今も、思いだす
勝は、学校から帰ってくるなり、ソファに突っ伏した。いつもだったら、宿題そっちのけで私と散歩に行ってくれたりするのだけど、今日の勝はいつもと何かが違った。……また、学校でいじめられたのかしら? 私は勝のことが心配になり、勝のそばへ寄ろうとした、が、突然勝が顔をあげたかと思うと、興奮しながらしゃべり始めた。
「おい、ヨル! 聞いてくれ! 今度のドッグコンテストの時にさ、ヨルにあいそうな芸を思いついたんだっ。これ絶対すごい大技だから、優勝できるぞ!」
へ? こ、コンテスト? あ、そうだったっ。すっかり忘れてたわ! 私、そのドッグコンテストってやつに出るのよねっ。まったく、帰ってくるなりうつぶせになっちゃうもんだから心配したわよ……。
それで、何をやればいいのかしら? 私の友達だったチワワが後ろ脚で立ったまま歩いたのを見たことはあるけど……。私の気掛かりをよそに勝はごそごそとポケットから何かを出してきた。紙に何か絵のようなものが描かれてあった。真っ黒い何かが後ろ脚を上にあげて大きなボールのようなものに乗っている。お世辞にもうまい絵とは言い難かったが、とりあえず勝が私に何をさせたいのか分かった。でもこれ、テレビで誰かがやってなかったけ?
勝は、興奮を抑え切れないまま優勝への思いを語りだした。これ、もしかして何時間も語り続けたりなんかしないでしょうね? 夕食抜きになっちゃうわよ! 私は勝に話を止めさせようとして、思わず前肢で勝の顔にお手をした。
「ぅわっ。いきなり何するんだよっ。まだ話終わってないのに!」
……やっぱり、話し続ける気でいたのね。私はそんな話を聞いてもちっとも面白くないのっ。一緒に遊んでくれなきゃ、楽しいなんて言えないわ。でも、熱は十分伝わってきたけどね。……それにしても、そんなに大きなボール、勝は持ってるのかしら?
特訓は散歩コースにある、公園ですることになった。家の庭ですると、勝ママになにかしらお手伝いを頼まれてしまうのでそれを避けるためらしかった。なんか、勝らしい……。
歩いてる途中のこと。向こうから誰かが走ってくるのが見えた。あの匂いは、翔太ね。そんなに走ってどこへ行くのだろう? 勝も翔太に気がついたらしく、大きく手を振った。翔太が私たちにどんどん近づいて行くうちに変なことに気がついた。寒いはずなのに顔は汗でびっしょりだったのだ。翔太が私たちのそばへ駆けよってきた。
「ひ、日野! お前も逃げろっ。向こうからヤバい奴が来てるんだ! これ、飯野からもらった薬だっ。一時的に妖怪がどこにいるかわかるようになるらしい。あとそれと、これ。気配を消す薬だ。いいか? 走ってでもいいからこれ飲んでおけっ」
一気にこれだけしゃべると、翔太はどこかへ走っていってしまった。
「ち、ちょっと! それだったら、ヨルはどうしたらいいんだ!」
しかし、もうすでに翔太はどこかへ行ってしまっており、勝の声は届かなかった。勝は仕方なく、もらった薬を飲み込んだ。
「うへっ。にっげ~」
勝が薬を飲むか飲み終わらないうちにそれは来た。あ、あいつ! 前に出会った奴だわ! 私はあいつの匂いを嗅いだだけで胸糞が悪くなってきてしまった。
「ワンワンワン!」
「お、おいっ。ヨルっ。立ち向かってどうするんだよ! 逃げないと!」
勝っ、止めないでっ! 私はこいつをやっつけなきゃいけないんだから! そいつは私たちを見つけるなり、罵声を浴びせかけてきた。
「おいっ! 小僧! あの覚野郎はどこへ行った! あいつのせいで、俺の気分が台無しだ! どこへ行ったか教えないと、ぶちのめすぞ!」
勝は、妖怪の気配がわかるようになっても、声が聞こえるようにはなってないらしく、あいかわらず、私を引き留めようと必死だ。
「すぐそばにいるのに、止まってないで逃げようってばっ」
「おいっ。俺の言うことが聞こえなかったのか! あいつの居場所を教えろってんだ!」
ちょっと! これ以上近づいたら、咬みついてやるんだからね!
