【Ⅰ】鏡の向こうの私
【Ⅰ】鏡の向こうの私
[Ⅰ-昼]昼の情報提供者→大沼陽子(雑誌好き)
〈十二月三日 金曜日〉
理科室は、大勢の生徒でごった返していた。
七宮女子高校では、理科の実験の授業は三クラス合同で行われる。うちは校舎が山奥にあるせいで、実験器具や機材が豊富ではない。だからこうして合同で、いっぺんに実験の授業を済ませてしまうんだ。
ちなみにあたしはこの理科の合同授業が大好きだ。なぜなら普段は会えない隣のクラスのメアちゃんと一緒に授業が受けられるから。それになんと、そこから実験の班が同じになるチャンスすらある。遠目から見るだけでも眼福なのに、一緒のビーカーを見つめたり、お互いにノートを見せ合ったりできたら、そこで死んでもいい。
「でも、今まで一回も同じ班になったことないんでしょ?」
『ちょっと、あたしの幸せな妄想を邪魔しないでよ、ゆめっち』
うきうき気分だったのに、余計な横槍が入った。ま、ゆめっちはあたしが生み出した、裏の自分、というやつらしいので、自分が自分に邪魔されるというシュールな状況なんだけど。
……あたしは今日も今日とて、裏自分の「ゆめっち」として、学校に来ていた。
例の〝おまじない〟を、昨晩もやってみた結果は成功だった。だから今日もゆめっちが体に憑依して、ダメなあたしの代わりにこうして学校生活を送ってくれている。
心の中から、あたしはゆめっちに話しかける。
『ゆめっち、朝言ったことは覚えてるよね?』
「うん! メアちゃんの妹ちゃんの、空ちゃんについて調べれば良いんでしょー?」
そんな無邪気な返答は、本当にわかっているのか心配になるくらいふわふわした雰囲気をまとっていた。本当にこの娘は、あたしのもう一つの自分なのかなぁ?
ともかく、あたしは重要な使命をまるっきりゆめっちに丸投げすることに決めていた。面目ない限りだけど、きっとこうした方が上手くいく。
ただ一点、不安な面もある。
『今日のゆめっちは、ますますあたしから遠ざかってるから、くれぐれもバレないように気をつけてよね!』
「そうかな?」
『髪型からなにから、何もかも違うでしょ!』
今朝は早起きできたので、ゆめっちはおしゃれに気合を入れていた。
いくら理想的な自分の具現化とはいえ、ゆめっちは高崎ゆめでもある。つまりは彼女も恋する十六歳の女の子なので、きっとおしゃれもしたいだろうと放っておいた。
が、それが失敗だった。
「準備完了ぉー!」
という脳天気な声とともに鏡の前に現れたのは、真っ白なハチマキを巻いて、すっぴん姿のポニーテール女子と化したあたしの姿だった。
……こうした理由で、今のあたしは薙刀女子のような武士道あふれる外見になってしまっている。どちらかと言えば服装は少女趣味で、メイクもきっちりやりたいあたしとは正反対な趣味を、ゆめっちはお持ちらしい。
『見た目はもうどうにもならないから、みんなに違和感持たれないように、あくまであたしとして振る舞ってよね!』
「はーい」
本当に大丈夫なんだろうか。
と、急にゆめっちがあたりを見回し始めた。あたしも視覚は共有しているので、それがわかる。
『どうしたの?』
「いやさ、メアちゃんがいないなーって思って」
意外な報告だった。確かに、普段なら五秒以内に見つけられるメアちゃんの姿が見当たらない。
というか、メアちゃんどころか、全体的に着席している人が少ない。
『こんなに理科室がガラガラなのは見たことないよ。ゆめっち、ちょっと調べてみて』
「わかった」
そう言うとゆめっちはすぐさま、一緒の実験机に座っていたクラスメイトの愛ちゃんに顔を向ける。
「なんか人少なくなーい?」
普段とは違い、とってもフレンドリーなあたしにももう慣れてきた。
突然話しかけられた愛ちゃんは、一瞬驚いたような目をしたけど、すぐに答えてくれる。
「そうねぇ。見た感じ、二組の人がまるまるいないみたいだけど」
うそ。
ゆめっちの視界を確認してみると、確かに二組の生徒が全然見当たらない。
「だからメアちゃんもいないんだ」
「メアちゃん?」
「芽亜里ちゃんだよ、結城芽亜里ちゃん。愛ちゃんも知ってるでしょ」
「あぁ、あのいっつも何か抱えてる美人さんね。ゆめちゃん、仲良かったんだ」
「そうだよー。お家に行ってデートする仲だしね」
愛ちゃんが何も知らないのを良いことに、調子のいいことを言うゆめっち。
