鬼の手中
あの黒い帽子の女性はいったい、何をたくらんでいるのだろう? 私は、その黒帽子の前を歩かされていた。裏山から出られたことはありがたいのだけれど、この人の正体を見てしまった後では、その嬉しさも吹っ飛んでしまっていた。
きっと、逃げだしたらひどい目に遭う。そう直感した私は、できるだけそいつの機嫌を損ねないようにした。つまるところ、見せかけの服従だ。歩いていると、そいつがピタッととまって、ある建物を指さした。
「あの中に入ってもらう。逃げるなんて事、考えるなよ?」
無論、私はそんなことは考えていなかった。私がもしあの川を使って別のところへ逃げたとしても、この人、じゃなくて鬼はきっと私を追い詰めるだろうから。裏山から出られるという、甘言に乗せられた自分を呪っても仕方がない。今は、できるだけこいつの機嫌を損ねないようにしないといけないのだ。そして、私は人里離れたところにある、古びた建物の中に通されたのだった。
勝は裏山に来ていた。一度ヨルに抱いた怒りを脇に置いて、ヨルに会ってみようという気になったからだった。今ヨルはどうしているだろうか。捨てたことで勝を怨んでいるだろうか。それとも、勝のことなど忘れてしまっているだろうか。
期待より不安な気分に傾いている勝は、裏山に来てその不安を忘れるほどのことが起きるとは思いもしなかった。つまり、裏山に生息する妖怪たちを初めて目にしたのだった。
「……ど、どうなってるんだ? まさか裏山が妖怪の住処だったなんて……」
「ねえ、ちょっと。もしかしておいら達ことが見えてるのっ?」
勝の反応に気がついた妖怪が勝に話しかけてきた。どこからどう見ても肉の塊にしか見えない。しかし、勝は、それを見て何の妖怪かわかったようだった。小学生のころ妖怪マニアだった勝は、妖怪の名前をすべて覚えていて、思春期に入ったばっかりの今でも覚えているほどだった。
「……ほ、本物のぬっぺふほふだ……」
「君って、おかしなことを言うね。偽者の妖怪って見たことがあるの?」
「いや、ないけど……。それより、聞きたいことがあるんだけど。ちょっといい?」
「うんいいよ。勝君の言うことなら何でも聞いてあげるよ」
妖怪を見て驚いている勝に二つ目の衝撃が走った。驚いてせいで転びそうになったほどだ。足で何とか持ちこたえながら、勝は、ぬっぺふほふに聞いた。
「な、何で俺の名前知ってるんだ?」
「知ってるよ。だって愛しのヨルちゃんが話しているの聞いたからね」
愛しのヨル。この肉の塊は確かにそう言った。そう認識した途端勝は、口に笑いがこぼれそうになるのを必死にこらえた。それに気づいたぬっぺふほふは傷ついた口調で言った。
「何で笑うのっ。おいらのヨルちゃんへの愛は本物だっ。ヨルちゃんはおいらのこと、眼中にないみたいだけど……。って怒ってる場合じゃなかった。聞きたいことがあるんじゃなかったっけ?」
「そのヨルに会いたいんだ。どこにいるか教えてくれる?」
勝はまさか三つ目の衝撃が来るとも思わずにたずねた。
「今はいないよ。黒い帽子をかぶった女性の鬼に連れていかれたんだ」
「えぇっ! 何だって! ど、どこへ連れていかれたの!」
「おいらは知らないよ。なんだか怪しい奴がヨルちゃんに話しかけたと思ったら、その瞬間に二人ともどこかへ行方をくらませちゃったんだ……」
心なしか、ぬっぺふほふの話し方がさみしそうに聞こえる。それほどヨルのことが好きなのか。勝は、ぬっぺふほふの恋心を応援しようという気にはならなかったが、ヨルを助けに行ったほうがいいと判断した。
「俺がヨルを助けに行くよ」
「えっ? ホントに? でも、どこに行ったかわかってるの?」
「……わからない」
「本当に大丈夫っ? ヨルちゃんに何かあったら、おいら、気が狂いそうになるよっ」
「なっ、なんとかするから、じゃあねっ」