「ワンワンワン!」
「くそ、まったく埒が開かないな……。……そうだ、おい、そこの犬! お前はあいつの匂いを知っているだろう。あいつをここに連れて来いよ」
な、何で私があんたの言うことを聞かないといけないのよ! そんなのごめんよ! 私はこいつを何とかしようと、突撃することにした。体当たりして気絶させてやる!
「お、おいどうしたんだっ、ヨル! もしかして妖怪に何かされたのか……」
勝は全く状況を飲み込めてなかったけれど、私のやろうとしていることはわかったようだった。勝、そこで私の突進を見てなさいよっ! むかっ腹の立つこいつをやっつけるためなのよ! 私は勢いよくそいつに向かって頭から突っ込むことにした。
「お、やるつもりか、来いよっ。犬っ娘!」
やってやろうじゃないの! 手加減なんてしないわよ! 私は思いっきりそいつにぶつかっていった。
ドシンッ!
「キャン!」
「だ、大丈夫か、ヨルっ。ケガはないか?」
あいつに突撃したはずなのに、私はどう言うわけか、地面に激突していた。頭が痛い……。私が横たわっていると、あいつが近づいてくる気配がした。何かされる前に立ち上がろうとしたけど、体のあちこちが痛んで起き上がるのに苦労した。
「ふふんっ。俺をどうにかしようなんて、考えないことだな。だってほら」
あいつはそう言うと、体を覆っていたマントのようなものを外した。私は驚きのあまり吠えるのを忘れてしまった。そいつはなんと、首から下の体がなく、かわりに黒っぽい煙のようなものが首の下から出ていた。ど、どうなってるの……。
「ふふふ、驚いただろっ。俺は、何といっても、首だけで生きる、ラーフ様なんだからな! 伊達にアムリタを盗んで飲んでねえってのっ。……わかったら、あいつをここまで連れて来いよ?」
「何なんだよ……。どうしてそいつのところに行かねえとならないんだよ……」
翔太は裏山の近くまで逃げていた。かなり渋っている顔をしている。それもそうよね。あんな嫌な奴のところに行きたくないよね。でも、私は頼まれたの! 来てもらわなくちゃ。私が翔太の袖を引っ張る傍らで、勝はかなりばてていた。私が勢い良く引っ張りだしたせいだった。
「ぜぇ……、ぜぇ……。俺も、なんでだかわかんないよ。ヨルが急に吠えたと思ったら突っ込んで、しばらくしたら、立ち上がって急に駆けだしたんだ……。妖怪に何か吹きこまれたとしか……」
「そうか……。ちょっと、ヨル。俺のことちょっとだけでいいから見てくれないか」
な、なんなのこいつっ。も、もしかして私のことを好きに……。
「好きになったりしねえし。安心しろ。……ふむ、どうやら、ヨルはあいつに何か見せられて、従わざるを得なくなったって感じか」
!!! こいつが自称覚って言ってたこと、忘れてたわ! ああ、もう頭の中見られるなんて、恥ずかしいじゃないの~!
翔太はあいつのところに行くことをあっさりと承諾した。いったい、何かあいつをやっつける良い方法でも思いついたのかしら? とりあえず私たちは、そいつが待っているところへ向かうことにした。そこに向かう途中、翔太がニヤニヤしているので勝は気味悪がっていた。
「い、いいのか? 戻らないほうがいいんじゃ……」
「いいんだってっ。それよりも、早く行こうぜっ」
まったく、気味が悪いたらありゃしないわ。確かに翔太は勝よりも力は強いかもしれないけど、どうやって見えない妖怪を倒すのよ? 私はあいつの首だけの姿を思いだしてゾッとした。地面に無様に倒れてしまった時のあいつの顔を見るだけでも腹立たしかったし、何よりも、あいつの笑みが怖かった。
あいつは律儀に同じところで待っていた。私があんな失態さえ侵さなければ、こんな風にこき使われなかったはずなのに……。私ってこんなに気が弱かったっけ?
