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【Ⅲ】ひとりになる私

【Ⅲ】ひとりになる私


[Ⅲ-昼①]昼の情報提供者→結城ゆうき芽亜里めあり(大きいもの好き)


〈十二月十七日 金曜日〉


 今日は平日の金曜日だけど、期末テスト終わりということで休みになった。

 学校のみんなは、試験終わりのボーナス的な休日がたった一日しかもらえないことに文句を言っていたけど、あたしはラッキーだったとすら思ってる。

 まだ、頭の中には昨日までのできごとが渦巻いていた。

「妹なんていない」

 そういい切ったメアちゃんと、そのお母さん。

 そしてふたりの異状な様子。

 最後にメアちゃんが言った、

「……もしあんたがどうしても信じないって言うなら、もう一度うちに来ることね。うちの玄関には、表札の下に家族構成が書いてあるから、それを見ればハッキリするわ」

 という挑戦的な言葉。

 なにもかもわからない。わかりたくもない。

 あたしは結局、なにをしていたんだろう。

 圧倒的な虚無感が襲いかかってくる。

 こんな状態では、何日休日をもらったところで、楽しい気分になんかならない。だって、あたしにとっての唯一の幸福は……。

 鏡台に座って、とにかくあたしは死んだようにしていた。思考を停止して、ぼーっとすることで、これ以上最悪な真実にたどり着かないようにしていたのかもしれない。

 でもそんな時間は長くは続かなかった。

 突然、チャイムが鳴ったんだ。

 ジーッ! っという、メロディもなにもない大音量が、家じゅうに響き渡って来客の存在を告げている。

 はあ……。今日は家に誰もいないから、どうしてもあたしが出なくちゃいけない。

 身なりも整えずに、玄関先へと出ていく。宅急便とかだと、無視しても結局後で取りに行かなくちゃいけないから、要件だけでも聞きに行こう。

 そんな気持ちでドアを開けた。

「こんにちは、元気だったかしら?」

 一瞬、驚きすぎて気絶するかと思った。

 玄関口に立っていたのはなんと、あたしがずっと考えていたメアちゃんその人だった。

 ほんの瞬間的に、わざわざ出向いてくれたことへの嬉しさが生まれかける。

 でも、もっと大きな暗い感情が、それをまたたく間に塗りつぶした。

「あ、メアちゃん……どうしたの?」

「どうしたの? と言いたいのはこちらの方よ。前までは私の姿を見るだけで狂喜乱舞してくれたのに、ずいぶん冷たくなったのね、ゆめ」

「ごめん、本当に用がないなら、疲れてるから……」

 自分の声が、驚くほど冷たかった。

 まさにメアちゃんの言う通り、あたしは変わってしまったようだ。

 今日はゆめっちもいないし、もうなんのやる気もない。

 もう頼むから一人にして、そんな気持ちであたしはドアを閉めようとした。

 けれど締まりかけたドアを、メアちゃんの手が掴んで止めた。

「まあちょとお待ちなさいな。今日は別にあんたをからかいに来たわけじゃないわよ」

「なら、どうしたの?」

「デートをしましょ。これから」

「えっ……ええ!?」

 あまりに唐突な提案に、頭が真っ白になった。

 たしかに最近は理解できないこと続きだったけど、間違いなく一番だ。

「なんで、え、どういう風の吹き回しなの?」

「私は風向きを頼りに動いたりしないわ、ただ、あんたとは前にデートに行ってあげるって約束したでしょう。それを果たしに来ただけよ」

 あ、そういえばはるか昔にそんなことがあったような……。

 たしか、

『今度一緒に動物園に行ってゾウやキリンを見に行きましょ』

 ……ゆめっちに対して、こんなこと言ってた気がする。

「あれって冗談じゃなかったんだ」

「おや、私は生まれてこの方、冗談なんて言ったためしがないの。で、どうするの? 本当に体調が悪いなら、無理強いはしないけど」

 どうやら今回の申し出はこっちに選択権があるらしい。ちょっと横暴なところがあるメアちゃんにしては、優しい提案だ。

 つまり、行かないでいることもできる。

 あたしは少し考えてから結論を出した。

「わかった。すぐに準備するから、ちょっと待ってて」

 一緒に行けば、今度こそなにか掴めるかもしれない……というのは、建前で、つまるところ。

 あたしがメアちゃんのデートの約束を断れるわけがなかった。恋とは、そういうものなんだ。

 ――二十分くらいの時間をかけて、なんとか服装を整えて、玄関口に飛び出す。

 外に出ると、快晴の青空と眩しい太陽があたしを迎える。

 目の前には、よそ行きの服装をしたメアちゃんが立っていた。

 上品なロングコートとプリーツスカートという出で立ちで、大胆にもワインレッドのスカートが、大人っぽいコートの奥で静かに映えているが素晴らしい。さらに、頭には真っ白なキャスケットをかぶっていて、シルエットが際立ってとても上品に見える。

 そんな、軒先に現れた昼の天使は、急いで出てきたあたしの服装を見るやいなや、悪魔のような視線を送ってきた。

「最低限、って感じの用意をしてきたわね……」

 そのような感想を頂いたあたしの服装については、あえて説明しないこととする。

「だってしょうがないじゃん! メアちゃんいきなり来るんだもん」

「常に準備していなかったあんたの不備でしょう、反省なさい」

 そこで、メアちゃんがなにかに気が付いたように眉を上げた。 

「そういえば、今日は、ポニーテールにハチマキじゃないのね。私はあれ、潔くて嫌いじゃなかったんだけど」

 言われてから、あたしは自分とゆめっちの服装の好みがまったくの真逆であることを思い出した。というか、彼女は趣味から利き手までなにもかも逆なので、久々にあたしが前に出ると、それはそれで別人のように思われても仕方がない。

 それにゆめっちの方が、デート一つとっても上手くできるだろう。

 でも、メアちゃんとのデートくらいは、他でもない高崎ゆめとしてしたかった。

「メアちゃん」

「なによ」

「手を、繋いでもいいかな?」

 死ぬほど恥ずかしくて、たぶん耳まで真っ赤になりながら、直球を投げ込む。

 でも、天下のメアちゃんは、うんとは言わなかった。

 その代わりに、

「馬鹿ね、これから遠出するって言うのに手なんか繋いだら、歩きにくいじゃない。……それに、そういうのは目的地についてから始めるものなのよ。恋愛初心者さん?」

 きっぱりと言い切ってから、メアちゃんは足元に置いていた荷物のリュックを背負って、さっさと歩き出してしまう。ちなみに、今まで気が付かなかったけど、すごく大きなリュックだった。なるほど今日は、この巨大リュックが、常に大きな物に触れていないと死んでしまうらしいメアちゃんのお供に選ばれたようだ。

 相変わらずクールなメアちゃんだったけど、さっきの言葉で少しわかった。どうやら今日という日は、はぐらかさずにあたしに向き合ってくれるらしい。

 なら、こっちも頑張らなきゃいけない。

 きっとメアちゃんをメロメロにしてやるんだから!


 その後、家を出発したあたしは、ひたすらメアちゃんの後ろをついて歩いた。メアちゃんはかなり歩くのが早いほうなので、遅れそうになりながら。

 そうして十五分ほど歩くと、あたしたちは国鉄の駅に着いた。まあ、このあたりには動物園どころかスーパーもろくにないので、真剣に遊ぼうと思うと電車に乗るしかないわけだ。

 郊外の駅は、平日ということもあって混んではいなかった。歴史ある灰色の駅舎に、明るい日が差してのどかだ。

 きっぷ売り場できっぷを買って、そのまま改札に向かう。

 改札に立っている駅員さんにきっぷを見せて、穴を開けてもらってホームへと出る。通りがけ、暇な時間帯だったせいか、駅員さんがにこにこと笑顔をサービスしてくれたのがいい気分だった。

 でも、すぐに改札を出れたのはあたし一人だった。メアちゃんは切符を見せるのに少し手間取っている様子で、少ししてからゆっくり改札を通ってきた。

 出てきたメアちゃんの表情は、いたくご立腹だった。

「私、改札って嫌いだわ」

「手間取ってみたいだね」

「ほんと、どうして改札の駅員っていうのはみんな右側に立っているのかしら。失敗したわ」

「あー、そっか、左手側に切符を持ってると、改札の中でややこしいことになっちゃうよね」

 同意すると、メアちゃんは不満そうに口を尖らせながら言った。

「あんたはあの改札のようにならないで頂戴ね」

「え、どういう意味?」

「私のことを思いやれる人間でいてね、って意味よ」

 少し回りくどい冗談だったみたい。

 でもね、メアちゃん、あたしはずっとメアちゃんのことを考えているよ。

 ……だから、こんなに苦しんでいるんだ。

 その後、あたしたちは入ってすぐの一番線に来ていた国鉄に乗りこんだ。やっぱり中はガラガラだったので、適当に一番近いところに座ると、メアちゃんもすぐ隣に座った。

 右隣のメアちゃんに、あたしはずっと気になっていたことを訊く。

「これからどこの動物園に行くの?」

「そういえば言ってなかったかしら、でも、七宮の近くだったら、定番のところがあるでしょう?」

「あ、やっぱりあそこなんだ。動物園っていうか……動物公園?

