【Ⅱ】上から見下ろす私
【Ⅱ】上から見下ろす私
[Ⅱ-昼①]昼の情報提供者→関根佳苗(流行り好き)
〈十二月四日 土曜日〉
今日の土曜授業は、一限が体育で、二限が数学だ。
あたしはこういう日のことを「差し引きゼロの日」と呼んでいる。
まず土曜日に学校に来なければいけないので、マイナス。次に土曜授業は半日授業と早く終わるので、プラス。さらに一時間目が大好きな体育なので、プラス。でも二限が苦手な数学なので、マイナス。
ゆえに差し引きゼロ。
つまり、結局何が言いたいのかと言うと、あたしは体育が大好きということだ。
何をやっても上手くいかないあたしが、唯一人並み以上にできるのが体育だった。だから中学校のときには陸上部に所属していたし、長距離の選手でもあった。
走り込みのやりすぎで少々足の腱を痛めてしまったことがトラウマになって、高校では陸上を続けなかったけれど、それでも自分の運動神経には自信があった。
いま、あたしは一限が始まる三十分も前から教室に登校してきて、着替えをしていた。
二年生のこの時期、体育の授業内容はマラソンだ。だからこそ、あたしは体育の日には誰よりも早く学校に来て、ジャージに着替え、グラウンドで軽くアップをしてから授業に入るのが習慣になっている。
まだ早い時間なので、これからしばらくは一人の時間が続く。
そう思っていた。
突然、教室の入口のドアが開いて、中から見知った顔が現れたんだ。
その娘は、七宮女子高校が生んだ奇跡にして、二年二組のマドンナにして、とにかく大きな物に目がないビッグ・マニア……こと、勇気芽亜里ちゃんその人だった。
その姿に、すぐにゆめっちが声を上げる。
「あ、おはよー! 今日も良いもの持ってるね」
メアちゃんの手には巨大な三角定規が握られていた。そういえばいつも思うけど、ああいうアイテムはどこから入手しているんだろう?
三角定規とあたしの姿を見比べながら、メアちゃんはずんずんとこちらに歩み寄ってくる。
「大きいものを持っていると調子が良いのよ。だからあんたのようなおチビさんを視界に入れていたら、逆に体調が悪くなるかもしれないわね」
「そんなこと言って、ゆめっちに会いに来たんでしょ」
さすがはゆめっち、いつも通りの上手な返しだ。
メアちゃんも気をよくしたようで、三角定規の持ち手に人差し指を入れてクルクルと回しながら、あたしの机の上に座った。
もちろん、その上に畳んで置いていたあたしの制服の上に腰掛ける形で。
「あんた、やっぱり変わったわね」
「ステキな人になった?」
あーあ、はいはい。どうせゆめっちはあたしより素敵な人間ですよ……。
と、会話の先を予想して勝手に絶望していたのに、メアちゃんから返ってきたのは意外な返答だった。
「それは意見が分かれるところね。ハチマキなんて巻いて、髪型も変えて、個性的になったあんたは、たしかに以前よりも魅力的に見えるでしょうね。でもね、ある意味で、それが私には気に入らないのよ」
自分へのディスとも取れる内容に、ゆめっちが前のめりになる。
「どういう意味なのか、ゆめっちにはよくわからないよ」
「あらそう? ま、どうせ今朝の体育も私は見学だから、暇つぶしがてら話してあげてもいいわね」
そう言うとメアちゃんは、にやり、と笑った。
本人が言う通り、メアちゃんは一組と二組が合同で行う体育の授業をずっと見学している。いつか理由を聞いたことがあるけど、「体育って野蛮じゃない?」とのことらしい。
とにかく、メアちゃんは喘息持ちという体質を盾に、一年生の頃からずっと体育を休んでいる。そしていつからか、メアちゃんは「見学の女王」とまで呼ばれるようになったとか、ならないとか……。
そんな女王様は、光栄にもそのお暇を過ごす相手にあたしを選んでくれたらしい。
息をすってから、メアちゃんが話を切り出す。
「『通学区域制度』って、聞いたことあるかしら」
「知ってるよ! 通学区内の学校に進学しなきゃいけないって制度でしょ?」
「よくできました。そうね、もっと詳しく言うなら、住んでいる住所によって行ける学校があらかじめ決められている、っていう仕組みね。例えば、私やあんたの家がある県南地区からは、この七宮女子高校には通うことができる。通学区内なのだから、これは当たり前よね」
メアちゃんはあたしの目を見つめた。
「ここで問題、私たちがもし県北地域にある『北総高校』に進学したいって思ったら、できるかしら?」
「無理だよ、だって通学区外じゃん」
「その通り。どんなに成績が良くても、悪くても、私たちは自由に進学先を決めることができないの。いくらか選択権があるとは言っても、所詮それは通学区域という、限れたメニューの中から選べるだけの、偽物の自由。これって、悪いことばかり生んでいるとは思わない?」
「そうかなぁ? ゆめっちはメアちゃんに出会えただけで、幸せ者だと思ってるけど」
それ聞いて、ほんの一瞬だけ、メアちゃんが意外そうに眉を吊り上げたのをあたしは見た。どうやらゆめっちの言葉が少なからず心に響いたらしい。
本当に、さらっとこういうことが言えるのがすごさだよ。
メアちゃんの方は、一旦仕切り直し、とばかりに軽く机を叩いてから、また話を続ける。
「とにかく、頭がおめでたいあんたはそれで良いかもしれないわね。でももし、あんたの家の隣に超超天才少女が住んでいたら、その娘は通学区域制度によって不幸な運命を辿るでしょうね」
「いやでも、あたしの隣に住んでるの土建のおじさ――」
ゆめっちが言いかけたところで、柔らかいものが唇に当たった。
メアちゃんがあたしの口を、人差し指で「シー」っというように塞いだんだ。
「実際にそんな人が住んでいるかどうかはどうでも良いのよ。とにかく、あんたのお隣さんの超超天才児ちゃんは、高校は県内でもトップオブトップの『北総高校』に進学したいと思うでしょうね。……でもそれはできない、だって通学区域の外ですもの」
「確かに悲劇かも……」
なるほどなぁ、だからさっきの例えに北総高校を出したのか。
しかしそこであたしは、場違いにもあることに気がついてしまった。
さっきから妙にスースーすると思ったら、制服を脱いだところで、完全にゆめっちの着替える手が止まっているじゃない!
