赤い満月の夜に出会う
気が付いた時にはもう遅かった。私は足元からそのまま崖下へと落ちていた。駆け巡る走馬灯を眺めながら私は落ちていった。赤い満月がそんな私を睨みつけているようだった。私は襲い来る死に思わず目をつぶる。
(死にたくないっ……!)
体が重い。まぶたさえもが開けるのに苦労する。体に力を入れて起き上がろうとしたが、体は言うことを聞いてくれようとしなかった。それに体中が自分のものでない気がした。とてつもない違和感。私は起き上がれずに横たわっていた。しかしその時、誰かの足音が聞こえた。カサカサと草をかき分ける音。そして、甲高い声が響き渡った。
「うわ! 子犬がケガしてるっ!」
それが私と勝との出会いだった。
勝の親は、勝が子犬の私を家に連れて帰るのを良しとしなかった。見た目が汚らしかったのがその原因なのだが、それ以上に、勝がちゃんと犬の世話ができるのかということが疑わしかったのだ。
というのも、私を連れて帰った勝という少年は、何をやらせても三日坊主で、夏の縁日ですくってきた金魚でさえ、いつの間にか祖母が世話する羽目になっていたからだ。というわけで、ケガの手当はするけども、その後は元の場所に戻してくるように、というキツイ宣告が勝に下ることになった。
(ちょっと、困るわよ。せっかく命拾いしたって言うのに、またあの山に捨てられるなんて冗談じゃないわっ)
私は精一杯同情を誘うような眼差しで勝を見上げた。が、勝はそれに気が付かなかったのか、私を抱きかかえるとこう言った。
「ごめんよ。俺の母ちゃん家が汚れるのが、嫌なんだってさ」
そう言うと、勝は私を見つけた裏山に私を抱えて家から出ていった。まったくこの子は本当に子犬の私があの山で自力で生きていけると思ったのだろうか。それとも、親の権威ってやつには逆らえないとか……? かくして私は元いた山に連れ戻されてしまったのだった。
山に連れ戻されてしまってショックだったけど、ここであきらめるわけにはいかない。私はこの山から出ていかないといけないという予感があった。私はずっとこの山で暮らしたくないという思いもあったからなのだけど。
子犬の私にとって山はとても危険なところ。どうしてあんなところで倒れていたのか分からないけれど、あそこでいたら、私より大きな生き物に食い殺されてしまうかもしれない。私のケガもきっと誰かに咬まれたときのものに違いなかった。
というわけで、私は勝の匂いを思いだし、勝の住んでいる場所へ行くことにした。しかし、行けども行けども、山から出られる気配はなかった。どんなに見渡しても生い茂るばかりの樹、樹、樹だった。それもそのはず、私の体はとても小さいから子犬の足取りで歩いている。ということは、大人の犬なら駆け下りるところを、一歩一歩、狭い歩幅で行っているものだから、いつまでたっても、山のふもとにたどり着けそうになかった。
そろそろ足が痛くなってきたときのことだ。もはやふもとにたどり着けないのではないかという疑念に私は囚われていた。勝にもう一度会いたいという思いが今まで足を動かし続けられていた理由なのだけれども、もうこの山から出られないのではないかという恐怖が足をすくめさせた。
そしてさらに悪いことに日が翳ってきた。夜になると昼とは違う夜行性の動物が徘徊しだすはずなので、ここにい続けるわけにはいかなかった。しかし、恐怖のせいで足が一歩も動きそうもなかった。夜も更けって、これまでかと思われたとき、まぶしい光が私の目をくらまさせた。思わず目を閉じると、誰かに持ちあげられる感覚がした。
(いったい、誰なの?)
