ひとりになっても
私が勝のところへ来て数か月が立つころ。勝はいつになく、そわそわしている。待ちに待った席替えの季節なのである。勝の頭の中は自分の好きな子の隣になったらどうしようと、そのことばかりだ。世の中そんなに都合よく物事が進んでいくはずがないのに、あの子が隣になったらこうしよう、ああしようという妄想が膨らんで、目の前のことが手つかずになっていた。それはもちろん私のこと!
ちゃんと世話をするって約束したはずなのに、散歩のことを忘れてずっと上の空になっているじゃないのっ。私は勝の気をひこうと勝の手を甘噛みした。しかし、勝はまったく気が付かず、白昼夢の中に漂っていた。まったく、お気楽なんだから。私は勝に気が付かせようという試みをあきらめ、庭に出ていった。
数か月前、私が勝に出会った頃はどの段差も大きくて、よじ登るのにも苦労したが、今では縁側を降りることぐらいなんの苦労もなく降りられるようになっていた。とても大きく感じていた木も、それほど大きく感じないようになった。それほど私が成長してきたということなのだろう。だけど、一つだけ変わらないことがあった。それは、勝のところに住めてよかったという思いだ。勝に出会えていなかったら、と考えるといまでもゾッとする。
あの時負っていたケガはかすり傷程度だったらしく、今ではケガの跡は毛におおわれてわからなくなっていた。もしあの時のケガが大ケガだったら、勝の家に行く前に、動物病院にぶち込まれていただろう。私はこの幸運をありがたく受け止めようと決めた。言ってみれば、勝は私の命の恩人なのだから。
しばらくすると、勝は私がそばにいないことに気が付き大慌てで部屋の中を探し始めた。私は庭にいることを知らせるために大きく吠えた。
「ワン!」
すると、案の定、勝は庭に目を向ける。私を見つけて安堵の表情がにじみ出ていた。
「そこにいたか、ヨル。まったく、勝手にどこか行かないでくれよ。……あ、そうだ。散歩に行くんだったな。忘れてた」
勝はそう言うと、母親に買ってもらったリードをどこからか取り出してきた。やっと、散歩に連れていってもらえるってわけね。リードを見ると思わずしっぽを振ってしまう。気持ちがそわそわしてきたので、私は勝の周りを思いっきり走り回った。
「ちょっと! ジっとしてもらわないとリードをつけられないじゃないか」
そんなこと言われてもうれしいものはうれしいの。けれど、これ以上走り続けてたらいつまでたっても散歩に連れていってもらるはずがない。私は嬉しさを爆発させ続けたいのをこらえて止まることにした。
「あ~、やっと止まってくれた」
そう言って勝は私にリードをつなげた。これで、散歩に行けるわね。
私の散歩コースはいつも決まった道だ。勝がよく行く公園をたどるコースだ。そこではほかにも散歩している犬がいるし、知り合いを増やせるというわけだ。そこでは、仲良くなったほかの犬たちと遊ぶことがメインになっている。
最初ここに来たときは、知らない犬が来たと言って、私をのけ者にしたのがショックだった。けど、今では公園に来るほかの犬たちみんな友達になっている。そこでの私の一番の仲良しは、私より体の小さいチワワだ。彼は私が来るたび、一目散に駆けつけてきてくれる。けれど、気にかかることがあった。それはチワワと一緒に来る人のことだった。その人は大人の女性なのだけど、どうも、子供と話すのは好きでないらしい。世の中変な人もいるものだ、とつくづく思った。
みんなと遊んで、日が暮れかかってきたころ。もうそろそろ帰ろうかという雰囲気になったときのことだった。何かが私の目の端を通り過ぎていったような気がした。気がしたというのは、はっきりとは見ていないからだった。犬の目は人間の目と違ってあまり良くないため、ぼんやりとしたものが通り過ぎていったという風にしか見えなかった。あれは一体なんだろう。私は気になり始めたので、通っていったものが何なのか、見てやろうと思った。
