オナラ男の謎
山田肇が最近悩まされていることは二つ。
一つは、妹の純が明らかに自分を避けているように思えること。これに関しては、自分だって母親がウザいと感じた中学時代の経験から、一般的な事であると頭で理解していた。
二つ目、こちらの方が彼にとって耐え難いことだ。
「屁をかけられるんだ」
鈴音さんは、肇が告白した悩みを一笑した。うつ伏せで読んでいた漫画を閉じた。そして左上で頬杖をついて肇を斜め下から見上げた。
「肇くんを苛める人がいるんだ」
「いや、まじなんだって」
「疑ってないよ。ただ、それが事実とは思わないだけで」
「妄想なんかじゃない」
肇は、自分がどのような被害にあっているかを語り始めた。本来ならば肇の言葉を引用する形で記したいところである。しかし、山田肇はいかに虐げられているかを伝えたいあまり、脈絡無く怒りを滲ませたりするため、鈴音さんでなければ彼が何を言いたいか分からない。よって、彼の代わりに記したい。
肇が、自分は同一人物に屁をかけられていることに気がついた時、それは2度目だったからだ。よって、1度目が何時のことだったかは覚えていない。
ある日の退勤する電車内でのことだ。晴れていたか雨が降っていたかも思い出せない。しかし、風変わりな男が目の前にいた。吊革を掴む人は大抵、こちらを向いているものにもかかわらず、その男はこちらに尻を向けていた。スラックスの臀部あたりには横皺が何本か走っており、電車が揺れるたびに皺が消えたり現れたり波打ったりした。
他の怪しい点は、まだまだ陽射しのキツい日々だというのに、ジャケットを着ていたくらいだ。
肇はTwitterを見つめていた。フォロワーが二桁のくせに、自分のツイートに誰かが反応してくれるかもしれないと淡い期待をしていた。
そんな彼の鼻先で、男が屁を放った。
ばふりばふと生ぬるい風を浴び、臭いに反応する前に身体が仰け反り、車窓に頭をぶつけた。
男は何も言わず次の停車駅で降りた。
その日から何日か経ち、彼が2度目の不運に見舞われた。駅前の古本屋の100円コーナーにいた時だ。平均的な成人男性の背丈であるから、下段を物色するのに中腰であった。
コロナウイルス流行以降、店内での立ち読みは禁止となった。以前までのように序盤を読み進めてからの判断ができず、Amazonレビュー等を参考にしていた。つまり、姿勢をただして本を読むのではなく、本を片手に手早く検索をするのだ。中腰のままで。その事が災いし、近くにいた何者かの放屁を顔面で受けてしまった。
腐敗した卵に香辛料をかき混ぜたような臭いが鼻を刺激した。
肇が視線を上げると逃げていく人物の後ろ姿が、先日の電車内で自分に尻を向けていた男の姿と酷似していた。窮屈そうなスラックス、そして残暑の中でもジャケットを羽織っていること。何より、人の顔前に屁を放つような無神経極まりないことがそうそう何人もいてたまるか。
「今日なんか、改札前の階段で前にいた男に屁をこかれたんだ」
「その人も、ジャケットを着ていたと」
「実は分からないんだ。屁の音が聞こえたらすぐに引き返して、その人と距離をとったから」
「ところで、結局何が言いたいの?」
「誰かに嫌がらせをされているんだと思う」
「へぇ。肇くんは誰かの反感を買ったんだ」
「そんなことはしていない。職場では孤立ぎみだし、近所とのトラブルもない。全く心当たりがないんだ」
「でも、嫌がらせは受けている」
鈴音さんは漫画を本棚に戻して、髪を束ねて居ずまいをただした。
「きっと疲れているから嫌な目にあうんだと思う。眠れない夜が続くと、どんなに些細なことでも過敏に捉えすぎたりしてよくないよ。ちゃんと夜は寝てね?」
「信じてくれよ。本当に変な輩が僕を狙っているんだ」
「なんで肇くんが狙われるの?」
「それが、分からないんだ」
肇は肩を落とした。
それを見た鈴音さんは、指を3本立てた。
「私が思うにね、肇くん。3つの可能性があるんだ」
「何が」
「肇くんが悩んでいる放屁男について」
「うそっ」
肇は鈴音さんの肩を掴んで、彼女を揺する。近いっ、と鈴音さんは肇の額を指で弾いた。
「もちろん、確証はないよ。けれども今、肇くんから聞いたことだけで、十分推測できることはある」
肇は、教えて教えてと呟く。その姿はさながら親鳥の餌を待つ燕の雛のようだ。
「まず、肇くんはとある一つの事情により、起きた出来事を考察出来なくなっている」
「とある事情……」とオウム返しをする肇の前に、鈴音さんは人差し指を立てた。
「それは、肇くんが被害にあっているということ」
肇は鈴音さんが何を言いたいのか理解できず、頭を掻いた。そして額に拳をあてて、数秒、「肇くんが被害にあっている」の意味する内容を探るが、当たり前のことを言ったに過ぎないと結論づけた。
「だから、どうしたんだよ」
「まず1つ。本当に同じ人物の仕業だと思う?」
「そりゃあ、わざわざ人の顔の前で屁をする奴なんてそうそういない」