 だっけ。最近できたっていうコアラ館、見てみたかたんだぁ」

「コアラなんて小動物を見てどうするの。やっぱりゾウかキリンよ」

「えー、そんなの近頃どこにでもいるでしょ」

 電車の中でのお話は、他のことが全部色あせるくらいに幸せな時間だった。

 そのまま三十分ほど電車に揺られると、動物公園の最寄り駅についた。

 園は目と鼻の先なので、降りてすぐに入場ゲートが見えてくる。

「ここに来るの、久しぶりだなぁ」

「あら、私以外のどの女と来たのかしら? さすがの傑物ぶりね、見直したわ」

「いや違うよ! 家族旅行で来ただけだよ」

 軽口を叩きつつ、窓口でお金を払って入場する。その時に受け取ったチケットは、本当に宝物に見えた。

 金曜平日午前の動物公園は、よくもわるくも空いていて、賑わいは少ない。けれど、生き物の鳴き声や、行き交う飼育員さんたちの様子が、胸を高鳴らせる。さらに高校生の友達同士だけでここまでやってきたという事実も、なんとなく大人になった気分にさせてくれてやっぱり落ち着かない。

 でも、一番にあたしをどぎまぎさせていたのは、もっと別のことだった。

 家の前でのメアちゃんの言葉を思い出しながら、左を見る。

 目と鼻の先の、それもすごく掴みやすそうなところに、メアちゃんの、白くてきめ細やかな肌に包まれた右手があった。ほっそりはしているけど、とても柔らかそうだ。

「あ、あの……メアちゃん」

「あんたの考えてること、当ててあげましょうか?」

 やっぱりメアちゃんはメアちゃんだ。ほんとに意地悪すぎる。

「いや、もういいよ!」

 これ以上いける気がしなくなって、あたしはずんずん歩き出した。

 どうせ手も繋げないなら、ふれあいコーナでうさぎさんをたっぷり愛でてやろうと決意したから。

 でも、歩き出したあたしの右手は、すぐに暖かな感触で包まれる。

 振り返ると、すぐ後ろのメアちゃんが、しっかりとあたしの手を握りしめていた。

「ふふ、こういう場所で手を繋がないなんて、とっても非常識よ」

「あ、うん……」

 どうしてだろう。

 幸せなのに、すごく恥ずかしい。

 

 そこから、あたしはメアちゃんについて、園内をぐるっと一周した。

 うさぎやモルモットみたいな小動物にすぐに目を奪われるあたしに対して、メアちゃんはキリンやゾウを見て目を輝かせていた。とにかく主導権はメアちゃんの方にあって、あたしが楽しみにしていたコアラ館は、急に足早になったメアちゃんによって半ば飛ばされてしまって悔しかった。その代わりにキリンの柵の前では、メアちゃんは本当に三十分くらい時間を忘れてうっとりしていた。不公平だった。

 そんな風にちぐはぐで、足並みそろわぬ私たちだったけれど、メアちゃんはずっとあたしの手を離さなかった。だから、ずっと彼女の温度を感じていられた。

 幸せだった。

 気がつくともうお昼すぎになり、私たちは売店でお弁当を買って園内の適当なベンチで昼食をとった。

 ひとしきりお喋りをして、お弁当も残さず食べ終わったので、あたしはこの後の予定について話し合うことにした。

「ねぇメアちゃん、午後はなにを見よっか。もう大体回っちゃったよね」

「なら帰るっていうのはどう? もう全部見たんだし」

「流石にそれは考え方がドライすぎるよ! 冗談きついなぁ」

 しかしメアちゃんは、「違う違う」と手を振る。

「だから、私は生まれてからというもの、冗談なんて言ったことはないのよ。だから『帰る』ていう提案は本気よ」

「そんな……」

「言葉が足りなかったみたいね、動物園はここで終わりにしましょうって話で、デートをやめるなんて一言も言ってないわ」

 メアちゃんしなをつくって、どこまでも妖しく微笑んだ。

「ねぇゆめ、これから私の家に来ない?」

 あたしは思わず息を飲んだ。

 家に、来ないか……だって?

 でもそんな……大胆すぎるよ、メアちゃん。

 願ってもみない提案に、うっとりしかける……けれど、メアちゃんのお家と聞いて、違う考えがすぐに頭の中を支配する。

「……もしあんたがどうしても信じないって言うなら、もう一度うちに来ることね。うちの玄関には、表札の下に家族構成が書いてあるから、それを見ればハッキリするわ」

 思い出されるのは、やっぱりこのあいだのセリフ。

 あたしはこの言葉のせいで、最近はずっとメアちゃんの家を避けていた。

 学校から帰るときには、わざわざ遠回りしてメアちゃんの家の方向に行かないようにしていた。月曜の塾がある日だって、まっすぐ家に帰宅した。

 行きたい、でも同じかそれ以上に、行きたくない。

 そう考えたときにふと、心の中に一人の少女のことが浮かんでくる。

 それはゆめっちだった。

 裏自分を使うようになってから、あたしはこういう時にゆめっちならどうするのか、と思わず考えてしまうんだ。

 そしてそれは今回もそうだ。

 あたしは、あたしがどうしたいか、ということよりも、ゆめっちならどうするかを考えた。

 そして、あたしの心の中に住み着くゆめっちの幻影は、一つの答えを用意した。

「いいよ、本当はずっと行きたかったの、メアちゃんの家に」

 もちろんイエス。

 その答えに、メアちゃんは嬉しそうに頷いた。

「それじゃ、決まりね」

 まだ全ての展示をすみずみまで見たというわけではないけれど、あたしたちは手を繋いで園を後にした。

 その最後、出口のゲートをくぐる時に、メアちゃんがあたしに念押しするように尋ねてきた。

「覚悟は、できたということね」

 ……あはは。

 正直なことを言おうか。

 まさか覚悟なんて、できているワケがないし、できた試しもない。

 それでもさ、

 向き合わなくちゃ、終わらないんでしょ?



「いいわ、入りなさい」

 相変わらず立派なお家の玄関の鍵を開けて、メアちゃんは中へと促した。

 動物園から帰ってきて、そのままここにきたので、ちょっと疲れていたはずなんだけど、ドアが開かれた瞬間にぜんぶ吹き飛んでしまった。だって、ずっと外から見ているしかできなかった場所だったから。

 入り口の扉をくぐろうとした時、視界の端に『結城家』と書かれた表札が映った。だけど、今はその下を確認する勇気がでなかった。

 だからこれを見るのは、ここを出る時にしよう。

 そうやって決めて、あたしはメアちゃんの家の中へと足を踏み入れた。

「えと、お邪魔、します……」

 その家は、優雅で綺麗な家だった。

 入り口のシューズボックスから廊下の奥の収納棚まで、白樺調の家具で整えられた空間は、大人っぽい雰囲気の中に遊び心というか、かわいらしさが感じられた。玄関を入ってすぐの二階へと続く階段や、居間などの部屋に繋がっているだろう廊下の床には、すみずみまで厚い床敷きが敷き詰められ、靴を脱いで上がった感触がふかふかとして気持ちがいい。

 メアちゃんは一階には行かずに、正面の階段の方へとあたしの手を引いた。

「この上が私の部屋よ」

「うん」 

 あたしはただ、その後をついていった。

 階段を上がりきると、正面にドアが現れ、そこから二股に廊下がわかれていた。メアちゃんは中心のドアを少し引き開けて、あたしの方を見る。

「さぁ、入っていいのよ」

「本当に?」

「どうして招いた方が拒絶するのよ、それにあんたもずっと、こうしたかったんでしょう?」

 口元を上げながら言われたセリフは、まさに心の奥を見透かすようなものだった。

 意を決して、あたしはドアノブに手をかけて引き開ける。

 ドアはすっと開かれた。

 その先、現れた部屋は案外広く、メアちゃん一人に与えらているのが羨ましいくらいだった。でも置かれている家具は少なくて、正面中央にソファー、左手奥に収納棚、右手奥にベッドという配置だ。どの家具も真っ白に塗られ、おとぎ話に出てくるような少女趣味な造形をしている。

 本当に、メアちゃんという存在が具現化したような部屋だった。

 部屋に入るとまず、メアちゃんはソファーの方を指差した。

「そこのソファで座って、私はお茶でも持ってくるわ」

「あ、おかまいなく」

「ふふ、マニュアルみたいな返事はいらないの。あんたお菓子好きでしょう?」

 行って、すぐに出ていってしまう。

 他にやりようもないのでソファーに座ると、すっごく座りが深くて柔らかい。けど、でもなんかそれが逆に落ち着かない。

 そこで、あたしは思いついた。

 メアちゃんのいない今なら、なにか情報が探れるかもしれない。といっても、正直もうなんのために調査をするかもわからなっている気もするけど、そういう大義名分で、あれこれ動いていないと、雰囲気に飲み込まれちゃいそうなんだ。

 念のために入り口のドアを少し開けて、聞き耳を立ててみる。すると一階の方から大きめの物音がしていた。きっとメアちゃんがキッチンでなにかやっているんだろう。

 つまり、少しくらいは猶予がありそうだ。

 まずあたしは、思いっきり鼻から息を吸い込んでみる。

 するとやっぱりというか、他の人の……メアちゃんの匂いが鼻腔全体をくすぐって、なぜだかちょっといけない気分になってくる。

 次はキョロキョロとあたりを見回した。

 私の身長を同じくらいの高さで、親近感を感じる棚があってかわいい。棚の上には布でできた小さなお人形さんや、ミニチュアサイズの動物のぬいぐるみなどが乗っかっていて、これまたかわいい空間に仕上がっている。

 ベッドの方も特に異常はなかった。そして名誉のために言うけど、決して布団の中をまさぐったり、寝そべったりはしなかった。絶対に。

 そうやって最後に目に入ったのは、入り口から右手の壁にあるクローゼットだった。デリカシーがないとわかっていても、部屋がシンプルで開けっぴろげなせいで、こういう隠れたスペースが気になってくる。

