女子大学生Wとの会話
これは木枯らしが吹きすさぶ、肌寒い夕方の話である。
ごめんね、付き合わせちゃって
どこからともなくWが待ち合わせの場所にやって来た。駅前で落ち合う事にしていたが、改札から出てくる訳でもなく、駅の入り口から来た感じもしない。第一彼女がどこに住んでいるのかすら詳しくは知らない。私は今大学一年生で、彼女とは学内オリエンテーションで出会い、そこで連絡先を交換した気がする。いくつか同じ授業を受けているに違いないが、もう十一月の下旬だというのに見かけた心当たりが無い。
ちょっと話を聞いて欲しくて。近くの喫茶店に入ってもいいかしら?
「分かった」
実を言えばいつ彼女から会いたいと連絡が来たのか判然としない。それについ先程までこの約束を忘却していたのだ。もう少し綺麗な字を書かないといかんな、などとぼーっと思いながら手帳を眺めていたら、このアポイントメントが記されているのを偶然発見し、さらに私自身が待ち合わせ場所近辺にいた為、幸運にもすっぽかさずにすんだのである。喫茶店に入ると、店員が出て来て言った。
「ええっと、何名様でしょうか?」
従業員はマニュアルに沿って何人居るのかまず確認はするものの、客が入って来た時点で大方見当がつくものだろう。しかし今回に限ってはそうではないらしい。たった二人であるにもかかわらず、何名か把握しかねて当惑している。
二人です
Wが出所の曖昧な声で答える。前から聞こえた様な後ろから聞こえた様な、もしくは横で囁かれた様な気もする。彼女と落ち合った時、どこから来たのか把握しきれなかったのもこのつかみ所の無い、おぼろげな声が所以かも知れぬ。
「あっはい、二名様ですね。空いてる席にお座りください」
ようやく事態を飲み込んだ店員が言った。Wは店の隅の席へスルスルと歩いて、いや滑ってという方がしっくりくる。ロングスカートを着ていたせいか、音の出にくい靴を履いていたせいか、彼女は周囲に気配を知らせる事なく席についた。私も後を追ってWの正面に座る。
今日はありがとう、本当に来てくれたのはあなたが初めてよ。これまで色んな人に連絡をとったけどみんな来なかったの
会う約束をことごとく反故にされたのをさも当然の様に話す。そこに怒りや寂しさ、悲しみの感情が全くといって良い程感じられない事に、私は初めてこのWに対して気味の悪さを覚えた。それを見透かしたのか、
いつもこうだから大丈夫よ
と付け加える。どう返答したものかと戸惑っていると、ちょうどいいタイミングでウェイターが注文を聞きに来た。私は紅茶をお願いしたが、彼女が何を頼んだのかは失念してしまった。
それでね
おもむろに語り始める
今日話したかった事はね、多分私、近いうちここじゃない何処かに行っちゃうと思うの。それをずっと誰かに言いたくて
要領を得ない。
「それは引っ越すってこと?」
違うわ、この世界じゃないどこか別の所
「申し訳ないがもう少し分かりやすく説明してくれないかい?どうも漠然とし過ぎて…」
そうよね、ごめんなさい。どこから話せばいいかしら
沈黙が続く。
私自身ずっとこうだから何て言っていいのかしら…母親から影が薄いと良く言われてたんだけど、それとは違う感じがするの。存在感とか影が薄い人っていうのは、まずその存在を認知された上で忘れられちゃう人を表現する言葉だと思うのね。でも私の場合、まず認識してもらえないのよ。それで例え気づいてもらっても、手に塗った消毒液がすぐ乾いてスッて消えちゃうみたいに忘れられちゃうの
なるほど、まず認知され辛いとは正鵠を得ている、はっきりして説得力のある表現だ。しかしWの存在がぼんやりしているのに、それを言い表す言葉が明確だと感じるのはなかなか奇妙奇天烈である。それから彼女は、生まれたての自分を助産師が抱き上げようとして落っことしそうになった事、そして母親もその助産師から手渡された我が子をきちんと視認するまでなぜか時間がかかった事、学校で出席を取るときに自分の名前を必ずと言っていい程すっ飛ばされた事などなど、枚挙に遑がない認知されないエピソードを羅列した。私の頼んだアールグレイだけが届く。
でも悪い事ばかりではないの。私、いじめられた経験が無いのよ。ほらだっていじめられる人って、ちゃんとそこに居るからでしょ?私の場合はまず見てもらえないから、きっと誰かの劣等感とか自己顕示欲みたいなのを刺激せずにすんだのね
なんというか、このWという人からは客観の極地、諦観の念みたいなものを感じる。みたいなもの、と言ったのは、私はいつもより早く目が覚めてしまったり、ラーメンを食ってる最中に汁が少し飛び散ったりするだけで動揺したり苛立ってしまう。こういう境地からはほど遠い人間なのだ。そういう言葉の意味を表面的に理解は出来るし、ある種達観した人達がいるのも知っている。しかし前世での行いが芳しくなかったのかは分からないが、私にはそれを実感するだけの器が無いようだ。今だって紅茶が置いてあるテーブルにある、誰が付けたか知らない小さな凹みが気になって仕方が無い。しきりに指でつついたりなぞったりしている有様である。きっと彼女は自身が人に認知されにくいが故、そういう俯瞰で物事を観察する能力を図らずも培って来たのだろう。はて、彼女とは誰だったか。そういえば誰かがどこかへ行くだか消えるだか言っていた気がする。ああそうだ、Wと話をしていたのだ。
