迫る影
里奈が幼いころ、お婆ちゃんは万能の存在だった。仏壇の線香を折ったり、障子を破ろうものなら、怒りの鉄槌が飛んできた。それでも、里奈はお婆ちゃんが大好きだった。幼なかったためか、仏壇に手を合わせるたびに和菓子をくれるというのが楽しみだった、というのは口が裂けても言えない。
『こうやって祈っておけば、天国のお母さんも里奈のことを見守ってくれるからね』
里奈のお母さんは、里奈がまだ赤ん坊だったころに亡くなった。兄の賢志と共に、里奈を引き取ったのが、母方の祖母だった。父親が母親が亡くなったと同時に行方をくらませてしまったためだった。里奈は何故自分に両親がいないのか、何度となくお婆ちゃんに聞いたが、それとなくかわされてしまった。
『それよりも、部屋の掃除を手伝ってね』
里奈は幼いながら、お婆ちゃんが言おうとしないのは、それなりの理由があると感じ、それ以上追及しなかった。
ある時、お婆ちゃんに、女性用の、小さな薄紅色の玉がついている数珠を手渡された。
『きれい……』
『これはね。あなたのお母さんの数珠よ。これ、大事に持っていなさいね』
『えっ。いいのっ?』
『由美子さんも、里奈がこれを持ってることを望んでるはずよ』
それ以降、里奈は怪奇現象を解決しに行くたびに、この数珠を身につけていくのがお決まりとなった。
勝は、決まり悪そうにうつむいている。持っていた体操着を入れた袋がものの見事に破れていた。体操着は破れはしなかったものの道路にぶちまけられてしまい、汚れてしまっていた。そばでは子鬼が悔しそうに歯噛みしている。駆けつけて来た里奈によっていたずらを寸でのところで阻止されたのだった。
「あ、ありがとうっ」
「体操着汚れちゃったけど、いい?」
「……うん、なんとかする……」
「それにしても……」
そう言って里奈は子鬼を見降ろした。子鬼はこっそり逃げようとしたが、里奈の霊力によって食い止められてしまった。
「見逃がしてくれよっ! 別にこいつに危害を加えようなんて、微塵も思っちゃいねえよっ」
「そうはいかないのっ。これ以上、勝に悪さしないって約束してっ」
「ええっ、なんでっ!」
思いっきり不服そうに抗議の声を漏らしかけた子鬼に、里奈は数珠を見せた。
「約束しないと、どうなるか。……わかるよね?」
すると、今まで不満たらたらだった子鬼はどういうわけか土下座した。しかも顔に汚れが付くのも構わずに、である。
「わ、わかったからっ! それをしまってくれっ! もう、あんな怖い思いは勘弁してくれっ」
「じゃあ、約束するわね?」
「す、するからっ! 命だけは助けて……」
「……はぁ、じゃあ、もう行っていいから。もう勝のところには来ないでよ」
言われた途端、子鬼は一目散に逃げていった。
「……ねえ、ちょっといい?」
勝は帰ろうとしていたところだったので、後ろを振り返る。
「何?」
「勝は、いつから幽霊や妖怪が見えるようになったの?」
「ママだもん! 絶対ママだもん!」
「だ~か~ら~! 私はあんたみたいな犬耳を娘に持ったことない!」
「だってママに似てるんだもん! どうして嘘つくの!」
犬耳少女のみあが黒い帽子の女性と言いあっている。はたから見たらくだらない言い争いだが、黒い帽子の女性はムキになって否定していた。
「だからっ! 私は結婚したことないから、子どもはいないの! わかった?!」
「でも似てるよ! 由佳のママに!」
「……由佳?」
みあが由佳という名前を出した途端、女性の赤い顔が和らいだ。聞き覚えがあるのか、ないのか。
「そうだよ! 私と一緒に暮らしてた由佳のママにそっくり! 由佳ママだよ!」
徐々に和らいだはずの赤い顔が再沸騰した。
「バカか! 私に子どもはいないって言ってんだろ! それに由佳って誰だよ!」
「知らないはずないもん! おばさんは由佳ママにそっくりだもん! そうだ! 由佳、由佳を呼んでくればいいんだ! おばさんもきっと知ってるはずだよ!」
「だから知らないって! 私に子どもはいないって言ったの聞かなかったのか! っていうか、おばさんって言うな!」