この二日間のあいだにわかったことだけど、あたしの裏自分のゆめっちは、話を合わせたり人に取り入るのがうまいけど、そのために話を盛ったり、作ったり、かなり大雑把な性格のようだ。噂話も好きで、とにかくいつも井戸端会議を始めようとしている。
ゆめっちが愛ちゃんと話していると、ちょうど机を挟んで右斜め前に座っていた女子が突然に口を開いた。
「もしかして、二組のお話してますか?」
「うん」
ゆめっちが答えると、その女子はもじもじとした様子で続けた。
「それがですね、二組の子の誰かさんが、なにかやっちゃったらしいですよ。それで担任が朝からブチっときちゃって、まだ怒られているとか……」
控えめな口調とは裏腹に、ずいぶんゴシップに満ちた話だった。きっと、さっきから事情も知らずに話合っていたあたしたちの会話に混ざりたくて、うずうずしていたに違いない。
でも、もし彼女の話が本当で、メアちゃんを含めた二年二組が合同授業なんて大きな授業を遮ってまでお説教をされているとすれば、彼らは相当なことをやらかしたと見える。
「ね、それって――」
ゆめっちがすかさず事情と聞こうとした時、背後から大きな音がした。
振り返ると、実験室の後方の入り口から、いなかった二組の生徒たちがどっと流れ込んでくるところだった。
一五分遅れということもあって、二組の女子たちは駆け足で空いている席へと座っていく。
『あっ!』
心のなかで、声をあげる。
二組の集団の中にはメアちゃんの姿もあった。彼女は今日も制服にロングソックス、厚めの白いカーディガンという暖かそうな姿をしていた。
でもどこか、不機嫌そうな顔をしているような……。
見惚れているあいだに、メアちゃんは空いている遠くの席に行ってしまった。
二組の生徒が着席すると、今度は黒板の前に立っていた女教師が机を二、三回叩いて注意をうながす。
「どうやら遅れていたクラスも到着したようですね。さ、みなさん教科書を開いてください。授業を始めますよ」
こうして、理科の合同授業はどこか浮ついた空気が流れつつも、特に大騒ぎもなく粛々と進んでいった。
あたしは実験など上の空で、ゆめっちと共にチャンスを伺っていたけれど、残念ながら、授業中にメアちゃんと話すことはできなかった。
お弁当休憩を挟んで三限ぶっ通しで行われた授業のあと、ゆめっち(あたし)はすぐにメアちゃんの後ろ姿を追いかけた。
理科室前の廊下をゆっくりと歩いていたメアちゃんは、見たこともない巨大な広辞苑(何度も言う通り、こうして常に巨大なものを持ち歩いてるのがメアちゃんのキャラクターだ)を抱えていた。
すぐに声をかけてみる。
「おーい、メアちゃん! 心配したよ、朝はどうしたの」
メアちゃんはすぐに振り返ってくれたけど、その目には一瞬、こっちを怪しむような色があった。
でもすぐに普段どおりの、ひとの顔を見て面白がるような視線に戻る。
「……なるほど。あんたも単刀直入にものが言えるようになったのね」
「どういうこと?」
「いいえ、こっちの話よ。それで……何だっけ?」
「先生に怒られてたって本当?」
ちょっと、何を言ってるのこの娘は!? 単刀直入にも程があるよ。
でも、ゆめっちの失礼な物言いに、メアちゃんは気を悪くするどころか、機嫌良さそうににっこりと笑った。
「ふふ、誰から聞いたか知らないけど、本当よ。くだらない話を散々聞かされたわ」
「どこらへんがくだらなかったの?」
「同じ話を何回も繰り返すところよ。良い機会だからあんたも覚えときなさい、どんなに素晴らしい教えでも、二回以上繰り返したらタダのお笑いになるってこと」
「ふーん」
メアちゃんのストレートな毒舌は今日も冴え渡っていた。
不満を吐き出せてスッキリしたのか、メアちゃんは話は終わりとばかりに片手を上げる。
「それじゃ、私急いでいるから」
もしこれがいつものあたしだったら、その姿を「もっと話したかったなぁ」と思いつつも見送ることしかできなかっただろう。
でも今日のあたしはゆめっちだ、一味違う。
ゆめっちは脇を通り過ぎようとするメアちゃんの肩を叩いて引き止めると、最高の笑顔を作りながら手を振った。
「うん。また会おうね、愛してるよ」
それは自然体で、どこまでも直球な告白だった。
メアちゃんも一瞬、虚を突かれたように目を見開いていた。もちろん、このあたしも同じ気持ちだった。
やがて、メアちゃんの方はいつもの冷徹な笑みを、さらに壮絶なものに仕上げて微笑む。