「あ、ヨルっ! 一体どこに行くの!」
勝はリードを強く引っ張ったが、それがかえって私を奮い立たせた。勝がダメって言っても、絶対正体を突き止めて見せるわっ。私がいきなり走りだしたせいで、勝は踏ん張りが利かず、ついには私のリードを離してしまった。私がそれに気がついたのは、知らない匂いが充満していると気が付いた時だった。知らない場所に来てしまったという思いが、私を不安に駆り立てていった。どこを嗅ぎ回っても勝の匂いが全然しないばかりか、得体のしれない匂いがさっきよりも強くなっていた。どうしようと思った時、誰か見知らぬ人が私に気が付いたようだった。
「あ、ワンちゃんだー!」
「あ、本当ね。……でも、首輪とリードが付いたままってことは、誰かが逃がしちゃったのかしら」
知らない子供と女性の声だ。少なくとも、公園で出会った人達とは違う声。知らない声を聞いて自ずと私はしり込みしていた。にもかかわらず、子供はそれに気づかないのか私にどんどん近寄ってくる。近寄らないで。逃げたかったけれど、足がすくんで動けそうになかった。子供は今や私に触れそうなくらい近くにいる。もう、もはやこれまでかと思った時、何かが子供の気をそれさせたようで、子供は違う方向に走っていった。
「あ! どこへ行くの! 待ちなさい!」
子供の母親と思われる女性が叫んだのをしり目に私は走りだした。速く勝のところに戻らなきゃ。しかし、それで私の置かれた状況が好転したわけではなかった。私はまだ知らない匂いが漂うさなかにいるのだ。私は混乱した頭ではあったが、自分が迷子になったということだけは理解した。はやく勝のところに戻りたいのに……。
トボトボと歩いているとき、またしても誰かが私の前に立ちはだかった。これ以上の面倒は御免蒙りたい私は、そいつを無視してやることにした。私がそいつの横を通り過ぎようとした時のことだった。
「おい、煩わしいことから救ってやったのに無視か? こういうときは有難うって言うものなんだぞ」
一体何? この人。私が犬だってことを分かっていて言ってるのかしら。私、人語はしゃべれないのに。変な人だという思いが顔に出ていたに違いない、私のゆく手を遮った人は思いもよらぬことを言いはなった。
「お前は信じないだろうがな。俺はお前の考えていることはなんでもわかる、いわば覚だぞ」
……やっぱり変な人だ。こういう人には関わり合いにはならないほうがいいわ。速く勝のところに戻りたいのに、この人のせいで、勝を探せないじゃないのっ。私は一刻も早く勝のところに戻りたかったので、歩きだそうとした。が。
「……いいのかな。俺を無視したりなんかして。お前、勝ってやつのところに戻りたいんだろ?」
っ、どうしてそれをっ。思わず私はそいつの顔を見上た。目の前のそいつは驚いた私を見て満足したのか、私のことをじっくり眺めている。知らない匂いのこいつは、どれだけ信用できるだろうか。落ち着け、私。もしかしたら勝の知り合いで、こういう変な奴がいるのかもしれない。だから、こういうことを言ったのかもしれないじゃない。私は自分にこう言い聞かせたが、心中穏やかではなかった。いったい、こいつは何が目的なのだろう。
「ついでに言っておく。俺、一度も勝ってやつに会ったことはないし、俺がお前に近づいたのは、ただの興味本位だ」
何、それ。それって結局、勝の家がどこにあるかわからないって言ってるものじゃないの。ふざけるのもいい加減にしてよ!
「ワン!」
大きく吠えてみたけど、目の前の相手は怖がるそぶりをみせなかった。全く、嫌な奴!
