表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

【序】大小かねない私

【序】大小かねない私


〈十二月一日 木曜日〉


 朝の教室はきらめいて、窓の向こうには雄大な自然が映えている。しんとした机や椅子の間からは、青春の雰囲気が静かに漂ってくるみたいだ。

 よし、これでムードはばっちりだ。我ながら、早朝の教室というチョイスが良かった。

 あたしは前を向いて、一歩前へと進み出る。

 目の前には一人の、いや、一輪の可憐な花のような、麗しい女の子がいる。

 あたしよりずっと長身の彼女は、制服の上から淡いクリーム色のニットカーディガンを羽織り、全身に清楚をまとわせながら、しっとりと立っていた。その表情は天使のように柔らかく、正面で左右に分かれたお下げ髪の向こうから、汚れを知らぬ宝石のようなきれいな瞳があたしを捉えている。

 彼女の名前は、結城芽亜里。愛称はメアちゃん。そして、あたしの生きる理由だ。

 あたしは一歩前に出て、その天使に向かって勢いよく告白する。

「大好きです、この世で一番大好きです。だからあたしと付き合って下さい、結城芽亜里さん」

 言ってしまってからも、心臓がバクバクと鳴っていた。好きな人を相手にするというのは、いつでも命がけなんだ。

 そんなあたしの目の前で、メアちゃんは柔らかな笑顔を崩さずに一歩前に出た。膝丈のスカートから伸びる、黒のロングソックスに包まれた健康的なその足に思わず見惚れる。

「なるほど、今日は直球勝負というわけかしら?」

 煽るような質問に、すでにはち切れそうな心臓がさらに暴れ出す。

 とっさに胸に手を当てて、あたしはメアちゃんの質問に頷いた。

「うん、だってあたしはあなたを愛して――」

「ごめんなさい。私、あんたみたいなのはタイプじゃないの」

 ……はい、終了。

 あたしの告白は、熱烈な愛のセリフを思いっきりメアちゃんに中断されて終わった。

「うっ……えぅっ……ぞん゛な……」

 あんまりな結末に、涙がぽろぽろ溢れ出してくる。

「あら、泣いてるの?」

「泣いてるよぉ! 悔しいもん」

 涙で顔じゅうをグシャグシャにして、拳を握りながら叫ぶあたしに、メアちゃんは冷ややかな視線を向ける。

「冗談でしょう? だってゆめ、あんた私に振られるこれで何回目かしら?」

「ひゃっがいめぇ……っ!」

 鼻水を出しながら即答すると、メアちゃんはため息をついた。

「よく覚えてるじゃない。確かに今年に入ってから百回は振ったわね。……百連敗って、なかなかできることじゃないわよ、誇りに思いなさい」

「じゃあ付き合ってよぉ!」

「何が『じゃあ』よ、確かにあんたの根性は凄いけど、もうちょっと賢くなった方がいいわね。具体的に言えば、そろそろ私を諦めて頂戴」

 ぴしゃり、といった感じに言い放つメアちゃん。

 あたしは去年、つまり高校一年生の時に出会ったメアちゃんに恋をした。

 それ以来、何度断られてもめげずに告白をしてきた。さっき自分で言った通り、これで通算百回目、そしてその全てで断られたから、同時に百連敗中である。そんな戦績を考えれば、たしかにメアちゃんの言う通り、諦めたほうが良いのかもしれない。

 でもそんな……そんなこと……。

「できないよ、諦めるなんて。……だって芽亜里がこんなに好きにさせたんじゃん……」

 うっとりと呟くと、ただでさえ冷淡だったメアちゃんの視線が、睨んでいると言っても差し支えがないほど厳しいものにランクアップする。

「私のせいみたいな言い方しないで、気持ち悪い。あと、こういう時だけ芽亜里、って呼ぶのやめなさいよ」

 もう、そんな言葉使いしちゃって。でも好きな人から怒られるのって、結構幸せだと思うのはあたしだけなのかな? 

 ……じゃ、なかった。いま思い出したけど、メアちゃんは「芽亜里」っていう名前の響きが嫌いみたいで、メアちゃんって呼ばないと不機嫌になるんだった。

「そうだった、ごめんねメアちゃん。とにかくあたし、責任取ってメアのこと幸せにするね」

「どうしてさり気なく呼び捨てしながらフィアンセ面してるのか知らないけど、とにかく今回の返事はノーよ。というか、未来永劫、あんたはノー」

 半ば言われてなれてきたメアちゃんの辛辣な言葉、それでも本当に好きな人からそうやって拒否されるのは本気で辛いし、へこむ。

「そんな、どうして……」

 口からこぼれ出した疑問の言葉に、メアちゃんははっきりと答えた。

「だから何度も言ってるでしょ? ……私は、大きいものが好きだって」

 そうだ。

 これこそがあたしの最大の障害。

 何かに熱狂的なほどはまり込んでいる人のことを「マニア」って呼ぶらしいけど、メアちゃんはまさに「ビッグ・マニア」と呼んでいいほどに、とにかく〝大きなもの〟を愛していた。