 気がつくと、体が勝手に動いていた。

 ゆっくりと部屋を横切って、クローゼットの取っ手に手をかける。

 そして……、

「駄目よ、人の衣装箪笥を勝手に触ったら」

 声が、部屋に響いた。

 心臓がひっくり返りそうな思いで後ろを見ると、メアちゃんが立っていた。片手にはお盆を持って、その上に麦茶の入ったカップとお茶菓子が載っている。

 メアちゃんは無表情で、その目はとても冷たい。ただ、口元だけに薄い笑みが浮かんでいた。

「ずいぶん息が荒いようだけど、どうしたの? あら、もしかして……私の普段着を使って、良からぬことでも企んでいたのかしら」

 そう言ってメアちゃんはソファーの前のテーブルにお盆を置くと、あたしの手を捕まえてクローゼットから引き剥がす。

 そしてあたしとクローゼットの間に割り込むようにして立って、後ろ手に、開きかけの扉を閉じてしまった。

「勝手に色々と触れるのは趣味じゃないわ。それに、せっかく楽しい遊びを考えてあげたんだから」

「ごめん、デリカシーなかったね」

 反省して言われた通りに座ると、メアちゃんはそれ以上なにも言わなかった。

 メアちゃんはクローゼットから離れると、今度は収納棚の方に移動して、一番下の引き出しを開いて中身を取り出して見せる。

「こういうの、やったことあるかしら?」

 その手に持っていたのは、色とりどりの色紙と二組のハサミだった。

「あたし、折り紙は苦手だよ」

「なるほど。つまりあんたはなんにも知らないってことね」

 呆れたようにため息をついたところを見ると、どうやら予想は外れたみたいだ。

 メアちゃんはテーブルに数枚の紙とハサミを置いてから、改めて一枚の紙を持ってみせる。

「これからやるのは折り紙じゃなくて、切り絵よ。ほら、見てなさい」

 メアちゃんは私の隣に座って、テーブルに色紙を押し当てると、横や斜めに何回か折っていく。するとさっきより大分小さくなった色紙の塊ができあがった。ちなみに、いま表面になっているのは紙の裏側で、色はついていないから真っ白だ。

 メアちゃんは机の上に置かれたペン立てから鉛筆と定規を取り出して、今度は真っ白な紙に線を引く。そうやって直線が何本か引かれたを確認してから、メアちゃんはやっとハサミを取り出した。そして仕上げとばかりに、引いた線に合わせて、(少し切断するのにて間取りながらも)刃を入れていく。すると紙から分離した端切れがテーブルの上に無造作に落下し、メアちゃんの手にはそれ以外の紙が残された。

 メアちゃんは、興味津々にのぞき込むあたしの前で、折られて小さくなったそれを勢いよく広げた。

「はい、できたわ。西洋のお城よ」

 確かに、その手もとには、高い二本の塔で挟まれたお城っぽい造形が完成していた。

 でも、正直言って……。

「いや、すごいけど……なんかちょっと完成度低くない?」

「うっ……そんな馬鹿正直に……。あんた、ほんとに私のこと好きなんでしょうね」

「いやでも、こういうの妥協できないっていうか、これじゃお城っていうよりミサイル基地に見えるっていうか……」

「あんたのそういうところ本当に嫌いよ。……まあいいわ、これからやり方を教えるから、一緒にやってみましょう」

 色素の薄いその頬を赤くしてぷりぷり怒りながら、メアちゃんはもう一組のハサミと、紙をこちらの方によせる。

 さらに、メアちゃんはさっきの棚の別の引き出しの中から、一冊の本を持ってきてテーブルに置いた。

 それは「はじめての切り絵」と題された、対象年齢低めそうな本だった。

「ここの中から好きなものを選んでから、指示通りに紙を切って、指示通りに線を引けば準備は終わり。あとは指示通りにハサミで切って開けば完成よ」

「ずいぶん指示通りにやるんだね」

「私の実力がこれなんだから、本に従ってもらうほかないわよ」

 さっきのミサイル基地を丸めながら拗ねるメアちゃんに、思わず笑ってしまう。

「メアちゃんにも、苦手なことってあったんだ」

「そうね。切り絵って、いつも見ているだけだったから」

「えっ? お母さんとかがやってたの?」

「……うん、まあ、そんなところよ」

 ちょっとほのぼのしたけど、母、という言葉のせいでこの前のことが頭をよぎる。

 優しそうだけど、「妹」という言葉を出した瞬間に豹変したメアちゃんのお母さんの彩子さん。そしてそのままどこかに出ていってしまった、彩子さんの後ろ姿。

 彩子さんはいま、どこでなにをやっているんだろう。

 というか、当のメアちゃんは彩子さんがどこにいるのか知っているんだろうか。

 ……ダメだ。

 部外者が、家族関係に踏み込むなんて、きっとすごく悪いこと。

 気持ちを切り替えて、あたしは切り絵をやるのに集中した。

 それからしばらく本と色紙とをにらめっこしていたら、あたしはあることに気が付いた。

「あ、わかった」

 つられてメアちゃんも手を止める。

「なにが?」

「いや、さっきどうしてメアちゃんのが上手くいかなかったかわかったんだよ。……このハサミ、左利き用じゃん」

 あたしの発言に、メアちゃんも作業を止めて自分のハサミを見つめる。

「よく見たらそうね、どうりで切りにくいと思った」

「切れないことはないけどね」

 すかさずフォローを入れると、メアちゃんはハサミから目線を外して顔を上げる。その表情は、どことなく悲しそうだった。

「それでも、私はもっと別のところに根本的な原因がある気がするわ」

「別のところですか」

 相槌をうつと、メアちゃんは自分の頭を指差した。 

「たぶん、ここのせい、ね。知っての通り、私って記憶力がないから」

 そういえば、メアちゃんは常々「記憶力がない」と言っていた。

 常に気品があって万能に見えるメアちゃんだから、あんまり信じていなかったんだけど。

「切り絵でも苦労してるの?」

 尋ねてみると、メアちゃんは悔しそうに頷いた。

「ええ、さっき本の指示通りにやれって言ったでしょう。でも自分でやってみると、少し本から目を離した瞬間に、なんて書いてあったかを忘れてしまうのよ」

「えぇー!? それ、勉強とかも困らない?」

「勉強とか、何度も復習するようなものはちゃんと覚えられるのよ。でも、短いあいだに一度だけ見ただけのもの、とかになると途端に駄目になるのよね。こういうの、短期記憶が弱い、っていうのかしら」

 お茶菓子を上品に口に運びながら、そうやって嘆くメアちゃん。

 なんでもこなすように見えて、結構弱点あるんだ。

「あはは」

「ふん。まあ、笑うがいいわ。他で補えばいい話だもの」

 ふくれるメアちゃんに、補足する。

「いや、そういうところ、無防備でかわいいなって思ったんだよ」

「……そう」

 そうつぶやいた彼女の、お下げ髪のあいだから見える真っ白な肌が、少しだけ赤くなっている気がした。

 それから数分間、あたしたちはものも言わずに切り絵をした。

 別に綺麗に折れなくても、まっすぐ線が引けなくとも気にせずに、ゆるくやっていると、やがて一つの作品が仕上がる。

 あたしはメアちゃんの目の前で、自分の作り上げた我が子を広げて見せた。

「できたー! さっきメアちゃんが作ってたお城ー」

 しかしメアちゃんは、あたしの作品を指差してゴミを見るような目つきになる。

「それのどこがお城なのよ。どこからどう見ても潰れたハンバーガーじゃない。題名をつけるなら『牛に謝れ』ね」

「失敬な! そういうメアちゃんのはどうなの」

 我が子を早速けなされたんだ、お手並み拝見といこうじゃない! とばかりに煽ってみると、メアちゃんはそこそこ自慢気に自分の作品を持ち上げて見せた。

「ほら、目に入れなさい。これが雪の結晶よ」

「えー、それって潰れかけのメロンパンでしょ。題名は『できそこない』」

「ちょっと、私の題名だけメロンパン関係なくただの罵倒じゃない! ふん、どうせ大雑把で適当なあんたには、この高尚な芸術性が理解できないのよ」

「それを芸術と呼んでいいなら、あたしのは文化財になってるけどね」

 別に気合を入れて作ったわけでもないのに、こう張り合うと結構ヒートアップするものみたいだ。あたしたちは結構真剣になって、お互いの作品を貶し合い、押し付け合う。

 そうやって押し合いへし合いしているあいだに、どちらかの背中が机に当たったんだろう。

 ……ガチャン。

 机の下で嫌な音が鳴った。

 すぐに現場の方を見やると、空のカップが割れて、床に破片が飛び散っていた。

 冷や水を浴びせたように冷静になって、すぐにあたしは謝る。

「あっ、ごめん。……ほんとに、ごめんなさい。ちょっと熱くなっちゃった、このカップ弁償するね」

 おずおずと申し出ると、メアちゃんは顔を軽く伏せて首を振った。

「いいえ、こればかりは私の過失もあるわ。それにこんな安物のカップ、弁償してもらっても困るわよ」

 彼女にしては珍しく、悔しそうというか恥ずかしそうな様子で立ち上がると、部屋の入口のドアへと向かう。

「私はちょっと、掃除道具を持ってくるわ。あんたは一応客人なのだから、そこでくつろいでいなさいな」

「そんな。よかったら手伝うけど」

「他人に自分の家をウロウロされたくないって気持ち、わからない?」

 冷たく突っぱねて、メアちゃんは出ていった。

「そうだ、危ないからカップの破片に触らないようにね」

 それだけ言い残して。

 まったくあたしをいくつだと思ってるんだろう、メアちゃんは。

 扉が閉められると、急に部屋が静かになった。

 くつろいでと言われたけど、今さら切り絵を再開する気にはならない。それにこのままソファーに座っていると、カップの破片を踏んで怪我をしてしまうかも。

 あたしは立ち上がって、とりあえずもう一度収納棚を眺めてみることにした。

 だって、とってもあたしの趣味にあってかわいいから!

 棚の上の小さな人形やぬいぐるみたちは、布の身体とボタンの目なのに、一体一体すごくエネルギッシュで愛くるしい。よく見たら、左端の人形はフェルトでできたトランペットを持っている。その隣の犬のぬいぐるみは、フェルトのバイオリンを構えていた。

 あ、もしかして!