勝は、どうするのと言いたげなぬっぺふほふを置き去りにして裏山を去ることにした。ぬっぺふほふの言ったことが本当だとすると、本当に危ない事態なのかもしれないことがわかったからだった。とはいえ、このことはほんの始まりにしか過ぎなかった。
だいたいこいつは何をたくらんでいるのだろうか。建物の中に入った私は一気に緊張感が高まった。建物の中にあるすべてがよそよそしく感じるのだ。私はなるべく緊張感を相手に気取られないように気を使ったが、心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと冷や冷やした。
黒帽子は私をある部屋に連れてくると、その中に通した。その部屋はとても殺風景で、私の覚えているかぎりでは、勝の温かみのある部屋とは対照的だった。その部屋に入った途端、何者かが二人、目に見えた。
一人は、勝の父親より年上と見られる男性で、目の前にいる若い女性にかなり高圧敵に接していた。私たちが入ってきたことに気がついてないのか、私のことを気にも留めずに、その女性をねちっこくいじめていた。私はその様子がかなり嫌だったたので、その男性にいじめをやめるように割って入ろうとした。
「ワン! ワン!(いじめるのやめて! さもないと咬むわよ!)」
私の吠え声に顔をあげた男性は、ゆっくりと手をあげた。その瞬間、私の口は何かに縛られたかのように、開けられなくなってしまっていた。
「……っ!(何をしたのっ? 苦しいじゃないっ!)」
「まったくこの犬ときたら……。和沙ちゃん、手を止めるんじゃないよ。分かっているね?」
和沙ちゃんと呼ばれた女性は悔しさで、唇をかみしめながら、何かをしていた。それにしても、この人、どこかで会ったような気がする……? 和沙は私のことをチラッと見た後、こっちのことを見なくなってしまった。
私は、和沙のことをなぜか放っておけなくなっていた。この人を助けないと、私までも助からないような気がし始めていたのだ。この男性が何を考えているかわからないけど、ここにいたら私も、和沙もダメになってしまう。そんな気がした。
それに、目の前の男性はまりいが私にかがせたあの匂いにそっくりの匂いを放っていた。私は図らずも、殺らなければいけない宿敵に見えていたのだ。
尾の長い緑色の小鳥は、事態が悪化していることを痛感していた。人間が自然のことを畏怖していた昔ならまだしもなのだ。
自然に住まう妖怪の一部が人間に対して抱く嫌悪感は、いまや、沸騰しかねない状況だった。今、小鳥は、鞍馬の天狗に話をつけに来ているところだった。もし、人間のことを快く思っていないものがいるとしたら、天狗がその第一候補というわけだ。
「……某が、一部の妖怪を扇動しているのでは、と、そう言いたいのか?」
(別に、お主だけが疑わしいと言っておるのでは……)
「そうだろうな。人間を嫌っておる妖怪など、山ほどいるからな。……特に、あの送り犬のほうが、一番疑わしいのでは? あのすさまじいほどの人間嫌いは、前に人が通っただけで一瞬であの世送りにするほどだぞ」
(そう言いたいのはわかる……。しかし、あの都市で起こった百鬼夜行。あれを組織したのは送り犬ではないはずだ)
小鳥は、相手を挑発しないようにしながら、肝心なところを聞き逃さないよう慎重に言葉を選んだ。天狗は高慢なことで知られているので、小鳥にとっては神経をすり減らすことなのだ。
「……都市で起こったことなど、某が知るはずなかろう。でも確かにあの送り犬は、万人に好かれる質ではないから、頼んだところでだれも首を縦に振るまい」
やはり、知らないらしい。それとも聞き方がまずかったのか。小鳥は別のことを聞くことにした。
(……一つ聞きたい。紫乃聖人について、知っていることはないか?)