 メアちゃんは素早く目を上へ下へと動かして、あたしの全身を吟味するようにしてから言い放つ。

「……それがあんたはどう? バカで、チビで、おまけにその貧相な体。いくら体のラインを出したくないからって、そんな芋っぽいフリルのブラウスなんて羽織って……」

「違っ、って……そんなに言うことないじゃん。それに、これは最近流行ってるんだよ?」

 この通り。必死に言い返してはいるけど、メアちゃんの仰る通り、あたしには身長も頭脳も度胸もない。

 つまり、メアちゃんのタイプからは完全に外れていた。

 メアちゃんは「もう飽きた」とばかりに後ろを向くと、すぐ近くの机にでかでかと置かれた、真っ赤なラジオカセットを撫でる。

「あんたに比べると、やっぱりこっちの〝彼〟の方がずっとエレガントでステキだわ。どうかしらこのフォルム、私を抱きしめてくれそうでしょう?」

 それは、最近発売されたばかりの有名オーディオメーカーの新作ラジカセだった。最近は持ち運びできるサイズの音楽プレイヤーも発売されているというのに、メアちゃんはこういうものばかり使っている。

「あたしって、そんな角張った無機物に負けてるの?」

「ダブルスコアで負けてるわ」

 即答だった。

「なんで……」

 ラジカセを凝視しながら崩れ落ちるあたしを無視して、メアちゃんは優雅に机の上の巨大なラジカセを抱えた。

「話はこれだけ? ほんと、通算百回もあんたの玉砕に突き合わされるこっちの身にもなって欲しいわ。それじゃ……ごきげんよう」

 さっさと自分のクラスの教室の方に消えていく後ろ姿に言葉も出ない。ただ悲しくて、悔しくて、やっぱり今回もダメだったというこの思いは、百回目でもやっぱり慣れない。

 でも、

「待って!」

 見えない希望にすがりつくように、あたしは叫んでいた。

「何?」

 ラジカセを抱えたまま立ち止まって、こっちを見つめるくりくりとした瞳に息がつまる。うっかり呼び止めてしまったけれど、ノープランすぎてどうして良いのかわからない。

「どうしたら、どうしたらメアちゃんは……その」

「肝心な時に声を張れないのがあんたの悪い特徴よ。ほら、聞いてあげるから、もっとはっきり言いなさい」

 でもあたしのぼそぼそとした言葉に、メアちゃんはきっぱりとそう言ってくれた。

 彼女はちょっと腰に手を当てて眉をひそめながらも、真摯な言葉をかけてくれた。そんな、あたしとは鏡のように真逆で、カッコイイ姿に惚れ直しちゃう。

 深呼吸してからもう一度、言葉をつむいだ。

「どうしたらメアちゃんは、あたしのことを見てくれるようになるの?」

 それが全てだった。

 あたしの目的は彼女に振り向いてもらうことだけなのに。百回の告白の果てにも、その方法はわからなかった。

 悲痛な思いが伝わったのか、あたしのセリフを聞いて一瞬だけ、メアちゃんは面食らったような、意外そうな表情を浮かべた。でもそれはすぐに、余裕そうな意地悪なものに変わる。

「ふーん、あんたってそんな目ができるほど私が好きなのね」

「うん」

 即答するあたしに、メアちゃんはさらに妖しい笑顔を向ける。

「そうね、あんたのことを真剣に考えてあげても良いけど、一つ条件があるわ」

 え? 

 降って湧いたような話に、勢いよく食いつく。

「教えて下さい。おねがい」

「実はね、あんたに頼みたいことがあるのよ」

「何をすればいいの?」

 必死に尋ねるあたしを見下ろしながら、メアちゃんはゆっくりと言う。

「ふふ……あんたに、私の妹のことをお願いしたいのよ」

 初耳だった。

「えぇ!? メアちゃん妹なんていたの?」

「あら、知らなかった? ごめんなさい、私って記憶力が悪いからすぐ忘れちゃうのよね」

「気にしないで、言おうと思ってたことを忘れるなんてよくあるよ」

「そうね、すっかり忘れてたわ……あんたという存在を」

「いや忘れてたのそっち!?」

 ひどすぎる。

 だけど、今回の提案には光が見える。

 あたしはさらに踏み込んだ。

「……ともかく、妹さんをどうすればいいの? 私がメアちゃんの彼女ですって名乗り出れば良い?」

「あんたにはすでに『他人』って立派な称号があるんだから、それは勘弁して欲しいところだけど……まあ、今回は特別に彼女面しても良いわ」

「えっ」

 やだ、彼女面して良いなんて……。

「もっとも、もしも私の妹を見つけられたら、だけどね」

 浮つくあたしに、メアちゃんはそう付け加えた。

 でも、穏やかじゃない一言だ。

「どういうこと?」

 ちょっと真剣になって訊いてみると、メアちゃんは目を伏せて答えた。

「私の妹はね、引きこもりなのよ。ずーっと家から出てこないの」

「そんなことになってたんだ。ところで、メアちゃんの妹って、いくつ?」

「十七よ」

 その一言にあたしは、このあいだ麦茶とめんつゆを間違えて飲んでしまった時くらい驚いた。

「嘘、十七歳ってことは高校二年生、つまりあたしたちと同学年になっちゃうじゃんっ!」

「バカ、先を急がないでよ。私たちは双子よ、双子の妹の話をしているの」

 たしなめるようなトーンのメアちゃんに、途端に恥ずかしくなる。

 そうか、双子ちゃんだったのか。

 でもそんな話、一度も聞いたことなかった。メアちゃんとは知り合ってもう二年になるけど、彼女の家族構成なんて、一度も話に出なかった。ずっとずっと大好きで、何でも知っているつもりだったのに、実際は何も知らなかったんだ、あたしは。

 メアちゃんは話を続ける。

「彼女はね、高校受験に合格した後、引きこもりになってしまったの。本当は私たちと同じ、この七宮ななみやに来るはずだったのだけどね」

 七宮、というのはつまり、あたしたちの通っている七宮女子高校のことだ。都内のなかでも最西端の端っこ、県境の山中に建てられたへんぴな高校である。でもここにはメアちゃんという国宝級の美人がいるし、話を聞く限りでは妹ちゃん(メアちゃんの双子の妹なので絶対にかわいい)も揃って入学してきてくれる予定だったらしい。

