛として誓います。陛下がこの地を離れるまで。あるいは私の命が尽きるまで。騎士の名にかけて陛下をお守りし、忠誠を誓約します」
両膝を床につけたまま国王との剣のやり取りが行われた。捧げられた剣で主君は騎士の両肩を叩く。ワイアットは用意された騎士の装身具を直接受け取り身につけた。
「エスパリア国国王の権限において、ワイアット・ガードナーを我が剣として承認する。
立ちなさい、誇り高き騎士よ」
こうしてワイアットは王の剣と己の誓いによって騎士として新たに任ぜられた。
師匠の屋敷で騎士任命を祝ってもらった。当人より先輩たちのほうが酔いどれている。二、三杯引っ掛けてむさい男どもは庭に出てふざけはじめた。力自慢の連中が集まるとすぐにお遊びの取っ組み合いなんかがはじまるから騒がしい。あっちでも綱引きの最中だ。
家の中に引っ込んだところ、テーブルの上で腕試しをしている数人に捕まった。
「ワイアット、倒してないのはお前だけだ。こっち来い」
腕ずもうをしようとマルトが挑戦をしかけてきた。剛腕で鳴らす騎士の先輩はテーブルに直角に肘を立てて指をわきわきと動かす。暫定一位はマルトらしい。
「仕方ない」
気乗りしないが、負けたあとらしい男二人に強制的に座らせられる。
酔っ払い騎士相手に本気を出したらどちらかが怪我をする。苦戦するふうを装って先輩に花を持たせてあしらった。
汗臭さと酒臭さから逃避したワイアットはポケットに手を伸ばす。
前夜の少女との邂逅は夢のようであったが、預けられた手鏡は実在している。細工の百合の花が象徴するのは「終わり」と「再生」。生死により近しい騎士となった自分には相応しいお守りに思えた。幾度死が忍び寄ったとしても、再生を掴みに立ち上がる。
「おい、主役はどこだ。……って、ここにいた」
探しに来たのは師匠であり親代わりのアイゼンバードだった。食い入るようにワイアットの手鏡を見つめている。指の隙間から覗くその凝った背面を。
「お前、どうしてそんなものを持っている」
「とある方から預かりました」
「見せてみろ。……百合だな」
手に取って、その目つきから酔いが消えた。
「確認するが。これは人から渡されたのだな?」
「はい」
「少女か。それも十二歳くらいの」
緑の目を瞠って、ゆっくりと肯定する。
鏡の元の持ち主が女だとはわかっても、年齢までは普通当てられないだろう。
一度は引いたアイゼンバードの血の気が戻ってくる。ありえぬこととは思いつつも、この弟子が祈りの間にこもっているはずの夜に、王城の宝物庫にでも忍び込んだのかと疑ってしまった。
「お前が見習いになる前の戦だったから見たことがないかもしれないが、この鏡の裏には亡きタオクア国の紋章が彫られている」
「あの子はーー」
なぜ昔の敗戦国の、王家の品を個人で所持していたのか。それもあんなに、大事そうに。
「タオクア国の元王女の娘、我がエスパリア国の第二王女だろうな」
側妃の娘だからと正妃に疎まれている。第一王女から嫌われ影の生活を余儀なくされるもう一人の姫。
きゅっと引き結んだ口が、ワイアットにそれ以上失言させるのを止める。見咎めたのがアイゼンバードでよかった。
「どうやって会ったのかは訊かない。それを他に見せてはいけないことぐらいは、わかるな?」
それはあの夜第二王女と密会していたと話すことになる。それぞれの名誉のためにも黙っているべきだ。美術蒐集家でもない、駆け出しの騎士であるワイアットがすでに滅んでいる王家の品を所有するのも、不自然である。
頷くと手鏡は返された。ハンカチに厳重に包んで、懐に隠した。
****
祈りの間でノーミナが騎士に出会う三年前のこと。
母が天に召されて間を開けずに、正妃はノーミナの部屋へやってきた。正妃の娘もなぜだかついてきている。
