無知の櫛
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
あなたはこの世界のこと、どれだけ知っているかしら。
今はネットワークが発達して、あらゆる国、あらゆる年代、あらゆる職業の実態……その気になれば、つまびらかになっちゃうものがたくさん。おかげで、知ったかぶりもたくさん。
「無知の知」って、ソクラテスだったっけ。自分が無知であるのを自覚することで、学び続けられる、と。
私たち、本当に知っていることはどれくらいあるのかしら。実は、未だに何もわかっていないんじゃないかしら。
過去にも、知ったつもりで動いた結果、騒ぎを起こしてしまったことはたくさんある。
そのうちのひとつの例、聞いてみない?
平安時代の初め。あるお貴族さんが持っていた屋敷が、夜中に火事で焼け落ちてしまったわ。お貴族さん自身は、その晩、儀式に参加していて屋敷を空けていたとか。
都の外れにある屋敷でとはいえ、知らせる人が現れぬまま、燃えつくしてしまったという迅速さ。
計画的な犯行。もしくは魑魅魍魎の類ではないか、と噂されるけど、それらを紡ぐ口たちには、憐れみの色がほとんど見られなかったわ。
かの屋敷には、大きな蔵が併設されていた。中には、お貴族さんが金に飽かせて溜め込んだ財宝が眠っているのだと、小さい子供すら話に聞いて知っていたから。
それが屋敷と一緒に焼け落ちた。言い換えれば、蔵の大胆な開帳。
お貴族さんは戻ってから、すぐ焼け跡まわりに柵を作って、侵入を禁止。膨大な量の目録と照らし合わせ、無事だった使用人たちに焼け跡を漁らせる。財宝の有無を確かめるために。
でも、お貴族さんの考えることは、他のみんなだって考える。機先を制して、動く物がいるのは当たり前よね。
お貴族さんたちの元屋敷の付近が、ざわついていた時。
ほぼ点対称的な位置にある粗末な家の中で、ひとりの男が、十字にひものかかった化粧箱を相手に、数刻に渡る激闘を演じていたの。
脇に抱えられる大きさで、竹の模様にあしらった金箔を貼り付ける。美麗な装い。振れば「コツン、コツン」と固いものが内側でぶつかる音がする。
これは夜が明けないうちに、あのお貴族さんの蔵の焼け跡を探り、持ち去ってきたもの。だけど、火をつけた犯人は彼じゃない。
売れる物を求めて、夜半に都を歩き回っていた時、屋敷が焼け落ちているのにたまたま気づき、行動を起こしただけのこと。
――貴族がしまい込んでいた化粧道具。箱と合わせれば、きっとかなりの額になる。
皮算用を確信に変えるためにも、このひもを解かなくては。けれど、固結びの紅白ひもは、ここまでで、ほとんどずれも、ゆるみもしてこない。
ならばと、刃のようにとがらせた石の側面でひもを断とうにも、数刻の時間をかけて、ようやくよじられた数本の糸が乱れて飛び出す、という具合だった。
あごを垂れる汗が、石を握る拳をぽつぽつと濡らし始め、男はいったん手を休めたわ。
もう日は高く昇っている。流れ者として暮らしている彼に、仕事らしい仕事はない。
――いっそ、このまま売り飛ばしてしまおうか。
そんな考えが、ちらりとよぎることが何度かあった。そのつど、ひもの乱れを目にし、気持ちを改める。
――自分の積み重ねは、実を結んでいる。あらゆることを、半端で投げ出し続けてきたから、今、こんなことをして生きている。ならば、落ちぶれたなりの意地くらい、貫いてみせろ。
作業を再開。照合が済んでしまうだろう数日の間に、売ることまで済ませねば。手配が完了してしまっては、売るどころか保持することさえ難しくなる。
彼はいっそう力を込めて、頑なに寄り添おうとする糸の一本一本を、断ち離していったわ。
丸一日をかけ、ようやくひもをほころばせ、開封へこぎつけた彼。いそいそとふたを取った彼は、中身を改める。
多くの歯を持つ、梳き櫛。台座は古びた木製だったけど、その歯は吸い込まれるような無色透明。
彼は自分の髪の毛を一本だけ抜き、歯の向こう側で透かす。
髪が二本に見えた。これがガラスだったならば、一本にしか見えない。これまでの経験で、身に着いた知識だったわ。
すでに日は落ちて、いつも世話になっている露天商も、店じまいの時間。
彼は櫛に傷がつかないよう、家にあった中で最も柔らかい布切れで包み、箱の中へしまい直して、夜を明かしたわ。
翌朝。
彼は都を足早に練り歩き、お貴族様の紛失品に関する手配が、まだ成されていないのを確認。例の櫛が入った箱を持ち出し、件の露天商が店を出している路へ。
出どころは問わないという信条のために、彼が気に入っているその露天商は、箱を手に取り、外装をなめるように見つめ出す。やがて弾き出された額は、彼にとって目が飛び出そうなくらい。
「笑うのは早い」とばかりに、彼は中身の鑑定も依頼する。布が開かれるまでの間、彼の胸の奥はわくわくしっぱなしだった。
そして、布の下から出てくる櫛。