「知らないはずないよ! 由佳ママだったら知ってるはずだよ! ほら、由佳ママの名前は由紀子だよ!」
怒りで顔を真っ赤にしていた女性は何か重要なことを聞いたと言わんばかりの顔をした。
「ゆ、由紀子……。由佳のお母さんの名前、本当に由紀子って言うのか?」
「そうだよっ。だって由佳が教えてくれたもん!」
「おい、そこの黒犬!」
裏山から出ようとして失敗し続け、自信喪失していたころだった。見知らぬ匂いの人が私に声をかけてきた。
「ワン! ワン!(誰ですか? 何の用事?)」
その人は私に近づいてくるなりこう言った。黒い帽子を目深にかぶっていて何だか怖く感じるその人は、明らかに普通の人ではない様子がにじみ出ていた。私は恐る恐る、その人に近づいた。
「やっぱり、気がつく奴は気がつくみたいだね。仕方がないか。でも、私は君に、ここから出ていく方法を教えようと思ってね」
ここから出ていく方法を教える。私はその言葉に食いついた。私の反応に気をよくしたその人は、さらに言葉を続けた。
「でも、ちょっとだけ、私と取引しないか? 簡単だよ。この匂いの奴を見つけるだけだから」
そうしてその人がとりだしたのは、私が知っている匂いの物だった。
ドッグコンテストのあの時、はっきりと自分たちの周りに黒い影が蠢いているのが見えたことを里奈に伝えた。そして、ヨルがそれらの物を捕まえようとしているところも。あの時、ヨルは周りにいる幽霊のようなものをはっきりと認識していたも。聞き終えたとき、里奈はやっぱりという顔をした。
「君、ヨルと一緒にいたせいで、狙われることになったのよ」
「前に言ってた、紫乃聖人ってやつ?」
「そう、その通りよ。君はそいつに狙われてる」
「でも、そいつが狙ってるのってヨルだけじゃないの?」
「私も最初はそういう風に考えてたんだけどね。でも、君の存在はあいつにとって邪魔なんじゃないかって思えてきたのよ」
「……どうして?」
「君がヨルのためなら、駆けつけてくるかもしれないじゃない」
それは、以前ならそうしてたかも知れないけど、今となってはそうしないかもしれないと思った勝は、口を挟もうとした。
「けど、俺って子どもじゃん? 奴にとっては、俺なんかどうでもいいはずじゃないの?」
「けれど、君には、普通では考えられない能力を持った友達を持ってる。でしょ?」
孝輔とは仲たがいしてしまったし、幸也ともあまり連絡が取れなくなってしまったし、良平に至ってはもうこの世にはいない。残った友達は翔太と稔だけじゃ、どうしようもない。けれど、もし孝輔と仲直り出来たら? 幸也を外に出すことができたら? そのことに思い至った勝は、ハッとした。今のままじゃ、奴の思うつぼだということに。
「……言ったでしょ。幸也は出てこないよ。」
江里菜はむすっとした表情で勝に告げた。けれども勝は、あきらめきれていないようだった。
「幸也君の力がどうしても必要何ですっ! 今すぐ連れてきてとは言いません! 話だけでもっ!」
「どうして、幸也の力が必要だと思うの? 今ね、幸也の精神状態はボロボロなわけ。外に出せる状態じゃないことくらい、君だってわかるでしょ? 幸也のことを友達だと思うんだったら、あきらめて帰って」
有無を言わさぬ口調に勝はどうしようかためらった。けれど、紫乃聖人を食い止めるためには3人だけでは到底無理だということが勝にはわかっていた。勝は、一か八かあのことを言うことにした。
「俺の飼っていた黒犬のヨルは送り犬なんです! 悪いやつ、じゃなかった、紫乃聖人がヨルを使って邪魔者を排除しようとしてる! 止めるには、幸也君の力が必要なんですっ」
これで、幸也を連れてきてくれるだろうと思った勝に江里菜が投げかけた言葉は意外なものだった。
「……知ってるよ。それぐらい」
「え……」
「ただね。勘違いしてほしくないのは、その紫乃聖人って言うやつを止めるのが必要なくらい、今の幸也には療養が必要なの。つまり心の傷を治す時間がいるってこと。弟のことが心配だから言ってるの。……わかるよね?」