メアちゃんの話に夢中になる気持ちはよーくわかるけど、あたしは心を鬼にして叫ぶ。
『おーいゆめっち、さすがに着替えかけの下着一丁は寒いよ! 話しながらでいいから手を動かしてよー!』
でも、切実な祈りは届かなかったみたいだ。
ゆめっちは上下下着一丁という男らしい装備のまま、いたく感動した様子で何度も頷いる。
「メアちゃんの言うとおりだね。高校は自分に合った進学先を決められるのがいいのに、通学区があると微妙に行きたいところに行けないよね」
「やっぱりあんた、物分りが良くなったわね。えらいえらい」
聞き分けのいいゆめっちに、メアちゃんが頭を撫でてくれる。
……いや、うん。正直服を着せてから撫でて欲しいけど、一応とっても幸せだ。
ゆめっちにも一刻も早くジャージを着て欲しいけど、結構幸せだ。
複雑な心境になるあたしを差し置いて、メアちゃんはメアちゃんでエンジンがかかってきた様子だ。机に座ってこちらを向いたまま、さらに饒舌になる。
「問題はまだあるわ。さっきの例え話の通り、通学区域制度があると、ある学校に適した偏差値の生徒だけでなくて、極端に優秀な子が交じるの。こうやって生徒のあいだにレベルの差が生まれると、上に合わせても下に合わせても、授業運営には問題が生じるわ」
「そうだね、そうだね」
ゆめっちはすっかり聞き入って、同意するだけのロボットと化していた。
対するメアちゃんの方も、幸せそうに持論に花を咲かせる。
「さらに、行ける学校が限定されるということは、頭が良い子も悪い子も、運動ができる子もできない子も、みーんな通学区内の学校にくるということになる。すると必然的に個性のぶつかり合いが起きて、事件が起こりやすくなるの」
気がつくと、メアちゃんの顔はキスできそうなくらい近くにあった。ゆめっちもメアちゃんもお互いに身を乗り出しているので、知らず知らずのうちに顔が近付きすぎてしまったらしい。
メアちゃんの方もそれに気が付いたようで、少しだけ無言の間が生まれる。
見つめ合う二人、感じる吐息。
え……この状況。どうすれば……。
色々と経験不足なせいで頭がオーバヒートしそうなあたしだったけれど、情動のままに変なことをしでかす前に、メアちゃんが顔をちょっと離してくれた。
「うふふ、今のあんた、とっても聞き上手ね」
そう言ってメアちゃんは軽くウィンクした。うーん、殺人的。
あたしが落ち着くのを見計らってから、メアちゃんはまた質問をぶつけてきた。
「さて、それで本題なのだけど……この学校、個性豊かな生徒が多すぎるとは思わない?」
その質問には、思わずはっとさせられた。
確かに言われてみれば、個性豊かな生徒の心当たりが多すぎる。大きいもの好きに、ゴシップ好きに、ハチマキ女に、不登校の妹。他にもたくさん。
そこまで思い馳せた段階で、ゆめっちはやっと自分が文明人からかけ離れた格好をしているのに気付いてくれたみたいだ。
とりあえずジャージのズボンに手をかけながら、彼女は答える。
「もしかして、この学校に個性豊かな人が多いのは……偶然じゃない?」
「……かもね」
軽く答えたメアちゃんの目は、一瞬だけ、とても冷たい目をしていた。
まるで、深い穴の奥の暗闇を覗き込むような、そんな目。
急に寒気が襲ってきた。
メアちゃんは暇つぶしの小話のように言っていたけど、これはきっと、そんな面白いタイプの話じゃない。
しかし、
次の瞬間には、メアちゃんはお腹を抱えて吹き出していた。
「……っていう都市伝説を思いついたから、あんたに試そうと思ったのよ! うふふ!」
「うわ! びっくりした。なんか途中から怖い話みたいになって驚いたよ」
「あら、幽霊が出てくるわけでもないし、ほとんどの人はそんな風に思わないんじゃないかしら」
「どうだろう、でもゆめっちは怖かったよ。なんか、制度が人の性質まで変えてしまうって、怖くない?」
ゆめっちのその言葉は、とても無垢で、メアちゃんの意図など汲み取らない、思ったままの発言だろう。
でも、あたしは全面的に同感だった。
個性的な人間が、人の作った制度によって人為的に生み出されているのだとしたら……それはきっと、とても怖いこと。
そしてそんな思いはどうやら、メアちゃんも同じらしい。
「ふふ、どうやら、あんたにも少しは私の高尚な憂いがわかったようね。……だから言ったでしょう? 『個性的になった今のあんたは魅力的だけど、それが気にいらない』とね」
なーるほど。
今回の話はかなり回りくどかった気がするけど、結局、メアちゃんはそういうことを伝えたかったらしい。
やっと安心できたみたいで、ゆめっちもまた口を開いた。
「メアちゃんは、ゆめっちが個性的な人間になったから、それが通学制度の闇の一部みたいに思えて不安だったんだね」
でも、
「それはどうかしら」
あたしの机を、トン、トン、と大きな三角定規で軽く叩きながら、メアちゃんは首を振った。
そして興味なさそうに教室の窓を見つめながら、呟く。
「あんたやみんなが個性的になったのって、本当に通学区制度のせいなのかしらねぇ」
……やだなぁ、メアちゃん。
最初にそう言ったのはメアちゃんの方じゃない。
メアちゃんと別れてグラウンドに飛び出すと、いつもよりちょっと遅い時間だった。もう授業が始まるまで十分もない。
これはいつもの陸上部式準備運動は省略せざるおえないかな。
メアちゃんと会話ができただけでよしとすることにして、あたしとゆめっちは黙々とグラウンドを走った。気持ちに整理をつけるような時間だった。
――やがて、グラウンドには男の体育教師が現れ、それと同時にまばらに人が集まり出した。
体育教師は時計を確認してから、大声で告げる。
「最初に準備体操だ、怪我しないようにペアでしっかり取り組むこと!」
そういえば、準備体操は女子二人のペアでやるんだった。
もしかすると、これはこれで調査を進めるチャンスかもしれない。
『ゆめっち、近くに余ってる二組の人はいる?』
「あー、うん。ほとんどの人は同じクラスの人とペアを組むみたいだけど、あの先生のすぐ前にいる娘はお一人様みたい」
ゆめっちが示す先を見ると、確かにそこでは女子が一人で体操をしていた。
その、髪に少し色を入れて、ジャージをかなり着崩している校則ギリギリ系のガールの体操着には「2-2 関根佳苗」と書いてある。
あたしはその様子を見て決めた。
『ゆめっち、あの娘と一緒に体操をしよう』
「オッケー!」
ゆめっちはすぐに近付いていった。
目の前までくると、佳苗ちゃんは体が固いのか、両足を広げてから上半身を前方に倒すという動きを、かなり辛そうにやっていた。
「んーっ、んん゛!」
「佳苗ちゃん、つらそうだけど大丈夫?」
ゆめっちが話しかけると、佳苗ちゃんはびくっと体を震わせてこっちを向いた。
「んあ? あ、うん……てゆーか、誰だっけ?」
「あたしの名前は高崎ゆめ、ゆめっちって呼んでね」
「へー、よろしく。あたしってば体固くてさ、準備体操ってゆーの苦手なんだよね。エスケープしよっかな」
喋り方からすると結構フレンドリーなタイプの娘みたいだ。
そんな佳苗ちゃんに、ゆめっちは顔を近づける。
「ダメだよ佳苗ちゃん、運動前はしっかり準備体操しないと、せっかくのスベスベなお肌が傷ついちゃう」
「あちゃ、もしかしてゆめっち、アタシのことそーゆー目で見てんの?」
「ごめんなさい。ゆめっちにはメアちゃんって心に決めた娘がいるからさ」
おーっ! さすがはゆめっち、上手くメアちゃんの話に繋いでくれた。
予想通り、佳苗ちゃんもゆめっちの話に食いついてくる。
「メアちゃん、って、ソレもしかしてウチのクラスの芽亜里ちゃんのこと?」
「うん。彼女、ステキでしょ」
「そりゃね、うん、かわゆい。身長高くて、視線もドSっぽいとこが良いよね」
……うーむ。この娘、なかなかメアちゃんの魅力をわかっているな。
ゆめっちは、そんな「わかっている」佳苗ちゃんに、いたずらっぽく仕掛ける。
「佳苗ちゃんも、メアちゃんのこと好きでしょ」
「うーん、嫌いじゃないぜ。でもさ、あの娘、ちょっと影があるってゆーかさ」
やっと話が本題に入った気がするけど、飛び出してきたのは不穏な言葉だった。
ゆめっちもすかさず尋ねる。
「メアちゃんが、どうかしたの?」
「うん、実はさ、昨日キープ君の家に遊びに行ったんだよ。んで、その帰りに芽亜里ちゃんのこと見たんだよね。その時の様子がおかしかったってゆーか」
「どこか変だったの?」
「そー。ほら、芽亜里ちゃんって普段、堂々としてて、見た目は清楚だけど『そこのけそこのけ』ってオーラあるじゃん。でも昨日の晩は、ひとりで、不安そうな顔で歩いてたんだ」
「そのメアちゃんには、どこで会ったの?」
「山の下のレコード屋さんの辺りだよ。あそこらに住んでるんでしょ、カノジョ」
えぇ?