手にしていた明るいアンバーの耳飾りはノーミナの母の目の色を表現していた。眺めていた最中を邪魔される。
「あの女のものは壊してやるわ。タオクア国のものなんて」
第一王女が王妃の腕に抱きつく。
「お母さま。わたくしに譲ってくださいませ。失くなった国のアクセサリーなんて、希少価値がございますもの。わたくしのコレクションに加えますわ。お願いです」
愛娘の訴えに、王妃は踏み込んだ足を引っ込めた。
「……いいわ、あなたにあげる」
ナスタリヤはお礼とともに、にこっと笑ってみせた。ノーミナは口を開けたまま部屋を出る母娘を見送る。
遺品を取り上げられたのも、王妃の怒りも怖かった。
そんなことが何回か続いて、第一王女が毎回出しゃばる。王妃はその度に宝物を失うノーミナに溜飲を下げたのか、側妃の娘の顔すら見るのが嫌なのか来なくなった。
百合の花が活けられた花瓶が目に入る。百合の花と姉王女には関連があった。部屋に飾られた花が百合だった日は必ずナスタリヤがやってきて、ノーミナの大切なものを持っていってしまう。
見るとドキリとするが、花は美しいだけで罪はない。大好きな母の故郷を代表する花を嫌いにはなれなかった。
ーー『物は壊れたり失くなったりするわ。
国でさえもそう。執着することはないの。
大切なのはあなたよ、ノーミナ。わたしの命。』
側妃であった母はよくそう言っていた。
第一王女は積極的にやってきては成さねばならぬ義務のように遺品を回収していく。
「わたくしのほうがこれらの価値がわかっていてよ。お母さまに壊される前に、わたくしに譲ることね」
と、奪われた品々がどこに行くのかも教えられない。彼女が使用している姿を見たことがない。ノーミナの悲しむ顔を見るだけで満足して物品は処分されているのだろうか。
タオクア国で製造されたものはとにかくなんでもナスタリヤが持っていった。
その中でタオクア国と関係なかったものは母が着たウェディングドレスと、結婚指輪ぐらい。デザイン性と値段が高かったから持っていかれたのだろう。
一度だけ、家族で晩餐が叶った。側妃の喪明けだった。
王と王妃、兄王子と姉王女と。全員が揃うことは式典であってもなかなかない。
王妃はやはり虫の居どころが悪そうにしていた。ノーミナと目を合わせないわりに、こちらが視線を外すと眼と睨んでくる。
メインディッシュが終わり次に出てきた野菜料理の皿を、ノーミナはフォークでつつくのがやっとだった。
「デザートは子どもだけで食べよう」
兄バートラムがにこりと提案して、王が「そうしなさい」と誘導した。空気が和らぐ。
別室にお茶とお菓子が用意されて、兄自らが妹ふたりに美味しそうなデザートを取り分けてくれる。わずかながら空腹が戻ってきた。
「ありがとうございます、バートラム殿下」
兄はおどけて手を腹の前で小さくくるくるとさせて頭を下げる。カーテンコールに呼ばれた舞台の俳優のように決まっていた。
同じようにフルーツを包んだラヴィオリを頬張るナスタリヤ王女は、ノーミナを気にした様子もなく幸せそうにしている。
兄の目の前だから大人しくしているのかはわからないけれど、この空間は、子どもたちだけは平和だった。
****
母が亡くなってからの四年間を勉学に打ち込むことでなんとかやり過ごしてきた。
祈りの間のお兄さまは無事式を終えられたのだろうか。
あれから四季はひと巡りした。
騎士の授爵式や昇任式があると聞くたびに、夜中に出会った青年を思い出す。暗がりで髪も瞳も正確な色はわからなかったけれど、明るくはなかった。黒かもしれないし、暗い金でもありえる。騎士爵授爵式は二十一歳で執り行われる。声変わりをとうに済ませたであろう彼は、祈りの間に響かぬように控えめに話していた。本来の声はどんなものだろう。