勝は、何も言い返せなかった。江里菜は言いたいことを言うと、さっさとドアを閉めてしまった。もし、紫乃聖人のことさえなかったら、勝は、幸也のことを取り戻せただろうか。それは、今の時点では分からない。
黒い帽子の女性から探してと頼まれた人は思いの他、近くにいた。
「いったいどうしたのよ? 言ってくれなきゃわかんないでしょっ!」
まりいはぶつぶつ言いながら私の後をついて行く。私はまりいの匂いを知らないけど、なぜか、あの匂いを嗅いだ瞬間、まりいの匂いだと思ったのだった。そこで、まりいを連れていくことになったのだった。黒帽子の人のところへあともうちょっと、というところだった。まりいはあの人の姿を確認すると、逃げようとした。
「ワン!(ど、どうしたの?!)」
私がまりいを追おうとすると、あの黒帽子の人が私よりも早く駆け出し、まりいに追いついた。そして、幽霊であるはずのまりいを捕まえたのだった。捕まえられたまりいは必死に逃れようとしている。
「離して、離してよ! ヨル、見てないで助けて!」
「おとなしくしてもらわないと困るよ。まりいちゃん。私はただ……」
「ヨル、こいつを何とかしてよ!」
まりいのあまりの怯えように私は面食らってしまった。確かに怪しい人ではあるけど、ここまで怯える必要があるの……? 私が躊躇していると、まりいはさらに叫んだ。
「こいつは、こいつは紫乃聖人の仲間なのよ! 私をころした奴の仲間なの!」
「困るね。和沙ちゃん、役に立ってもらわないと」
あの女性にお守りをもらってから、私の心に少しだけ勇気がわいてきていた。けれど、奴に歯向かう勇気だけだ。一人でこの難局を乗り越えられるなんて、ただの傲慢だ。私は反抗するたび喜びを感じたが、その喜びも長く続かなかった。痛いお仕置きが待っているからだ。それでも私は反抗せずにはいられなかった。理不尽に対する反抗を。
「ちょっと、席を立っただけじゃないっ。足がしびれてきたんだから、少しだけ姿勢変えたっていいじゃないっ」
バシンッ!
私は思いっきり殴られ、床に頭を打ちつけた。口の中に血の味が広がる。立ち上がろうとした時、さらに蹴り飛ばされてしまった。
「うぐっ……」
その衝撃で口から血を吐いてしまった。口をぬぐっていると、近くに奴が寄ってきていた。思わず身をすくませると、奴はある写真を見せてきた。
「……これは」
写真に写っていたのは、私の住んでいる町だった。奥に私がよく行った裏山や、うっすらだけど山々が見えた。
「これが何だかわかるね? 別に君が反抗するのは止めはしない。ただ君が反抗するたび、君の愛する街を魑魅魍魎が混乱させることになるからね」
こいつは本当に卑劣だ。私は、自分の町を守るため、反抗しないことを余儀なくされた。
やむを得なかった。私はまりいを守るため、黒帽子の人をあの橋がある川のころへ連れ込んだ。激しく咬んだため、その人の手から血が流れ出ていた。けれど、黒帽子は全く動揺しているようには見えなかった。
それどころか、口元にうっすらと笑みが広がっていた。それに気がついた私は自分の身体に悪寒が走るのを感じた。こんな感覚になるのは、あの黒犬の時だけだと思っていただけに、私はこの人があの黒犬と同類なんじゃないかと思うようになっていた。私の警戒心を見てとった黒帽子は、ますます口元の薄ら笑いを広げた。
「まったく、まいったよ。あの子を守るためとはいえ、生きてるやつをあの世に連れていくなんてね」
黒帽子はそう言って私に近づこうとした。
「ワン! ワン!(ち、近寄らないで!)」
「そんなに怒らないでよ。あんたがしたことは立派なことだと思う」
そう言うと、おもむろに黒帽子をはずした。私は、その人の頭を見た瞬間、腰が砕けるのを感じた。
「大丈夫。あんたは私をころしてない。だって……」
帽子をはずした頭には、人間にはないはずの角が生えていた。
「……私は鬼だから、あの世に連れてこられただけじゃ、死なないの」