夜道をひとりで、不安げに歩く……メアちゃん?
他の女子ならいざしらず、メアちゃんに限ってそんな姿を見せるなんてことがあるだろうか。っていうか、どうシミュレーションしても、夜道を我が物顔で堂々と歩く、長身お下げ女子の姿しか思い浮かばない。
けれども佳苗はさらに続けた。もう準備体操などどこかへ消え去っていた。
「あ、そういえば! あの晩はアタシ、芽亜里ちゃんってわかったから、声をかけたんだよ。……そしたらどうなったと思う? 『やばっ』って顔して逃げちゃったんだ。まるで万引でも見つかったみたいにさ。信じられないでしょー?」
「そうなんだ……」
「もしかして、本当に悪いことでもやってたのかもね」
そのあたりで、グラウンド前方の方から教師の、銅鑼を叩いたような大声が響き渡る。
「おし準備体操は終わりだー! 今日は四キロ走って、終わったら解散でよし」
どうやら今日は、軽めの四キロ走らしい。
――それから、あたしは佳苗ちゃんとすぐに別れて、四キロ走をのらりくらりと走った。
朝からの走り込みも虚しく、あたしはずっと、どこか上の空で走っていた。
[Ⅱ-夜①]夜の情報提供者→結城彩子(子供好き)
数学が終わり、授業から開放されたあたしは、すぐさまメアちゃんのお家に行くことにした。そうやって決意した理由は、さっきの佳苗ちゃんの話が大きかった。
メアちゃんに関する数々の情報、それを知れば知るほどに、空ちゃんのことどころか、メアちゃんのことまで見えなくなってくる。
だからこそ、やっぱり本人に訊かなくちゃ。
怒られてでも、メアちゃんのお家のドアをこじ開けてでも、確かめなきゃ。
妹ちゃんのことを、そしてメアちゃん自身のことも。
それはとても怖いし、決意がいることだけど、今ならきっとできる。だって今のあたしには、無敵の裏自分が〝憑いて〟いるから。
メアちゃんの家までのルートは、大まかに言えば、学校の前の道をずっと真っ直ぐ下るだけだ。
山の中腹に建っている七宮女子高校前の山道は、下っていくごとに砂利道になって、やがて舗装された道路へと変わる。その辺りまで来たら、最初の大通りを渡って、さらに真っ直ぐ脇道を抜けると、ファーストフード店やスーパーが建ち並ぶ少し大きめな生活道路が現れる。
そしてその一角、ハンバーガーショップの隣にあるのがメアちゃんのお家だ。
いつものように山道をダッシュで下って、道路を駆け抜けたあたしことゆめっちは、今度こそ躊躇なくチャイムを押した。
「ごめんくださーい!」
返答はない。普段は超速で帰宅しているメアちゃんも、今日だけはゆっくり下校しているのかもしれない。それか、居留守を使っているだけか。
ふとメアちゃんの家を見上げると、否応なしに閉め切られた窓やカーテンが目に入る。
だめだ。
嫌なものをみちゃった。とにかく今は、メアちゃんから話を聞くことに集中しないと。
――そこから一五分くらい粘ったけれど、一向に人の気配は現れなかった。
直球勝負が得意なゆめっちは、じりじりと待たされることに耐えられずにこっちを見上げてくる。
「全然誰もいないよ、どうする? 帰る?」
『それじゃ前のあたしと同じじゃない。……そうだ! ほら、この家の隣、ハンバーガーショップあるでしょ?』
あたしが示しているのは、メアちゃんのお家を囲む塀の外側ギリギリまで迫っている、ハンバーガーショプの店舗だ。あの店は一階部分が駐車場になっていて、ガラス張りの店舗は少し高いところにある。
『あそこからなら、この家の玄関を見下ろせるよね。ドリンクでも頼みながら、誰かくるまで待っていよう』
「そっか、つまりメアちゃんの家の前で張り込んで、のこのこやって来たところを襲っちゃおうって話だね!」
『待って! 人聞きの悪いことを大通りの真ん中で叫ばないで』
「はいはーい」
地上二階のハンバーガーショップの店内へと続く外階段を駆け上がると、あたしはカウンターでバニラシェイクだけ頼んで、窓際のテーブル席に着席した。
店にはあたし以外にお客はいない。
このあいだ来た時もずいぶん静かだったし、もうすぐ潰れるんじゃないだろうか、この店は。
白地の壁に黒のラインが入ったシックな店内には、米国趣味な明るいポップスが流れている。あくびが出るほど呑気な午後のひとときが、店内にはゆっくりと流れていた。
いけない。
落ち着いてきたら、本当に眠くなってきた。
あたしはここから見えるメアちゃんの玄関口を、ずっと見ていなくちゃいけないのに。
そういえばこのところ、家族が寝静まってから〝おまじない〟をしているせいで、寝不足気味なんだった。
あたしの身体はいま、ゆめっちが支配しているはずだけど、寝不足みたいな本能的なことには逆らえないようだ。
『ほん、と、に、ねむ……』
食器がこすれ合う音、店員の咳払い、ご機嫌なロックナンバー。
それらが混ざり合ってカラフルに色づいた夢の世界へ、あたしはゆっくりと落ちていく。
*
思い出されるのは、いつもメアちゃんのこと。
彼女との最初の出会いは、高校一年生の冬のある日だった。
当時のあたしは、ものすごく荒んでいた。
中学まで続けていた陸上というやりがいを失い、なんら目標のない高校生活を送っていたあたしは、放課後になるといつも学校の図書館にいた。それは別に本を読むのが好きだったからとかじゃなくて、それ以外の場所だと、楽しそうに青春する学生の声が聞こえてくるのが嫌だったからだ。
それに、学校の方針で午後七時まで開館している図書館は、放課後の手持ち無沙汰な時間を潰すのには最適な居場所だった。
その日、他の人が部活をしている中、あたしは二冊の絵本を横に並べて悩んでいた。
「うーん、ユメクイドラゴンと、おおまだら池のヌシだったら、どっちの方が強いんだろう?」
それはかつてのあたしの鉄板暇つぶしゲーム「ファンタジーウォーズ」だった。
ファンタジーウォーズのルールは簡単、適当な絵本やファンタジー小説から、空想上の怪物を二匹持ってきて戦わせる、というだけ。想像力が鍛えられるし、なにより一人でもできるのが優秀な遊びだった。
むむむ……と、うなりながら、あたしはあたしなりに色々と考えていた。
まずユメクイドラゴン、こいつはドラゴンだけど、他人の夢を支配する以外に能がない。人間に対しては結構やれるだろうけど、そもそも夢を見るのか怪しい怪物相手には微妙すぎる。
対して、おおまだら池のヌシ、こいつは身体が大きいし、村に天変地異を引き起こしたりするポテンシャル持っているらしい。でも作中では一回も外敵と戦ったり、天変地異を起こして地上をめちゃくちゃにする場面が描かれていない。つまり現状では、池の周りの人々が勝手に怖がって神格化しているだけと言わざるをえない。だいたいヌシってなんなの? 池に毒でも撒かれたすぐ死んじゃうよ? 多分。
当時のあたしは頭を抱えた。
そう、空想の生き物は意外と戦闘に向いていないことが多いんだ!