想像ばかりが先走る。
朝食を終えて部屋に戻ると、百合の花が活けてあった。第一王女のナスタリヤを連想させる。
「第一王女殿下がおなりです」
侍女が入室許可を求めていた。百合を確認するとたまに故意に日中は部屋に帰らなかった日もある。今日は逃れられない日だ。
「……わかりました」
お辞儀の姿勢で迎え入れる。
「あなたはタオクアのものを持っていてはだめよ。まだあるならおよこしなさい」
「持っていません。全て、殿下がお持ちです」
最後に残った手鏡は、一年も前に名も知らぬ騎士に預けた。母からもらったものは、もはやこの身ひとつだけ。
いつも以上に気落ちした様子でいると、ナスタリヤはひと仕事終えたようなため息を漏らした。徒労に終わったのがつまらないのだろうか。
「そう? ならいいわ」
さっさと部屋を出ていく。
あの夜に騎士に預けて正解だった。ノーミナのことを嫌いな人に奪われるくらいなら、見ず知らずの他人にあげてしまったほうが気分がいい。それに騎士の兄さまはとても信頼できそうだった。この先あの人に会えなくたって、きっと手鏡は悪いようには扱われない。
だいじょうぶ。母がくれたこの顔は、この声はいつまでもノーミナのもの。
そろそろ年頃になるからと、マルトという護衛の男がつけられた。仮にも王女の貞操に危機がないよう見張るため。
兄バートラムは王太子となり結婚した。ちょこんと末席でお祝いを伝えられた喜びはノーミナの記憶に一生残るだろう。姉ナスタリヤの縁談は相手の厳選に難儀しているそうだ。王妃が口出しして渋っているとか。
父王とは会話こそできないが、ノーミナの誕生日には毎年バートラムが「父上からだよ」とこっそりお祝いのメッセージを届けてくれる。
****
騎士になって一年後、ワイアットは戦争参加のため首都から旅立っていた。戦地には華やかさのかけらもない。
「ひでぇな、ガキと奴隷ばっかじゃねぇか……」
立ち並ぶ鎧の隙間から聞こえてきた同僚の言葉に、内心誰もが同意していた。
眼下にあるのは人の群れ。ほとんど満足な防具も与えられていない。間に合わせの隙間の目立つ丸い盾。長い杖の先に鎖で繋がる鉄球のついた武器。敵国の困窮具合を如実に表している。
テスカックス国がエスパリア国の聖地エッセンを襲撃して略奪しようとしたことを発端に、エスパリア国は開戦宣言をした。
ワイアットも師匠アイゼンバーグ率いる隊に混じり槍を握っている。
敵軍を押し返して、エッセンを守りきった先の敵の砦を叩く。槍を振るい、装甲車や防具を着込んだ兵を中心に薙ぎ倒す。
降ってくる矢を払い、馬の高さを利用して敵が築いた砦に足を掛けた。
一番乗りの栄光は生き延びてこそ与えられる。十八歳のワイアットはテスカックス国が白旗をあげるまで、戦績を重ねた。都にいるであろう少女に戦禍が及ぶことがあっては死んでも死にきれない。
手足を負傷しても、胴体は庇った。
胸の中心には少女からの預かり物がある。鎧の下に何重に布でくるんでいようとも、攻撃を受けて衝撃があれば割れてしまう。それだけはならない。
手鏡はワイアットの命も守り続ける。
宝物をくれた少女のことは勝利に導く姫と思っている。誰にも言うことはないが。
「お前なんでそんな強ぇの……」
と異形を見る目をした仲間から訊かれれば、「守るものに守られているから」と返した。
「えぇ……なぞなぞか? ちっちぇ恋人でも隠してんのかよ」
例えは不可思議に的を得ていた。
****
エスパリア国がテスカックス国に宣戦布告してから三年、もともと小国で連邦国の一部だったタオクア国を見放す国だ。休戦を挟みつつも、最終的にエスパリアが勝利した。
テスカックス国の兵はエスパリア国の四倍の数で待ち構えたが、ほとんどが訓練もなされていない有象無象であった。