 でも、現実はそうはならなかった。

 メアちゃんはいっそう深刻そうな顔をして、やや声を落とした。

「高校生になってすぐに彼女は引きこもってしまった。だからもうこの七宮に彼女の籍は無いわ。つまり、書類上はいない人間ということになっているの」

 〝いない人間〟

 それは怖くて、上手く言えないけど、どこか引っかかる言い方だった。少なくとも実の妹に使う言葉ではない気がする。

 でも、その違和感に突っ込む資格は、あたしにはない。それくらいはわかる。

「その妹ちゃんを、どうすればいいの?」

 とりあえず結論だけを求めると、メアちゃんは暗い雰囲気を払い飛ばすように、にこっと笑って答えた。

「簡単よ。彼女を家から連れ出して、この場所に連れてきてくれるだけでいいの。高校生の学び舎、青春の大舞台っていうのを、彼女にも見せてあげたいのよ。そうしたら、外に出る勇気を与えられるかもしれないから」

 暖かくて、慈悲に溢れたその言葉は一瞬にして、あたしの疑念の全てを吹き飛ばした。

「うわーっ! あたし感動したよ。約束する、絶対に妹ちゃんをここに連れてくるよ!」

 感動のままに、勢いよくメアちゃんにジャンプで抱きついて頬ずりする。身長差のある彼女の大きな体は、ちょっと冷えていたけど、甘い匂いがして、とても柔らかかった。

「ちょっと、迷惑だから離しなさい」

 くそぅ、すぐに引き剥がされてしまった。

 乱れた服装を直しつつ、メアちゃんは冷ややかな口元だけの笑顔を浮かべる。ちなみにこのどSな顔は、彼女のデフォルトの表情であり、あたしの一番好きな顔でもある。 

「問題というのは、一見単純そうに見えるものほど難しいというものよ。姉の私にだって、それはできないことだったのだから」

「メアちゃんと妹ちゃんって、仲悪いの?」

 反射的に質問すると、メアちゃんは露骨にため息をついた。

「あんたって、つくずく言葉を選ばないわよね。デリカシーっていうのは、普通は習わなくても身につくものよ」

「うぅ……ゴメンナサイ」

 あたしは小さくなる。

 いくらなんでもさっきの質問は失礼だった。あれじゃまるでメアちゃんに原因があるみたいだし。

 さらなるお叱りも覚悟するが……メアちゃんは案外穏やかな様子で頷いた。

「でもそうね、妹との関係は良好ではなかったわ」

「それはまた、どうして?」

 またまた、オウム返しの質問だとわかっていた。

 わかっていたけど、しおらしいメアちゃんのらしくない様子に気になってしまう。

 メアちゃんは、静かに答えた。

「あえて言うなら……似すぎているから、かしら。ほら、鏡に映った自分の姿って、まったく同じ動きをしているように見えても、実は真逆に動いているでしょう? それと同じで、どんなに似たもの同士でも些細な違いはあるもので、そして似通ったもの同士だからこそ、そんな違いが許せなくなるものなのよ」

 その言葉で、メアちゃんが何を伝えたいのか、どんなニュアンスを汲み取って欲しいのか、バカなあたしには半分もわからない。だけど、とても悲しい思いが込められていることだけはよく伝わってきた。

 ……よし、難しいことを考えるのは止めよう。

「とにもかくにも、妹ちゃんを外に連れ出せば良いんだね? 任せといてよ!」

 できるだけ胸を張って、元気に宣言する。

「期待しておくわ」

 そうやって微笑んでくれたメアちゃんに嬉しくなる。

 ついでに、気になっていたことも確認しておく。

「それで……その、見事できた暁には……いったいどんな報酬が貰えるのでしょうか?」

 なるべくかしこまって、あたしはおずおずと切り出した。それはある意味、一番大事なことだったから。

 対して、やっぱりメアちゃんは余裕だった。

 つかつかと歩み寄ってきて、あっという間に距離を詰める。Sっけのある、人をゾクゾクさせるその眼差しが、すぐ目の前にあった。

 メアちゃんは緩やかに口を開き、そっと呟く。

「……あんたの望みを、なんでも一つ叶えてあげる」

 それから、彼女は優しくあたしの頬をひとつ撫でた。


 一瞬にして、あたしは冷静さを失っていた。

 なん……でも……? 

 なんでもって、なんでも? 

 それって、そういう、ことだよね……?

 ここが学校じゃなかったら、完全に叫んでいた。でもギリギリセーフ、脳みその片隅に残った理性が「はい言質貰いましたぁぁぁ! 今から式場選んでくるからね!」と、早朝の校舎に声を轟かせることを防いでくれた。