「あら、今日はなかなかエレガントね。気に入ったわ、今度一緒に動物園に行ってゾウやキリンを見に行きましょ」
堂々と言い放ってから、彼女は今度こそ廊下の奥に消えていった。
メアちゃんの姿が完全に消えるまで待ってから、あたしはすぐに心の中で叫んだ。
『やったー! メアちゃんに認められて、デートの約束まで取り付けちゃった! いや、すごかったよ、さすがはゆめっち様。どうやったらあんなにスラスラ話せるの?』
「……? 思ったことを正直に言ってるだけだよ。それに、あなたはあたし、あたしはあなたなんだから、ゆめちゃんにもきっとできるよ」
『無理無理、信じられない。確かにゆめっちはあたしでもあるのかもしれないけど、理想のあたしで……とにかく、真逆なの!』
「そんなこと思わないけどなー。あ、そうだ」
ひたすら褒めちぎる言葉をかわしつつ、ゆめっちは何かに引っかかったような顔をして見せた。
『どうしたの?』
「さっきのメアちゃん、様子がおかしかったね」
意外な言葉に、とっさに先程の様子を思い出してみる。
『え、そうかな』
「だってメアちゃんは『怒られた』とか『その話がくだらなかった』とかは言ってたけど、肝心の内容、つまり『具体的にどういうことで怒られたか』を全然教えてくれないんだもん。あれはきっとなにか隠してるよ」
その言葉はどこか確信めいていた。けれど、まだ信じられない。
『あのメアちゃんが隠し事……って、ちょっと、なにしてるの!?』
急にゆめっちが走り出した。
困惑するあたしに、ゆめっちは鼻歌でも歌うように答える。
「なにするのって、決まってるでしょ? わからないことがあったら、訊けば良いんだよ!」
着いたのはメアちゃんの所属している二組の教室だった。
ゆめっちは教室に入るとすぐに、手近なところに立っていた女子に声をかける。
「ちょっと、そこのあなた」
「あー、もしかしてわたし? ミー?」
自分を指差して、軽い調子で返事してくれたのは、栗毛をアイドル風に跳ねさせた今っぽい女子だった。
「そうだよ」
ゆめっちが元気いっぱいにうなずくと、彼女は少し怪しむような視線を向けた。
「知ってる人じゃないように見えるけど、初対面だよね?」
「うん。……あ、ごめん、自己紹介した方が良かったよね。あたしは一組の高崎ゆめ、ゆめっちって呼んでね!」
「あは、丁寧にありがと。わたしは二組の大沼陽子、よろしく」
「よろしくねー!」
さすがはゆめっち、打ち解けるのが異様に早い。
陽子ちゃんもすっかり警戒心を解いた様子で話しかけてくる。
「ゆめっちって、なんか全体的に元気だよね。運動会でもないのにハチマキ巻いてるし」
「これ、あたしのトレードマークなんだ。ところで今日は、聞きたいことがあって来たんだけど」
「いいよ、言ってみて」
陽子ちゃんの微笑みに、あたしは内心ムカついていた。なぜって、二日前にあたしがメアちゃんのことを訊きにきた時には、このクラスの面々には全体的に冷たくあしらわれたから。
もちろんそんなあたしなど放っておいて、ゆめっちは質問を続ける。
「このクラス、朝から怒られちゃったって友達に聞いたんだけど、どうして?」
「あは、そんなことか。いや、どうやらウチのクラスの誰かが昨日の夜中に騒いでたみたいで、近隣に住んでた人から苦情が来ちゃったみたい」
「夜中に騒ぐのはたしかに良くないよね。でも、わざわざ苦情を言いに来るほどのことでもないと思うけどな」
「それがねっ! ……っと、声が大きかったかな。ちょっと近寄ってもらってもいい?」
大声でなにかを言いかけてから、陽子は慌てて声をひそめる。どうやら人に聞かれたくない話みたいだ。
ゆめっちが頷くと、陽子ちゃんが近づいてきて、声を抑えながら話しだした。
「実はね、その騒いでた生徒っていうのが、ウチのクラスの芽亜里ちゃんらしいのよ。あの子、可愛いし背ぇ高いし、色々目立つ娘だからゆめっちも知ってるでしょ?」
飛び出してきたのは、思いも寄らない名前だった。メアちゃんがどうしたと言うんだろう。
「いや、知ってるもなにも、メアちゃんは友達だよ!」
ゆめっちが小学一年生のような声色で応えると、陽子ちゃんは少しだけ驚いたような、というより、話したことを後悔したような顔をした。
「わぁ、声が大きいよ。というか、ゆめっちと芽亜里ちゃん友達だったんだ……」
一応、このクラスにはメアちゃん関連でよく訪れているけれど、なんというか……。
あたしとメアちゃんの関係って、みんなに知られてない?