先頭の槍騎兵の活躍がめざましかったと聞く。的確に指揮官を叩き子どもや奴隷を解放し、終戦を早めた。
このころノーミナは十六歳になっていた。
成人したためか、玉座の間に入ることを許された初めての式典。戦争で活躍した者たちへの褒賞を発表する場だった。
「騎士ワイアット・ガードナーの戦績を認め、第二王女ノーミナを降嫁させる」
王の宣言で、濃い茶髪の男が一瞬だけこちらに目を合わせる。
それでか、とこの場に第二王女が呼ばれた理由を知った。いつかは国外にでも嫁がされるのだろうとは覚悟していたが、こんな形で相成るとは。
褒賞目録を受け取るあの人が、ノーミナの夫となる男性。
実感が、まるでない。
「よかったこと。お前を拾ってくれる男がいて」
玉座の間から退出して、自室に戻る途中に久しぶりに王妃が直接話しかけてきた。機嫌がよいらしい。
「あの騎士がいくら強くても、僻陬の農奴でしょう? まぁ、せいぜい仲良くなさいね」
なにせ男が騎士として行儀見習いをしたからといって、曲がりなりにもノーミナは姫の待遇を受けてきた。平民と姫育ちでは衝突や苦労も多かろう。加えて王命にて離縁は不可能。一生仲良くしなければならない。
「お母さま、わたくしは二人はお似合いだと思いますわ」
王妃に付き添うようにしている王女はノーミナを見て笑う。
姉姫よりも早く結婚が決まるとは予想外だったが、正妃がナスタリヤ第一王女の輿入れを拒否したのだという。だからノーミナ第二王女に褒賞役が回ってきた。
「ええ、そうねナスタリヤ。あなたにもすぐ素晴らしいお相手を見つけてあげますからね」
二つ年上のナスタリヤもまだ結婚には遅すぎるということはない。吟味する時間は残されている。
言いたいだけ言って、王妃とナスタリヤはドレスを蹴りけり去った。母の遺品も無くなりノーミナに護衛騎士が付くようになってからは、こうしてせいぜい嫌味をもらうくらいだ。
護衛の気遣わしげな視線に、「気にしてないわ」と首を振った。国のために戦ってくれる人たちに、農民も貴族もない。少なくとも、ノーミナはそう考えている。
部屋に戻ってようやく気を抜く。
「マルトは、ワイアット・ガードナーさまのことをご存知?」
「ええ。師匠を同じくしております」
意外なところで繋がりがあった。
「なら教えてください。ガードナーさまはどのようなお方ですか? 夫となる方には、どうやって接するのがいいのかしら?」
「お教えするのは簡単ですが、私の偏見で先入観を作ってしまいたくはありません。手紙のやりとりでお人柄を計るのもよいのではないでしょうか?」
助言を受けて、ノーミナは便箋を選びはじめた。
ーー『遠くから見ただけでしたので、お恥ずかしいながら
お姿もよくわかりませんでした。
どうぞあなたのことを教えてくださいませ。』
と、婚約の挨拶ついでに手紙を送った。
返ってきたのは、梱包された実用の槍。ノーミナは包みの状態では中身のわからなかったそれを、マルトに手伝ってもらいながら触れてみた。女一人でも持ち上げられなくはないけれど、それ以上のことは持て余す。
先は刃物なので危ない、とマルトが立てて持って見せてくれた。血の汚れこそ落とされてはいるが、全体に無数の傷が刻まれている。
「これは、……どう受け取るべきなのでしょう?」
彼の込めた意図とは。
例えば「こいつでいつでもお前の命は獲れる、覚悟しておけ」だとか。前向きに捉えるなら、「これを扱えるようになって俺にふさわしい女になれ」とか。どちらにしても自信はない。
「なにかしらメッセージはついてませんでしたか?」
ーー『俺の分身です。』
とだけ書かれた便箋に、マルトの目の光が消える。
「……あんのクソ馬鹿……」