 順繰りに見てみると、人形と動物たちは、みんななにかしらの楽器を持ち寄っていた。なんということだろう、彼らはオーケストラだったんだ。

 あたしはこういう、なにかしらのストーリー性を感じさせるおもちゃが昔から大好きだから、このもふもふしたオーケストラたちを見ているだけで頬が緩んでくる。

 えへへ……やっぱしかわゆいな、棚の上の、小さな小さな楽団たち。

 そう、小さな、小さな……。

 小さな……………………?

 なにかを理解しきる前に、全身を凄まじい悪寒が襲った。

 まるでいきなり外に放り出されたかのように、冷たい感覚が全身を包む。

 足の震えが止まらない。

 ……なんてことだろう。

 あたしは気が付いてしまった。

 この部屋に隠された、恐るべき真実に。

 息を整え、早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、あたしはゆっくりと部屋じゅうを見渡す。

 一周、二周、そうやって何回も確認して、あたしは確信した。

 やっぱりだ。

 この部屋には、〝大きな物〟が、一つもない。

 メアちゃんは、あたしの前にいる時も、そうでない時も、いつもなにかしら大きな物を抱えていた。

 大きなラジカセ、大きな広辞苑、大きな三角定規、大きなリュックサック……。

 それはひとえに彼女が大きいものを愛でる「ビッグ・マニア」であり、そこに安らぎを感じているからだ。

 でも、この部屋はどうだろう?

 彼女が自分の部屋だと主張する、この空間は。

 かわいい小物はあっても、あたしが今まで見てきたような、ある意味いびつな物はどこにもない。かわいらしい家具はあっても、ラジオや広辞苑は見当たらない。

 もしあたしがメアちゃんで、与えられたのがこの部屋だったら、きっとこう言うだろう。

「趣味の悪い部屋ね」と。

 要するに、ここがメアちゃんの部屋ということはありえない。

 なら、ここは誰の部屋?

 そう考えら、候補はもうひとりしかいない。

 ここはきっと、メアちゃんの妹ちゃん、結城空ちゃんの部屋なんだ。

 でも空ちゃんはいまどこに……?

 そこで目に入ったのは、さっきのクローゼットだった。

 あそこを見るのは、さっきメアちゃんに妨害された。だからこそきっと、全ての答えがそこにある。

 汗をかきながら、ゆっくりと、クローゼットに近付いていく。

 まだ一階にいるメアちゃんに足音が聞こえないように、抜き足差し足で。

 そうやって十分に近付いてから、あたしはクローゼットの取っ手を掴むと、全力を込めて一気に引き開けた。

 ……引き戸の奥の暗闇が、部屋の明かりに照らし出されると、その中身がはっきりと姿を現す。

 それは、端的に言えば、ゴミ袋だった。

 開け放たれたクローゼット内の広めの空間に、パンパンに膨れた大きなゴミ袋が二つ、横に並べられて置かれている。あまりに中身が多すぎるのか、それらは口も閉じられず、またなんの支えもなく自立していた。

 少しだけ近付いて、あたしは開いたままのゴミ袋の口の中をのぞき込む。

 ……そして、

「きゃぁぁぁぁぁっっ!!!」

 叫び声を上げた。

 そのゴミ袋の中身は、異状だった。

 まず一つ目の袋には、中に大量の人形や、女の子らしいおもちゃ、化粧品、文房具、アクセサリーなどが無造作に放り込まれていた。

 そしてもう一つには、最近流行っているフリル付きの上着や、スカート、ズボンなどの服がクシャクシャに詰め込まれていた。

 そこには、生々しい人間の気配があった。

 ゴミ袋には、誰かの人生そのものが、丸ごと捨てられていた。

 人形も、おもちゃも、文房具も、服も、なにもかも、全て真新しいものばかりだ。ゴミになるようなものは一つだって見当たらない。想像してみて欲しい、新品のものが大量に捨てられて、投棄されているところを。きっと背筋が凍りつくほど、ぞっとするだろうから。

 あたしは足元から崩れ落ちた。

 生まれて始めて、腰が抜けたという感覚を味わった。

 クローゼットの中身から目をそらしたくても、そらせない。

 考えてはいけない発想を、抑え込むことができない。

 たどり着いてはいけない真実から、離れられない。

 そうだ。

 妹ちゃんは、確かにこの家に、この部屋の中に住んでいた。

 メアちゃんも彩子さんも、「妹はいない」と言っていたけど、絶対にいたはずなんだ。

 だから彼女の私物がこの部屋にはある。

 でもそれはこの通り、ある日を境に、〝いらなくなった〟。

 彼女は、空ちゃんはきっと。

 このゴミ袋の中身みたいに……。

 ドンドン、という大きな音が、階段の方から鳴り響いた。そしてすぐに、背後のドアが開かれる。

「どうしたのよ! さっきあんたの悲鳴が……」

 メアちゃんの目線が、クローゼットの前で腰を抜かしているあたしにぴったりと合った。

 そしてその視線は、間もなく露わになったゴミ袋の方に移って止まる。

「ふーん、そういうこと」

 彼女はたった一言、そうつぶやいた。

 あたしは震えながら、勝手に納得した様子のメアちゃんに尋ねる。

「勝手に開けちゃってごめん、でもメアちゃん……これはなに?」

「そうねぇ、逆に質問させてもらうけど、なんだと思う?」

 あたしは呼吸困難になりそうなのに、メアちゃんは平然とそんな風に返してきた。

 ぞっとした。

 だからあたしも、思ったことを口に出すしかなかった。

「これ、妹ちゃんの私物でしょ。この人形のセットや、フリフリの服、絶対メアちゃんのものじゃない」

「昔は好きだったのよ」

 その言い訳は、あまりにも無理筋だった。

 今度は語気を強めて、あたしは彼女に問い詰める。

「嘘だ、嘘だよ。だってこの服、デザインは新しいし、サイズ感だって、ぴったりくらいなのに。それに……」

「もういいわ」

 信じられないほど冷たい声色で、メアちゃんが話を打ち切った。

 その温度にあたしの意思は完全に凍てついて、なにも言えなくなる。

 そしてその場は、しばらく恐ろしい無の時間が流れた。

 やがて、

 なにを言われるのかと身構えていたら、

「おめでとう。あんたはついに、妹の場所を見つけたのね」

 まるで居間でくつろいでいるかのように穏やかな表情で、メアちゃんはあたしを称える言葉を投げた。

 ――ぱちぱちぱち。

 今度は軽く拍手までしながら、メアちゃんがこちらに歩み寄ってくる。

「せっかく妹にたどり着いてくれたんだから、あんたへの『依頼』もこれで終了ね」

「さっきから、どういう意味だかよくわからないよ!」

 叫んでも、返答はない。

 たどり着いたってなに?

 依頼が終わりって、どういうこと?

 でも、一つだけ、心当たりがあった。

 もしかしてメアちゃんの言う「妹を見つけた」っていうのは……あたしが「もう妹がいない」という真実を、見つけ出したってこと……?

 だから、十二月一日にあたしがされた、妹に関する依頼も、終わりってことなの?