「まあ、そう怒るなって。確かに俺は勝のうちがどこにあるかわからない。けど、打つ手がないわけじゃない。……聞きたい?」
何よ、その偉そうな口ぶりは。誰が、知らない匂いの人に助けを求めるってのよ。けれど、誰でもいいから今すぐこの状況を打開してほしいという思いは確かにあった。でも、何でこいつに助けられなきゃならないのだろう。どうして、勝は早く来てくれないんだろう。
「まあ、そんなにしょげるなよ。俺が何とかしてやるからさ」
私の思いを汲み取ったのかどうかはわからないが、相手は口調を変えてきた。そんなに私が不憫に見えるのかしら。
自称覚は勝を探すため、ある人をスマホで呼びだした。その人とは、なんでもものに触れると、その過去が見えるというサイコメトラーなんだという。
かなり胡散臭いが、人語をしゃべれない私に反対をする権限はなかった。でもいいわ。本当に勝を探せるかどうか、お手並み拝見といこうじゃないの。自称覚に呼ばれてきたそいつは嗅いだことのない匂いがした。そしてやはり、と言うべきなのか、勝を探しだすため私に触れないといけないという。私は見知らぬ人間に触られるのはすごく嫌。しかも、私の過去が見えるなんてもし本当だとしたら、プライバシーの侵害よ。それは自称覚も同じなのだけれど。
「この子はあんまり触られたくないみたいだ。でも、君のご主人様を探すためなんだ。わかってくれるね?」
はいはい、私には有無を言わせないってわけね。でも、私のことをなでなでしていいのは、勝と気を許した人だけなんだからね。私は覚悟を決めて、頭を下げた。悔しいけれど、その人の触り方はとても心地よかった。しかも勝よりも上手だ。この人も犬と一緒に暮らしているから、とふと思ったが、他の犬の匂いはしなかったため、それはなさそうだ。
「……よかった。それほど遠いところから来たというわけではないみたいだ」
安堵した声でその人が言う。っていうか、本当に勝の居場所がわかったのかしら。嘘だったら、咬みついてやるんだから。
嘘ではなかった。サイコなんとかの能力の持ち主は本当に勝を見つけた。だって、私の鼻には勝の匂いが届いてきたからだ。
「あ、ヨル! よかった! 探したんだぞ! どこもケガしてないか? あぁ、見つかってよかったぁ~」
私は勝に再会した喜びを現すため、勢いよくしっぽを振った。
「それにしてもよく戻ってこれたな。もしかして匂いをたどってきたとか?」
? 何を言ってるのかしら。私が勝を探しだせたのはあの人達のおかげ……。私が後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。え? さっきまでずっと一緒だったのに……。忽然といなくなるなんてこと、ありえるのかしら。
「後ろなんか見てどうしたんだ?」
丸い満月。そして足元の崖。そして横には一本の大きな木が立っていた。私は月を見ながら、泣いていた。私は今までのことを思いだしていた。親に言ったらいらない心配をかけてしまう。私はそれが嫌だった。だから、こうしてここに来て月に慰めてもらうのだった。ここの月は、とてもきれいだから。
しばらく経って、そろそろ戻らなきゃ、と立ち上がる。ふと、気配を感じて後ろを振り返った。そこにはここでは見かけない少女が立っていた。どうしてこんな夜中にここにいるのだろう。私は思いきって声をかけようとしたその前に少女が私に話しかけてきた。
「また来たんだ。いつもここに来るよね」
「え、と……」
また? どういうことだろう。この子は物陰に隠れて私のことを見ていたのだろうか。私が答えに窮していると、少女はまた話し始めた。
「辛いことがあるから、こうやってあのお月様に慰めてもらってるんでしょ?」
「どうしてそれを……」
「だって、お姉ちゃんはいつだって、泣きながらあの月を見ているじゃない」
初対面の女の子に臆面もなくこんなことを言われないといけないのかと思うとたまらなく恥ずかしくなった。でも、少女は嫌味を言っているわけではなさそうだった。次にはこう言ってきたからだった。
「私もだよ。嫌なことがあったらね、一人になってきれいな景色を眺めたいことがあるから」
「え、でもあなたは……」
「確かに、お姉ちゃんからしたら子どもだよ。でも、子どもの世界も大変なのです」
そう言って少女は静かに笑った。その子の笑顔がやけに悲しそうだったのが印象的だった。
「だから、ね。月を見る時ぐらい笑ってなきゃ!」
「そう……、だね」
「私も一緒に月みる~」
それから、私は少女と一緒に月を見るようになった。