「よし! 今回はユメクイドラゴンが勝ちにしよっと。やっぱりドラゴンは生物学的に強いよ、うん。井の中のヌシじゃ絶対に勝ち目なし、と」
病的なまでの独り言を紡いでいた、そんな時だった。
「なかなか面白そうな遊びね」
背後からの声に振り返ると、そこには知らない女子が立っていた。
まさかこんな遊びに立ち入ってくる人間の存在などまるで考えていなかったあたしは、すぐに叫んだ。
「きゃぁー!」
「そんな人さらいに遭ったような声を出さなくてもいいじゃない。それにこの時間帯の図書室はほとんど人がいないから、叫んでも助けなんて来ないわよ」
ぺらぺらと恐ろしいことを喋りながら、その娘は隣の席に座ってきた。
「私は一年二組の結城芽亜里、メアちゃんって呼んでくれると嬉しいわ」
そうして目の前で自己紹介したメアちゃんの、想像を絶する美しさを今でも覚えている。 図書室の窓の向こうに広がる闇を背負う、すらりとした姿に、お下げ髪。
その全てに見惚れるあたしに、メアちゃんはさらに話しかけてくれたんだ。
「ほら、私が自己紹介したんだから、あんたのことも教えて頂戴」
「えーと、その、一年一組の高崎ゆめです。よろしく、芽亜里さん」
「ん?」
「よろしくおねがいします、メアちゃん」
プレッシャーに耐えかねて言い直すと、メアちゃんは満足そうに頷いた。
「よくできました。それで本題に戻るけど、私にもあんたの遊びをやらせてくれないかしら?」
「えっ、でもこんな遊び……楽しくないと思うけど」
「そうでしょうね」
「ええっ!」
振り返ってみると、当時からメアちゃんはドSだった。
でも、そんな風に貶されても、あたしは嬉しかった。
こんな寂しい放課後に、誰かと時間を共有できることが嬉しかった。
「楽しくないゲームでごめんなさい。でもやりたいの?」
「ええ」
「どうして?」
「私って、とにかく大きな物が好きなのよ。だからいつも一人ぼっちであんたがやってる、そのスケールの大きい遊びを一度やってみたかったの」
「へ、へえー」
当時はかなり変の娘だと思ったのを覚えている。
それでもなし崩し的にゲームは再開されて、あたしはプレイヤーをメアちゃんに譲った。ちなみにこのゲームで、プレイヤーがあたし以外の誰かに移るのは初めての快挙だった。
「……つまり、この妙なドラゴンと弱そうなヌシを戦わせたら、どっちが強いか考えればいいのよね」
あたしのしたルール説明をほとんど聞き飛ばしつつ、メアちゃんはそれだけ言った。
だから「その通りです」と言ってあげたら、メアちゃんはその白くて柔らかそうな頬を少し赤くして、
「そうなの、ふふ……やっぱり馬鹿なルールね」
そうやって可愛く笑った。
……その後、メアちゃんの出した結論はなんだったと思う?
ドラゴンの勝ちか、
ヌシの勝ちか、
そのどっちでもなかった。
正解はこう。
メアちゃんはどちらとも言わないまま、あたしの持ってきた二冊の本を持ち上げると、そのまま返却ボックスの中に放り込んでしまった。
あっけに取られるあたしに、メアちゃんは胸を張って言い放ったっけ。
「これで、私の勝ちね! だって本の中の怪物なんて、所詮は表紙を閉じて、棚に戻してしまえばもう何もできないもの。だからあんたの問いへの答えは『最終的に芽亜里ちゃんの勝ちでした』ってことになるわ」
ものすごく……横暴な理屈だった。
それから彼女は、強引にあたしの手を取ると、そのまま図書室の外にまで連れ出したんだ。
「ほらほら、外にいらっしゃい」
「あ、ちょっと」
連れ出された先は、ストーブで温められた図書室とは真逆で、暗く冷え切った放課後の廊下の景色があった。
メアちゃんはそこで握っていたあたしの手を離すと、暗い廊下の真ん中に立って、冬の外気よりももっと冷たい笑顔を浮かべて言った。
「私もわけあって図書室に通っていた身分だから、前からあんたのことはよく見ていたわ。私の前で、あんたは本の中の怪物たちとずっと戦っていたわね。でも、さっきのでわかったでしょう? あんな怪物なんて、取るにたらない存在に過ぎないってこと」
それは厳しく、正面から突き刺さるような言葉だった。
ある意味ではそれに失望して、あたしは言い返した。
「でも、そうだとしても、いきなりやって来て、あたしのやって来たことを否定するようなこと言わなくたっていいじゃない! いったい何がしたいの、メアちゃんは……?」
絞り出した言葉の答えは、すぐにやってきた。
「私はあんたに、気が付いて欲しいだけよ。それに私がいつ、『あんたのやっていることは間違い』なんて言ったかしら。常に戦い続けていたあんたの姿には、あたしは敬意すら覚えているのよ?」
「それなら何が言いたいの? あたしにわかるように言ってよ!」
そうしてただ尋ねるしかない私は、次の瞬間、正面に立っていたメアちゃんに抱きしめられていた。
「えっ……」
「ちょっと落ち着きなさい、ゆめ。私はね、あんたがそうやってずっと悩んで、図書室の中で燻っているのがもったいないと思って話しかけたのよ」
自分よりずっと背の高いメアちゃんの腕の中は暖かくて、いい匂いがした。
「もったいないと、思った?」
「ええ。私は自分に、人を見る目があると思ってるけど……あんたは絶対にダイヤの原石よ。今は図書室で青春を無駄にしているただのおチビさんだけど、磨けばきっと大きな人間になる、私好みのね」
そうして、メアちゃんはあたしの身体を離して、また厳しい顔になった。
「さっきの話の続きだけど、あんたは無意識にわかっているはず。『自分が誰かと戦わなければならない』って、わかっているはずよ。そうじゃなかったら、あんな変な遊びなんかしないわ。だからね、」
そこで言葉を切って、メアちゃんは廊下の真ん中で軽くターンすると、あたしに背を向けて腕を広げた。
「あんたの敵は、絵本の中じゃなくて、〝ここ〟にいるのよ。本を閉じれば簡単に勝てるような相手じゃない、〝現実〟っていう本当の相手がね」
「戦えるかな、あたし」
「もちろんよ。だってあんたは、戦うのが好きだから」
そう言われた時に、あたしはやっと自分を取り戻したんだ。
中学時代、輝いていたあの頃は、毎日誰かと戦っていた。それも陸上のライバルや、反抗期のあたしを叱る両親や、教師、友達、勉強……なにもかも、手強い相手だった。その中には、勝った相手もいれば、ボロ負けした相手もいた。
それが高校デビューに失敗して、陸上という目標を失って、あたしはすっかり逃げていたんだ
……戦うことから。
だから自分の代わりに絵本の中の怪物を戦わせて、何かと向き合っている気になっていただけなんだ。
全てに気が付いた時、忘れかけていた闘志に火がついた気がして、あたしはメアちゃんの背中に言った。
「あたしが間違ってたよ。本当はあたし、ずっと図書室から出たかったんだ。それをメアちゃんのお陰で気がつけたよ」
メアちゃんはそこでまた振り返って、冷たーく笑ったのだった。
「それは良かった。これでやっと邪魔者が一人、図書室から消えてくれそうね。ここは私の場所だもの」
こうして、
メアちゃんは彗星のように現れてから、数分間であたしの人生を変えた。
今もダメダメなあたしだけど、もしこの出来事がなかったら、今もずっと図書室で燻っていたに違いない。
当時のメアちゃんが、どうして見ず知らずのあたしなんかを選んで、助けてくれたのかはわからないけど、きっと気まぐれゆえだと思う。だってメアちゃんはそういう娘だから。
ただ一つ、確実に言えることがあった。
それはあたしがこの晩に、果てのない恋に落ちてしまったということだけだ。
……それも、空をかけるドラゴンや深い池のヌシよりももっと、危険な相手に対して。
*
ポーッ! ポーッ! ポーッ!