と王宮に似つかわしくない言葉が舌打ちに続いた。
彼の名前を呼ぶと、にっこりとする。
「どうかお許しを。私の助言が間違っておりましたようで申し訳ございません。これでは性格などわかりませんね。今回の贈り物について私の憶測でお話します。よろしいでしょうか」
ノーミナは「はい」とお願いした。
「この槍はワイアット・ガードナー本人が戦場で使用した武器のひとつで間違いないでしょう」
穂先はノーミナが見上げるほど高いところにある。この長さを馬上で振り回す武人。
「この系統の槍は使用者の身長ぴったりに作ります。あいつは実際の身長より手のひらの幅分高くして特注するので、ワイアットはこのくらいでかい」
指で槍の半ばの一点を指す。マルトよりもわずかに長身らしい。ノーミナが手を上にいっぱい伸ばしてやっと届くかどうか。
「柄は髪の色、黒っぽい茶髪ですね。石突は緑に塗られています。目の色です」
これが、ノーミナの「あなたの姿がよくわからなかったから教えて」に対する答えだった。ノーミナは彼の私生活や好きなものを尋ねたつもりだったのだけれど。人柄はなんとなく、この贈り物でわかった気がする。武骨だけれど、まっすぐな人。
「ということは、ご自分の体ほど大事なものをくださったのですよね?」
「送り返していいですよ」
「そうですよね……。ガードナーさまは、こちらが手元になくてお困りでしょう」
「他の武器も予備も持ってるでしょうから、そういうことはありません。もう戦いもありませんし」
戦争はそれこそワイアットが率先して終わらせた。
「しかし殿下、あなたさまも将来『ガードナー』と名乗るのですから、ワイアットを名前で呼んでやってください」
思いつきもしなかった、とノーミナは驚いている。
「……言われてみれば、そうなるのよね。わかりました」
ノーミナ・ガードナー。しっくりくるような、こないような。
婚約の書類には事務的にサインし終えた。戦争の事後処理があるとかで、代理人を挟んで手続きされたために婚約者の顔も見られなかった。半年ほどしてワイアットとノーミナが住む場所が決まり、引越しの準備に取りかかる。
ノーミナは初めての結婚への不安感からか、ため息が増えた。これまで王城を出ることもなかったし、夫となる人物とは直接会話したこともない。政略結婚なのだから変ではないけれど、やはり怖くはある。あれから文を認めた。返ってくるのは遅く、いつも一言ふたこと。筆不精、なのだろうか。
結婚するワイアットという人が、幼いころ祈りの間で出会った、あのお兄さまのような人だったらよいのだけれど。
同じ騎士職だから、顔見知りだったりしないだろうか。マルトにも訊いてみたいけれど、あれは二人だけの秘密で、何年も経っているとはいえ結婚前に人に話すには醜聞だろう。
手鏡を預けたまま、自分は王城を出てしまう。お互い顔も名前も年齢も知らずに、唯一知っている居場所から離れてしまって、どうやって探せばよいのだろうか。
若い青年だった。考えたくはないけれど、もしいずれかの戦場で斃れてしまっていたらーーノーミナには調べる術がない。
でも、昔のことを抱えたまま嫁ぐのは相手に失礼だ。
あの人が、世界のどこかで幸せであればいい。過ぎた思い出は吹っ切らなければ。
さらに六ヶ月もの日々は過ぎ、いよいよ王城を出る準備は整った。
見送りは王太子となった兄が来てくれて、お馴染みの「父上からだよ」の一言と手紙を渡される。
「お世話になりました、お兄さま」
王太子バートラムが口を開きかけたところで、ヒールの音がした。
「お待ちなさい!」
ドレスの裾を軽く持ち上げて、肩を上下している。
「第一王女殿下」