こっちは勝手に親友(今はね)と思っているのに、朝からみんな、あたしとメアちゃんの間になんの繋がりもないって思いすぎじゃない!?
勝手に腹を立てていたその時、あたしは聞いた。
陽子ちゃんの声色が、はっきりと変わるのを。
「悪いことはいわないからさ、やめた方が良いよ、芽亜里ちゃんと付き合うの」
それはあたしにとっても、そして多分ゆめっちにとっても、衝撃的な言葉だった。
「どうして?」
「いやさ、あの娘『ちょっとやばい』って、もっぱらの噂なんだよ。夜中の騒ぎだってそう。たしかにゆめっちの言った通り、本当なら苦情が入るようなことじゃないんだけどさ、芽亜里ちゃんの家が騒がしい……ってなったら、ちょっと事情が変わっちゃうんだよね」
うそだ、うそだよそんなの。
メアちゃんが『やばい』娘のはずがない。いつも上から目線で、どっしりと構えて我が道を行くメアちゃんの家庭に、争いがあるはずがない。
今すぐにでも耳を塞いで、ここから退散したい気分だったけど、ゆめっちは違うみたいだ。
「どう事情が変わっちゃうのか、あたし知りたいよ」
はっきりと、そう告げた。
「芽亜里ちゃんと仲が良いなら、彼女のお家には行ったことある?」
「あるよ! すっごく大きくて、綺麗なお家」
「そうだよね、私も帰り道の途中だから見たことあるけど、同じことを思ったよ。……最初はね」
含みのある言い方だ。それに表情も、どこか怪談噺を面白がるような雰囲気がある。
「あの家、よーく見ればわかるんだけど、おかしいところがあるんだよ。それはね、いつでも窓が閉じてて、しかも全部カーテンが閉め切られてるっていうところ」
思わず記憶を辿る。
……言われてみればそうだ。メアちゃんの家の窓やカーテンはいつも閉め切られていて、人の気配がないのが特徴だ。
でも、それがなんだと言うんだろう。
「部屋の中を見られたくない人もいるよね」
「それはそうだけど、程度が異常だって言いたいんだよ。わたしのお友達も言ってたけど、朝も、昼も、ほんの一瞬ですらカーテンや窓を開けないのはさすがにおかしいでしょ。それに、部屋の中を見られたくないなら、レースの内カーテンを閉めればいいだけの話じゃない」
「でも、」
「ゆめっちは朝起きて、まずカーテンを開けない家庭が想像できる? それに、朝日を浴びたら死んじゃうような、ドラキュラ伯爵みたいな人がいたとして、それが一家全員なんてありえるのかな? ほら、窓を開けなきゃ、換気だってできないよ?」
陽子ちゃんの理屈には、悔しいけどぐうの音も出なかった。なによりあたし自身が、窓やカーテンを開けないということを、信じられないと思ってしまっていた。
陽子ちゃんはさらに追い打ちをかけるように、こちらに顔を寄せてくる。
「あと、これも噂なんだけどね、芽亜里ちゃんの家って、暴力があるらしいの。他クラスの、近くに住んでるって娘が、言い争うような声や音をよく聞くんだって。それに、泣き叫ぶような声も。誰が誰に暴力を……とかはわからないんだけど、凄いらしいよ。だから今回の騒ぎも、その音なんじゃないかって、クラスのみんなは思ってるんだ、本当はね」
信じられないことが、次々と耳の中に入ってくる
それに、表面上は心配するような素振りを見せながらも、その実楽しんでいるのが伝わってくる陽子ちゃんの話し方も癪だった。
最後に陽子ちゃんはこう付け加えた。
「話が脱線しちゃったかもしれないけど、わたしに言えるのはこれくらいかな。ゆめっちの友達関係は勝手だけど、こういう話もあるってことを、覚えておいて欲しいのよ」
「うん、わかった。アドバイスありがとう!」
ゆめっちの感謝の声とともに、会話は終わった。
あたしは少なからずショックを受けていた。