「ヨルっ! そこにいたかっ! ごめんな。やっぱり放っておけなくって。俺が何とか母ちゃんを説得するから、今度こそ俺と一緒に暮らそうなっ」
私を持ちあげたのは勝だった。頭につけたヘッドライトがとても眩しい。それにしてもヨルって、何のこと? もしかして……、私の名前? ……何か、ダサイ。もうちょっと考えてくれてもよかったのに。けれども勝はそんなことおかまいなしに続ける。
「やっぱり犬は人間と一緒がいいもんなっ」
勝のお父さんとお母さんはとても渋い顔をしている。明らかに「ダメだ」という顔だ。私はそんな二人を見て居心地が悪くなってきた。歓迎されていないことが、火を見るよりも明らかだったから。
私は野良犬として生きていく自信がないからなんとしてでもこの家に暮らしたかったが、私の置かれた状況は決して良いとは言えなかった。ここで暮らせるか。それとも、野生動物に食われるか。あまりにも沈黙が身に染みて痛くなってきたとき、勝のお父さんがようやく口を開いた。
「……おまえが飽き性なのは自分でよくわかっているな」
あまりにも静かな口調なのでかえって怖さが倍増した。こんな口調で言われたときは、だれでも自分ができそこないのような気がしてくるものだ。
「……はい」
勝の返事はか細かった。私に対する明るい態度とは打って変わってしんみりしている。勝が気の毒でたまらなくなってきた。勝に気のきいた言葉をかけてあげたかったが、人語をしゃべれない私にそれはできない相談だ。
「あ!」
いたたまれなくなった私は勝の手からすり抜けた。勝がかわいそうでならなかったけど、勝のお父さんは厳しそうだし、ほかの人達の家で暮らしたほうがよいのではないかと思えてきたのだ。
「ちょっと、ヨル! 戻ってきてよっ」
勝の叫び声をしり目に私は勝の家を出ていこうとした。が、ある障壁がそれを邪魔した。玄関のドアだ。きっちりと閉まっていて開かない。ドアノブに食らいつこうとしたけど、私よりかなり高いところにあるので、届きそうにない。諦めてほかに出られそうなところを探した。後ろがかなり騒がしいので思わず振り返ってみると、勝が追いかけてきていた。この子はそんなにも私といたいのか、と、一瞬感動を覚えたけれど、私がここを出るという決意が変わらないうちに勝の手から逃げた。しばらく走っていたけれど、息が切れてきてしまった。それに眠い。ここで寝てはダメだとわかってはいたけれど、我慢の限界だった。……もう、寝ちゃおう。
夢の中。私は崖の上で満月を眺めていた。
(きれいだな~。どんな嫌なことも、ここへ来ればすべて吹き飛んじゃいそう)
誰にも邪魔されず、おひとり様で眺める月。私は今まで何度もここの月に慰められてきたことか。できるだけまだこうしてまだ眺めていたい……。そんなとき、満月が太陽みたいに照りだした。いくらなんでも眩しすぎる。思わず目をギュッとつぶると、夢の景色が私から遠のいていった。
どれぐらい眠っていただろう。陽ざしが目に痛くなってきたので目を覚ました。見まわすとそこは私の見たところもない場所だった。
私は自分が置かれた状況を整理するため、辺りを探索してみようと思った。しばらくしてあることに気が付いた。ここは勝の匂いがいっぱい染みついているということに。ということはここは勝の部屋に違いなかった。その証拠にかすかに勝の寝息が聞こえてきた。朝なのにまだ寝てる。起こしてあげようと思い、辺りを見まわしたが、勝の姿が見えない。それもそのはず、勝はベッドの上で寝ているから、私の目線では見えないのだ。なんとかしてベッドによじ登ろうとしたが、全く歯が立たず、私はベッドにかけてある掛け布団をかじったまま宙ぶらりんになってしまった。
どうやって降りようか考えていたとき、耳をつんざくようなけたたましい音が鳴り響いた。あまりの爆音に私はパニックになってしまい、思わず掛布団から口を離してしまって床に落ちてしまった。
「ふぁ~。なんだ、もう朝か……」
勝はベッドから起きると、とてつもない爆音をたてている物を触った。すると、今までの壮絶過ぎる轟音が鳴りやんだ。どうやら、あの音は目覚まし時計の音のようだった。音が鳴りやんだ後でさえ、私の耳はじんじんと疼いた。
「あ、ヨル。おはよー! 寝れた?」