「覚野郎を連れてきたか。犬は言うことを聞いてこその犬だもんなっ」
あいつは勝たちが見えないということを知らないのか、得意満面の顔をしているが、勝たちはそんなことは知るはずもなく、しゃべり始めた。
「なぁ、ここらへんでいいのか? あの薬の効き目がなくなったみたいでどこにいるのか分からないんだけど……」
「おいっ! 俺の話を聞けよ! いちいち無視すんなってっ!」
「ここでいいって。だってここには奴の気味の悪い思考が漂ってるからな」
「な、き、気味が悪いだと! 本当にムカつく覚野郎だ!」
「真野って、見えない妖怪の思考も読めるのか! すげぇっ」
「ま、まぁ、これぐらい朝飯前ってことだ……」
「くっそ、どいつもこいつも! 二人ともボコボコにしてやるっ!」
あぁ! 翔太ってば何をしてるのよ! あいつをやっつけなくていいのっ?! 私は内心焦ったけれど、翔太はあいつをやっつけるそぶりも見せない。どういうことなのっ。あいつがマントの裾から四本の煙の腕を出して襲いかかろうとした時だった。
「ちょっと! そこで何してるの!」
「げっ。ケートゥじゃないか! お、俺はただ……」
な、何なの! よ、よりによってこいつも! あのならず者を止めたのは、なんと首のない四本腕の、下半身が魚の妖怪だった。く、首なしが、しゃべってるっ。
「言い訳するんじゃないの! 帰るよ!」
「ごめんってば! もう暴れたりしないからっ」
「どうだか……。あ、お二人さんにワンちゃんも、怖い思いさせてごめんね」
そう言うと、ケートゥと呼ばれた首なし半魚人はあいつの首をつかんでどこかへ行ってしまった。
「と、ところで、真野はどうして何もしないんだ? 妖怪退治は……」
「いいんだよ。あの魔物の知り合いに来てもらって、連れて帰ってもらったから」
「えぇ! そうだったのか!」
私たちが帰るころにはもう夕暮れ時で、帰らなければならなくなっていた。
「あぁ、また特訓できなかったな……。どうする? もうちょっと公園で練習する?」
勝ってば何を言ってるのよ! 私はもう腹ペコなの! 帰りたいの! 私は、勝の服の裾を引っ張って帰るように促した。
「え? ヨルはもう帰りたいのか……。そうだな、帰ろうか」
まったく、ちょっとは私の気持ちも汲んでよね! ……あれ、あそこにいるのって……。本当にようやく帰ろうとした時、誰かがいるのに気がついた。あいつって……。私は気になりその人のところへ行こうとした。
「お、おい! ヨル、そっちは家の方向じゃないって!」
勝は私のリードを強く握って私を止めようとしたけど、私は気になったものはそのままにしておけないほうなのっ。我慢してよね! こうして、私は勝を引っ張り、勝は私に引っ張られるままになることになった。
「どうしたんだよ……。……て、あれ? あの人!」
とても寒い中、少女は同じような服を着て裏山にいた。まっすぐ降ろした髪は、風邪に揺らされることなく彼女の体の周りに垂れている。手には寒さを感じさせるような震えもなく、彼女はまるでここにいないかのようで、それが彼女は生きてない何よりの証拠であった。
彼女が一人ただずんでいると、ふわふわがやってきた。冷たい風が吹いているのによく吹き飛ばされないものだと、少女は感じた。少女のそばにふわふわがやってくると、息せき切ってしゃべりだした。
「まりい! 喜びなさい! もしかしたら裏山から出れるかもしれないわ! ちょっと、下準備が必要だけれど、それが整ったら、ここから出れるわよ!」
しかし、それを聞いても少女は喜ぶそぶりを見せなかった。そして、何もわかってないというような顔をした。
「あのね、確かに最初はここから出たいって思ってた。けどね、私が本当に望んでることってそれじゃないってわかってるでしょ?」
「で、でもあなたがここから出れれば、あなたの望みだって叶えられる……」
「私は今すぐにでもあいつをやっつけたいのよ! 私をこんな目に遭わせたあいつを! 今ものうのうと生きてるのが許せない! それに、あの女もよ! 今も生きてるって……」
「あ、あの女って?」
「紫乃和沙よ! あいつの姪よ! あの、紫乃聖人の!」
「……そいつっ、もしかして」
ふわふわは少女が言った名前に聞き覚えがあるようだった。その名前を聞いた瞬間、ふわふわはくすんだ色になってしまった。まるで、泥に突っ込まれてしまったような感じだ。
「だから、はやくそいつの居場所を突き止めてよ! 早く!」
「……わかったわ。まりいがそこまで言うなら……」
冷たい風が裏山を駆け巡る。空気は痛いほどに透き通っていたけれど、ふわふわの心はあまりの衝撃に淀んでしまった。