「確かに多くはない。けれど、確かにいる」
「そんなのは、言葉遊びじゃないか」
「じゃあ聞くけれど、肇くんは何日間隔で被害を受けたの?」
「それは、正確には分からないけれど」
「肇くんも言った通り、2度目のことがあって、1度目のことを思い出した。それもより強く印象に残る形で。そして、今日のことがあって肇くんは3度も同じ目にあうには理由があると考えてしまった」
「要するに、3度とも違う人だけれど、不幸な偶然が重なったことにより同一人物の仕業と勘違いした。と言いたいの? そんなの納得できないね」
「でしょうね。そこで2つ目」
鈴音さんは人差し指に密着させて、中指を立てた。その指だけ模造ダイヤのようなものの輝きで飾っていた。
「確かに同一人物の仕業であるけれど、別に肇くんを狙ったわけではない」
「いやいや、3度もくらったんだよ?」
「肇くんは、そのことを私以外の誰かに話した?」
「いいや、腹立たしいが、下品だから本当に親しい人以外には言いたくない」
鈴音さんは少し微笑んだ。
「もしかしたら、その電車や駅周辺では肇くんと同じような思いをしている人が他にもいるかもしれない」
そこまで言われてようやく肇は閃いた。
「要は、犯人は無差別に人に屁をかけているだけで誰かを狙っているわけではない、ということか」
「そうなるね」
でもさ、と肇はため息まじりに呟く。しかしうまく言葉にはできず頭を抱える。彼が、鈴音さんに聞きたかったことは「なぜ犯人が屁を自分に放つのか」である。
肇が求めていた答えは、犯人がどういう動機で肇を狙うのかである。そして、なぜ放屁という手段を選んだか、なのである。
「なんだか、鈴音さんの考えは理解できるけれど腑に墜ちない」
「それはそうね。この2つの回答に共通することだけれど、肇くんが全く主体的ではない。肇くんが、自分の不幸には原因があると考えている限り、到底納得できるものじゃないから」
まるで長い生涯を終えてくだけ散る寸前の劣化したプラスチックのように肇の精神は融通が利かない。鈴音さんの言いたいことは解ったが、彼女の見解に虚しさを覚えた。
「そういえば、鈴音さんは3つあるって言ってたよね」
「私には、肇くんが気に入るような結論を出すこともできるけれど、それはたとえて言えば水商売のような手口で、肇くんの感情に寄り添うだけ」
「それでも良い。むしろ、そっちの方が良い」
肇がそう言うと鈴音さんは時間を止めた。そして肇が1度目に屁をかけられた電車内にまで時間を逆流させた。
唐突に隣の席に現れた鈴音さんに、肇は面食らうものの、異なる時間にいる肇の思考を移植された。
なぜ彼女が隣にいるのかには疑問を覚えない。そのようなことは些細なことだ。それよりも、これから自分が目の前の男に屁をかけられることに腹を立てた。
肇はSNSを閉じた。そして目の前の男を注視した。背をこちらに向けているから顔は分からない。
やがて屁が放たれる。肇は屁から逃げない。鼻だけでなく、口でも屁を感じた。味はしなかった。
鈴音さんは再び時間を操作し、古本屋にいた肇の側に着くと、もうすぐ屁を放つ男が来ると伝えた。
何故ここに鈴音さんが居るのか、という疑問は思考を制限されていた肇にとって抱くことができないものだった。
やがて現れた男を指差し、あの人だと鈴音さんは言った。
なるほど、あいつが自分を嘲弄するかのように屁をする男かと理解した。そして、嫌な目にあうことは解っているものの、自分の敵と真っ向から対峙してこそより善き人生になるのだという彼が最近読んだ自己啓発本の一節を思い出して、彼はその場を動くことはなかった。
屁は放たれた。彼はそれを鼻や口だけでなく目でも捉えた。屁でスラックスの皺が動く様を詳細に眺めた。
時間は三度停止した。
鈴音さんが何食わぬ顔で、彼と手を繋いで階段を昇っていた。もはや肇に合図する必要さえなかった。彼は目の前の男の放屁を吸い込み、ウィスキーを流し込むがごとき熱を気道に感じた。鼻で腐敗した肉の模様や細菌のはたらきをイメージし、肺の中に取り込む。酸素と共に見知らぬ男の屁を血管に流し込み、それが彼の脳に至る。足腰は炎を灯されたかのようだ。立っていることさえままならぬ悦楽が肇を襲う。
鈴音さんは時間を止めた。
肇の部屋にいた。そして肇は自白を始める。
「実は、鈴音さんには黙っていたんだけれど、男性の放屁を嗅ぐことが快楽な人間なんだ」
「そうなの、知らなかった」
「自分も今気がついた。まるで意味が分からなかった過去の出来事がみるみる内に明瞭になったんだ。孔雀が羽根を広げるような鮮やかさだった」
「ということは、つまり?」
「自分にも見出だせていなかった欲求に従い放屁を嗅ぎに行っていたんだ」
肇は涙を流して、悦びにうち震えていた。
鈴音さんは腹を抱えて笑い、彼の目の前で手を叩いた。
勢いよく引いていく肇の涙。
「3つ目は肇くんが自分から嗅ぎに行った」
「そんなわけないじゃないか」