 とにかく一息ついて、頭を冷やす。冷静になれ、まだあたしは何も達成していないんだぞ。

 ついでに、重要なことを一つ確かめ忘れていたことも思い出して、メアちゃんの方に向き直る。

「そういえば妹ちゃんの名前を聞き忘れてたよ、どんな名前?」

 それを聞かなくては始まらない。というか、最初にメアちゃんの方から言ってくれても良かった気はする。

「…………。」

 しかし、そこで一瞬の間が開いた。

 メアちゃんは少し黙って。なにか難しいことでも聞かれたかのように、ちょっとだけ腕を組んで考えて見せる。

 やがて彼女は、秘密を明かすように、ひっそりと告げた。

「彼女の名前は、そら結城ゆうきそら。くれぐれも、すぐに探し出して頂戴ね」

 それだけ言うと、メアちゃんはまたラジカセを抱えて廊下の方へと歩いていく。もうみんな登校し始める時間だし、隣のクラスへと行ってしまうんだろう。

 ゆうき そらちゃん……か。

 優しい響きだけれど、ふとした拍子に忘れてしまいそうな儚げな名前。その雰囲気が去っていくメアちゃんの後ろ姿と重なるようで、なぜだか胸が苦しくなった。

 もう呼び止められはしない。

 残されたあたしは、絶対に妹ちゃんを見つけるという決意だけを胸に、自分の席へと向かう。

 朝早くメアちゃんを呼び出したせいで、まだこの空間には誰もいない。

 木造の校舎。窓の隙間から匂う山の香り。冬の寒さ。

 メアちゃんがいなくなっただけで、教室は魔法が解けたように静かになった。




 放課後になってすぐ、あたしは教室を飛び出した。

 目的地はすぐお隣の二年二組、メアちゃんのクラスだ。

 そんなに急ぐこともないだろうに、帰宅へ部活へと慌ただしい同級生たちのあいだをぬって二組の教室を覗いてみる。

 が、どこを探してもやっぱりメアちゃんの姿はない。

 というか、そもそも放課後にメアちゃんを捕まえられる確率は限りなく低かった。あたしはいつも一緒に帰りたいのに、十回のうち九回くらいは、メアちゃんはこうしてすでに帰宅しまっているからだ。帰宅、という競技があったなら、メアちゃんはぶっちぎりで一位だろう。

「もう、メアちゃんったら……」

 嘆いてみても、ただ虚しい。

 ……いや、

「そうじゃない。あたしは妹ちゃんのことを聞き込みに来たんだった!」

 やっと本題を思い出したので、とにかく教室の入口付近に立っていた女子に尋ねてみる。

「ちょっと良いですか?」

「急いでるんだけど」

「そうですか、すいません」

 いきなり出鼻をくじかれた。でも急いでたならしょうがない、張り切って次に行こう!

 今度は黒板の前で、板書を消している彼女だ。

「少しだけお話いいかな?」

「あなた誰?」

「なんでもないです!」

 失敗。あたしを見る目が凄く冷たかった。

 でも負けちゃいられない、絶対にメアちゃんの妹ちゃんの情報を掴んで見せる。

 気持ちも新たにして、お次はひとりで教科書を読んでいたあの子だ。

「あなたのクラスの芽亜里さんについて、聞きたいことがあります!」

「もしかして……あなた付きまといの方?」

「…………。」

 黙って、教室を出た。

 結果はもちろん惨敗。空ちゃんのことどころか、メアちゃんの様子すら知れなかった。

 でもでも、まだまだ諦められない。

 ……そうだ。そもそも、見知らぬ人とお喋りすることがすごーく苦手なのに、しょっぱなから聞き込みに走ったのが間違いだった。

 こうなったら実地調査だ。

 探偵なら、足で稼ぐんだ。


 ――三十分後、あたしはメアちゃんの家の前に立っていた。

 聞き込みでの調査を諦めて、ひたすらそこからはひたすらダッシュで山道を下って三十分。今度は趣向を変えて、そらちゃんの総本山を攻めようと思ったんだ。

 目の前には、二階建ての大きな家がある。

 高いブロック塀で囲まれた長方形の住宅で、屋根は紫で、壁はくすんだクリーム色。

 この場所ももちろん、あたしにとっては特別な場所。

 実はこの家の場所は、メアちゃんに教えられたんじゃない。自分で見つけたんだ。

 ある日の放課後に、奇跡的にメアちゃんの後ろ姿を見かけて……それから気がついたら後ろを追いかけていて……。と、そんな風にしていたらたどり着けたんだ。

 でも結局、電柱の裏に隠れて様子を伺っていたのが最後の最後にバレて、かなり説教されたっけ。

 あの時、この家の塀の前でした会話を思い出す。


『これは立派な付きまとい行為よ。……ふん、おおかた『付きまといに警察は介入できないから、これくらい大丈夫でしょ』みたいな軽い気持ちで追いかけてきたのでしょうけど、とことん下劣ね。最低だわ、あんたは』

『ごめんなさい、もうしませんからぁ』

『一度したらもう終わりなのよ。それに、言葉ではなんとでも言えるわ。もし本当に心から謝罪していると言うなら、態度で示して頂戴』

『態度……というと、具体的には何をすれば良いんでしょうか?』

『ふふ、そうやっていつも他人様に訊くことしかできないのね。ならあたしが説明してあげるわ、本当の、謝罪のやり方というものをね』

『ヒッ……』

『そんなに身構えることないじゃない。あ、そういえば知っているかしら? こういう道路の上でも、恥を捨てればできることって、色々あるのよね』


 ……そこからはもう、スゴかった。

 思い出すだけでガタガタと全身が震えてくる。

 今回だって、家の前まで来て偵察しているのがバレたらどんな目に遭うかわからない。

 あたしはすぐ近くの路上に駐車された車の後ろに隠れて、そこから様子を伺うことにした。

 そうしてしばらくじっと家の様子を見たけれど、特に変化はなし。妹ちゃんどころか、家の前の通りにすら人影はない。

 すぐ隣にあるハンバーガーショップにも、通りに面したスーパーにも、極端なほどに閑古鳥が鳴いている。

 ここは今、都会で一番寂しい場所かもしれない。

 ああ、メアちゃんは今頃、あの家の中で勉強でもしているのかしら。あの小さくて上品な手で、教科書を捲りながら、優雅に宿題を済ませているのかも……。

 ダメダメダメ!