 反射的に、あたしは後ずさりして、なんとか近付いてくるメアちゃんと距離を取ろうとする。でも腰が抜けてしまっているので、全然動けない。

「ゆめ、」

 その一言で、足の動きが完全に止まった。

 蛇に睨まれた蛙のように、あたしに向けられたまなざしから逃れられない。

 メアちゃんの目は虚ろだった。

 まるであたしではなくて、別のなにかを捉えているような……。

 殺して、口を封じる算段でも、考えているかのような……。

 そうしてついにメアちゃんは、あたしとの間に開いた距離を完全に埋めてしまった。

 メアちゃんは膝をついて、正面から顔を近づける。

「ねぇゆめ、今日のデートは楽しかった?」

 突拍子もない質問だったけれど、下手な答えをすれば、今すぐにでも殺されてしまいそうな気がした。

 だから正直に答える。

「う、うん……楽しかったよ」

「あたしもよ、今日はとっても楽しかったわ。……本当に、あんたと付き合ってあげてもいいと思ったくらいにね」

 ドキッとした。

 甘やかな言葉は、よく研がれたナイフのように、心の奥深くに突き刺さる。

 つくづく思い知る。 

 こんなに疑っているのに、こんなに恐れているのに、あたしはまだ、彼女のことが好きなんだ。

 自分の感情と不信感に板挟みになってなにも言えないあたしに、メアちゃんはさらに体を寄せる。

 そしてそのままゆっくりと、メアちゃんは両腕を背中に回し、優しくあたしを抱きしめた。

「好きよ、ゆめ。この小さな体も、その勇気ある精神も、みーんな」

 彼女の柔らかな体と、温度が、ゼロ距離よりももっと近いところにあった。少しでも腕や足を動かすと、メアちゃんの肉体のどこかにぶつかって、押し返される感触があった。

 いつか、図書室の前で軽くハグされた時とはまったく別物だ。

 溶け合って、境界線がなくなるような、危険な愛情表現。

 メアちゃんの花のような甘い匂いが漂ってきて、脳みそが焼き切れそうになる。

 耳元でまた、甘い甘い言葉が紡がれた。

「ゆめ、あんたの全てを、私にくれないかしら? 未来も、目標も、その意思さえも」

 そしてメアちゃんは、あたしの耳に口づけするようにして、歌うように囁いた。

「……そうしてくれたら、私のすべてをあげるから」

 もうなにも考えられない。

 メアちゃんという存在に押しつぶされて、神経が麻痺していく。

 このままじゃ駄目だってことは、なんとなくわかってる。

 でも、これがもし危険な幻なのだとしても、辛くて恐ろしい現実よりはずっとましかもしれない。それに、百回も告白して届かなかった存在が、今は文字通り手の中にあるんだ。

 いいんだ、ずっとこのままで。

「メアちゃん……あたしもね……」

 言いかけた時に、急に手の平に痛みが走った。

 メアちゃんの体ごしに手元を見てみると、なんと手の平から出血している。

 どうやらさっき割れたカップの破片の一部が手元のあたりにあって、それで切ってしまったみたいだ。

 不思議と最初の方は、痛みは少なかった。出血を見ても、どこか他人事のような感じがした。

 でも痛みはじんじんと強くなっていき、やがてはとても無視できないほどになっていく。

 痛い。

 すっごく痛い。

 その圧倒的な肉体的感触が、あたしにかけられた麻酔をどんどん覚ましていく。

 夜中にはっと目覚めるように、一瞬にして理性が戻ってきた。

「嫌だ! こんなの、望んでない!」

 叫びながら、メアちゃんの腕を振りほどく。

 萎えた足腰に鞭打って、よろめきながらも立ち上がると、あたしは正面のドアへと突進する。

 ちらりと後ろを見ると、壁際で、面食らった様子のメアちゃんがいた。でも、そんな様子に心はもう動かない。

 あたしは全力で階段を降り、玄関の外へと逃げ出した。

 外は真っ暗だったけど、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、やっと頭がスッキリした。

 本当に危なかった。

 でも、まだ信じられない。だってメアちゃんが、妹ちゃんを……。

 そこで忘れていたことを思い出す。

 恐る恐る振り返ると、そこには「結城」と書かれた表札あった。そしてその下に、長方形の木板が取り付けられてる。

 この家から出たら確認しようって、入る時に決意した、例の家族全員の名前が入った板だ。

 お家でのデートはめちゃくちゃになったけれど、これだけは、せめて果たさなくちゃいけない。

 この目で、真相を確かめないと。

 あたしは玄関の向こうから物音がしないかと怯えながらも、その板の表面に書かれた文字を覗き込んだ。


『結城家』


 ・結城 剛志

 ・結城 彩子

 

 ・結城 芽亜里

 


 ……そこに、結城空の名前はなかった。

 まるで最初からいなかったみたいに。

 プレートを張り替えたのか、それとも妹が消えてからこれが作られたのかはわからない。

 とにかく、もう見ていられなかった。


 その後、あたしは家まで一目散に走って逃げた。

 そしてそのあいだ、一回も振り返らなかった。



[Ⅲ-夜①]夜の情報提供者→ゆめっち(自分好き)


 自分の部屋でひとり震えていた。

 メアちゃんの家を出てからの記憶は曖昧だった。

 帰ってきたら、ご飯は食べたのか、お風呂には入ったのか、パパやママと行き会ったのか、なにも覚えていない。

 時計を見ると、もう夜中だった。

 今日は遠出したりして疲れているはずなのに、眠気はまったくない。その代わりに、冷たい恐怖と疑問だけが胸の中に渦巻いている。

 そんな中、目に入ったのは、部屋の中央に置かれた鏡台だった。

 ……そうだ、あたしにはまだゆめっちがいる。

 そう思った瞬間に、わずかな希望の光が灯った気がした。

 すぐさまあたしは鏡台の前に座ると、いつものように儀式を始める。

 鏡に映ったあたしの姿は、ひどいものだった。

 あたしはそんな自分の姿を拝み倒すようにしながら、必死に唱えた。

「出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください……」

 言い慣れたフレーズを九回まで唱えた時、鏡の中から声がした。

『ゆめちゃん』

 これは、ゆめっちの声?

 驚いて顔を上げると、鏡の中のあたしの像の様子が明らかに変化していた。鏡の中のあたしは顔色がすっかり良くなり、笑顔まで浮かべている。

 あっけにとられて見ていると、彼女はついに喋りだした。

『ゆめっちは、ここにいるよ』

「本当に、ゆめっちなの?」

『そうだよ』

 こんなことは初めてだ。

 〝おまじない〟の言葉はまだ九回しか唱えていないし、それに翌朝にもなっていない。

 それなのにもう、ゆめっちが鏡の中に出てくるなんて。

 おかしい。

 〝おまじない〟のルールが、歪められている。

 でも、今のあたしにそんなことを気にしていられる余裕はなかった。

 早々にゆめっちが出てきてくれたのがむしろ嬉しくて、必死に彼女に向かって頼み込む。

「お願いゆめっち、あたしを助けてよ! この地獄みたいな今から、あたしを救い出して」

 ゆめっちはにっこりと笑う。

「どうやって?」

「どうやって……って、そんなのあたしが知りたいよ。最初はこんなことになるなんて思わなかった。ただ、メアちゃんの役に立てればって、それなのに……」

 言葉にするごとに、心がズキズキと傷んだ。

 傷つきながら、あたしは全てを吐き出そうとする。

「頑張って、調べて、でもそれでわかったのは最悪の真実ばっかりだった。メアちゃんも、その家族も、みんなおかしかった。あの家には、妹ちゃんの……結城空の、痕跡があるのに、みんな『いない』なんて言って、存在をなかったことにしてる」

 思い出されるのは、今までの調査の記憶。

 七宮女子高校、レコード屋、ハンバーガー屋、動物園、メアちゃんの家。

 断片的に蘇ってくる、その風景たち。

 こうして振り返ってみると、調査はきっと無駄じゃなかった。

 ただ単に、あたしが調査の結果を飲み込めないだけっだんだ。

 もうすでに、結論は出ている。

「本当は、薄々気が付いていたのかもしれない……でもあたしは『それ』を考えないようにしてた。でも、でもさ……あんなの見せられたらさ、そうやって考えるしかないじゃん!」

 あたしの頭の中に、メアちゃんとその家族が現れる。

 みんなにこにこ笑っている。

 しかし次の瞬間、妹ちゃんがゴミ袋に詰め込まれて、捨てられてしまった。

 そして彼女は表札から名前を消され、代わりに新しい「三人家族の」表札が玄関に貼られる。

 それはつまり……。

「メアちゃんが、妹を消したんだ……きっと」

 ついに言ってしまった。

 滑稽だ、あたしは。

 だって想い人のこんな恐ろしい事実に、自分でたどり着いてしまったんだから。

 だから今はただ慰めて欲しかった。

 まやかしの自分でもいいから、こんなに哀れなあたしを受け止めて欲しかった。

 でも、

『そうなんだー、それは大変だったね。……そんなことよりさ、この前、クラスの愛ちゃんが、好きなアイドルのブロマイドを失くしちゃって、家族総出でお家を大捜索したんだって。でも、どこを探してもなくてね……』

 ゆめっちはお気楽に、別の話を始めた。

 この娘はいったい、なにを言っているの? あたしがこんなに、助けを求めている時に。

 鏡の中のゆめっちは、さらに愉快そうに、続きを話す。

『それで、どうなったと思う? 実は……最初からそんなブロマイド買ってなかったんだって! 愛ちゃんはそのブロマイドが欲しすぎて、ずっとお店で眺めているあいだにもう持ってるって勘違いしちゃったらしいよ。つまり……あはっ、ずっと存在しないものをみんなで探していたんだよね。あははっ』

 笑っていた。

 小さな世間話で、笑っていた。

 あたしの気も知らないで! あんたは、あたしの癖にっ!

「黙れッ!!!」

 あたしは唸りながら、鏡を全力で殴りつける。

「ねぇ! そんな話どうでもいいでしょ? とにかく、ゆめっちなら、この状況をなんとかできるでしょ! あたしの、〝裏自分〟のあなたなら、できるでしょう? いつもみたいに上手くやって見せてよ! あたしとメアちゃんの関係を……もとに戻してよぉっ! あたしの代わりに、全部やってよぉぉっ!」

 殴りつけた鏡の破片のせいで、血が滲んでいた。涙が出そうだった。

 鏡にはヒビが入って、その中のゆめっちも何人にも分裂する。

 あたしは期待していた。鏡の中のあたしたちが「わかった」と太鼓判を押すのを。

 だって、ゆめっちは今までなんでもやってくれた。 

 あたしの、裏の自分として。

 だから今回も……って、期待してた。

 でも、返ってきたのは、そんな理想を粉々に砕くような、変わり果てたゆめっちの姿だった。

『あはははははははっ! あはっ、あはははははははぁ! ゆめちゃん、ついに言ったよね? 「あたしの代わりに、〝全部〟やってくれ」って。……わかったよ、やってあげる。ゆめちゃんはまだ、今日の〝おまじない〟を完遂していない。だからあと一回、ゆめっちに「出てきてください」って言ったら、助けてあげるよ!』

 そんな風に、鏡の中の何人ものゆめっちが、一斉に狂気的な笑い声を上げたんだ。

 うそ……こんな姿、一度も見たことない。

 あたしにしか聞こえない、ゆめっちたちの狂気の演説は続く。

『もう一度だけでいいから言って、ね? 「出てきてください」って。そうして、ゆめちゃんがあたしに全てを委ねたら、ゆめっちは…

…いいえ、〝あたし〟は完全に、ゆめちゃんになれる。〝おまじない〟から生み出された、〝裏自分〟ではなく。完全に、〝表〟の存在として……っ!』

 なにを、言ってるの? 