その原因は陽子ちゃんの話の内容よりも、それを聞いたゆめっちがケロっとした様子だったことが大きかった。
ゆめっちは確かにあたしの理想像で、真逆の存在だ。それでも、メアちゃんを想う、心の奥深くの部分は一致していると思っていたんだ。
それなのにどうして、彼女は平然と、陽子ちゃんの話に感謝なんてできるんだろう。
あたしはもう、気を失ってしまいそうなのに。
[Ⅰ-夜]夜の情報提供者→八百屋雅章(レコード好き)
学校は早めに終わった。実は、合同実験が行われた日には、その片付けのために生徒は半日で下校になるんだ。
十二月とはいえ、まだ日は高い。
帰路につきながら、あたしはゆめっちに話しかけた。
『ところで、ゆめっちはあの話についてどう思う?』
「あー、焼きそばを揚げちゃった話?」
『待ってそれ初耳だけどなんの話!? ……じゃなくて、陽子ちゃんって娘から聞いたメアちゃんの話だよ』
相変わらずテキトーな裏自分に、再三尋ねる。
すると山道を下りながら、ゆめっちはすぐに答えてくれた。
「どう思うもなにも、ゆめっちはゆめちゃんでもあるんだから、思っていることは同じだよ」
本当だろうか。
あたしは他の生徒に声が届かないことを良いことに、思いのたけを吐き出す。
『本当にゆめっちがあたしと同じ思いなら、あんな風に言われてショックでしょ。なんとかしてよ』
「なんとかって、どうすればいいの?」
オウム返しに尋ねられて、ちょっと困ってしまった。
正直言うと、あたしもどうしていいかわからない。
だって、なにもかもわからないんだから。
そこまで考えて気がついた。
『そっか、あたし不安なんだ。わからないことが、不安で仕方ないんだ』
「だったら、どうするの?」
あたしのくせに、ずいぶん難しいことを訊いてくる。
それでも、彼女のお陰で踏ん切りがついた。今までのようにお遊びでなく、本気で、メアちゃんのことを知ろうとすることに。
『あたし、ゆめっちを見習って、訊いてみることにする。メアちゃんを通報したとんでもないやつと面会して、本当はどうだったのか問いただしちゃおう』
「なら、まずはその人を特定しないとね」
『それなんだけど、あたしに考えがあるの』
不思議と、ゆめっちと息が合っていた。
それは彼女が、あたしの一部だからだろうか?
勢いづいたあたしは、職員室前にやって来ていた。
「ここに来たってことは、やっぱりメアちゃんの担任に直談判して聞き出すんだね」
『ダメダメ、最近はシュヒ義務? とか、個人ジョーホー? とか色々うるさいでしょ。担任に訊いたって教えてくれないよ』
「ゆめっち、聞き出す自信あるよ!」
なんて末恐ろしいことを……。
『本当にゆめっちのそういうとこ憧れるよ……あたしだけど。でも、もっといい方法があると思うんだ』
あたしは職員室の扉ではなく、その前の廊下の突き当りの方を指差した。ま、あたしはいま精神体のような、魂だけの存在なので、指を指したといっても感覚的なものだけどね。
廊下の突き当りには、小さな玄関があった。真っ赤なフロアマットが敷かれ、脇の収納箱にスリッパが収められたその場所は、来客の人専用の玄関だ。
玄関の中央には、小さな台と、その上に開かれた名簿が乗っかっている。
『あそこに来客用の名簿が見えるよね? 学校の中に入って教師と話すには、絶対にここを通って名簿にサインしなきゃいけないから、例の苦情を言った誰かの名前もあるはず』
「ゆめちゃんって、頭いいね」
『まさに自画自賛ってね、さ、早く見に行こ』
すぐに玄関のガラス戸の方に近づいていって、ゆめっちと一緒に名簿を見下ろす。
「今日の分は三人、名前があるよ」
『さすが山奥の七宮女子、人の出入りが少なすぎる。……うーんと、今日来たのは、佐藤さんに、雨川さんに、八百屋さん……八百屋さん!?』