うっかり邪念が顔を出してしまった。こんなことじゃまたお説教されちゃう。

 焦ったあたしは、隠れ家にしていた車の影から飛び出す。

 なんとか爪痕を残さなきゃ。

 静かな玄関口に向かってそのまま進み出て、とりあえず呼び鈴を押してみる。たとえまた付きまといと言われてなじられようと、何も得られないよりはずっといい。

 すぐさま目の前で、ピンポーン! という快活な音が鳴り響く。

「…………。」

 でも、そんな覚悟を裏切るように、玄関の向こうから返答が返ってくることは無かった。結構大きなチャイム音だったけど、聞こえなかったのかな?

 とりあえずもう一度押す。

「…………。」

 返答なし。

「すみませーん!」

「…………。」

「あの、誰かいませんかー? あたし、メアちゃんの婚約者の高崎ゆめと言うものですけど……!」

「…………。」

 今度は大声を出して騒いでみたが、本当に誰もいないようだ。目の前の西洋風の可愛らしい扉はしん、と静まって、何の返答もよこさない。

 まるで、この家に誰も住んでなどいないかのように。

 そこで決意の心は、あっさりと折れた。

 あたしはきびすを返して、もと来た道をずんずん進む。

 自分なりに色々とやってみたけれど、結局なにもできなかった。メアちゃんに話を聞いたときには、妹ちゃんくらい簡単に説き伏せて、すぐに学校に来られるようにしてあげられると思ってた。でも、まさか会うことすらできないなんて……。

 やっぱりダメだ。

 あたしはダメダメのダメ人間だ。色々なことが器用にできないし、スタイルは悪いし、メアちゃんには百回告白しても相手すらしてもらえてないし……。

 やっともらった絶好のチャンスも、この調子じゃきっと無駄だろう。

 考えてみれば、あのメアちゃんですら空ちゃんを連れ出すことはできなかったのに、どうしてこんなあたしができると思ったんだろう。あの、あたしとは真逆で、なんでもできる、正反対のメアちゃんが。

 鏡の国の向こうの住人のような、美しくて賢いメアちゃんが……。

 あれ……、鏡?

 鏡!?

 そこで一つのアイディア、というより天啓が舞い降りた。

 雷に打たれたように、そのひらめきは一瞬で体の内側を巡る。

「あたしには……まだ鏡があるじゃん!」

 口をついた言葉に手をひかれるように、つまらない通りを駆け出す。

 そうだ。まだ終わってない。

 あたしにはまだ、最終手段があるのだ。


「あ、おかえりなさい。ゆめ、あなた今日は遅かったのね」

 お家に返ってくると、すぐにママが出迎えてくれた。どうやら帰宅の遅かったあたしを心配してくれていたらしい。

 でも今はそんな暇ではない。

「ただいま! でもごめんママ、あたしちょっと今から集中してやらなきゃいけないことがあるから、晩ごはんまで声掛けないでね!」

「え、そうなの? 急ぎの用事?」

「うん、とっても急ぎ、超特急。しかも凄く重要なこと」

 それだけ言い残して、勢いよく二階の部屋に駆け込んだ。

 少し息を落ち着かせたあとは、着替えもせず、制服姿のままで部屋の中心に向かって進み出る。例の秘策は、そこでしかできないから。

 目の前には、一台の鏡台があった。

 これはママのお古の、すごく年季が入った鏡台だ。まぁ、ママもおばあちゃんから受け継いだものと言っていたから、正確にはお古のお古、今から百年前の明治の頃に生まれた鏡らしい。だから木造りの鏡台はかなり古ぼけているけれど、頑丈で男性的な風格がにじみ出ていて、メアちゃんが好きそうな立派な風格をまとっている。