 あたしは必死に懇願する。

「そんな、どうして、ゆめっちはあたしの味方だよね? いつもあたしを助けてくれる、理想の……」

 しかし、ゆめっちたちがぎろりと睨みつけながら、それを遮る。

『うるさい……。そうやって、どれだけあたしに任せてきたの? 面倒なことを、本当ならできないことを、何回あたしにやらせてきたの? だから全部やってあげるって言ってるのに、どうして拒否するのかな?!?!?』

 全身に鳥肌が立った。

 底の見えない、真っ暗なほら穴をのぞくような感覚だった。圧倒的な恐怖が、形を持ってそこにあった。

 心臓が爆発しそうなくらいに跳ねて、あたしに警告する。

「これ以上、見てはいけない」と。

 あたしは震える手でベッドの上から毛布を剥ぎ取ると、鏡台を覆うように被せた。何度もずり落ちそうになる毛布を、必死に持ち上げて鏡を隠した。

 そうでもしないと、ゆめっちは止まらないとわかっていた。

 ……鏡が完全に覆われる直前に、ゆめっちがこんなことを言った。

『ゆめちゃん、これだけは覚えておいて。うかうかしていると、私はあなたに成り代わる。私はあなたの一部なのだから』

 鏡の全面が完全に毛布で見えなくなると、その「声」はぴたりと止んだ。

 それでもまだショックから抜けられず、その場にへたり込む。

 一つだけ、わかったことがあった。

 裏自分は、理想の自分なんかじゃない。どこか知らない場所から、おまじないによって召喚された、悪霊かなにかなんだ。

 その悪霊は、最初は理想の自分を演じて、油断させて、そして全てを任せっきりにした時に、〝表の自分〟として、完全に自分に成り代わってしまうのだろう。

 宿主を、鏡の中に残して。

 

 

 その晩あたしは、物言わぬ鏡を見つめたまま、一睡もできなかった。



[Ⅲ-昼①]昼の情報提供者→二年二組の生徒たち(噂好き)


〈十二月十八日 土曜日〉


 眠らずに朝を迎えたの初めてかもしれない。

 朝の日が差し込んできても、毛布に覆われた鏡にはなにも映らない。

 ベッドの上で、毛布もなしに耐えていた体は冷え切っているはずなのに、寒さはなかった。その代わりに、全身にべったりと、粘性の恐怖が貼り付いていた。

 部屋を出て居間へと出ると、両親に心配された。

 顔色が悪いんじゃない?

 今日は学校休むか?

 ぜんぶ余計なお世話だった。

 朝食を食べたあと、シンクに食器を入れるのが怖かった。だって自分の姿が、おぼろでも映ってしまうから。もう一度でも鏡を見たら、きっとあたしは魂を取られてしまうかもしれないんだ。

 朝食の後は、手早く準備だけをして家を出た。

 出掛けに、玄関口のハンガーに掛かったハチマキが目に入る。

 あんなもの、家に帰ったら捨ててしまおう。

 

 学校に到着し、自分のクラスの前にやってくると、隣のクラスの様子が変だった。

 授業前の教室はいつもきまって静かなのに、二組だけが、ざわざわと騒いでいる。

 なんとなく人恋しかったので、二組の入り口のそばに立って様子を見てみる。

 ……うん。どうやら誰かが倒れたとか、物が壊れたとか、そういう騒ぎじゃないみたい。

 ついでに、あたしは視線をメアちゃんの席へと向ける。

 廊下側二列目、前からは三番目のその席には、誰も座っていなかった。そこだけぽっかりと穴が開いたように、空間ができてしまってる。

 そっか、やっぱりメアちゃん来てないんだ。

 まぁ、あんなことがあった後で、平然と来られてもあたしが困る。

 さっさと立ち去ろうとすると、誰かが話す話し声の端っこが耳に入ってきた。

「……でさ、芽亜里ちゃんがね……」

 反射的に振り返る。

 どうして欠席しているメアちゃんの話なんかしてるんだろう。それとも、やっぱり学校には来ているとか。

 とにかく色々知りたいことがあった。

 あたしは耐えきれずに、メアちゃんのことを話していた二人組の方に近寄った。すぐに他クラスの人が物珍しそうに見てきたけど、そんなのどうでもいい。

 二人組の片方は知らない娘だったけど、もう片方には覚えがあった。結構前に情報提供をしてもらった陽子ちゃんだ。

 陽子ちゃんはこちらに気がつくと、気さくに手を挙げる。

「あ、ゆめっちおはよー。もうすぐ授業始まるけど、自分のクラスに戻らなくて大丈夫?」

 ゆめっち、という名前に一瞬びくっとしちゃう。それを口にされると、遠く引き離したはずの彼女が、一歩ずつ、背後に近付いてくような気がするんだ。

 なるべく裏自分のことは考えないようにして、尋ねる。

「メアちゃんがどうかしたの?」

 その名前を出した瞬間、陽子ちゃんが少し固まった。

「えっ」

「さっきまで、話してたでしょ。どうしたの?」

 強めに訊くと、陽子ちゃんは隣の子と顔を合わせる。そして「ちょっと話してくるね」と言伝てから、席を立ち上がった。

 目が合うと、陽子ちゃんは声のトーンを落として言う。

「あんまり気持ちのいい話じゃないかもしれないけど、いいかね?」

「別にいいよ」

 気になる言い方だったけど、別に気にならない。

 ここ最近は、いい話なんて聞いたためしがないんだから。

 「ゆめっちは一応他クラスだから」と、目立たない教室の端に移動してから、陽子ちゃんは続きを話してくれた。

「それがね、芽亜里ちゃんだけど、実は今日学校に来てるらしいんだよ」

「え、でもいないよね」

「教室には来てないよ、でも、見たって人がいるんだ」

「気のせいじゃない?」

「それが一人や二人じゃなくて、結構見かけたって人がいるんだよねぇ。すごい早朝から、ひとりでスコップ持ってグラウンドの近くを歩いてたんだって」

 にわかには信じられない話だった。

 たしかに大きなものをいつも持ち歩いているメアちゃんだけど、ちょっと想像ができない。

 さらに興味が湧いてきた。

「それで、メアちゃんはなにやってたの?」

「さあ? 流石にそこまでは……。でも、裏山の方に行ったって話は聞いたけどな」

 裏山の方? 

 たけのこでも掘りに出かけたんだろうか。冬ってシーズンじゃないはずだけど。

 そんな朗らかな予想とは対照的に、陽子ちゃんの視線は少し鋭くなった。

「そういえばさ、ゆめっちは聞いてる? 芽亜里ちゃんの双子の妹さんのこと」

 まさか、ここでもメアちゃんの妹の話が出るとは思わなかった。

 一気に暗い気持ちになって、気分もどんよりとしてくる。

「知ってるけど、誰から聞いたの?」

「誰って、期末テストの前だったかな、芽亜里ちゃん本人がちょくちょく話に出してたよ。休み中に妹とどこ行った、とか、ほんの少しだけ」

 どうやら陽子ちゃんは、あたしのように深くは関わってはいないらしい。

 だけど、妹ちゃんの話がいまいましいものであることに変わりない。

 あたしはついぶっきらぼうに言う。

「妹ちゃんと仲がいいのは、幸せな話なんじゃないかな」

 でも陽子ちゃんは、すぐに首を振った。

「これは芽亜里ちゃんのご近所さんが言ってた話だけど、芽亜里ちゃんの妹さん、いま行方不明なんだって」

 ……知っている。いや、正確には、たぶんそうなっているだろうなって予想はしていた。

 でもどうして、あたしのように本人たちから事情を聞いたわけでもない陽子ちゃんが知っているんだろうか。

 思わず陽子ちゃんに詰め寄る。

「その話、もう少し詳しく聞かせてよ」

「うん。……で、その妹さんって、午後六時とか七時とかの遅い時間によく散歩してたんだって。ご近所さんともその散歩の途中にお話したりして、性格のいい子だって評判だったらしいんだけど、近頃はめっきり見なくなったから心配してるって」

 そうか、ご近所さんが。

 やっぱり、メアちゃんの妹の空ちゃんは存在していて、ある日から失踪しちゃったんだ。それがあたしの、単なる推測にすぎないことを願ってはいたけど、現実だったらしい。

 でも、陽子ちゃんから聞いたご近所さんの証言のお陰で、今まで一回も姿を見られなかった結城空という人間の輪郭が少し見えたような気がした。

 あたしは刑事のように続きをせかす。 

「他に、メアちゃんの妹ちゃんについて知ってることとかってあるかな?」

「うーん、わたしも又聞きだから詳しくはないんだけど、芽亜里ちゃんとは双子だから見た目がそっくりらしい、とか、でも性格はおとなしくて気弱なほうだとか……それくらい」

 それくらい、か。謙遜だよ。

 あはは……笑えてきちゃう。

 思っていたよりも、みんなずっと知ってるんだ、メアちゃんのこと、メアちゃんの家族のこと。

 ずっと調べてたのが馬鹿になるくらい、たくさん。

 軽く自嘲しているうちに、目の前の陽子ちゃんが姿勢を変えた。

 少し前かがみになりながら、暗い顔で告げる。

「あのさ、こんなこと考えちゃダメだと思うけど。芽亜里ちゃんがスコップでやろうとしてたのってさ……」

 その次の言葉は、喧騒のなかでもはっきりと聞こえた。

「……死体を、埋めようと思ったんじゃない?」

 冗談じゃない。

 あたしは後ずさりして、二組の教室を出る。

 陽子の方も、あたしの方を不思議そうに一瞥してから、もとの友達の方に戻っていった。……笑顔で。

 しかし、あたしの耳にはまだ別の言葉が入ってくる。

 それは他の二組の生徒の声だった。

「芽亜里ってさ……」

 はっとして二組を見渡すと、至るところで似たような話がされているのに気がつく。

 二年二組は、「その話」でもちきりだった。

『芽亜里ってさ、妹を殺して裏山に埋めたんでしょー?』

『違うよ、妹を殺しに裏山に行ったんだよ』

『そういえば結城さんの家って、前から暴力あったって話だよ。夜中に騒ぐ声が聞こえたって聞いたし、その勢いでさ』

『ね、殺しちゃったんじゃないの?』

『そういえば聞いた? 芽亜里ちゃんのお母さん、頭がおかしくなって、夜逃げしちゃったんだって』

『うっそー、ていうかそれ絶対共犯でしょ』

『きっと一家全員で殺ったんだ』

『そうだ』

『そうだ』

『そうだ』

 それは異様な光景だった。

 まるで楽しい世間話でもするかのような楽しげな温度で、メアちゃんの噂話が公然とされている。

 そりゃ、あたしだってメアちゃんのことを疑っていることは確かだ。でもだからと言って、こんな風にみんなとお喋りしようとは思わない。

 みんな、異状だ。

 いや、もしかしたら、みんなを異状だと思っているあたしの方が異状なのか。

 頭痛がしてきて、あたしはすぐにその場から逃げ出した。

 もうあと五分ほどで一限が始まるけれど、それどころじゃなかった。

 あたしはただ、廊下をひたすらに走った。

 ある場所を目指して。

 