「おお」と商人が声を漏らしたものの、それはすぐに「あっ」という驚きの悲鳴に変わる。彼も箱の中をのぞき込んで、ぎょっとしたわ。
数えきれないほどあった櫛の歯が、一本もなくなっている。そこには木の台座だけが残されていたの。
商人いわく「確かに揃っている姿を目に留めたのに、まばたきした拍子になくなってしまった」と。
これが櫛ごと姿を消したのだったら、彼は商人が自分でくすねて、とぼけていると解釈したでしょうね。けれども、歯だけを音もたてずに一瞬で、となると尋常じゃなかった。
必要以上に問答をするわけにもいかない。いつ紛失物の情報が、お貴族様から流れてくるか分からないのだから。
気味悪さが残る櫛の台座は買い取ってもらえず、彼が持ち帰ることに。箱の代金を受け取り、家へ取って返す彼。
住まいを変えないと。お触れが回り出し、商人が自分のことを話したら、すぐに追及の手が及ぶ。品の出どころを問わないといっても、自分をかばってくれるほど、お人よしではないだろう。
けど、もうじき家が見えてくるというところで、彼の足下をかすかな振動が襲う。
すぐに収まったものの、直前に彼の耳は、石や木が叩きつけられる、無数の音を拾い上げていたわ。
彼の家の方向から聞こえてくる、その音をね。
家は、無残に潰れてしまっていた。そばにいた人には大きな音だったらしく、何人かが表に出て、様子をうかがっている。
屋根はすっかり床の上に覆いかぶさり、支える役割を持っていたはずの柱たちは、すべて横倒しになっている。あの地面の揺れは、この倒壊が原因とみていい。
でも、どうして? 強い風が吹いたわけでもない。柱が傷んでいた様子も、見受けられなかった。それがなぜ?
せめて金目のものだけでもと、家の跡を漁り始めた彼。
板となった壁の残骸を何枚かどけた時、転がった小さい破片を目にして、思わず固まってしまったの。
一本の櫛の歯。自分が持っている櫛の台座に比べると、はるかに新しめの茶色い身体を持っている。
けれど、試しに拾い上げて櫛の台座に刺してみたところ、ぴったりはまったの。
更に周りをよく見ると、柱だったものの底面に、それぞれ櫛の歯が潜り込めてしまう大きさの、小さな穴が開いていて……。
「うぬか。この箱を店に持ち込んだのは」
背中から掛けられる声。振り返ると数人の直衣姿の男たちが立っていた。そのひとりの手には、あの商人に渡したばかりの箱が。
手回しが早かった。一番後ろに控えている男は、腰に差した刀の柄頭に手を置いていて、怪しい動きを見せれば、この場で斬り捨てられかねない。
観念した彼は、櫛と共に件のお貴族さんの元へと、連行されていったわ。
燃えた屋敷より、少し離れた場所にある別荘で、お貴族さんは待ち受けていた。
男たちから、箱と櫛を受け取ってしばし眺めた後、盗んだ彼に尋ねてきたの。
「この櫛の歯の残りはどうした?」と。
彼が売却の経緯を語ると、お貴族さんはうなったわ。
「本来なら、ここで斬り捨てるところだが、そうもいかなくなったわ。……おい」
お貴族さんが手を叩く。ややあって、使用人が持ってきたのは、剃刀に水桶、手ぬぐいといった、剃髪用の道具一式。
「うぬはこれより、頭を丸めて僧となり、国を回って櫛の歯を探せ。今生、ずっとだ。有無はいわせぬ」
彼が髪を剃られる中、お貴族さんはあの櫛の来歴を語ったわ。
あの櫛は数千年前に、お貴族さんの先祖が作り出したもの。
先祖のひとりが、精魂込めて作ったというその櫛は、当初、すべてが木でできていた。
ところが、作り手が亡くなると櫛に変化が起きる。びっしり揃っていた歯が、いっせいに消え去ってしまったの。
歯は色々なところで見つかった。形はそのままに、材質だけを様々に変えて。
苦労して集めたとしても、時をおけばまた歯が消え、いずこかへと隠れてしまう。
これが繰り返された後、やがて先祖のひとりが櫛の使用を禁じ、箱の中へと封じてしまったの。その時の櫛は、あの水晶の歯を持っていたとか。
櫛の歯は、いずれも屋外に出た時に失われていた。けれどその反面、屋内で歯がなくなったことがないことから、「櫛の歯は、常に外を知ろうとし、学びたがっている」と判断。化粧箱に閉じ込められ、永く眠ることになるはずだった。
昨日。彼が焼け跡泥棒を働くまでは。
「櫛の歯は、姿が変われど、一本たりとも欠けずに戻ってきている。
ある時は倒壊した家の下から。ある時は出水で削られた固い土の中から。ある時は山が崩れた際に埋まった洞窟のあとから。各地に散り、時々の材質を学び取って、試し続けている。
うぬはこれより、残りの命を彼らの迎えに使うのだ。すべての歯が揃うその時まで」
以降、彼はお貴族さんの意向のもと、監視付きで全国を練り歩くことになる。
どのような僻地、危険地帯であろうとも、足を止めることは許されない。雨の日も風の日も、彼は休まずに歩かされた。
生涯、彼が集めることのできた櫛の歯は47本。それでもまだ半分近い櫛の歯が、今もまだ見つかっていないのだとか。