小鳥は、以前から紫乃聖人のことを見張っていたのだが、その紫乃聖人のことを天狗に聞いたのは、その思想がともすれば天狗に似ていると思ったからだった。だが……。
「何ゆえに、某が素性も知らぬ人間について知っていると思った? ……もう話すことはない、帰れっ」
小鳥は天狗は何かを隠している、と思った。もし本当に知らないならば、あのような怒った口調で話すことはないからだ。収穫はなかったが、わずかばかりの前進は感じた小鳥は、そのままはらりと姿を消した。
突き刺さる冷たい視線。泥まみれの服。膝には血がにじみ出ていた勝は、ヨロヨロと立ち上がった。勝がヨルを助けに行きたいと孝輔にお願いした瞬間、その孝輔は勝を突き飛ばしたのだった。
「……お前、自分が何頼んでわかって言ってんのかっ? あいつはっ、ヨルってやつはっ、送り犬なんだぞっ! そいつが誰かに去らわれたから、一緒に助けに行ってほしいだって?! ふざけたことを言うなっ! あいつは命を奪う妖怪なんだ! そんな奴を助けて何になる?! お前は、妖怪のことを言わなくなってからちっとはましになったかと思えば……。全然懲りてねえじゃねえかっ! 飯野のこと忘れたのか!」
怒りをぶつけられた勝は、孝輔の言い分はもっともだと思った。けれど、勝にも言い分はあった。
「わかってる。わかってるよ……。けど、紫乃聖人……、いやヨルを奪った奴は、人間の破滅を願ってるやつなんだっ。だから、そうならないためにもヨルをとり返さないといけないんだっ。今までのこと全部謝るからっ。許してくれなくてもいいっ! 一緒に助けていってほしいんだっ!」
言い終えた瞬間、孝輔の視線がさらに痛くなっていることに気が付かないわけにはいかなかった。
「……な、なに?」
痛い視線に耐えられなくなった勝は、頼んでいることを忘れて孝輔に聞いた。
「俺にはな、俺が生まれた前に失踪した親戚の女性がいたらしい。その人は、何か月か行方をくらませた後、変死体になって見つかったんだ。体中に普通では考えられないような傷がたくさんついていたんだ。刃物で刺されたわけでも、何かの動物に咬まれたわけでもないらしい。それで、その時、その紫乃聖人のことでよくない噂がのぼっていたから、そいつにからんでころされたってことになってる。その親戚、たしか俺の従姉妹の汐田由佳の母親のはずだ。……それで紫乃聖人には首を突っ込むなってことになったんだ」
それを聞いた瞬間、勝はある人のことが脳裏に浮かんだ。しかし、その人は生きてる。それでも、勝は口に出さずにはいられなかった。
「ねえ、その失踪したって人、佐野香苗、じゃなかったか? 俺、前にその人に会ったことあるっ」
「……お前、それはないぞ。だってその香苗って人が由佳の母親なんだから。由佳も女子高生だし。由佳が幼い時に亡くなったんだ。俺の生まれる前にな」
何かがおかしかった。もし佐野香苗という人が亡くなっていたのだとしたら、どうしてあの人はそんな嘘をついたのだろう?
良平が亡くなってから、勝にはさまざまなことが立ちはだかろうとしていた。それは、私にとっても同じだった。私の目の前にいるやつは、私が出会ったどんな妖怪よりも胡散臭い雰囲気を醸し出していた。
やつがどんなことを考えているにせよ、私が真っ先に下した決断は、そばにいる和沙という女性を救うことだった。幸いなことに誰かを襲いたい衝動はなりを潜めていたので、私は、和沙の服の裾をかむと、勢いよく駆けた。和沙はまさか私に引っ張られると思ってなかったのか、そのまま勢いよく転んでしまった。
「いたたた……。いきなり走らないでよ……」
私が心配して和沙のそばに寄ったときだった。私は誰かに羽交い絞めにされてしまった。もがこうとしたけれど、かなり力が強くて、太刀打ちできそうもなかった。
「逃げようとするなって言ったこと、覚えてないようだね」
声を聞いてゾッとした。私を羽交い絞めにしたのは、あの黒帽子だったのだ。細腕なのに力が強いのは、彼女が鬼だからに違いなかった。苦しくて息が詰まる……。
「もう離してやれ。送り犬をころしてしまっては、元も子もないからな。それに、どんなに逃げようとしても、ここからは逃げだせないさ。特別な結界を張ってあるからね」
渋々黒帽子は締め付ける手を離した。やつが離してやれと言わなければ、私はいつまでも締め付けられていただろう。かと言って私はやつに感謝する義理もないのだけど。
「け、結界っ……」
和沙は唇をかみしめたまま、床を見据えていた。その眼差しは悔しさでいっぱいだったけれど、それっきり一言も言わなかった。きっと、歯向かえばひどい目に遭わされるからに違いなかった。今の私にできることは? 和沙を助ける手立ては、あるのだろうか?