 校舎を出て、すぐにグラウンドの方に向かう。それはもちろん、例の高台に行くためだ。

 誰のことも信じられないのなら、自分の目で真相を確かめてやろうと思ったんだ。

 でもグラウンドの横を突っ切ろうとした時に、目の端にあるものが映り込む。それは運動に使う備品など入れられた小さな倉庫で、入り口の鉄扉が少し開いていた。

 嫌な予感がした。

 近付いて覗き込んでみると、カビ臭い倉庫の中はさまざまなものが詰め込まれて、足の踏み場もない状態だ。でも、壁際のある一角だけが、不自然に開けている。

 その壁には、横一列にフックが付いていて、大型のスコップやブラシ、雪かきなどが掛けられている。ただ、不自然な点があった。

 一番右側、『スコップ-1』とラベルが付けられたフックにだけ、なにも掛けられていないんだ。今はグラウンドを使っている生徒もいないし、備品の中でこれだけ必要になるとも考えにくい。

 つまり、誰かが勝手に持ち出した、と考えられる。

 それはきっと……。

 すぐに倉庫を後にして、あたしは足を急がせた。

 マラソン大会の時以上に全力で、グラウンドの横にある裏山の斜面を駆け上がる。

 十二月の山道はほんのり雪が積もっていたけれど、定間隔で置かれた丸太が階段のようになっていて、足を滑らせることはなかった。

 もちろん高台と言っても、それほど高い場所ではない。

 ちょっと登っただけで、目の前に開けたスペースが現れた。

 そう、ここが「高台」だ。

 広場には、木造で野趣あふれる小屋が一つと、その正面に丸太を組み合わせて作られたテーブルが置かれている。テーブルには切り株を利用した小さな椅子もあり、キャンプ場のような、自然と融合した空間になっている。

 七宮の女子のあいだで、「高台」と呼ばれているこの場所は、OBの人によって作られたらしい。それでも、小屋もテーブルもプロ並みの完成度で景色もいいから、休み時間にはここを訪れて休憩する人もそれなりにいるみたいだ。

 もちろん、今はあたし以外誰もいないけど。

 テーブルのあたりからグラウンドを見下ろすと、いつかメアちゃんが言っていた通り、眺めは素晴らしかった。

 俯瞰するとカタカナの「二」のようになっている校舎や、その隣の広いグラウンドがよく見える。高さはあまりないけれど、その分、校舎の横に掛けられた横断幕の文字や、窓の向こうで勉強する生徒たちの姿まで、はっきりと視認することもできる。

 スケールが大きくて、メアちゃんらしい場所だ。

 眼下の校舎横に見えるしょぼい見学スペースよりも、ここに来たくなる気持ちもわかる。

 わかるんだけど……やっぱりあたしには合わないみたいだ。

 人のいないこの場所は、あまりに静かすぎるから。

 なにをやったって、あの校舎の人は誰ひとりとして気が付かないに違いない。

 あたしは陽子の言葉を思い出した。

『……死体を、埋めようと思ったんじゃない?』

 決意は固まった。

 陽子ちゃんの言葉が本当なのかどうか確かめる、そのためだけにここにやって来たのだから。

 まずは周辺をくまなく見回してみる。

 小屋やテーブル付近に、違和感はない。

 次は小屋だ。

 木のドアを引いて中を覗くと、内側の空間は真っ暗だった。外見的には窓は付いているけど、屋根が長めに張り出しているせいで、ほとんど光が入らない構造になってしまってるみたい。さすがにこのあたりは素人仕事と言ったところかもしれない。

 暗闇の中で目を凝らし、つま先で床をこすって調べたけれど、中にはなにもなかった。まあ、こんなわかりやすい場所になにかを隠そうという人もいないかな。

 なかなか違和感というものは見つからない。

 そこで、あたしは発想を変えた。

 もし自分が人を殺して、このあたりに死体を隠そうと思いついたらどこに隠すんだろう?

 まず小屋の前の広場はだめだし、テーブルの下じゃ掘りにくい。ここより低い場所だとバレちゃいそうだし、かと言って標高が高すぎても大変そうだ。作業が手間どれは、それだけリスクも大きくなる。

 ……そうだ、あそこはどうかな?

 あたしは小屋の裏手へと回り込む。

 そこには冬でも背の高い雑草や植物がたくさん生えていて、うっそうとしていた。あたしはそんな植物たちをかき分けて、地面の様子をじっくりと見ていく。

 すると、

「見つけた……」

 思わず声が出た。

 じめっとした地面の中に、あきらかに土の感じが他とは違う場所があったんだ。

 他の場所とは違って土が少し盛り上がっているし、不自然に色味が変化して浮いちゃっている。

 これはきっと、一度土を掘って、きれいに埋め戻した跡だろう。でも、こんなふうに、表面をぱっと整えても、客観的に見れば違和感だらけだ。

 穴のサイズはどれくらいだろう?

 違和感があるのはマンホールくらいの大きさかな。まあ、もとはもっと大きかったかもしれないけど。

 どうやって掘り返してみようかと手を伸ばしたときだった。

 背後に誰かの気配がした。

 小屋の向こうから、ゆっくりと足音が近付いてくる。

 ギュッ、ギュッ、っと雪で覆われた柔らかな地面を踏みしめながら、彼女は現れた。

「最近はよく行き合うわね。それで、探しものは見つかった?」

 メアちゃんは、話の通り大きなスコップを持っていた。死神が獲物の鎌をそうするように、軽々と肩に担いで斜面を登って来たようだ。

 それは突然の登場だったけれど、あたしはまったく驚かなかった。なぜなら、あらかじめ予測していたことだから。

 こういう時に限って、いつも彼女は姿を現すのだから。

 息を吐くと、あたしは立ち上がってメアちゃんに向き直る。

「まだ見つかってないけど、もういい」

 ポケットに手を入れながらそう言うと、メアちゃんは好奇心旺盛な視線を向けた。

「それはまたどうして?」

 ……わかっているくせに。

 あたしはその右手に握られたスコップをちらりと見る。

「それを言ったら、そのスコップでどうにかされちゃうから……かな」

 メアちゃんは吹き出した。

「うふふっ、あんた今日はずいぶん面白いのね。でもまあ、そう思うなら今日は帰ったほうがいいと思うわ。……あたしは、聞き分けのよい娘が好きだから」

 冗談めかした言い方だったけど、あたしにはわかっていた。

 それが、警告だということに。

 彼女の冷たい目のおくにある感情を、理解しようとはもう思わない。

 だから言う。

「あたし、授業に戻るよ」

「ええ、お大事にね」

 大の親友同士がそうするように、手を振りあって別れる。

 メアちゃんがあたしを、見逃してくれたことに感謝しながら。

 ……今回だけ、は。



[Ⅲ-夜②]夜の情報提供者→つじ奈緒美なおみ(ファッション好き)


 

 高台でメアちゃんと話してから授業に戻ったあたしは、ずっと怯えていた。

 メアちゃんにも、ゆめっちにも、クラスメイトに対しても。

 だから放課後になって大多数の生徒が帰宅しても、あたしはこうして校門から出られずにいる。

 ゆめっち対策で、日が落ちるまで待ったのはいいものの、すぐ手前に雪解け水でできた巨大な水たまりがあるんだ。あれに顔が映って、また昨日のゆめっちが現れるかと思うと、もう一歩も踏み出せない。

 あたしはひとり、校門の柵に寄りかかっていることしかできなかった。

 自分の現状を思うと、笑いすらこみ上げてくる。

 ゆめっちに裏切られ、同級生たちのことは信用できず、メアちゃんに至っては殺人犯だと疑っている。

 信用できる人はもう誰もいない。誰も頼れない。

 残ったのは、命を狙われる恐怖だけ。

 これが〝おまじない〟に頼った罰と言うのなら、重すぎやしないだろうか。

 真っ暗な空が、もっと黒くなって、そのままあたしごと全てを塗りつぶしてくれるのを待っていた。そんな時、

 前から一人の女子生徒が、こんな時間に学校に向かって歩いてきた。

 メアちゃんと張り合うくらい身長があり、その上完璧なプロポーションを持つ彼女の名前は辻奈緒美ちゃん。

 嘘みたいに小さい顔と、ワンレンヘアーな長い茶髪をなびかせる彼女のことを、あたしはよく知っていた。

 奈緒美ちゃんはメアちゃんと同じ二年二組所属で、学年のファッションリーダー的存在だ。今晩はあいにくと制服姿だけど、私服姿を見た友人いわく「ハマトラからプレッピーまで全部完璧」らしい。とにかくすごい。