「なるほど、認知されにくいか。今までの話は分かったけど、それと君がどこかへ行ってしまうっていうのがまだいまいち繋がらないかな」
そうよね
そう言って彼女は目を伏せた刹那、私は諦めの境地とは真逆の未練と後悔の念が、彼女の心中から表出したのを察知した。初めてWから人間的な情緒を感じて少し安堵した。
実は少し前母が亡くなって
「あ、それはその、えっと・・・」
言い淀む。こういう時に相手に共感を示しつつ、かといって後ろ向きすぎない言葉を瞬時に探し当て、掛けてやる事が出来れば女性から寵愛を受けるのだろうが、生憎私はそのような器量を持ち合わせておらぬ。
いいのよ。私が話をしたいって誘ったのだから気にしないで
穴があったら入りたい心持ちだがこのテーブルの凹みじゃあ私の体は入らんな、と阿呆な事を考えながら彼女の声に耳を傾ける。
母は私の存在を認め続けようとしてくれた唯一の肉親だから。うちは一人っ子だし、父は仕事は立派にしているけど家庭の事とか子育てには関心が無くて。
Wは少し空を見つめてから続けた。
それで、母が亡くなってから変な事が起きる様になってね。例えば玄関を開けたら普通外に出るでしょ?でも時々違う所に出ちゃうの。真っ暗で何も無いの。それで驚いて閉めてもう一回開けたらいつもと同じ外の景色なのよ。最初は二週間に一回くらいだったのが、だんだん増えてきて。玄関だけだったのも家の中のどの扉でも起こる様になっちゃって
にわかには信じ難いが彼女が面白がって嘘をついている風にもみえない。不謹慎を承知の上での例えだが、彼女の母の霊が夜な夜な現れるとかだったらまだ返答しようがある。もしかして未練があるんじゃないかとか、娘の事が心配なんじゃないかとか。ただ真っ暗な何もない場所がドアを開けたらそこにあるというのはいかんともし難い。
「真っ暗か。なかなか信じられないがそれは怖いな」
と答える。申し訳ないがこれが私の精一杯誠意を込めた回答である。それに怖いのは私の率直な感想だ。何気なく外に出ようと思って扉を開けたら暗闇しかないのだから。もし何かの拍子でそこに入り込んでしまったらと考えるだけで、乾いた冷気が全身の毛穴から入り込んで来るような嫌悪感に襲われる。
そうね、怖いわ。真っ暗で、もしそこに完全に身を投げ出してしまえばきっとこっちにはもう戻って来られないんだもの。でも何回もあの暗闇を見ていると急に懐かしくなるの、本当は向こうに居るべきなのかなって思えちゃうの
「仮にその暗い所に行くとして、未練とかそういうのは無いのかい?」
全くないと言えば嘘になるわ。母の事はまだ少し悲しいし。まあ逆を言えばあの人の死を受け入れられたらもう良いのかもね
酷くあっさりしている。それに引き換え私自身は未練の煮こごりの如き存在だ。冷蔵庫の扉をきちんと閉めて来たか、他人に不快感を与える発言はしていないかといつもびくびくしているし、吐いた唾を飲めるなら飲みたいと常日頃から考えている始末である。
「それでも心につかえている物って中々取れないと思うんだ。ほら、喉に刺さった魚の小骨みたいに」
我ながら全くもって品性のかけらも無い例えをしたものだ。その時、彼女は笑った顔をしたように見えたが、単なる記憶違いかもしれない。
人って悩んでる姿を見て欲しかったり、ふふっ今の私みたいね…あと、それに人間ってそこまで他人の事を見ても居ないし気にしても居ないと思うの。自分の事を見て欲しいから関心のあるふりをしてるんじゃないかしら。結局人に分かってもらいたいっていうのが大半で、実際の悩みなんてそれこそ魚の小骨みたいに些細な物よ
さらに続ける。
それにこの世界を心から好きでずっと居たいなんて人間は存在しないんじゃないかしら。生まれて来ちゃったから生きてるだけでしょ?
なかなかに辛辣だが、この世が住みやすくないのは確かである。今私たちが暮らしている所は天国ほど安寧に過ごせる気もしないし、地獄ほど激烈な苦痛の中に身を置いている訳でもない。宙ぶらりんで快楽と苦痛の間を常にふらふらと漂っている。我々の世界はひどく不確かだ。ならば闇が扉の向こうからぬらりと姿を現しても別段驚かないのかも知れぬ。寧ろただ暗いだけなのだから変に明るい所があるより幾分か親切だ。彼女が口を開く。
今日はありがとう、スッキリしたわ。もう母の事はそんなに悲しくないみたい、人間て薄情ね。お茶代は私が払うわ、ほんのお礼よ
一度は断ったが、Wの言葉に甘える事にした。結局彼女の頼んだ飲み物は遂に運ばれてこなかった。
別れ際、彼女はもう一度お礼を言った。私も何か言おうとした気がするが、その時Wの姿は人ごみの中に消えていた。
これ以来、彼女を見かけていないし会う事もなかった。
読んで頂きありがとうございます。
フィクションとしてこの話を書いていたのですが、どうも実際に起きた事の様にも思えて来たのです。どうやって話を完結させようか想像力を働かせている気もしたし、はたまた頭の奥の方から曖昧な記憶を引っ張りだす作業をしている感じもしました。
みなさんの周りにもWの様な人間はいるでしょうか?