いきなりの珍名字に絶句する。
「給食の野菜を持ってきてくれたのかな」
『違うよ! 確かに紛らわしいけど、これは「八百屋」っていうすっごく珍しい名字なんだよ』
確か東北の方にルーツのある名字だったような……。
「そんなことよく知ってるね」
ゆめっちがまた褒めてくれたけど、ごめんねゆめっち。あたしは別に雑学王でも、民俗学者でもないんだよ。
そう、この「八百屋」という珍しい名字のことを、あたしは以前から知っていた。
『ゆめっち、あなたはあたしなんでしょ、よく思い出してみれば、この名字だけはちゃんとあなたにも心当たりがあるはずよ』
「あっ、そっか。確かにゆめっちも知ってるよ、八百屋さんのこと!」
案外とすぐに合点がいった様子だ。
やはりあたしたちは、同じ記憶を共有している。
そして、同じ感覚も。
好きな人も。
『どうやら、苦情を言いに来たのはこの八百屋さんで決まりみたい』
「うん。そうと決まったらすぐに行こうよ。そうじゃなきゃ、『お店』が閉まっちゃうから」
あたしたちはすぐに、学校を飛び出した。
*
目的地には、学校から三十分ほどで到着することができた。
あたしの目の前には「八百屋レコード」という巨大な看板が掲げられた、八百屋なのかレコード屋なのかハッキリしない妙な店があった。しかも店の入り口の手前にはちょっとしたテーブルと椅子が置かれているし、外装はやたらとモダンだ。それが純喫茶のような雰囲気も演出していて、いいたいなんの店なのか、益々わかりにくい。
あたしが「八百屋さん」という人のことを知っていた理由がこれだ。このあたりで八百屋さんと言えば、このレコード屋の主人しか考えられない。
なによりこの店の立地は、メアちゃんの家からほんの一本裏の通りに位置している。この場所なら、メアちゃんの家に苦情が行ったということにも納得できる。
ゆめっちは到着するやいなや、入り口の自動ドアをくぐってどんどん店の中に入っていく。
ドアの向こうには、商品棚ごとに整理されたレコードの側面や、売出し中の商品が書かれたポスターなどがあちこちに張り出された、古き良きレコード屋の景色があった。
「こんにちは、開いてる?」
普段の調子で、常連のお客のように入っていくゆめっち。
その馴れ馴れしくもよく通る声はすぐに響き渡って、店の奥のカウンターに座っている店主のもとにまで届いたようだ。
見たところ五十代くらいの店長は、皺の刻まれた顔を上げると、すぐに満面の笑みでカウンターから出てきた。
「おや、珍しいお客さんだね。もちろん開いていますとも」
「なにが珍しいの?」
「あははっ、最近はレコードよりもカセットの音楽が主流でしょう? お客さんのようなハイカラさんは、なかなかいらっしゃらなくてね。さ、何をお探しですか」
なるほど切迫した事情があったみたいだ。どうりで歓迎されていると思った。
でも、
「ごめんなさい。今日来たのはレコードを買いにじゃないの」
「と、言いますと」
「おじさんの名前って、八百屋さんだよね?」
「え、ええ。私がまさしく店長の八百屋 雅章ですけど……」
「じゃあ、店長さんがうちの学校に苦情入れたんだ」
取り調べるような口調のゆめっちに、初老の八百屋店長はさらに皺を深くして息詰まる。どうやら、あたし達の目的にはすぐに気がついたようだ。
「おやおや、これは七宮女子のお客さんでしたか。まぁ、苦情……といっても、些細なものですよ」
「些細? そんなはずない、だってメアちゃんのこと悪く言ったんでしょ。それに、メアちゃんの家庭環境がどうとか、あることないこと言って……!」
ちょっと言い過ぎかと思ったけど、ゆめっちの言葉には全面的に同意できる。
あたしの大好きなメアちゃんを、よくも陰湿なやり方で追い詰めてくれたね!