 二組の中で唯一、メアちゃん以上に目立っている奈緒美ちゃんが、まさかこんな時に現れるとは予想もしていなかったから、あたしはすぐに顔をそらして空気になろうとした。

 けれどすれ違いざま、うっかり目があってしまったんだ。

 奈緒美ちゃんのようなタイプはみんなそうなのか知らないけど、すぐに眩しい笑顔で挨拶してくる。

「こんばんは~!」

「…………。」

 とっさに言葉がでなかったのに、奈緒美ちゃんは構わず挨拶を続ける。

「あなたって、一組の生徒でしょう? 最近うちのクラスによく来るから、顔を覚えちゃった。一方的に、だけどね」

「それは、ありがとうございます」

「よかったら名前、教えてくれる? ちなみに私は辻奈緒美でっす、よろぴく」

「あたしは……ゆめです。高崎ゆめ」

「よろねーっ」

 そう言って勢いよく差し出された手を断るわけにもいかず、気まずい気分でぶんぶんと握手をする。

 近くで見るとやっぱりすごい美人だ。メアちゃんが月のような美人だとすると、奈緒美ちゃんはまさに太陽のような美少女と言えるだろう。

 でも、いくら太陽と言っても、まさか校門で行き会っただけの人に馴れ馴れしくしてくるわけがない。

 とにかく訊いてみる。

「あたしになにか用がある……みたいだけど」

「にはは、お見通しって感じっすね。でも、ナンパってわけじゃないよ、忘れ物を取りに来ただけ」

 元気よく受け答えをしてから、奈緒美ちゃんは急にあたしの顔を覗き込んできた。

「でも、ここで出会っちゃったからさ」

「えっ……」

「私と同じ顔をした人に……ゆめちゃんに、ようやく出会えたことが嬉しくて、話しかけちゃったんだ!」

 それはまさに突拍子もない話だった。

「同じ顔って、そんな。あたしは奈緒美ちゃんみたいに可愛くないし、ファッションのセンスもないし……」

「違うよ、そういうんじゃないの。同じだと思ったのは、表情だよ。私もさ、最近は今のゆめちゃんみたいに、暗い顔で落ち込んじゃうことがあるんだ~」

 その言葉には、なにか惹かれるものがあった。

 彼女と同じように、あたしもまた、自分と似通ったものを感じているのかもしれない。

「どうしたんですか」

「ちょっと嘘みたいな話になっちゃうけど、大丈夫かな」

「もちろんだよ」

 頷くと、奈緒美ちゃんはさっきまでの元気七割減という感じの顔で切り出した。

「実はね、悩んでるのは私のクラスメイトたちのことについてなんだよ」

「クラスメイト……っていうと、二年二組の人たち?」

「うん、あ、先に言っとくと二組のみんなのことは大好きだよ。明るいし、話のノリもいいしさ」

 ずいぶん言い訳気味に前置きしてから、言いにくそうに口を開く。

「でも二年生になってから、みんなの様子がおかしいなって感じることが増えたの。一年生の時はみんな、朝見たテレビ番組とか、ドラマとか、恋の話とかで盛り上がってたのに、二年生になったら変わっちゃって」

 ……まさか。

 息をのんで、続きを促す。

「それ、もうちょっと教えて」

「さんきゅ。……で、二年生に上がってからのみんなは、変な話ばっかするようになっちゃったの。例えば、知り合いの怪しいゴシップとか、どう考えても嘘だってわかる適当な作り話とか、妙な〝おまじない〟の話とかね」

 奈緒美ちゃんは、そこで一度あたりを見回す。まるで、誰かを警戒しているような素振りだ。

 そしてそんな姿は、最近のあたしにそっくりだった。

 背後に誰もいないのを確認してから、奈緒美ちゃんは続ける。

「まだ、それだけなら良かった。でもさ、ゆめちゃんなら知ってるでしょ? うちのクラスのみんなが、えーと、芽亜里ちゃんのことを噂しだしたの。そうやって大事なクラスメイトの家庭環境とか、事情とか、勝手に予想して、あることないこと言ってるの見たらさ、もうたまらなくなっちゃって」

 切なそうに言って、奈緒美ちゃんは目を伏せた。

 そうだったんだ。

 さっき、「同じ顔をしている」と言っていた意味がわかった。

 奈緒美ちゃんも同じだったんだ。

 そう思うと、今まで抑え込んでいた感情が溢れてくる。

「……一緒だよ」

「えっ?」

「奈緒美ちゃんと、一緒なの。あたしも……ずっと……」

 涙がこぼれていた。

 怖かった。

 腹立たしかった。

 悲しかった。 

 でもそれ以上に、自分と同じ感情を持っている人が現れてくれたことが嬉しかった。

 奈緒美ちゃんは突然泣き出したあたしを見ておろおろする。

「えぁっ、ゆめちゃん、泣いてるの?」

「あ、たしも……あたしも、ずうっとそう思ってたの……。大好きだった人たちがみんなおかしく見えて、限界だった……っ! もうずっと限界だったんだ」

 奈緒美ちゃんに懺悔するように、あたしは崩れ落ちる。

「奈緒美ちゃん、あたしの方にもね、嘘みたいな話があるの……」

 泣きながら顔を上げる、

 すると奈緒美ちゃんは腰を折って目線を合わせると、あたしの右肩に軽く手を置いた。

「なんでも聞くから、なんでも話してみて。泣かないでさ」

「う、……うん。ごめん」

「ゆっくりでいいよ」

 思いやりに感謝しながら、なにもかも打ち明ける。

「あたしも最近、あたしの大好きな人のことをね、信じられなくなっちゃたの。彼女のことを知れば知るほど、疑うようになっちゃたの。そりゃ、さっき奈緒美ちゃんが言ってた、二組の人の趣味の悪い噂話には、あたしだって怒ってる。『彼女はそんな娘じゃない!』って、思い切り言ってやりたいくらい、はらわたが煮えくり返る思いだよ! ……でもさ、」

 そこでまた思いが溢れてくる。

 熱い涙が、頬を伝って地面に落ちる。

「……でもさ、実はあたし自身が、心の奥ではそう思ってるんだ。メアちゃんのクラスメイトの話が本当だって、信じちゃってるんだよ。だって、最初にメアちゃんのことを疑ったのはあたしなんだもん!」

 そこから、なにかまた後悔の言葉が出ようとする。

 しかし嗚咽してしまって、続きが出てこない。

 奈緒美はそんなあたしの背中を優しくなでた。

「やっぱり、ゆめちゃんも私と同じ気持ちだったんだね。人を信じられなくなって、それが恐ろしくて、自分が嫌で、涙をこらえるしかなかったんだね」

「……うん」

 頷くあたしを、奈緒美ちゃんは優しく見つめていた。

 腰を低くしてもまだずっとあたしより高いところにある目線は、メアちゃんを思い出させる。

 しばらく向き合ったままで、あたしが落ち着いてくるのを待ってから、奈緒美ちゃんはまた勇気づけるように肩を叩いた。

「ゆめちゃん、正直、私よりもゆめちゃんの抱えてる事情の方が、深刻だと思った。私はここで思っていることを共有できただけで、また明日を生きていける。でも、きっとゆめちゃんは、その心の重しが取れない限りは、苦しみ続けちゃうんだと思う」

 自分も辛いだろうに、奈緒美ちゃんは笑顔をくれた。

 そして、強い意思のこもった熱いまなざしで言う。

「……だから、これから戦わなくちゃいけないゆめちゃんに、ひとつ〝おまじない〟を教えてあげる」

 そのフレーズに心臓が跳ねる。

「それって〝鏡の……」

「アハハ、違う違う。そんなものよりも、もっと簡単で、大した事のないやつだよ」

 やんわりと否定してから、教えてくれる。

「私の〝おまじない〟っていうのはね、『信用できるもの、じゃなくて、信じたいものを信じること』それだけだよ。何人の人が言ってるから、とか、有名な人がそう断言したから、とか関係ない。ゆめちゃんの信じたい人の言葉の中に、真実はきっとあるんだよ」

 温かい言葉だった。

 でも、心が擦れ切れたあたしには、それはあまりにうかつで、綺麗事にも聞こえてしまう。

「本当にそれで大丈夫なのかな? こんなあたしが信じるものに、真実なんてあるのかなぁ……」

 つくづく自分が嫌になる。

 大した接点もない、行きずりの奈緒美ちゃんにこんな良くしてもらって、まだ素直に受け入れられない自分が。

 だけどそんなもやもやとした感情を、奈緒美ちゃんは笑い飛ばす。

「大丈夫さ! 私はこのやり方でみんな上手くいったから。……その証拠に、私は自分を信じて、あんまり面識がなかったゆめちゃんに悩みを打ち明けた。そしてその結果は大成功! ゆめちゃんはやっぱり私の気持ちをわかってくれて、『私がおかしいわけじゃなかったんだ』って、勇気をもらえた」

 はっきり言って、それは無茶な理屈だったと思う。

 だけど奈緒美ちゃんの言葉は、今まで聞いてきたどんな言葉よりも説得力があった。

 そしてそう感じた理由にも、あたしはとっくに気が付いている。

 それは今あたし自身が、二組の人たちよりも、誰よりも、奈緒美ちゃんのことを「信じたい」と思っているから。

 それがわかった瞬間に、わたしの意識が、世界が、はっきりとしてきた気がした。

 偽物みたいだった現実が、どんどん形を取り戻していく。

 まるで、鏡の世界からやっと抜け出せたかのように。

 あたしは最後の力を振り絞って、きついけど立ち上がる。

 そしてちゃんと正面を向いて、奈緒美ちゃんに頭を下げた。

「ありがとう、目を覚まさせてくれて。そもそも、不器用で、回転が鈍くて、ダメでダメなこの高崎ゆめが、熟年刑事みたいに深刻に考えてたのが馬鹿だったんだ! 信じたいものを信じて、好きな人を好きになって、それくらいがちょうどいいんだ!」

 大きく深呼吸して、あたしは奈緒美ちゃんに向き直る。

「まずはさっさと家に帰って、お風呂入って、それから色々整理してみるよ」

「にはは、もう大丈夫みたいだね? ゆめちゃん」

「うん……でも、一つだけいい?」

 沈みゆく太陽の方に向かって、胸を張って言う。

「あたしのことは、ゆめっちって呼んでほしいかな」

 まだなにもわからないけど、

 自分が正しいって確証もないけど、

 とにかく走って、それから考えろ。


 あたしが、なにを信じてみたいのか。

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