走ってきてまで最後に何をされるのやら。ノーミナは体を強張らせる。ナスタリヤの後ろから彼女の侍女と護衛が追いついた。それぞれに積み重ねた箱や、やたら大きな衣装袋を抱えている。
「わたくしには不要のものよ。だからノーミナがすべて引き取って役立てなさい」
箱のうち、小さいものを開いてみせる。一揃いのアンバーの耳飾り。一番初めに手放した母の思い出が傷ひとつなく取って置かれていた。
強奪するふりをしてーー、大切に保管してくれていた。
そうとしか考えられない。
思い返せば、物は取り上げられても暴力を振るわれたことはなかった。王妃の暴言が過ぎたときにはうまい具合にバートラムやナスタリヤが間に割り込んでくれていた。
「お、お姉さま……は、こちらの品々を預かってくださっていたのですね」
「わたくしを姉と呼んでくれるの?」
姉は純粋に驚いていた。いままでは怖くて第一王女殿下と呼んでいたが、彼女は恐れるべき存在ではないことが判明したからそう呼びたくなった。
「許していただけるのなら。わたしは王族を抜けましたが」
「血は確実に半分同じものが流れているのだもの、なにがあってもわたくしたちは姉妹よ。王妃陛下から目を逸らすためにこれまでは嫌な態度もとったわね。
けれどノーミナは城を出るのだから、王妃陛下も手出ししないでしょう。強い護衛もついたことだし」
兄も姉も、きっと父だってノーミナを守るために尽力してくれていた。
「やっと仲直りしてくれたな」
バートラムが喜んでいる。ナスタリヤは軽いため息を吐いた。
「子どもだったあなたに悪いとは思うけれど、わたくしは謝ることはできないわ。できる限りのことはしたつもりだし、許してほしいわけではないから。……母の気持ちも、わかるのだもの。だから感謝などはしないでちょうだい」
王族だから、夫は公に浮気する。母は悋気さえなければ正妃として立派な女性だ。王を深く愛してしまったがために女として耐えられなかった。それで苦しみを表出して昇華する方法を間違えた。
それは王妃自ら反省して正すべきであり、娘であろうと進言はできても尻拭いする類の事柄ではない。
「母の遺品を返していただけただけで、わたしは幸せです」
「あなた、ルボネーズさまに声も姿もそっくりよ。だから王妃陛下は昔の側妃をいつまでも思い出してしまうのね」
久方ぶりに耳にする母の名前に表情を崩す。
「ずっと疑問だったのですが……お部屋に百合の花があるときにいらしていたのは、偶然でしょうか」
「気付いてくれていたのね、わたくしが訪問するときの合図に」
さすがに面と向かって「奪いに行くから用意しておきなさい」、とは言えない。ナスタリヤが密かに侍女に指示を出していた。
「それから、ノーミナとあの騎士が似合いだと言ったのは本心からよ。いい意味でね」
いまなら、姉が嘘はひとつも口にしていないことを信じられる。
「お姉さまに、お手紙を書いてもいいでしょうか」
ナスタリヤはもちろん、と頷いた。
「王城に留まるあなたの護衛だったマルト宛てとして紛れ込ませなさい。あとはなんとかするわ」
王が用意させたという屋敷に向かう間に父からの手紙を読んだ。一人の父親としての素直な気持ちを綴ってくれていた。正妃の手前、表立って守ってやれなかったことへの謝罪からはじまり、マルトを通じてノーミナの成長を知り喜んでいたこと、結婚という形でしか自由にしてやれなかった、と。
実母だけでなく、父にも愛されていたのだ。
屋敷では、婚約者が玄関前で待っていた。真顔で礼をする。婚約者となったのに、言葉を交わすのはこれが初めて。
「お待ちしておりました。ワイアット・ガードナーと申します」
声は深く、はっきりと伝わってきた。
「お出迎え感謝いたします。ノーミナ、です」
名字はない、ただのノーミナだ。
マルトをちらと見ると、彼は持たせていた槍をワイアットに差し出した。