と、意気込んではみたけれど、対する店長はますます困惑するばかりだった。
「私のせいでご気分を害されたようで、すみません。しかし、本当に申し訳ないのですが、その『メアちゃん』という娘さんのことは、本当に心当たりがないのです」
「心当たりがない? 苦情って、この店の近くに住んでる結城芽亜里ちゃんっていう娘のことじゃないの?」
それに店長は激しく頷いた。
「えぇ、えぇ! 確かに私は昨晩の夜のことについて、今朝方、七宮女子の先生に意見を言いに行きました。しかし意見というのは、その芽亜里ちゃんという個人に対しての意見ではないのです」
男性にしては低めな身長が、さらに縮もうかというくらい恐縮する店長の言葉は、嘘には思えなかった。
だからあたしは、怒りなど忘れて、ただ純粋に真実を求めていた。
「教えてくれますか」
「もちろんです。……実は、近頃私は夜中の騒音に悩まされているのです。うちの店では昼の販売が終わると、夜は遅くまで音楽機器の修理業務や仕入れ作業などをしているんですが、近隣の民家から結構な大きさの話し声が、通りまで響いてくるのです。しかも夜中の二時や三時にもですよ?」
想像してみると、店長からすれば確かにうざったい話だ。
「どんな声が聞こえてくるんですか?」
「子供の声、というか、高校生くらいの若者の話し声です。それもヒソヒソ話すのではなくて、言い争うような声です。それが通りにまで聞こえてくるわけですから、こっちとしたら恐怖そのものですよ。それに、そんな夜中まで起きていては、学生さん方の学業にも身が入らないでしょうから、仕方なく学校に届け出たという次第です」
「そうだったんだ……」
「はい、ですから、特定の方のことを悪く言ったわけではありませんし、生徒さんを責めているわけでもないのです。あくまで学校側の指導が足りないと言いたかったんです。それに、当然七宮女子だけでなく、近隣の高校にはすべて届け出ました」
いま確信した。このひとはきっと良い人だ。
ただ純粋に近隣に住む高校生のことを思いやった結果らしい。それでも学校にまで言いに来るのはちょっとどうかと思うけど、もしあたしが逆の立場なら、そんな生ぬるいことはせずに警察に相談していたかもしれない。
途端に申し訳なくなってきた。
『ゆめっち、この人悪くないよ。謝ろ?』
そう促すと、ゆめっちはぺこりと頭を下げた。
「なんか、ゆめっちは思い違いをしてたみたい。悪く言ってごめんなさい」
「いえ、こちらこそ意図が正しく先生方に伝わらなかったようで」
「店長が謝ることないよ、そうだ! お詫びにこのレコード買っていくよ」
んん!?
ゆめっちは近場にあったレコードを手に取ると、そのままカウンターの方に歩いていく。
「おやおや。これはまいどあり!」
店長も上機嫌でレコードを受け取ると、会計作業に勤しみだした。
いやいやいや、ちょっと待って欲しい。少しばかり口が過ぎたお詫びに商品を……という気持ちはわかるけど、えっとね、そのお金を出すのはね……。
『ゆめっち、あのレコードいくらするの?』
「三千円って書いてあったよ」
『三千円!? そんなにあるんなら街に行って劇場見たほうがいいよぉ。第一、レコードプレーヤーなんか数年前に粗大ごみとして回収されて行ったんだよぉ~』
嘆いているうちに、店長はすっかりレコードの会計と包装を終わらせていた。
「はい、里見浩太朗の『熱酒と冬景色』だよ。帰り道落とさないでね」
うそだ、こんな全然知らない演歌に、ぴちぴちの高校二年生のあたしが三千円も……。
「ありがと!」
ゆめっちは〝あたしの〟鞄から〝あたしの〟財布を取り出すと、そのまま気前よく払ってしまった。
あーあ、あれだけあれば色々できたのに。
呆然としていると、背後から店長の声に呼び止められた。
「あ、そうだお客さん」
「なんですか?」
「さっき言ってた、芽亜里さん、という方は、この店の裏の通り正面に大きな家がある結城さんの娘さんのことですよね」
その名前にドキッとする。
「あ、やっぱり心当たりあったんだ! それで、メアちゃんがどうかしたの?」
明朗なゆめっちの返事に、八百屋店長は渋面を作っていた。
「言いにくいのでさっきは話さなかったのですが……、実は結城さんの家からも話し声が聞こえることがあるんです。それも、若い女の子が結構な大声の怒声や、物音が、たまに――」
そこまで言いかけて、