なにか大きな音が、あたしを現実へと引き戻した。
ふわふわとした感じが消えていって、次第に少しの頭痛と、腕の疲労感が襲ってくる。
『ふぁ……あ!』
それからはもう急速に、迅速に、現実が戻ってきた。
しばらくあたりを見渡してから、やっと状況も思い出してくる。
そうだ、あたしはメアちゃんの家に入ろうとして、でも誰もいなくて、ハンバーガーショップに入って、それで……。
『やばーい! どうしよう寝過ぎちゃった、ちょっとゆめっち、起きてるー?』
「ふぁーい、起きてましゅ」
とにかく騒ぎ立てると、ぽかーんとした返事が返ってきた。まだ三割くらい寝てそうだけど、とりあえずよし。
現在身体の主導権を握っているゆめっちが目を覚ましたことで、高崎ゆめという人間は、これで活動可能になった。
『ゆめっち、起きているならすぐ時計を見て、いま何時?』
「うーんと、午後の五時……え、五時!?」
カウンターの近くに設置された鳩時計を見てゆめっちが絶句していた。
正直あたしも同じ気分だけど、もう過ぎた時間は戻らない。
それにほら、これでさっきあたしの目を覚まさせた大きな音が、鳩時計の鳴く音だと特定できた。やったー。
なんて、現実逃避している時間はない。
『ゆめっち、メアちゃんのお家はどうなってる?』
「え? あ、わかった」
ゆめっちが身体を窓の方に乗り出すと、外の様子が見えてきた。
でも日が沈んでしまったせいで、メアちゃんのお家の玄関口の様子がなかなか見えてこない。
それでも、眠気が飛んで夜に目が慣れてくると、その場所にあるものをギリギリで捉えることができた。
「あ、あれって!」
『ちょうど来たところだったんだ。間に合った!』
思わず二人して叫んでいた。
なんとタイミングがいいことに、メアちゃんの家の前に人影があったんだ。
それは四十代くらいの女の人だった。彼女はキャリーバックをいくつか玄関先に置き、両肩にハンドバッグ掛けていて、ずいぶんな大荷物だった。
『家から出てきたのかな、それとも、今からどこかへ行っちゃうところ?』
どちらにせよ、やることは決まっている。
「すぐに行こ!」
すぐさま机の上に置いてある伝票を掴み上げ、あたしは駆け足で会計を済ませた。
そのまま勢いよく店から飛び出して、外階段を勢いよく降りる。
外は強烈な冷気と、夜の闇に覆われていた。
メアちゃんのお家の玄関口までは、時間にして数十秒でたどり着けた。
すぐ目の前に迫ったさっきの女の人に、あたしは息も整えずに話しかける。
「あ、あの!」
その時、強烈な違和感が走った。
まるで、自分の声が自分でないような、まるきり声質が変わってしまったような、そんな感じ。
嫌な予感がして夜空を見上げた時、あたしは全てを悟った。
しまった。
明るい店内から出て、夜の街に飛び出したせいで、ゆめっちが解除されてしまったんだ!
「あの、どうかしましたか?」
正面に立つ大荷物の奥様は、いきなり話しかけられたことに驚きを隠せない様子でこっちを見ていた。その顔は思ったよりも皺が深く刻まれていて、目も落ちくぼんで疲れ切っているように見えた。
ここまで来たらもう後戻りはできない。本当はゆめっちの強引さで押し通ろうと思ってたけど、あたしがなんとかしなきゃ。
一つ咳払いをしてから、平静を装って尋ねる。
「えーと、メアちゃ……芽亜里さんのお母様ですか?」
「ええ、そうですけど」
「あたし、芽亜里さんの友達の高崎ゆめって言います」
もちろん「ゆめっちって呼んでね!」なんてフレンドリーなことは言わない。
「芽亜里の、お友達ですか。それは娘がお世話になってますね。母の結城彩子です」
そう答える声の調子は優しかった。見た目はすごく憔悴しているように見えたけど、こっちをいたわる感情が伝わってきて安心する。
なにより目が優しい。いつもクールビューティなメアちゃんと比べると、大違いだ。
計画は狂ってしまったけど、この人となら楽しくお喋りできそう。
「突然で失礼ですけど、今日はお母様に聞きたいことがあって来たんです」
「あら、こんな玄関先で大丈夫? お茶くらいは出せるわよ」
ありがたい申し出だけど、ここはちょっと大胆に切り出してみる。
「お構いなく。それで、聞きたいことっていうのが、芽亜里さんの……妹さんのことの話なんです」
その時だった。
妹、という言葉を耳にした瞬間に、彩子さんの様子が激変した。
「そう、なの。あなたも、そうなのね……ッ゛!」
彩子さんが叫ぶと同時に、右肩のあたりに鈍い痛みが走った。
「痛っ」
思わず肩を抑えて後ずさる。どうやら肩から提げていた紐付きのハンドバッグで殴られたらしい。あまり威力はなかったけど、そのショックはあまりに大きかった。
見ると、まだ彩子さんはバッグを振り回していた。
「やめて! もうやめて! わたしへの嫌がらせなの? もうたくさん、妹の話なんて、もうたくさんッ!!!」
その様子は、尋常じゃない。妹、という言葉を引き金にして、なにかに取り憑かれてしまったようにすら見える。
恐ろしくて、とにかく必死に謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あたし何か言いましたか、気に触っちゃいましたか?」
「そんなっ、知らなそうな顔が、よくできるわねっ! ……妹の話は誰から聞いたの? 芽亜里ちゃんからかしら、それとも別の『誰か』からなのかしらッッッ!」
あたしの言葉なんて一言も届いていない様子で、彩子さんはハンドバッグを地面に叩きつけた。
びっくりしてさらに下がる。もう冬の寒さも気にならないくらい、めちゃくちゃな状況になっていた。
「お母さん、ちょっと落ち着いて下さい。あたしはただ……」
「そういえばそうね、あんたも芽亜里に唆された被害者かもしれないわね」
「さっきから唆すとか、別の誰かとか、よくわかりません」
すがるように訴えかけると、彩子さんの動きがピタリと止まる。
少しの間のあと、悪魔のような形相が、こちらを向いた。
「なら教えてあげる、ウチの芽亜里に、妹なんていないのよ。いや、『いてはいけない』の。代わりに、その妹の代わりに『いる』のは……」
彼女はそこで一度言葉を切って、自分の家の二階の方を見上げた。
「今もあそこに『いる』のは、芽亜里の妹なんかじゃない。……別の〝誰か〟なのよォ!」
「それはどういう――」
その質問を言い切れないうちに、彩子さんは今度は近くのキャリーバッグを持って突進してきた。
でもキャスターと道路の段差がぶつかったのか、彩子さんはキャリーバッグごとあたしの手前に転倒する。
それを目の当たりにしても、あたしは心配する気になれなかった。だって彩子さんが転倒していなければ、キャリーバッグで轢かれていただろうから。
寒空の下、家の前の道路に倒れ伏しながら、彩子さんはボソボソと呟いた。
「やっぱり家を出ることにして正解だったわ。この家は、呪われてる……」
それだけ言うと、 彩子さんはすくっと立ち上がってバッグを拾い、キャリーケースを引きずりながらあたしの隣を通り過ぎた。
そしてその姿は、夜の街の向こうへと小さくなっていく。もうあたしのことなど、見えていないようだった。
家の前、たった一人残されたあたし。
もうここにはゆめっちもいない、むき出しのあたしだけが、圧倒的な〝現実〟の前に放り出されてしまっている。
心のなかに残っていたのは、去り際の彩子さんの言葉。
……「ウチの芽亜里に、妹なんていないのよ」。
なら、
メアちゃんのお母さんがそう言うのなら……。
メアちゃん言う「妹」って、いったいなんなの?