 そんないかめしい鏡台の前に座ったあたしは、髪を整えたり、化粧道具を取り出したりなんかせずに、ただじっと鏡に映った自分の姿を見つめる。

 鏡には、垢抜けない少女の姿がある。

 やや長めくらいの丈の髪を、横で結っただけのパッとしない髪型。

 背は低く、メアちゃんにダメ出しされた薄赤のフリル付きブラウスもよく見たらあんまり似合っていない。それに走ってきたせいで顔が赤くなっている……そんな女の子。

 それがあたし。

 鏡を見るのはあんまり好きじゃない。だって、高崎たかさきゆめという、凡庸な自分をありありと見せつけられるから。

 でも今回ばかりは、この鏡の中のあたしに頑張ってもらわなくちゃならない。

 最後にして最大の秘策、〝鏡のおまじない〟を成功させるために。

 自分で今一度、クラスメイトから又聞きした鏡のおまじないの内容を思い出してみる。


〈鏡のおまじないの手順〉

①鏡の自分に向かって「出てきてください」と十回言う。

②枕を反対側にして寝る。

③次の日に目が覚めると、理想の自分になっている。


 思ったよりもよく覚えていた。

 そう、これが〝鏡のおまじない〟だ。最近クラスでもちきりの、理想の自分になれるおまじない。

 もちろん内容は怪しくて、根も葉もない噂に見えた。だから今まで一回も試さなかった。

 でも、今回ばっかりは、

 ここまで追い詰められたなら、

 もうあたしはこれに頼るしか無い。

 ダメで、ダメで、ダメなあたしには、もうこのおまじないしかないんだ。

 鏡にはまだ、頼りない少女の姿がある。

 あたしは彼女に向かって唱えた。

「出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください、出てきてください……」

 お願いだから……。

「どうか出てきてください、理想のあたし」

 ひんやりとした部屋に、その声は響きわたって、そしてすぐにあたりは静かになる。

 一人ぼっちの部屋は、さっきよりも広々として見えた。

 もちろん、それからなにか特別なことが起きたわけがない。でもこのおまじないの良いところは、寝て起きるまで、効果があるかどうかは判明しないところだ。

 どんなに細い希望でも、ないよりはずっとましなんだ。

「よし、次は枕を反対側にして、と」

 自分を元気づけるように声に出し、枕を普段とは逆の北枕にする。それからあたしは、部屋の入り口のところまで歩いていって、扉を開けて、一階の方に向かって大声で叫んだ。

「ママ! あたし今日はこれで寝るから!」

 あまりに異状な宣言に、すぐさま下から声が飛んでくる。

「えぇ!? まだ夜の六時半よ、お夕飯はどうするの? お風呂もまだでしょう?」

「お風呂は朝に入るよ、とにかくすぐに寝なくちゃいけない用事ができたの!」

「そんなこと言ったって……だってゆめ、今日の『男女10人冬物語』、最終回前のお話よ? 見なくていいの?」

 うわ、そうだった。流行りのトレンディドラマの中でも一番おもしろくて、毎週釘付けになっているあれ、そういえば来週には最終回だっけ。

「うーん、と、とにかくビデオに撮っといてよ。まだテープの残りあるでしょう?」

「はいはい、何でも後回しでございますね、ゆめさんは。でも、本当にそれは、好きなものを我慢してでもしなきゃいけないのことなのかしら?」

 ママにそう聞かれて、一瞬だけ言葉がつまった。

 どうなんだろう。よくわからないおまじないのためにここまでするのは、あたしにとって必要なこと? 

 自問自答は、一瞬で終わった。

「今回だけは、どうしても」

「……なるほどね」

 熱意が伝わったのか、ママはもうそれ以上なにも言わずに、居間の方に去っていった。

 そんな後ろ姿に、

「ありがとう。あたしの一番の味方でいてくれて」

 小さく感謝した。

 それから顔を上げると、すぐさま部屋に戻って布団に潜り込む。普段よりずっと早い就寝時刻だったけど、たった一日で色々あったせいか、すぐに眠気は襲ってきた。

 ぼんやりとした思考の中で、色々な考えが浮かんでは、形を持つ前に消えていく。

 ほんとうに、明日には理想のあたしになっているんだろうか。

 というか、理想のあたしって……いったいなんだろう。

 そうだな、

 器用で、賢くて、優雅で。

 そしてメアちゃんみたいに、かわいくて。

 えへへ……。

 メアちゃん、大好きだよ。



〈十二月二日 金曜日〉


 朝日が目を刺す感覚で、あたしは朝が来たことを知った。

「ぐ……ん……んぅ?」

 うなりながら重い体を上げて目をこする。

 カーテンは眩しい太陽光線に輝いて、外からは鳥のさえずりも聞こえる。

 相当に早寝したというのに、その分じっくりと寝てしまったみたいだ。つくずくあたしも横着者である。

 すぐに枕元の時計に手を伸ばし、時間を確認する。

 ……午前七時、四十分。

 ふむ、なるほど。つまりあと授業まで一時間ちょっとというわけだ。

「えぇー!? そんなぁ!」

 あたしは飛び起きた。

 もう遅刻寸前という時間だったから。

 始業時刻は九時なのであと一時間くらいの猶予はあるけど、学校までの通学に三十分くらいかかるから、実際に準備していられる時間はギリギリあと三十分あるかといった具合だ。

 これから授業道具を揃えて、髪や身だしなみを整えて、朝食を食べて……いたら絶対に間に合わない。とりあえず朝食はパス。

 とりあえず昨日省略したお風呂に入らなきゃ。

 ダンダン、と音を立てながら階段を降りると、一階に人の気配はなかった。ママやパパはかなり朝が早い仕事をしているので、家にはもうあたしを置いて誰もいないんだ。

 いつもは目覚まし時計なんてなくたって、同じ時間に起きられるのが取り柄なあたしだけど、なまじ変な時間に寝たせいで体内時計が吹き飛んじゃったみたい。

「まずい、まずい、まずーい!」

 叫びながらお風呂場に駆け込んで、とにかくシャワーを浴びて体を洗う。

 水だかお湯だかわからない液体でとにかく全身をきれいにしてから体を拭き、また部屋に戻って衣装箪笥から制服に着替える。

 そこから今日の授業の道具を揃えなきゃいけないわけだけど、いちいち時間割を見直す時間も惜しくて、記憶を頼りに教科書を一抱えくらいまるごと鞄に詰め込んだ。

 よし、あとは髪と化粧だけ……となったところで、あたしはあることを思い出した。

「そういえば、昨日、鏡のおまじないをしたんだった!」

 はっとなって思わず全身を見渡す……でも、一切変化はない。当然だ。いくら思春期とはいえ、すぐに背が伸びたり、一晩で肌が異様に透き通るなんてことはありえない。それこそ〝おまじない〟でもなければ。

 つまり、何の変化もなかったあたしは……。

 パンパンになった鞄を手元に置いて、一度だけ深呼吸をする。

 わかってた。

 そもそも理想でスマートなあたしになってたら、こんな風に朝から寝坊なんてするはずないんだ。

 凄く虚しくなって、静かに鏡台の前に座り込むと、黙々と髪を結って、薄化粧を塗って身だしなみを整えた。不思議と、なにも考えなくても手が勝手に準備を済ませてくれた。というか、今朝は誰かに自動操縦されているかのようにスムーズに体が動いて、混沌とした朝の準備を、秒速で終わらせることができたと思う。

 時間を見ると、まだ八時一五分。気分はサイアクだけど、奇妙なことに調子の良い朝だった。

 やっぱり噂は噂、根も葉もない都市伝説だったけど、学校にも間に合いそうだし、今日はこれで良しとするか。

 最終確認のために、鏡台に映った自分の姿に向き直った、その時だった。

「え……?」

 そこ。つまり鏡の中に、あたしは違和感を覚えた。鏡にはもちろん、いつもとかわらないあたしの顔が映っているはず……なんだけど、なにかが違っていた。

 七宮の制服に、お気に入りの緑のヘアピン、そして結った髪……。

 髪……ん、あれ?