「大切なものをお預けくださり、ありがとうございました。わたしの手からお返しするべきでしょうが、わたしには重すぎるので彼にお願いしました」
渡すとき、ワイアットはマルトに向かって口端を上げた。槍の柄も石突も本来の持ち主の色そのままで、彼が手紙に書いた『分身』という言葉はぴったりだ。
マルトが元王女に頭を下げた。王城を出たこの日をもってノーミナは王族警備の手から離れる。いまだ婚約中ではあるが、城を出る算段ができた時点で正妃は城中にいることを許容しなかった。
王家に雇われているマルトとはここでさよならだ。
「あなたのこれまでの献身に感謝します。マルト、元気でいてくださいね。ありがとうございました」
「お側を許されて光栄でした。ご多幸をお祈り申し上げます」
馬車はカラカラと門を出ていく。
「では、中へ」
ワイアットは片手でノーミナの手を取る。部屋の一つに入ったかと思えば、彼女を椅子に座らせた。
「槍を置いて参ります。こちらでお待ちください」
はい、と手を膝に置く。メイドがお茶を淹れてくれた。
戻ってきたワイアットは、全ての使用人を下がらせる。ノーミナの真正面にやってきて、膝をついた。緑の目が、口が弧を描く。ノーミナは思わず胸を押さえた。顔に熱が集まる。
ーーああ、こんなふうに笑う人なの。
「ようやくこちらをお返しできる」
ワイアットはハンカチの包みを開いてみせた。最後に見たのは六年も前。しかしこの百合の紋章を忘れたことはない。母の手鏡が返ってきた。
でも、これは、こんなことってーー預けたのは、名も知らぬ騎士だった。
「あの……ときの……お兄さまなの? 祈りの間にいらっしゃった」
「はい。無作法をいたしましたこと、お詫びのしようもございません」
一度深く頭を下げてみせる。
「……鏡を守ってくださったのですね」
「しっかり守ると申し上げました。この手鏡を預かることでーーあ、」
ぽろっ、とノーミナの目尻から大粒の涙がこぼれた。
「うわ、な、おっ俺のせい……だよな。泣かせるとは……、
くそっ、どうすればいいんだ? 何を間違った?」
大げさなほど狼狽するので、ノーミナは今度は笑ってしまった。
「なにも悪くありません。これは、嬉しくて……ふふ、すみません。母さまにまた会えた気がしたんです」
母が持ち物のなかで一番多く手を触れたのはこの手鏡だった。
「そ、そうでしたか……」
大きな手が、ハンカチを頬に当ててくれる。ノーミナが上から手を重ねた。目を閉じているので、ワイアットの赤面に気づかない。
「ほんとうにありがとうございます」
「いや。あなたのようなきれいな女性に接することがないので、泣かれると、もうわけがわからなくなる」
ぱちりと目を開けた。
「わたしが……、きれい?」
耳慣れない評価に、首を傾げる。「うぐっ」と低い苦痛の声が聞こえた。
「俺はかわい……美人だと思います」
かわいい、だと子ども扱いしているようで言い直した。
「女性に、慣れてらっしゃらないのですね? お手紙でもあまり多くを語らないでいたのは、そのせいですか?」
でなければ、ノーミナをかわいい、美人だなどと言わない。
「手紙は……推敲を重ねるうちになにを書いても不適切な気がしてきて深い内容を書けませんでした。そうしていると時間も過ぎてしまって」
問いかけると返事があって、表情の変化を見れる。槍のプレゼントにはびっくりさせられたが、会って話すと好ましい。
頭を掻くワイアットのシナモン・ヘアーはあたたかみがあって素敵だと思う。真冬に淹れた紅茶をシナモンスティックでかき混ぜ、両手でカップを包んだときの体の力が抜ける感覚に似ている。スパイスの効いた紅茶を飲んだかのように、ぽかぽかしてくるあの感じ。