寝れた? じゃないわよ。あのうるさい音のせいで鼓膜が破れそうだったんだから。私は返事する代わりに勝の着ているもの(パジャマ)を、思いっきり咬んだ。穴が開いたって知らないんだから。……それはそうと、何で私はまだここにいるのかしら。勝がスライディング土下座でもしてお父さんが根負けしたのかな? その疑問はすぐに解けた。勝が昨日の出来事を私に語って聞かせたからだった。
「昨日さ。俺がお前を追いかけたじゃん。それを見た父ちゃんが、そんなにその犬のことが好きならちゃんと世話をするんだぞって、言ってくれたんだ。ヨル、俺たち一緒に暮らせるんだぞ! 良かったな!」
勝の言い方に少し違和感を感じながらも、私はこの家にいて良いことを理解した。これで、野生動物に襲われる心配はなくなったわけね。
「勝~! 起きてるの? 朝ごはんできてるわよ!」
「は~い! 今降りるとこ!」
勝はそう言うと、私を抱えながら部屋を出た。勝の部屋のドアの横に下に続く階段がある。どうやら二階建てのようだ。私のご飯は勝の知り合い(犬と暮らしてる)から譲り受けたドッグフードだった。なんか、匂いもしないし、おいしくなさそうだし、私としては勝が食べている物を食べたかった。勝がおいしそうな匂いのするものをサクサク言わせながら食べているのに、私がこんな味気ないものを食べなくちゃいけないなんて……。しかし、空腹には勝てず、恐る恐るドッグフードを食べることにした。
「キャン! (何これ……、思ったよりおいしいじゃない!)」
「ヨル、そんなにそれがおいしいか。良かったなっ」
勝はそう言うと私の頭を撫でた。本当は勝の食べているものが食べたかったのだけど、ね。
勝は小学校へ通学した後、家の中には私と、勝のお母さんだけが残された(お父さんはもうすでに会社へ通勤していた)。私は勝と遊べないなら自分だけで遊べばいいやと、家の中を駆け回ることにした。しかし、勝のお母さんはそれが気に食わないらしく、私を追いかけ始めた。私はなぜかそれが楽しくなってきたので、もっと駆け回ることにした。
「ちょっと、家の中のもの汚されたら困るのよっ」
なるほど。汚してほしくないから私を追いかけたんだ。でも、誰も遊んでくれる人がいないからこうやって部屋の中を走ってるんじゃないの。遊び盛りの時期なんだから、わかってよ。
しかし、私はとうとう捕まってしまい、大きな洗濯籠の中へ入れられてしまった。じっとしていなきゃいけないなんて子犬の私には無理よ! なんとかして、籠の中から出ようとしたが私には大きな壁がそそり立っているように見えた。しかし、ここでくじけちゃいけない。私は籠にぶつかってみることにした。が、洗濯籠が大きすぎるせいか、びくともしなかった。勝が帰ってくるまで狭い籠の中で囚われの身なんて嫌なのにっ。勝、早く帰ってきて、私をここから出してよ。お願いだから。
その後も、籠から出ようとして必死に後ろ脚で立ってみたんだけど、前肢はかけることはできても、そこから後ろ脚をあげることはできなかった。ここで、私は無理に出ようとすることはあきらめて、勝のお母さんに泣き落としをしてみることにした。上目遣いで悲しげに見上げれば、きっとここから出してくれるはず。
しかし、分が悪いことに勝のお母さんは出かける用意を始めてしまった。ここで外に出ていかれてはまずい。勝が帰ってくるまで私は籠の中の鳥ならぬ、籠の中の犬になってしまう。それだけは何としてでも避けたかった。遊び盛りの犬を一匹放置するなんてどうにかしてるっ(昨日は昨日で、元いた場所に返してきなさいと勝に言った前科がある)。かくして私は寂しく部屋に一匹だけで放っておかれた。
とある場所。ある一人の中年女性がやつれた顔で彼女の家に帰宅してきた。目の周りは泣き腫らして赤くなっていた。こんなことがあっていいはずがない。きっとあの子はすぐに戻ってくるはず。何度自らに言い聞かせても見たが、気分は晴れなかった。夫に警察に届けると言ってみたものの、「あいつのことだから放っておけ」と、一蹴されてしまった。それが親のする態度というものだろうか。夫には父性が欠けているのだろうか。
しかし、夫の言ったことは事実だった。あの子は何かしらあるたびにどこかへ行ってしまうのだ。しかし、いくら電話をしてもつながらないうえに、朝になっても帰ってこないなんて今までなかったことだ。彼女の手に持った捜索願のポスターにぽたぽたと染みができた。