 そうだ、おかしいのはこの髪型だ。いつもは髪の側面で結ってサイドテール気味にしているのに、今日は後ろで結った形、つまり完全にポニーテールになっている。こんな風にするつもりなんてなかったのに。

 自分でなにを言ってるんだ、という感じだけど、そんなことはあたしだってわかっている。わかっているけど、わからないんだ。

 だって考えてみて? こんな急ぎの朝に、しかも無意識に、髪型を変えてしまうなんてことありえる?

 急に怖くなった。まるで自分の中に知らない別の自分でもいるみたいだった。

 とっさに髪を結んでいたゴムを外そうと手を伸ばそうと鏡を見た時、目が合った。

 あたしが、あたしと目が合った。

 それは不思議な感覚だった。どう見ても映っているのは自分なのに、「その人」が、自分とは異質の他人であることがすぐにわかった。

 だから、反射的に言葉が出た。

「あなたは……いったい誰なの?」

 もしこんなところをママに見られたら、確実に病院送りだろう。だって、鏡に映った自分の姿にそんなことを投げかけたって、返事なんて返ってくるはずがないのだから。

 でも、あたしは……。

 いや、「彼女」は、その問いかけに答えてくれた。

 鏡の中で、高崎ゆめの姿をした何かは、あたしの声を借りて、微笑みながら言った。

「あたしは〝ゆめっち〟。高崎ゆめ、の……〝裏自分うらじぶん〟」

 鏡の中のそいつの口が動いていた。というか鏡に映るのはもちろん自分自身。その口が動いているのだから、喋っているのはあたしに他ならない。でも、それが「あたし」でないことは、感覚ですぐにわかった。

『あなたは……誰?』

 思わずそう投げかけた……はずだった。しかし鏡に映ったあたしの姿は、いっさい口を動かさない。確かに言った感覚はあるのに、動きが一致しない。

 けれど、あたしの言葉は、鏡の中の誰かさんには届いていたようだ。

「だから、あたしは〝ゆめっち〟だって言ってるでしょ。それに、呼び出したのはあなたの方じゃない!」

『えっ……』

 そんなことを言われて、思い当たることは一つしかなかった。もちろん、昨日の儀式のことだ。

 あたしは理想の自分になるために、鏡の前で「出てきて下さい」と唱えたんだ。

 まさかその結果が……これ?

『それじゃ、もしかしてその……〝ゆめっち〟は、「理想のあたし」なんですか?』

 鏡の中に向かって問いかけると、あたしの姿がうなずいた。

「ゆめっちが『理想のあなた』かは、わからないけど、とにかく、ゆめっちは裏自分。もうひとりの、あなた自身だよ」

『さっきから言ってる裏自分、っていうのは……?』

「裏自分は裏自分だよ。裏の自分、もうひとりの自分」

『だから、もっと詳しく……』

 さっきから知らない単語を口走るゆめっちに向かって、さらに聞いてみる。けれど、

「あ、いけない。もう学校に行かなきゃ!」

 そう言ってゆめっち(というかあたし)は急に立ち上がり、ごく自然に階段を降り、居間を横切って玄関から外に出た。

 ……どうやら、体の主導権を完全に奪われてしまったらしい。


 学校に着くと、ゆめっちはあたしの靴をあたしの下足箱に入れ、そのままあたしのクラスの教室へと一直線に向かっていく。

 あたしはもう泣きそうだった。

 自業自得とはいえ、体の主導権は完全にゆめっちに乗っ取られてしまったらしく、いくら声を出しても、腕を振り回して暴れようとしても、ゆめっちことあたしの身体は微動だにしない。

 もうこの先、あたしはゆめっちとして生きていくしかないんだろうか?

〝おまじない〟なんて、しなければ良かった。

 今さら絶望しかけたとき、

「あ、ゆめちゃん! 今日もこんなギリギリに来て、ほんとにいつか授業落とすよ?」

 なんと、クラスメイトの雪ちゃんが話しかけてくれた!

 そうだ! ゆめっちはあたしの姿こそしているけど、中身はまったくの別人格だ。仲の良い雪ちゃんなら、そんな違和感を見抜いて、助けて……くれるのは無理かもしれないけど、なにか変化があるかもしれない。

『お願い、そいつは本物のあたしじゃないの!』

 そんな魂の叫びと同時に、ゆめっちが口を開いた。

「おはよー雪ちゃん! 今日もかわいいね」

 はい?