あたしはただ、立ち尽くすしかなかった。
――「メアちゃんのお母さんが夜逃げしたらしい」という噂を聞いたのは、それから少し後のことだ。
あの大荷物は、その準備だったらしい。
[Ⅱ-昼②]昼の情報提供者→友田愛美(世話好き)
〈十二月六日 月曜日〉
七宮女子高校では、十二月の一日~十五日くらいまでを「試練の週」と呼んでいた。
その理由は簡単、この時期にキツイ行事が続くから。
まず襲いかかってくるのが、今週末の十日に行われるマラソン大会。これは学校がある山の峠を街まで走って、そのあとまた戻ってくるという、全長十五キロのコースを全員が走らされるというものだ。元陸上部で、バリバリの長距離選手だったあたしからしても、山道を一五キロも走らされるというのはかなりきつい。それは他の生徒にしてみたらなおさらだ。
この時点で大半の生徒はほとんど死にかけるんだけど、マラソン大会が終わっても休むことは許されない。
間髪を入れずに降りかかるのが中間テストだ。休む間もなく四日間のテストが敢行され、生徒は気力体力を全て奪われて、年末休みまでの期間を魂が抜けたように過ごすという結果になる。
というわけで、月曜日も一限から体育だった。
もうマラソン大会が週末に迫っているので、今回は四キロなどという甘えた距離ではない。本番を想定して十キロは走るらしい。
グラウンドに集まる生徒たちの顔も暗かった。あたしはマラソンが大好きだけど、そうでない人からしたら地獄に違いない。
ほんの小さな希望にかけて周囲を見てみたけれど、やっぱりメアちゃんはいなかった。
全身をよく伸ばしてから、軽く走ったり飛んだりして準備体操を進めるけれど、メアちゃんがいないとそれだけで生活の質が落ちる気がしてくる。
……それに、土曜日に起きたショッキングな出来事が、強烈に焼き付いてまだ忘れられない。
あーあ、何かおもしろいことないかな。
そこであたしは、あることを思いついた。それは、裏自分のゆめっちを使ったちょっとした実験。
あたしは以前から気になっていたことがある。
それは、裏自分の身体能力だ。〝おまじない〟によって呼び出された裏自分は、人付き合いなど対人能力はすごく高い。ならば身体能力も本人より上なのではないか、と思ったんだ。
今までの体育では、授業中もゆめっちに情報収集をさせるという目的があり、図らずもゆめっちの本気を見る機会がなかった。
だから今日は特別。
『ゆめっち、今日は本気で走っていいよ』
「え、ホント? この前まではクラスメイトと話しながらダラダラ走れって言ってたじゃん」
『それは、調査のためでしょ。マラソン大会も近いし、情報収集はいったん忘れて、運動に集中するって決めたの』
それにあんなタイムでは、元選手のプライドが許さない。
でも一応確認はする。
『本当に大丈夫? 無理だったら休んでいいからね』
「あはは、またまたー。ゆめっちに出来ないことなんてないよ!」
『…………。』
ゆめっちの何気ない返しに、少しだけ複雑な思いになった。
確かにゆめっちの言うとおりだ。彼女はなんだってあたしより上手くやるし、「裏自分」なんて、自分では名乗っていたけど、そうとは思えない。
まるでゆめっちが、あたしの「表」であるような……。
悪い考えが湧いてきたので、それを振り払うように高らかに宣言する。
『今日は、一位を取るつもりで走ってね。あたしの普段どおりのタイムが出れば、この合同授業のメンバーなら先頭でゴールできるはずだよ』
「了解しました」
こうして、ゆめっちはスタートラインについた。
これは陸上部あるあるだけど、長距離でも短距離でも、スタート前というのはめちゃくちゃに緊張する。でも裏自分を出していると、あたし自身は走る主人格ではないので、あまり緊張しないことに気がついた。
スタートの直前・直後の最大の敵は緊張なので、緊張とは無縁のゆめっちなら、本当に全盛期のあたしを超えるようなタイムを叩き出してしまうかもしれない。
――そしてスタートラインに立ってから数十秒後、
パンッ! という乾いた銃の音が鳴り響いた。
競技用の銃でスタートとは、本当に本番さながらといった雰囲気だ。
そしてゆめっちはと言うと、……驚異的なスタートを切っていた。
完璧に力の抜けたフォームに、軽やかな走り出し。
中学まで陸上部だったけど、こんなに長距離のスタートが綺麗に決まったのは初めてだ。
「うおぉぉぉぉ!」
派手な声を出しながら、ゆめっちは進む。
これはどう見ても、引退試合前に出した記録を更新するペースの走り。
やっぱり裏自分って、ベースとなっている本人を遥かに超えるポテンシャルがある。
……でも、こんなに素晴らしい力を、どうして他のみんなは使わないんだろう?
〝おまじない〟の噂は、あんなに広がっているのに。
些細な疑問が生まれるあいだに、ゆめっちはグラウンドから外の道路へと抜けていくための、最初のコーナーに差し掛かっていた。ここを抜ければ、高校の敷地を出て、峠の方に出ていく……のだが、
あたしはそこでようやく気が付いた。
このままだと、ゆめっちが危ない!
道を曲がる時のことを思い浮かべればわかると思うけど、人間はカーブで曲がるために、身体や足を曲げる必要がある。それはつまり、身体がかなり不安定な状態になることも意味してる。
だからカーブ前は減速する必要があるんだ。これは基本的なことだけど、この減速をいかに抑えるかが、実はトラック競技では重要だったりする。
でも今のゆめっちにはその「減速」が見当たらない。ただひたすらに突っ走って、そのままの勢いで、グラウンドの端の鋭角なカーブを曲がり切ろうとしている。
『ちょっと緩めてゆめっち! さもないと!』
言った時には、もう遅かった。
全速力で、しかも九十度で曲がろうとするという驚異的なことをやろうとしたあたしの身体は、予想通り支えを失って左側に倒れた。
自転車やバイクもカーブで傾けすぎると倒れる。それとおんなじだ。
世界のすべてが一瞬にして回転し、やがて鈍い衝撃が身体の側面全部を襲う。
「痛っぁー」
泣きそうなゆめっちの声を聞きながら倒れた身体を見てみる。グラウンドの土は柔らかいので大した衝撃は受けなかったけど、不幸にも一般道との境にあるフェンスの端で足首を切ってしまったみたいだ。
腿から足首のあたりにかけて、鋭い裂傷が走り、真っ赤な血が滲んでいる。
くそー、めちゃくちゃ痛いじゃない。
でも、もうちょっとだけ少し頑張らなくちゃ。
あたしは痛みを堪えながら、痛がるばかりのゆめっちに檄を飛ばす。
『ちょっとゆめっち、うずくまってないで早くグラウンドのトラックの内側に行って! 後の走者の邪魔になるし、なにより危険だから!』
「あ、うん」
これも陸上で身につけた知識だった。
トラックの内側の安置まで移動すると、すぐに担当の男の先生が駆け寄ってきた。
「大丈夫かー! 立てるか」
「無理です!」
「そうか。ったく、あんなに飛ばすからだぞ高崎。スタートは良かったが、ちゃんとペース守れな」
先生の角材みたいなたくましい腕に肩を貸されて、あたしは校舎のそばの、ちょっとした屋根のある見学スペースへと運ばれた。
「おら高崎、ちょっと足出せ」
筋骨隆々の教師に無造作に足を掴まれるとさすがに怖い。
もしかして馬鹿やったことにかこつけて、一発捻られたりしないかな……とか思ったけれど、
「血が出てるから、上の方をハンカチで結んで止血しとくぞ。怪我の方は、自分で洗って消毒してこい。先生はまだ生徒の監督をせにゃならんからな」
「あ、ありがとう先生」
もちろんそんなことはなく、先生は太もものあたりを縛って、しっかりと止血してくれた。
でもあれ? よく見たらこのハンカチ……めちゃくちゃピンクだし、可愛い猫の絵まで入ってるじゃん!