「ずっと、戦場にいましたし……俺は野人だから女と関わる機会もなくここまできました。褒賞を賜る場ではあなたに見られて緊張しまくって。……すみません、こんなのがあなたの婚約者になるなどおこがましい。でもこれが一番自然で早く手鏡をお返ししつつあなたを守れる方法でした」
ずる、と膝立ちだった体が下がった。ワイアットはついに床に正座してしまっている。
「俺は粗野な田舎者ですが、あなたを大切にします。結婚まであと一年。婚約期間中にできましたら『この関係も悪くない』、くらいには考え直していただけたらと……」
ノーミナがごつごつした手を取って立ち上がらせた。
「そんな、こちらこそ。この婚約はあなたにも選択権はありませんでしたでしょう。でもわたしはずっと、祈りの間のお兄さまにお会いしたかったのです、ワイアットさま」
いまだ涙の残る瞳をして、名前を呼ばれる。ワイアットは耳まで響く心拍音を感じながら、そっと鼻の下を拳の人差し指で抑えた。
「これはお願いですが、普段の話しやすい口調で話してください。そのままのワイアットさまを知りたいです」
なにしろ手紙と槍で知れたのはたかだか彼の身長と髪と目の色ぐらいだった。
「あ、はい。……そうする、し、ノーミナ殿下も、どうぞ楽に」
「殿下だなんて。王家に藉はありません。ノーミナとだけ呼んでください」
「そうだった。俺のほうこそ呼び捨てにしていいんだからな。この際お互い対等でいこう、ノ……ノーミナ」
「ええ。そうね、わいあっ……と……」
照れながらも名前を呼び捨てにしてくれるノーミナに幸せを噛み締めた。
太陽は空のてっぺんにあるのに、夕日を浴びたような顔色をする二人。
向き合って立ったまま夜まで過ごしてしまいそうな主人たちを見兼ねて、意を決した執事が入っていく。挨拶のために待っていたメイド長はじめ数人が廊下から勇者に向けて音もなく拍手していた。
「失礼します。奥様にはお屋敷内の案内が必要かと存じますが、私がお連れしても?」
「あっ、いや、俺が……俺にやらせてくれ」
「かしこまりました。お荷物は奥様の寝室に運び入れておりますので」
「ご苦労、キャスパー。ではノーミナ、行こう」
執事が一礼する。メイドたちが散って仕事に戻った。
空っぽの屋敷に二人の愛が満たされていく。そんな再会だった。
And then they will be happy.
(おしまい〜!)
最後までお読みくださりありがとうございます!
May 8th, 2023
誤字脱字報告ありがとうございました!
補足。
【Dubbing ceremony】
騎士任命式(典?)
【Elaborate ceremony】
昇任式。騎士の中でも等級があるので昇級するときの式。
【Cuskynoles】カスキーノールズ
フルーツラヴィオリ。
中世のお菓子調べててなにこれ美味しそう!と思って入れたのですが、よく調べたらクリスマスデザートっぽい……?です。
そのまま採用。
ひとりごと。
とある動画を見ていて、「槍は使用者の身長と同じものを使う(か、プラス5センチ)」と聞いて
婚約者から「あなたのことを教えて」と言われたところ、槍を送りつける男が思い浮かんだために生まれたお話。
たぶん槍騎兵用の槍のことではないんですけど、まぁファンタジーファンタジー。
とにかく槍送りつけるところを書きたかったのです。
悪役って難しいですね。
ヒーローもあれおまえこんなやつやったんか……と書く人もびっくりのワイアットのノーミナに対するへにょへにょめろめろっぷり。
二人のその後のいちゃつきもこっそり追加するかもしれません。
またお会いしましょう!
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