 調子のいい言葉に、ゆきちゃんの顔にも疑問符が浮かんでいる。

「えっ、突然どうしたのよ。ゆめちゃんらしくもない……」

「いやいや、朝から雪ちゃんのきれいな顔が見られてラッキーだなーって思ってさ。これで一日頑張れるからね」

「そ、そんな……きれいだなんて」

「そういえば雪ちゃん、髪型変えた? すごく似合ってるよ、やっぱり雪ちゃんは短めの髪の方が映えるね」

 ちょっとちょっと、待ってよ。

 何を調子の良いこと言ってくれてるんだ、あたしは。

「え……うん。確かにちょっと髪切ったんだけど、あんまり周りのひと気づいてくれなかったんだよね。ていうか、やっぱりこっちの方が似合って、るんだ。ふ……ふーん」

 そしてどうして赤面してうつむいているんだ雪ちゃん。

 好機と見たのか、さらにゆめっちは攻める。

「やっぱり雪ちゃんの魅力に気づいてるのは、このゆめっちだけかぁ。雪ちゃんって、明るいし、よく気がつくし、誰にでも笑顔で接してくれるのにな。こんな良い子を放っておくなんて、みんなの正気を疑っちゃうよ」

「えへへ。もう、そんなに褒めないでよ。……っていうか、ゆめちゃんって自分のこと『ゆめっち』なんて言ってたっけ。というかよく見たら髪型もポニーテールに変わってるし……でも、うん! そんなことどうでもいいや。ゆめちゃん……いや、ゆめっちのこと、私大好きになった」

 雪ちゃんはそのまま上機嫌で行ってしまう。一瞬なにかに気がついたような素振りもあったような気もするけど……だめだった。

 おのれゆめっち……。この恐ろしいまでの弁舌に、相手を褒めるテクニック。到底あたしとは思えない。ものの一分で、あのキラキラ女子の雪ちゃんが口説き落とされてしまった。

『でも調子に乗らないでよねゆめっち、あたしのカラダは、絶対に返して貰うんだから』

「だから、あたしはあたし、だよ」

 口の減らないやつめ。

 でも見ていなさい。どうせ今日中にボロが出ることは確かなんだから。

 

 ――こうして、ゆめっちに乗っ取られた十二月二日の時間は過ぎていった。


 そして放課後、あたしは結局ゆめっちから体の主導権を取り戻すことができなかった。

 もう最悪だ。

 なにしろ、ゆめっちはあたしが手出しできないことをいいことに、随分好き勝手やってくれたのだ。

 今日という日のあいだに、ゆめっちはクラスメイトの女子三人を口説き、お弁当の時間にはみんなの前で面白い話(八割がた嘘だったけど)を披露して軽い人気者になり、音楽の時間には一音も外さずに歌いきって先生やクラスメイトから尊敬されていた。

 ……て、

 もしかして、あんまり悪くない?

 身体の主導権を奪われるというのはつまり、助手席からずっと他人の運転を眺めるようなものだ。あたしはずっと、一番近い場所でゆめっちの活躍を見ていた。

 普段は髪を横で結っているあたしが、後ろで結ってイメチェンし、まさに別人のように上手に喋り、失敗せずに上手く立ち回るところを、ゆめっちの内側から見せつけられていた。

 それはまさしく、「理想のあたし」だった。

 間違いない、あたしの〝おまじない〟は、成功していたんだ。

 下駄箱を出て友達と別れ、ひとりになったところで、あたしはゆめっちに語りかけた。

『えーと、朝は「体を返して貰う」……なーんて言ってたけど、もうちょっとだけ、貸しといてあげてもいいよ。というか、もう少しこのままでお願いします!』

 もう恥もなにもない。

 この理想のあたしことゆめっちに憑依されているあいだは、全てが上手くいくということを知ってしまった。

 自分に頭を下げる、という奇妙なことになっているあたしに、ゆめっちはささやくように言う。

「そっか、ゆめちゃんは、ゆめっちがこの体を奪っちゃうんじゃないかって心配だったんだね。でも安心して、ゆめっちは、夜になれば消えるから」

『夜になれば、消える? それって……』

「知ってる? 光がないと、鏡に像は映らないってこと」

 さっきから何を言っているんだろう、ゆめっちは。それに、あたしは……!

『お願い、消えないでよゆめっち。あたしには……ダメで、ダメなあたしには、ゆめっちが必要なの!』

 心の中で叫んだあたしに、ゆめっちは首を振る。

「これでお別れじゃないよ。ゆめちゃんが、もう一度〝おまじない〟をしてさえくれれば、またゆめっちは出て来られる。だからね、今日はこれでさようなら」

 言うやいなや、ゆめっちは昇降口の外へと駆け出す。

 そんなゆめっちを止められるわけもなく、あたしの体はそのまま、夜の闇の中へと踊り出る。十二月ともなると、午後五時にはもうすっかり外は真っ暗なんだ。

 すると、

「わっ!」

 校舎の外で、声が出た。

 急に大声を出したあたしに、近くにいた何人かの女子生徒が振り返る。

 それは久々に出した、正真正銘、あたし自身の声だった。

 両手で自分自身をボディーチェックをするようにまさぐってみたけど、特におかしなところは見当たらない。さっきゆめっちが言ったとおり、体の主導権というか、運転席が返ってきた感じだ。

 なんとなく振り返ってみる。

 目の前には、蛍光灯で煌々(こうこう)と照らされた昇降口があって、そのすぐ手前の、光と闇との境界線に、あたしはひとりで立っていた。


 それから家に帰って、少し考えた。

 ゆめっちが言っていたことが本当なら、もう一度〝おまじない〟をすれば、ゆめっちは現れてくれる。それも、理想のあたし自身として。

 でも、体を一時的にでも乗っ取られるのには、まだ恐怖感があるし、ゆめっちが言っていることが嘘なら、そのまま永遠に成り代わられてしまう可能性すらある。

 どうする、あたし。

 脳裏によぎったのは、最愛の人の言葉。

「ごめんなさい。私、あんたみたいなのはタイプじゃないの」

 振られるたびに、突きつけられてきた現実。

 もうすでに心は決まっていた。

 あたしは鏡台に向かって、大きな声で唱える。

「出てきて下さい!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