こ、この人、こういう趣味だったんだ……。
「じゃあな」
手早く手当をして、先生は行ってしまった。これは授業終わりに、すぐにハンカチを返した方がいいだろう。
その、先生の名誉のためにも。
先生が行ってしまうと、見学していた同じクラスの愛美ちゃんが近付いてきた。
「ゆめっち大丈夫? すごーく派手に転んでしまっていたけれど」
彼女は生まれつき体が弱いらしいので、マラソンのような激しい運動はできないんだ。
ゆめっちはそんな優しくて線の細い愛美ちゃんに倒れかかる。
「大丈夫じゃないよー、愛美ちゃん慰めて」
「あらら、よしよし」
なーにやってんだ。
あたしはとんでもない節操なしは放っておいて、見学スペースの様子をざっと観察する。
いつも元気なのだけが取り柄だから、ここに来たのは初めてだ。
今になって気が付いたけど、校舎の横にかかった横断幕が頭上で揺れている。ゆめっちがずっと愛美ちゃんといちゃついているせいでよく見えないけど、うちの学校、スポーツとか強かったけ……?
ぐ、横断幕の内容を見たいのに、ゆめっちが全然上を向かないせいで見えないよ。
あたしは諦めて、別の方を見ることにした。
マラソンは特に不人気な授業なので、なにかと理由をつけて見学する人も多い。屋根の下のスペースは広くはないけど、あたしも含めて十人くらいの人がいる。
そこには当然、見学の女王、ことメアちゃんも……。
『あれ……そういえばメアちゃんは?』
狭い見学スペースをどれだけ探しても、あの長身で全体的に白っぽいシルエットが見当たらない。
『ゆめっち、愛美ちゃんに訊いてくれない? メアちゃんがどこにいるか』
「はいはい」
いつの間にか愛美ちゃんに膝枕されていたゆめっちは、頭を起こして尋ねてくれた。
「ねぇねぇ愛美ちゃん、二組のメアちゃんがどこに行ったか知ってる?」
「芽亜里さんなら、ここにはいませんよ」
「あれ? でもここが見学場所だよね」
「それが、芽亜里さんはいつもいないのですよ。体育の最初の方はいらっしゃるのですけれど、すぐにどこかに消えてしまうのです。まあ、それも毎回のことですから、特に驚きはないですが」
なにからなにまで初耳だ。
「そんなこと知らなかったよ」
すると愛美ちゃんは、長いまつげが特徴的なその目をかっと開いて、驚き顔になる。
「えぇ、聞いていなかったのですか! それではなんと伝えられていたのです?」
「『見学する』って、それだけ」
愛美ちゃんは首をかしげる。
「それでは、芽亜里さんはゆめっちに嘘をついていた、ということになりますね」
「そうだよね、ちょっとショック受けちゃうな」
「ゆめっち、」
そこで愛美ちゃんが、あたしの肩を叩いた。
見ると、いつもにこやかな彼女らしからぬ、冷徹な顔つきをしている。
「彼女には気をつけた方がいいですよ。人は後ろ暗いことがあるから嘘をつくのです。そして一度嘘をついた人間は、また別の嘘もつきます。このように、嘘をまとっていく人間を、どうして友達と呼べるでしょうか」
「それでも、ゆめっちはメアちゃんが好きだから大丈夫だよ」
能天気にゆめっちが答えると、愛美ちゃんはそれ以上言葉を失ってうつむいた。
「そうですか、失礼しました」
また、だ。
誰かにメアちゃんのことを訊くと、必ず悪い言葉が返ってくる。
事実、愛美ちゃんの証言もまた、警告めいた言葉だった。
でも今回は、今までの誰よりも心に突き刺さった気がした。
それは愛美ちゃんの言葉が特別だから、かな? それともいつも穏やかな彼女が、メアちゃんには厳しいことが、ショックだったから?
多分、どれも違う。
きっとそれは、あたしが変わったからだ。
あたしがメアちゃんのことを信じきれなくなってしまっているからだ。
もし、さっきの愛美ちゃんの話相手があたしだったら、ゆめっちのように言えただろうか。
「それでも、好きだから大丈夫」と。
[Ⅱ-夜②]夜の情報提供者→結城芽亜里(*****好き)
月曜日が憂鬱なのは、週の初めだからというだけじゃない。あたしにとっては、月曜日は塾の日でもあった。高校二年生の冬という時期は、いい加減受験勉強も本格的になってきているから、今日もこうして七時過ぎまで絞られてしまった。
七宮のすぐ側に建つ塾から外に出ると、あたしはいつもの通り、通学路から「外れて」メアちゃんの家の方へと向かう。
最近は、こうやってメアちゃんの家の前を通るのが習慣になっていた。一応あたしの家の方向もこちらなので、遠回りになっちゃうけど、帰ることはできる。
どうしてこんなことをしているかと言われれば、なんとなくだ。
調べれば調べるほど遠くに行ってしまう気がするメアちゃんの、気配を感じて安心したいのかもしれない。
そんなことを考えつつも、メアちゃんのお家まで後少しと迫った、そんな時だった。
あたしはメアちゃんの家の隣のハンバーガーショップへと続く、寂しい小さな路地にいたのだが、その路地の途中、少し開けたスペースで、あたしは予想だにしないものを見たんだ。
タバコやうどんの自販機が並ぶスペースの前、街頭に照らされて少し明るくなっているところに、なんとメアちゃんが立っていたんだ。
それはあまりに不意打ちで、とっさに隠れようかとも考えたけど、一本道でそんなことは望めない。
あたしは彼女と向き合うしかなかった。
メアちゃんは、小さな街頭の下に立って、物憂げに夜空を見ていた。どうやらまだあたしの存在には気が付いていないようだ。
声もかけられない雰囲気だったので、あたしは少しのあいだ、一方的に彼女の姿を見ていた。
はっきり言うなら、メアちゃんの様子は少しおかしかった。
彼女はひとり夜の闇の中で、自販機から買ったらしい小さな缶コーヒーを両手で抱えながら震えていた。
つややかな長めの髪は乱れ、170cm近くある長身がいつもより小さくなったと錯覚するほど弱々い雰囲気だ。いつも羽織っている厚手で真っ白なカーディガンも、今日ばかりはただの布切れに戻ったかのように頼りなく見えた。
この違和感を説明するのは難しいけど、全体的に、彼女の何かが足りなかった。それでもなお、メアちゃんは美しかったけれど。
メアちゃんにはいつも会いたいと思っているのに、どうしてだろう? 今は同じくらいに会いたくないとも思っている。
声をかけるのか、かけないのか。
知っての通り、夜のあいだに裏自分は出せないから、選択を迫られているのはこのあたし自身だ。
だからこそ、勇気がなかなか出ない。
と、そうやって行きあぐねているあいだに、メアちゃんは空を見るのを止めて身体を翻した。このままでは家に返っちゃうだろう。
反射的に大声が出た。
「あ、ちょっと! メアちゃん!」
その声に一瞬身体を震わせて、メアちゃんが振り返る。
ぱっと向けられた最初の表情は、なんともバツが悪そうな、いたたまれない顔だった。多分あたしも同じような表情を浮かべているんだろうけど、やっぱりメアちゃんらしくない。
それでもメアちゃんは、一瞬でいつもの冷笑を浮かべた。
「なによ……。付きまといが行き過ぎて、こんな夜中まで追いかけていたのかしら? ゆめ」
こころなしかいつもより言葉に迫力がない。
「そんな、違う。塾の帰りにたまたま通りがかっただけだよ」
「そう。そういうことも、あるかしら」
弱々しい返事が、また返ってきた。
思い出したのは、昨日話を聞いた佳苗ちゃんの言葉だ。「夜に会ったメアちゃんの様子がおかしかった」と信じられないことを言っていたけど、おそらくこんな感じのメアちゃんに出くわしたんだろう。
とりあえず、微妙な雰囲気を打開しようと声を出す。
「メアちゃんの方は、どうしてこんな場所に出てきたの?」