「おっと、これでは本当に特定の個人を悪く言うことになりかねませんね。すみません、忘れてください」
店長は軽く頭を下げてから、カウンターの方へと帰っていった。
「…………。」
店を出ると、もうすっかり日が傾いて、辺りは夕焼けだった。
カウンターの裏に時計が掛かっていたけれど、時刻は確か午後の四時半を過ぎだったはずだ。きっともうすぐ日が落ちる。
「さーかばっが、さかれば、あーつい~るん、るん、るん」
家への道を歩きながら聞こえてくるのは、適当極まるゆめっちの演歌だ。どうやらさっきのレコードがいたく気に入ったらしくて、レコードの包装紙の裏に書かれた歌詞を熱唱しているらしい。
普段なら「まったく、公衆の面前で……」と追求するのがあたしかもしれないけど、今はとても気分じゃなかった。
そんな思いを、正直に打ち明けてみる。
『ね、ゆめっち、あたしはどっちを信じれば良いんだと思う?』
「おーまえがきれーで、……え? どっちって、誰と誰のこと?」
どうやら気がついていないみたい。
誰と誰、というのは陽子ちゃんと八百屋店長の二人のことだ。今日はこの二人に、一つのことに対する事情を聞いてみたけれど、結果としてとても気になる点が出てきた。
まず、陽子ちゃんの話をまとめると、「メアちゃんの家では、夜中に騒ぎがあって苦情が入った。実はメアちゃんの家では家族間の暴力が起きているという噂」ということだった。
一方、苦情を入れた店長本人の話をまとめると、「メアちゃんの家だけでなく、この一帯の若者はみんな夜中に騒いでいる。でもメアちゃんの家でも、女の子の大声が聞こえた」ということになる。
二人の話を比べてみると、いくつかの認識の違いはあるけれど、大筋では同じことを言っている。
『もちろん、苦情を入れた本人である店長の話が、正しいんだと思う。それに、直接聞いたわけじゃない陽子ちゃんの話が、少し偏るというか、よりメアちゃんの家のことを面白おかしく話す方向に行くのも、まぁ、……ちょっとはわかる気もする』
「それなら簡単じゃん、店長の話を信じれば良いんだよ」
どこまでも明快なゆめっちの言葉を、あたしは否定する。
『違うんだよ、あたしが気になってるのは、陽子ちゃんと店長の話が中途半端に〝似てる〟っていうことなんだよ。ほら、週刊誌がフォーカスするようなゴシップ話って、現実からまったくかけ離れたようなものが多いじゃん』
「どうせ作り話なら、大きな嘘の方が面白いもんね!」
『陽子ちゃんもさ、言い方は悪いけど、どちらかと言えば、そうやってメアちゃんのゴシップを作るような人だと思う。だから彼女がする話がもし作り話なら、真実からはかけ離れていなきゃいけないと思うんだ』
言葉を切って、一度息を吸う。
この先を言うのは、あたしだって辛い。
『……でもさ、店長の話、つまりはなんの脚色もない本当の話も、メアちゃんに関しては陽子ちゃんの話とほとんど同じだった。夜中の大声、そして物音。一緒だよね?』
店長は大声がしたと言っていた。しかも騒いでいたのは女の子だ。
『だから、あたしは陽子ちゃんの「メアちゃんは家庭に問題がある」とか「暴力があるらしい」とかって話も、あながち全部ゴシップには思えないんだよね。悔しいけどさ』
レコード屋の前の通りは、短い間にもうすっかり日が傾いて、夜がそこまで迫っていた。もちろん、この一本裏のメアちゃんの家にも、同じようにすぐ夜が来る。
店長が言うように、今夜もメアちゃんの家からは謎の怒声が響くのかもしれない。
『やっぱりメアちゃんって、家庭に問題とかあるのかな。空ちゃんとも、仲悪いのかな。でも、あたしに「妹を学校に連れてきて」って頼んだのもメアちゃんだし、そんなに仲が悪いとは思えないんだけどなぁ』
「…………。」
吐き出した言葉に、返事はない。
『ね、ゆめっちはどう思うかな……あれ?』
足元で、小さな音がした。
見ると、さっきまでゆめっちが持っていた演歌のレコードの包みが落下して、無造作に地面に転がっている。
はっとしてあたりを見てみると、さっきまで薄くあった西日はすっかり消え失せて、真っ暗になっていた。
そうだった。〝鏡のおまじない〟による裏自分は、夜には消えてしまうんだった。
完全に忘れちゃってた。
「あーあ、今日はこれで時間切れか」
ま、今日訊けなかったことも、また明日ゆめっちに相談すれば良いだろう。
あたしは家路を急ぐ。
今晩もまた〝鏡のおまじない〟をするために。