「それは……。どうでもいいじゃない、ここは、私の近所なのだから」
やっぱり声は震えていた。
かなり調子が悪そうだけど、でも、もしかしたらこれは、逆に色々聞くチャンスかもしれない。今夜だけは、いつも超然としているメアちゃんの鎧がない。その幸運は、ゆめっちなしでも活かさなきゃ。
勇気を出して、あたしは言う。
「あのさ、本当に偶然……せっかく会えたんだから、少しお話しない?」
「もちろんよ。なにが聞きたいのかしら」
そうだ、肝心な質問の内容を考えていなかった。疑問は確かに沢山あるけど、具体的な言葉でどう聞きたいのかと言われると困る。
やっぱりあたしは、ゆめっちのように堂々とは振る舞えないんだ。
「今日の体育って、どうだった?」
結局出てきたのはそんなところだった。
それにメアちゃんは少し考える素振りを見せてから、ゆっくりと口を開ける。
「あたしは、見学していたから……」
「メアちゃん、今日はいなかったでしょ」
思い切って言い返す。
するとメアちゃんは大きなため息をついた。
「あら、どうやらバレてしまったようね。私が体育の授業を抜け出していたこと」
最初に隠そうとしたから、なにか後ろ暗いところがあるんじゃないかと思っていたけど、案外認めるのが早い。
「どこに行ってたの?」
「秘密の場所……と言ったら、格好いいかしらね。別に大した場所でもない、グラウンドの横にある高台の小屋に行っていたわ」
高台、そこなら知ってる。
そこはグラウンドの横にある裏山を、少しだけ登ったところにある小さな広場のような場所だ。たしか小屋や椅子があって、見晴らしがいいところだったはず。
「あの高台の小屋からは、グラウンドがよく見えるのよ。小汚いグラウンド端で休むよりも、ずっと趣があるとは思わない?」
その理屈は、どうだろう? 納得できるような、できないような、微妙なところだ。
だから、あたしはずっと思っていたことを切り出した。
「もし間違いだったらごめんだけど、もしかしてメアちゃん、最近体調とか悪い? 今もすごく無理してるように見えるよ」
「そんなことないわ」
「本当に……?」
さらに追求すると、メアちゃんはまたまた大きなため息をついた。今晩は本当にため息が多い日みたいだ。
メアちゃんは一度背筋を伸ばして、あたしの方に向き直る。
「それじゃ、一つ思ったことでも話してあげるわ」
きっとそれは、証明するための話。
自分がいつもの調子と変わりなく、物事をズバッと切り捨てられることを証明して、様子がおかしいということを否定するつもりだろう。
「やっとメアちゃんっぽい話が聞けるんだね!」
「何をバカな、私は私でしかないわ。……話したいことというのは、横断幕のことよ」
横断幕か、いつものことだけどかなり切り口が大胆だ。
でも足を怪我して見学した時に、ちょうどそれを見ていたあたしにとってはタイムリーな話題だ。
「横断幕って、グラウンドの横、校舎の壁にあるやつだよね。大会とかで結果を残した人たちが書いてあったよ」
「私はね、あの横断幕が十月後半に登場した時から気に入らなかったの。だって、十月に掲げられる横断幕って意味不明じゃない? 七宮は別にスポーツの強豪でもなんでもないから、この時期にやってる全国大会の結果っていうわけでもないし」
「確かに、そういえばあれって、誰がどうなのかとかよく見てなかった」
「ふん。なら教えてあげるわ、今あそこに掲げられているのは、かるた部の秋季大会入賞と、プログラミングサークルの大会入賞と、ダンス部の創作ダンスコンクール入賞っていう、華々しい結果の数々よ……」
完全に馬鹿にしていた。
でも確かに、あまりに微妙すぎるラインナップかもしれない。あの時見られなかった横断幕の内容、そんな感じだったんだ……。
「でもどうして横断幕が気になったの?」
「それは、私がいつもいる高台からちょうど良く見えるからよ。そもそも私が高台に登っているのは、野蛮な体育の授業を見るためじゃなくて、七宮の裏山の景色を楽しみたいからなの。それなのに、あの微妙な内容の横断幕のせいで、景観がぶち壊しなのよ。本当に嘆かわしいわ」
言っているうちに、メアちゃんの勢いはどんどんヒートアップする。
「あぁ、言ってたら腹が立ってきたわ! それに創作ダンス部なんて、部員が十人もいるから、横断幕の下半分を全部使って、律儀に全員の名前書いてあるのよ!? あまりにもうざったいから、全員の名前を覚えてしまったわ。えーと、左から順に、石田喜美、半沢千絵美、山口賢司、坂本……」
「あ、もう大丈夫だから! もうわかったから」
これでよくわかった。
やっぱりメアちゃんに調子の悪い時なんて存在しなかったんだ!
きっとさっきも本調子ではなかっただけで、中身は全然かわっていないに違いない。
佳苗ちゃんが証言していたおかしな様子も、きっと勘違いだろう。
『幽霊の正体見たり、結局メアちゃん』
この言葉を佳苗ちゃんには贈りたい。
自然と笑顔がこぼれた。
「やっぱり、メアちゃんはメアちゃんだよね」
「はぁ、やっと信じてもらえたってワケ?」
「ごめんね」
謝りつつも、そこで少しだけ違和感があった。
なんか、ドSなメアちゃんにしては、責めの言葉が少ないような。
と、思っていた時。
「あら、そういえば今になって思い出したけど、あんた無様にも転んでたわよね」
唐突に、最悪の話題がぶちこまれれた。
「えっ、なんでそれを」
「本当は体育の様子なんて眼中にないのだけど、高台に登っている途中に見たのよ。それに確か、足を怪我してなにか巻いてたわねぇ。……確か、猫柄のピンクのハンカチだったっけ。正直言って、ハチマキを巻いた運動得意系チビ女には似合わないから、ああいうあざとい格好やめた方がいいわよ」
「それは! 体育の先生がっ!」
「あのゴリラみたいな教員があんなハンカチ持ってるわけないでしょ、すぐわかる嘘は止めた方が、あんたの将来のためよ」
そこまで言い切って、メアちゃんは胸を張る。
このSっぷり……やっぱりメアちゃんはメアちゃんだ。さっきまでは正直疑っていたけれど、本当に杞憂だったみたい。
……だから、
そう思ったから、
幸せな気分のまま、あたしは言ってしまったんだ。
「こんな風にいつか、メアちゃんの妹ちゃん……空ちゃんとも話せたらいいね」
そんな小さな、祈りを。
「…………。」
「あれ、どうしたの? メアちゃ――」
「……いない」
「えっ?」
振り返るとそこには、また別人のような雰囲気になったメアちゃんの姿があった。
「私には、妹なんていない。空ちゃんなんて人、どこにもいないのよ」
そんな……バカな。
「だって、空ちゃんを探してくれって頼んだのは、メアちゃんじゃん!」
「そうね……」
「だったら!」
「でもね……ゆめ、これが真実なのよ。『空ちゃん』っていうのは、私が作り出した架空の妹よ。あんたが必死になる姿が面白かった……そう、面白かったから、ちょとからかっただけ」
次々と放たれる、信じられない言葉。
土台から崩れていく、あたしのなかの、メアちゃんという存在。
「嘘だ! 信じない、そんなこと絶対信じない」
否定の言葉を叫んで、自分を必死に守ろうとする。
でも、別人のようなメアちゃんは……。
結城芽亜里は、それを肯定してはくれなかった。
「……もしあんたがどうしても信じないって言うなら、もう一度うちに来ることね。うちの玄関には、表札の下に家族構成が書いてあるから、それを見ればハッキリするわ」
メアちゃんは、あたしに止めをさすように宣告する。
「『結城芽亜里の妹』なんていう人間は、どこにも存在しない」
全てを告げて、メアちゃんはゆっくりと後ろに退いていく。
果てしない、夜の闇の中へ。